「うああああああ!」

 思い切り叫んで身を起こすと左目が鈍く痛み思わずそこを押さえていた。

「ってぇ・・・・・・」

 恐る恐る眼を開けると、朝日が入った自室だった。
 直射日光が目に痛い。
 実際今まで体験したことの無い痛みが左目を襲っている。けれどその痛みのお陰でこの空間が現実なのだと察せた。

「夢か・・・・・・」

 確かめるように呟いていたら痛みも治まってきた。数回瞬きをして異常が無いか確認する。
 痛むこと以外は正常に機能しているらしい。触った感じでは腫れているわけでもなさそうだった。
 それでも医者に行った方がいいだろう。保険証の場所を考えながら自室から出た。

「かーさん、保険証ってど・・・・・・こ」

 とん、と階段を下りきった自分の足音が妙に耳に響く。

 静まり返った家の中、今自分がかなり間抜けな事をしてしまった事に気が付いた。

「あぁ・・・・・・そうか」

 もう居ないんだっけ。

 口に出してそう言ったのは、照れ隠しか自覚の為か。
 朝も昼も夜もこんな感じなのか、と改めて自分一人にしては広い家を見渡してみる。

「・・・・・・まいったなぁ」

 自分が発しない限り、この家に音が生まれない。
 そんな些細なことでまた淋しさを感じてしまっている自分が情けない。

 いつか、こんな環境に慣れる日が来るのだろうか。

 さっきまで痛みを訴えていた目が熱くなってくるのをどうにか堪えながら、リビングへ向かおうとした。

 その時、丁度良いのか悪いのかよく解らないタイミングでドアベルが家中に鳴り響く。

 壁掛け時計で時間を確かめると8時少し前。

 誰かが来訪するには早い時間帯だ。

「要―?俺だけど」

 対応しようか迷っていたら玄関の向こうから聞き慣れた声が。

 利哉だ。

「利哉?どうしたんだよ、お前学校・・・・・・」

「それはこっちの台詞だよ」

 鍵を開けたところで少し高めの女の子の声が聞こえ、一瞬ドアを開けるのを躊躇ってしまった。

 けれど利哉が向こう側に居る以上無視するわけもいかず、わざとゆっくり押した。
 そして、そこには想像通りの顔ぞろいが待ち構えていた。

「何?微妙に嫌そうだね」

 可愛いと評判の顔を不機嫌そうに歪めるのは同じクラスの名和真白。その後ろでは彼女の親友の天宮紫乃が上品な笑みを浮かべている。
 そして、真白の隣には苦笑いしている利哉が。

「おはよう・・・・・・」

 取り敢えず、朝の挨拶は基本か?とそれを口にしてみると利哉も同じく返してきた。

「おはよ、要・・・・・・ごめんな、朝早く」

 朝早いと言っても学生は登校時間だ。その証拠に彼らは制服着用済み。

「おはようございます、島崎君。ご機嫌は如何かしら」

 のほほんとした空気を纏っている紫乃はどこぞの社長のご令嬢だと聞いたことがある。外見が黒髪のロングヘアとそれらしい姿をしているから納得してしまったのを覚えている。

 家は豪邸で、ここら辺の地区では無いはずだが朝早くわざわざ自分に何の用なのだろう。

「何でまだそんな格好しているかな。今日は学校に連れて行くから」

 挨拶も無しに用件を言ったのは真白だった。彼女とは部活関係で繋がりがあり、顔なじみではあるのだが・・・・・・。

「真白さん、今日は無理を言わないというお話でしたでしょう?」

 どうやら前々から計画していたらしく、紫乃が彼女の態度を窘めた。けれど真白は譲らない。

「だって!無理に言わないとコイツ絶対来ないよ。水瀬だってそう言ってたじゃん」

 同意を求められた利哉は肩を竦めるだけ。

 行動派の真白と策士の利哉が組むとロクなことにならないのは要も経験済みだった。

「利哉・・・・・・お前」

 今日のことも提案者は利哉だろう。

 じろりと睨んでやると、彼と自分の間に真白が立った。

「水瀬は悪くない。悪いのは島崎だよ!皆心配してるんだから、早くガッコに来い!」

「あぁ・・・・・・そうだな」

 気の無い台詞に真白は眉を寄せる。

「いつまでもウジウジしてないでよ、男らしくないなぁ!」

 彼女らしいといえば彼女らしい言葉なのだけれど、その一言に周りが過敏に反応した。

 利哉が真白の腕を引き、紫乃が要の前に立つ。

「ごめんなさいね、島崎君。朝から騒がしくて」

「いや、別に・・・・・・」

 利哉に強制連行されていく真白を見送りながら要は矢張り気の無い返事をしていた。

 言いすぎだ、と注意する利哉の声が聞こえ、何が?と要が心の中で疑問に思う。多分、真白の言葉のことを指しているのだろうけど、別に彼女の発言に思うことは何も無かった。

 周りが自分を必要以上に気遣っている証拠だろう。

「私達はもう行きますから、島崎君は無理をしないで下さいね」

「ありがとう、天宮」

 起きたばかりであまり上手く動かせない顔の筋肉をどうにか笑いの形に作ると、何故か痛々しいモノを見たというような視線をもらう。

「真白さん、きっと貴方に学校に来て欲しくてきつい事を言っているんですわ」

 こそっと耳元で言われた事は突拍子も無い事で。

「はぁ?何だそりゃ」

「私もお待ちしていますわ。なるべく早く復帰して頂けると嬉しいです」

 柔らかく微笑まれ、何と返して良いのかわからなかった。
 まだ学校に行きたい気分でも無いから、具体的な返事は出来ない。

「私達はそろそろ行きます。お体に気をつけて」

 時間が迫ってきたらしく、彼女は要に背を向けかけ何かを思い出したのかまたこちらを振り返る。

「何だ?」

 きょとんとした要の顔を見て、紫乃はにっこりと笑い

「目を紅くして接客なんてしたら悪い狼さんにつけ入れられてしまいますわよ」

 お気をつけて、と付け足し軽い足取りで去って行った。鼻歌も聞こえた気がするのは気の所為か。

 謎の言葉を残され、茫然としていたら不意に思い出す。

 そうだ、彼女はちょっと変なヒトだったのだ、と。

 目が紅くなっていた事を女性に気付かれたのは恥ずかしかったけれど。
 一連の出来事を静かに見守っていたクロンと目が合い、苦笑してみせる。

「散歩にでも行くか?」

 その誘いに彼は元気良く返事をした。

 これが自分の本来の日常だろう。

 壊れた日常の欠片に抱きつくと太陽の匂いが鼻を掠めた。

 耳元でクロンの甘えるような鳴き声が聞こえる。それが耳に心地良くてしばらく彼に抱きついていたのだが、不意にその声がぴたりと止まった。

「クロン?」

 顔を上げるとクロンが身を起こして緊張体制に入る。

 どうしたのだろうと彼が睨む方向を振り返った時、微かに妙な音が聞こえた。シャッターを切るようなそんな音だ。

 それを耳にした途端上昇しかけていた気分が一気に下降する。

 もしかして、紫乃が言っていた「悪い狼」とは彼らの事か。

「島崎要くんだよね?」

 ここで違いますと答えても意味は無いが言ってやりたい。

 足に力を入れて立ち上がり相手を睨み付けた。

 男二人、一人はカメラを持っている。どこかの雑誌か新聞の記者だろう。
 メモとペンを持った太り気味の男が笑顔を作って近寄ってくる。多分彼としては愛想の良い笑顔を目指しているのだろうが、どこか嫌らしい笑みだ。

「ちょっとお話聞かせてくれないかな?」
「嫌です」

 折角これからクロンと散歩に行こうと思っていたのに、余計な邪魔が入った。

 クロンの頭を慰めるように撫でて彼らに背を向けて拒絶の意を伝える。

 今まで何度か取材の申し込みの電話が来ていたが、直接言われたのは初めてだ。ただでさえ昼のワイドショーに自分の家が映されているのを見て不快だったというのに。

 家に入ろうとしたその腕を強く引かれ、突然の事に思わず息を呑んだ。その記者の乱暴な態度にクロンが反応し、威嚇の鳴き声が響く。

「そう言わずに。謝礼も出しているんだよ?」

 こんな態度を取ってくるということは売れないゴシップ系雑誌の記者か。

 わざわざ人の家の敷地内にまで入ってきて主張する事じゃない。

「そんなモノ要りません」

「全国の人達が君の言葉に動かされるかも知れないよ?もしかしたら犯人も君の一言で改心するかもしれない」

 下手な説得だ。そんな心の優しい人物だったら人を殺したりしないだろうが。

「嫌だって言っている!」

 どうにかして掴まれた腕を振りほどこうとするが、大人と子供の力の差は歴然としていた。

 頑なな態度を取る要に相手も苛立ちを覚えたのか拘束する手に力が入り始め、思わず痛みに眉を寄せる。

「離せよ!てかここから出てけ!」

「・・・・・・そういえば、お父さんたちが死んで君にはかなりの保険金が残されたみたいだね」

 ついでに財産も結構あったんだろ?

 嫌な笑みを浮かべながら彼はそう言った。

 その言葉の意味を図りかねて、要は一度抵抗を止めて彼の台詞に耳を傾けてしまった。

「もしかして、取材を拒否するのはそこら辺関係あるの?」

 何だそりゃ。

 馬鹿馬鹿しい彼の仮説に口元が妙な笑いに歪む。

 自分が、あんなはした金目当てに両親を殺したと?

 そういう予想をする彼の方が金目当てに人を殺しそうだ。

「大の大人が子供相手に何をしているんです?」

 罵倒してやろうとした時に静かな声がそれを止めた。クロンも鳴くのを止めて、嬉しそうに尻尾を振り始めている。
 第三者の登場に驚いた男はようやく要から手を離し、慌てた様子で振り返っていた。

「神父・・・・・・」

 にっこりと微笑む顔はいつもの猫を被った方だったけれど、彼の登場にほっとしていた。

 記者たちはかなり戸惑った様子だったけど。形成逆転といったところか。

 さっきまで掴まれていた箇所を自然擦っているとクロンが心配そうに鼻を鳴らした。

「全く・・・・・・いい死に方しませんよ?」

 神父服を着た青年に笑顔で言われると妙な説得力がある。

「今日は帰るから。気が変わったらここに連絡してくれる?」

 気を取り直した記者が名刺らしきものを渡してこようとし、あっさり受け取った。

 その行動に久我が不思議そうな表情になるが、彼にはにやりと笑ってみせる。

 きちんと彼の名前と出版社名が書いてあるのを確認して。後は自分のなけなしの知識をフルに使用するだけだ。

「刑法308条住居侵入三年以下の懲役、五万円以下の罰金又は拘留。第260条暴行三年以下の懲役、十万以下の罰金拘留又は科料。貴方方がいつもこんな取材態度を取っているのなら第265条の常習傷害・暴行でも訴えられるな。あぁ、人が集まっていたら名誉の損害でも訴えられたのに、残念」

 さらさらっと言ってみせると男たちの顔色が変わった。

「俺が弁護士の息子だということを忘れるな」

 この名刺はむしろ人質。彼らの素性が解れば雑誌に何を書かれても訴える事が出来るし、こちらもチェックが出来る。

 挑戦的に睨みつけてやると男達の顔色が悪くなった。

 一端要の手に渡った名刺を取り上げたかったらしいが、その手をあっさり交わすと彼らは悔しそうにして逃げて行った。もう出版社名も彼の本名も覚えてしまったのだから別に取られても平気だったけれど。

「お前、本当に周星の息子だよな」

 くすくす笑う久我の言葉は褒め言葉として受け取っておこうか。

「父さんの真似をしただけだ。悪徳系セールスにいつもああいう手使ってたから」

 実際彼らを訴えられるのかどうかはわからない。

 それでも久我は褒めるように軽く拍手をしてくれた。

「いや、凄い凄い。流石だよ要」

 彼の褒め言葉に乗ってクロンまでも称えるように「わん!」と鳴く。

「あのなぁ・・・・・・褒めても何も出な」

 ずきん。

 左眼が突然痛み、言葉を止めてそこを押さえていた。

「要?」

 針で刺される様な痛みに堪えられなくなりその場にしゃがみ込む。

「おい!」

 ただ事ではない要の様子に久我の慌てる声が聞こえた。

「眼ぇ・・・・・・痛ぇ」

 呻くように呟いた言葉を彼は拾ってくれたらしく、「眼?」と確認してくる。

「見せてみろ。さっきのヤツに殴られたか?」

 そんなことはされていないのだが。

 前々から痛かったが、その理由もまだ解らなかった。心当たりがまったくない。

 病気というものは突然なるものだから心当たりが無くて当然かもしれないが、不可解だ。

 痛みが和らいでいくのを感じ、久我に促されるまま眼から手を外し、ゆっくりと目蓋を上げた。

 まず視界に入ったのは庭の土と芝生。

 異常は無いようだ。

 ほっとして視線を上げ、硬直した。

 自分を心配して膝を付いている久我の背後に、あの黒服の男が立っていたから。

 ひっと口から情けない空気が漏れ、思わず後退していたらしく、玄関のドアに背がぶつかる。

 男は口元を歪め、要の左眼を長い指で指してきた。

 何が言いたい?

 凝視していると彼は不快気に自分のすぐ下に居る久我を見下した。

 彼の口元から笑みが消える。

 嫌な予感が全身を駆け抜けた。

「神父!」

 久我の肩を掴んで引き寄せた瞬間、彼の姿が消えた。

「何なんだよ・・・・・・今の」

 彼が消えてみーんみーんとのん気な蝉の声が聞こえ始めてようやくほっと息をついた。

「それはこちらの台詞なんですが?」

「は?」

 耳のすぐ近くから聞こえた怒りを含んだ声に一難さってまた一難という言葉を思い出した。

 思わず肩を引いていた力が結構強かったらしく、久我は額を盛大にドアにぶつけていたらしい。

「要くーん?」

「だって、アイツが」

「アイツ?」

 久我がその時初めて後ろを振り返るのを見て気が付いた。まさか今のは自分しか見えなかったのだろうかと。

 あんなに近くに人が居て、久我が気付かない訳が無い。よっぽどの鈍感ならまだしも、相手は久我だ。

 もしくは、自分が幻覚を観ただけか。

 その答えの方が正しそうだ。今朝、妙な夢を見たからきっとその影響だろう。

「何でも、ない。気のせいだ」

 即座に否定の声が聞こえてきて、久我は何か引っかかりを感じながらも要に視線を戻す。

 眼に留まったのは、細かく震える彼の手。気のせいでそこまで怯えるものだろうか。

「おい、要・・・・・・お前、手に怪我したか」

 まったく心当たりの無い問いに要は首を傾げた。

「してないけど?」

 手のひらを左も右も確認しているが傷一つ無い。

 すると久我は何かを拾い上げ、それを見て目を細める。

 長方形の見覚えのある小さな紙。けれど、要の記憶にある色とは違っていた。

「じゃあこれは誰の血だ?」

 久我はそれを反転させて表である面を要に突きつける。

 一瞬にして変貌していたそれに思わず眼を見開いていた。

 先程来たあの記者の名前と携帯ナンバー、それと出版社が印刷されている白かった紙。

 全体に血が散って、かろうじて彼の苗字だけが読める状態だった。





『もしもし、もしもーし!何だよ、あのガキ!アンタの言われたとおりにしてみたけど全然駄目だったんですがぁ!?何でも願いを叶えてくれるんじゃ無かったのかよ!いつ俺にスクープ撮らせてくれる訳?次はどうすればいい?はぁ?もう必要なわけ?んなこと言われても困るよぉ・・・・・・悪い悪い!俺、本当アンタに教えて貰わないともう駄目なんだよぉ・・・・・・えぇ?ちょっと待ってくれよ!俺もう無理だよ・・・・・・えぇ?答え?だからあんなの判るわけないって!ちょっと待って待って待て!!もしもし、もしもーし!』






 気が付いたら駅近くの歩道に立っていた。

 駅の大時計を見てみると11時16分。普段なら学校で勉強の時間帯だ。

 何でこんなところにいるんだっけ?

 首を傾げた時、人ごみの中に見たことのある人物を発見した。

 今朝、家に来たあの記者だ。

 なにやら不機嫌な様子で携帯をいじりながら人ごみの中を歩いている。

 その時、大時計の長針が大きな音を立てて動いた。

 がしゃん。

 矢継ぎ早に何かが壊れる音がして、悲鳴が聞こえる。

 どこかの店の看板が落ち、誰かが下敷きになったらしい。看板の下に血が大量に広がっていた。

 その近くには血に濡れた携帯電話。

 人ごみにまぎれてそれを拾う人物が居た。

 彼はこちらに気が付き、手の中のそれを見せ付けるように振ってくる。

 その顔は楽しげに笑っていた。






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ぼ、僕は歯が痛いデス・・・・・。