紅い血が自分の体に降りかかる。

 生温かくて生臭い。気持ちが悪くて仕方が無い。

 これが夢だとわかっているのに、我慢出来ない。

 足元には二つの死体。

 血を流して微動もしない。

 彼らを思い出すのなら、もっと別な夢を見せてくれてもいいのに。

 自分の脳はそれを許してくれない。

 多分、一番新しい彼らの記憶が、彼らの最後の記憶が、衝撃的すぎたからだろうけれど。

 その場にしゃがんで、彼女の頭に触れる。

 綺麗だと思っていた黒髪は、少しごわごわしていて液体が手に着いた。

 母さん、と無駄だとはわかっていたけれど呼びかけてしまう。

 すぐ近くにあった彼の頭にも触れてみた。

 やっぱり冷たくて、手が紅く染まった。

 こんな風に彼らの死体と過ごす夜はこれで三日目。

 現実の世界ではすでに火葬されて骨だけになってしまっているのに。夢の中では姿形は残っているものの、ただの肉体のみ。

 故人を懐かしむ、というやり方を誤っているんじゃないかとも思う。

 確か、人を忘れる時は声から忘れるという話を聞いたことがある。それに今は頷ける。多分、ぼんやりは思い出せても彼らの声を明確に思い出すことは出来ない。

 嗅覚が一番忘れにくいと言われているけれど、彼らの香りで思い出すのは生臭い血の記憶。

 だから、こんな死体しか夢に出てこないのだろう。声を発しない、血の香りがする夢。

 


 ああ・・・・・・。




 せめて、暖かい死体だったらいいのに。





 げほげほげほ。

 洗面所で血の味がする気がしてならない口の中を水で濯いだら、思いのほか慌ててやっていたらしくむせてしまう。

 血がついているような感じがする顔と手を必死に洗って、時計をみたら午前4時。

 通りでまだ窓が薄暗いはずだ。

 昔はあんなに寝起きが悪かったのに、やれば出来るじゃないか、自分。

 自分でそう褒めても虚しいだけだった。

 
 はぁ、もう何が何だか。

「俺も、ガキだよなぁ・・・・・・」


 交通機関を使う時は大人料金なのに。

 そんなどうでも良い事を考えながら濡れた手で鏡に触れる。

 父と母のそれぞれのパーツを集めた顔が少し歪んで見えた。



「かっなめ〜〜」

 早起き出来ても眠いものは眠い。

 太陽が黄色いなぁとぼんやり考えているところでクラスメイトの瀧本が飛びついてきた。

 身長がこのクラスで一番低い彼は子犬のようなところがあり、男子にも女子にもマスコットキャラ系として親しまれている。

「・・・・・・おはよ、瀧本」

「おはよー、なんか暗いなー。今日はすっげぇいい天気なのに。最高気温34度だって!」

 聞くだけで嫌になる天気予報をわざわざ彼は教えてくれる。

「まぁ、太陽の元で元気にはしゃぐ要なんて想像できないけどな!」

「悪かったな・・・・・・」

 こんなに暑いというのに、その気温以上に熱くなれる彼が不思議だ。

 ふぅ、と疲れたようなため息を吐く要に瀧本は少したじろいだ。彼が最近目に見えて落ち込んでいるのに気付いていたから、どうにか元気に出来ないかと考えていたから。

「何だよ、そんなため息ついちゃってさぁ。もしかして恋わずらい?相手は名和か?それとも天宮?」

「・・・・・・んなわけねぇだろうが」

 恋をするとしてももっとまともな相手を選ぶ。

「そんな要に良い事教えてあげよう!」

 じゃーん、と瀧本は自分で効果音をつけて取り出したのは携帯電話。

 赤いそれに一瞬血の色を思い出し眉を顰めたが、相手はそれに気付かなかったようだ。

「あのさ、最近流行りのチェーンメールなんだけど」

「・・・・・・チェーンメール?」

「あ、いや、そんな悪質なもんじゃないよ?」

 要が少し不機嫌な表情になったのを見て慌てて彼は取り繕った。

「このメールを貰った1時間以内に13人に同じ文送って、そして身近な人の名前を一人返信するんだって。そうしたら電話がかかってきて、
願い事を叶えてくれるって」

「それって、おかしくねぇ?だって返信って、チェーンメール送ってきたヤツに返す事になるじゃん」

 携帯は持っていなかったけれど、メールの仕組みくらいはわかる。

「でも、ちゃんと届くんだって女子が騒いでたよ」

 だから不思議なんじゃん、と瀧本が必死に言う。

「13人に送ったけど、名前を返信されたことは無いって」

「・・・・・・誰もメール送ってないだけなんじゃ」

「もう!要は夢が無いなぁ」

 チェーンメールに夢を持ってどうする。

 大体、携帯電話も持っていない自分にどうしてそんな話を持って来たのだろう。

「・・・・・・ま、ほら、気休めにならないかなって」

 こちらの視線の意味を察したのか、瀧本が口ごもりながら理由を言う。

 それで周りが自分に気を使っていることに改めて気付かされた。

「ああ・・・・・・有難う。でも、俺携帯持ってないから」

「あ、そっかー。じゃあ仕方ないね。俺も結局送らなかったし」

「瀧本、願いなんてあるんだ」

 いつも元気な彼に悩みとかあるとは思っていなかったけれど、人間だったら悩みの一つや二つあるだろう。そう聞いた瞬間、彼は顔を赤くした。

「俺だって、恋くらいするよ」

 誰もそこまで言っていないというのに彼は自ら口を滑らせた。

 そうか、恋愛なのか。

 矢張りこの年令の願いといえば、恋愛関係が多いのかと思いつつ彼をじっと見ているとその視線に照れたのか更に顔を紅くしていた。

「あー、今日は暑いね」

 誤魔化すように手を団扇にしてぱたぱた扇いでいる彼が面白い。

「そうだな、34℃だもんな」

「あ、そういや要っていつも長袖だよな。半袖の姿俺観たこと無いや。何で?」

 暑くないの?

 瀧本の悪意の無い純粋な疑問に自然と笑っていた。

「日焼け、嫌いなんだ」

 言ってしまってからもう少し別な理由を言えば良かったと秘かに自己反省。




 34℃と言っていたとおり、日光は刺さるようなほどの暑さでコンクリートを鉄板に変えていた。

 なんだか気分が悪くなってきて、午後の授業はサボる気で人に見つからないここに来た。

 屋上で影になっているところに座り、要は右腕のカフスボタンを外す。

 瀧本に言われるまですっかり忘れていたけれど。長袖を選ぶのはすでに無意識になっていたから。

 右の手首より少し下に横に走る白い傷跡。

 かなり古い傷でいつか消えるだろうと思っていたけれど、結局十年経った今でもはっきり残っている。それなりに深い傷だったのかと今更思う。

 別に自分でつけたわけじゃないし、女でもないから要自身は気にしていなかったけれど、これを見てあからさまに辛そうな目になる人物が身近に居たから長袖を選んでいた。

 もうその人は居ないから、無理して暑い服を着ることもない。

 遠くで蝉がけたたましく鳴くのを聞きながら、思わず手で両目を覆っていた。

 不意に指の隙間から見えた空が虚しいほど蒼くて、それがいつもと同じ蒼さで、世界は何も変わっていないことを自分に教えてくれる。

 両親の殺人事件を騒ぐだけ騒いでいたマスコミのニュースも、今では他県で起こった別な事件にすり返られていた。

 何事も無かったかのように忘れられるのか。

 両親の事も、あの事件も。この傷が出来たあの日の事も。

 そして、自分もいつか何事もなかったかのように振舞えるのだろうか。

 それだけは。あの人達を忘れる事だけはしたくない。

 例え、夢の中で毎夜死体と過ごす方法しかなくても。

「カナメ、大丈夫?」

 優しげな少年の声は友人のものとは違う。

「佐久間・・・・・・?」

 目を上げると授業中だというのに彼の茶色い髪が金色に透けて光っている。

「泣いてるの?」

 悪気の無い翼の台詞にぼんやりとしていた頭の中が鮮明になり、慌てて目元を拭った。

 今日も学校へ来たはいいけれど、何だか眠くなってしまい、屋上でサボっていたのだ。授業なんてしているのが勿体ないくらいの晴天で、日差しが強いから影が出来ているところで午睡を貪っていた。

「別に、泣いてなんか」

 この間試合を申し込んだ相手に涙を見せるなんて、事実だとしても認めたくない。

「お父さんとお母さんの事?」

 鋭い翼の言葉に否定を飲み込んでしまう。

 まさにその通りだったから。

「僕もね、両親居ないんだぁ。あ、そうそう、僕のお父さんも弁護士だったんだよ」

 黙りこんでしまった要に気をつかったのか、翼が自分の身の上を話し始めた。

「僕たち、似てない?」

 何てこと無い笑みを浮かべる翼に同意する事も否定する事も出来ず、黙っていた。

「カナメは、可哀想だね」

 そんな要に唐突にそんなことを彼は言う。

 今まで、視線や態度でそういう風に見られていることは知っていたがはっきり言われると。

 自然と手に力が入り、それを見た翼は優しげに微笑んだ。

「悲しい時に、思い切り悲しめないなんて、可哀想だね」
 そして思いがけない事を口にする。

 彼の言っている意味がよく解からず、戸惑いの目で見るとさらに彼は笑みを深くする。

 そんな顔で見ないで欲しい。

「僕も、昔はそうだったんだ。父さんが死んでも悲しくなかった。母さんが死んでも悲しくなかった。悲しくないって思ってた。でも、僕は本当は淋しいんだって気付かせてくれる人が出来て」

 その時の翼の笑みは一生忘れられない。

 今まで見た彼の笑みは偽ものかと思うほど、幸せそうな笑みだったから。

「僕は初めてその人の前で泣けたんだ」

「佐久間・・・・・・」

「僕、18になったらその人と結婚するんだー」

 本当に、翼は何を言い出すかわからない人間だ。

「け・・・・・・けっこん・・・・・・?」

 聞き間違いかと思って聞き返すと彼ははっきりと頷いてくれた。

「うん、彼女はもう結婚出来る歳だけど、僕はまだ出来ないでしょ?一緒に住んではいるんだけどね」

 しかも相手は年上で同棲中。

「すっごく美人でねー頭もよくってー」

 お前、騙されてんじゃねぇの?

 良い話を聞かせてもらった後に思うことではないだろうが、ついつい思ってしまう。

「新しい家族が、出来るんだ」

 突込みどころはあるけれど、翼は凄く幸せそうで。

 家族を亡くした彼がこんなに幸せそうなら、自分もいつかそう思える日が来るのではないか。そんな淡い期待を持たせてくれる彼には感謝したい。

「あのねー、彼女のお腹に僕の子が居るのー」

 けれど生々しい事を嬉しそうに語るのは止めて欲しかった。

 もう少し年令が高くなっていれば、素直に祝福できる内容なのだが。

「そ、そりゃオメデトウ・・・・・・」

「ねぇ、羨ましい?」

 折角視線を逸らしたというのに、翼はじっと要の顔を覗き込んできた。

 その羨ましい?という質問は何に対しての質問なのだろう。

「別に・・・・・・」

 今までの会話の中で特に彼に羨望を抱くような内容は無かったから、突っ込みをあまり貰わないような返事をする。すると翼はつまらなそうに要から離れた。

「なーんだ。僕はずっと要が羨ましかったのにー。これくらい、羨ましいって言ってくれたっていいじゃん」

「俺が、羨ましい?」

 初めて言われた。そんな事。

 今はどん底だから要に対して皆同情的だったが、その前までは羨望の的だったと翼は言う。

 成績が良いから、顔が良いから、そんな理由で。

「でもさ、よく考えてみると、両方とも努力すれば誰にでも手に入れられるものだよね」

 ふっと彼は笑い、青い空を見上げていた。

「成績は本人の努力しだい。顔だって、意外とどうにかなるもんだったし」

 翼は自分の綺麗な造りの顔を撫でながら笑みを深くする。

「僕の顔、整形なんだよ」

「はぁ?」

 整形、というのは美容整形を指すのだろうが、高校生のしかも男子がすることなのか。

 それともそれほど酷い顔だったのだろうかと、思ってしまっても仕方ないだろう。

「彼女がね、少し変えた方がいいって言ったから」

 そして、翼の整形理由に要は思わず眉を顰めていた。

「そいつ、本当にお前の事が好きなのか?」

「当たり前だよ。結婚の約束までしてるんだから」

「でも、顔を変えて欲しいって・・・・・・」

 普通、好きな相手に言うものだろうか?

 自分の一番身近な恋人同士、というとあの両親しか思い浮かばないが・・・・・・父が母にそんな事を言ったらキレの良い鉄拳で離婚届を突きつけられる気がする。

「要はまだわからないよ」

 自分より先にいくらか大人の階段を登った少年はそう呟いた。

「彼女の望むことなら、何でもしたい。彼女を繋ぎとめる為になら」

 そんな強い想いを自分は知らない。

 翼の強い意思を秘めた目を見て漠然と思う。

「カナメも、いつか辛い事全部忘れられる日が来るよ」

 彼はそう言って笑うけれど、全部忘れる事が良い事なのかはわからなかった。

 楽になるには手っ取り早いのかもしれないけれど。

「辛いことがあった次には、良い事が待ってるから」

 まるで子供に言い聞かせるような慰めに少し胸が熱くなった。

「そうかな?」

 要の弱々しい声に翼は自信満々に頷く。

「そうだよ。だって、僕は今幸せだもん」

「そ、か」


 そういうものか。


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