気がついたら眠っていたらしい。
時刻は午前九時。すでに学校は始まっている。
そういえば、と思い出したのは
――――今日はかなちゃんに会わせたい人が
母親の言葉を思い出し、起き上がった。
昨日のことは、夢なのだろうか。
・・・・・・いや、父親が起こしにこなかったのだから夢ではないはずだ。
二人は既にこの世には存在しない。
だるい体を引きずってドアを開けるとクロンの元気の良い声に迎えられた。
「おはよ、クロン」
笑みのつもりで目を細めると鈍い痛みが走る。恐らく泣きすぎて目が腫れているのだろう。そう思い、洗面所に行って鏡を覗き込むと案の定真っ赤になっていた。
熱を持った目を冷ますつもりで顔を洗い、タオルで拭きながらリビングへ向かう。
そこは誰も居ない広い空間だった。
昨日泣くだけ泣いた所為か思ったより精神的ダメージは無い。
いつもは父親が座っていた椅子に腰掛け、手近にあったリモコンでテレビの電源を入れた。
いつもは起きてくるとテレビの電源が入っているのだけれど。
いつもは。
これからは二度と無い。
テレビの画面には自分の見慣れた風景だけが映し出されていた。どのチャンネルでも。
それと、見慣れた顔の写真、名前。
リポーターらしき女性の口からも聞き慣れた名前が発せられる。
島崎周星。
島崎ナギ。
『昨日、昼頃何者かに襲われ妻のナギさんは即死。島崎周星さんは病院に運ばれ30分後に亡くなられました』
随分と淡々と、人の親の死を告げてくれる。
むしろネタが出来て喜んでいるように見えた。
どのチャンネルも無駄に騒いでくれている。
もっと他に国民に伝えるべきニュースがあるだろう。政治とか、世界の情勢とか、戦争問題とか。
静かな怒りを覚え、要はテレビの電源を切った。
先程から外が騒がしいのは取材陣がいる所為だ。
「今日は学校行けねぇな・・・・・・」
こんな事情じゃあっちも登校しろだなんて言わないだろう。
背もたれに体を預け、ため息を吐いた。
葬式は父と母の弁護士事務所の人が手配してくれた。
見たこともない人が目元にハンカチを当てて「頑張ってね」と言い残していく。
結構な人の量が集まったのだが、誰一人自分は彼らの血縁者だという人は居なかった。
黒い服の人々が沢山集まったモノクロの世界を要は黙って見つめていた。
「要」
名を呼ばれて振り返ると親友が居る。
「利哉・・・・・・」
堅苦しい空気から抜け出せる口実を見付け、近くにいた父の友人に一言断り外へ出た。
「このたびは」
「止めろよ、利哉」
近くの公園に来た途端友人も堅苦しい事を言い始めそうだったのでそれを止めた。
式場と違って和やかな午後の日差しのある公園は気持ちが良かったから。
「要、クロンは?」
「家で留守番」
ペンキの剥げたベンチに腰掛けて要はネクタイを少し緩める。学校の制服ではない黒い背広とネクタイは窮屈で仕方がない。
「利哉、今日学校は?」
「早退。俺はみんな代表で来たから。センセも来てただろ?」
担任教師が先程顔を見せたのを思いだす。
「何か、悪いな」
素直な感想を言うと利哉が微笑んだ。
「何いってんだよ。俺はお前の幼馴染みだぜ?」
「・・・・・・だな」
要は力無く笑い、正面にある砂場に視線をやった。
そこでは幼い少女が二人、一生懸命砂のドームを作ろうとしている。
それを優しく見守っている若い夫婦が二人、傍にいた。
「で、要・・・・・・これからどうするんだ?」
「どうしようなぁ」
どこか投げやりな返事に利哉は眉を顰める。それに気が付いた要は苦笑して見せた。
「かなりの遺産があるんだ。大学に行っても余るくらいの」
そう、まるでこのことを予想していたかのような額が。
それが嫌だった。
「まぁ・・・生活には不自由しない」
「独りで暮らすのか?」
「独りじゃない。クロンがいる」
「要」
叱るような親友の声色に顔を上げる。と
「二三日うちに泊まれ」
珍しく真面目な表情をしている利哉と目があった。
「母さんが、葬式の間は忙しくてろくに飯も食えないだろうから来いって」
「おばさんが・・・・・・?」
彼の母親は気さくな人で要のことを可愛がってくれていた。幼い頃、父と母が仕事で忙しい夜はよく利哉の家に泊まったものだ。
その時の記憶が妙に懐かしく、要は目を細めた。
「うん・・・・・・じゃあ、後で行く」
その返事に利哉は「良かった」と呟いてようやく要の隣に腰を下ろした。
「お前、なんか死にそうな顔してるから」
苦笑混じりの言葉に心外だ、と思う。
「バーカ。俺は死なないよ」
不意に父と母の死に顔を思い出した。
「絶対に・・・・・・な」
目を細め、手を強く握る。
要の密かな決意に利哉は気付くことなく立ち上がった。
「クロンも連れてきていいからな」
その時要がずっと視界に入れていた家族が仲良く手をつないで公園から出て行く。
それを見送ってから、要も重い腰を上げた。
人が死ぬと言うことは虚しいことだ。
独り、真新しい墓石の前に立って思う。
火葬した夫婦は仲良くこの石の下で眠っている。
葬式も終え、皆帰ってからもずっと要は独りその石の前に立っていた。
どうもこれがあの両親のなれの果てだとは思えないのだ。周りに同じような石が沢山並んでいれば尚更。
みんな同じに見える。
でも、みな死ぬ前は違ったはずだ。容姿も思想も生い立ちも。
けれど結局同じような結末。
死ぬ、ということは自分というものが忘れ去られることなのではないか。
たとえこんな石に名を刻まれたとしても、どんな人物だったかなんてわからない。
ざわり、と木々が鳴り、湿った空気が頬を撫でた。
「そりゃ、いつかは俺だって死ぬさ」
妙に優しく感じられた先程の風が自分の考えを宥めたようで、思わずぽつりと呟いた。
人は必ずいつかは死ぬものだけれど、彼らの死は早すぎる。
あんなに一生懸命生きていたのに。
それに、彼らだって分かっていたはずだ。未成年である自分は、まだ独りで生きてゆくには幼く、無知だということを。
だから多すぎる遺産を残したのか?
初めて見た父の貯金通帳と、二人の保険金の額は自分が遺産目当てで殺したんじゃないかと疑われても仕方ないほどのものだった。
けれどどんなに財産が残っていても、相続税やら両親の死亡手続きやら何やらの細かいことはさっぱり分からなく、結局弁護士事務所の人達が全部やってくれた。
どれだけ、自分が無知か思い知らされた。
父親に見られたら本当に弁護士の息子かと笑われてしまうかもしれないほど。
でも、本来それは子供には必要ないはずの知識で。
これから親に教えてもらえるはずのことばかり。
教えてもらえるといえばもう一つ。
今まで、はっきりと口にした事はなかったけれど、心に決めていた夢があった。
この両親のような弁護士になりたい。
授業中に寝てはいるが成績は悪くない。このままいけば、父親が卒業した大学にも合格できる範囲の能力はあり、もちろんそれが第一目標だった。
まだ高校一年生だったから具体的な話は教師ともしていなかったけれど。
予想していたんじゃないだろうか、と思う。
高いと言われるその大学の入学金の額だけ、何故か自分の名義の通帳に入っていたから。
「俺、もうここには来ないから」
予想をするだけして、その分の金をだして親としての責任を果たしたつもりだろうか。
怒りが要にその選択をさせた。
この二人はいつも自分勝手だった。
こっちの心配も気にしないで無茶はする、健康も考えないで仕事をする。自分がそのストッパーだった。
朝は弱いが、夕食は殆ど自分が作っていたし、彼らの夜の仕事は十二時までと何故か釘を刺すようにもなっていた。
釘を刺して効果があったかはわからないけれど。
いや、効果があったのならこんな事にはならなかったはずだ。
苦笑した口元に冷たい水が当たる。
空を見上げるとどんよりとした灰色の雲から小粒の水が落ちてきた。
雨だ。
そう認識してすぐにまばらだった雨音が叩き付けるようなものに変わっていった。
すぐにずぶ濡れになってしまい、もう急いでも無駄だなと普通の歩調で狭い道を歩く。
盆の時期もとっくに過ぎた霊園には人一人いない。
一人でのんびり雨の中を歩いているところを誰かがみたら、自分を幽霊だと勘違いするだろうか。
そんなことを考えながら早々と出来た水溜まりに足を突っ込んでいた。
ばしゃり、という音と激しい雨音しか聞こえない不思議な世界。
そんな自分一人だけの空間だった所に、墓場らしい黒い服と透明なビニール傘を差した長身の男が現れた。
最初は雨が遮ってただの黒い固まりにしか見えなかったが、段々お互いの距離が縮むにつれてはっきりと視覚にとらえることが出来た。
黒でも寺に最も不釣り合いな神父服を身につけた男だ。
その事に小さな疑問を持つが、寺に関係のない人物ならもっと自分には関係ないと思い、歩調を変えずに擦れ違う。
雨の音だけが妙に響いていた。
「ただいま」
「ワンッ」
玄関を開けた瞬間毛玉の固まりのようなクロンが飛びついてくる。
普段なら全くかまわないのだが………
「待てクロン!俺ずぶ濡れなんだよ!」
寸でのところでストップをかけると頭のいい愛犬はそれに従ってその場にお座りをした。
けれどいつ許しを得られるのか期待に満ちた黒い瞳でこっちを見つめながらしっぽをぱたぱたと揺らしている。
「風呂入ってからな」
すっかり水を吸収してしまった靴下を脱ぎながら廊下を歩き洗面所兼脱衣所へ向かった。
とにかく早く肌に張り付いているワイシャツを脱ぎたい。
水分を含んでいつもの黒よりもっと黒になってしまった上着を脱いで脱衣カゴにかけた、その時。
ピンポーン。
機械音が家中に鳴り響き、要はネクタイをはずす手を止めた。
クロンがこちらを不安げに仰ぐ。
「ああ、大丈夫……きっと利哉だよ」
心配性な親友がきっと迎えにきたのだ。
そう思ってクロンの頭を撫で、ずぶ濡れの姿のまま玄関へ向かった。
「利哉?」
他に今この家に用事がある人物など思いつかなかったのも確か。
何の警戒もなくかけたばかりの鍵を開け、扉を開放した。
「今日和」
しかしその声は聞き慣れた幼なじみのものではなく、微妙なトーンの音だった。恐らく美声という分類に入るだろう低音。耳には心地いいが精神的にはあまりよろしくない。
そして目の前には、眼鏡をかけて嘘くさい笑顔を浮かべた神父が立っていた。
「宗教ならお断りです」
そっけなく告げて扉を閉めようとしたが、親友を迎え入れようとした扉は大きく開けられていて、相手はその入り口を閉められないように手で押さえていた。
「私は確かに神父ですが、勧誘ではありませんよ」
むしろ勧誘の方が良かったかもしれない。
笑顔の裏に隠された何かを要は感じ取りそう思う。
「じゃあ、何の用だよ!」
必死に扉を引っ張るが、相手の力の方が上回っているらしく、びくともしない。
「やれやれ……もうお忘れですか?」
笑顔を落胆に変えたその顔は、要が今まで見たことの無いくらいの美形だった。
女ならそこで心がぐらりと揺れるだろうが、残念なことに要は男だ。
警戒を解くことなく無駄なあがきを続けていた。
「宗教には興味ありませんー!」
「残念ながら、そちらに興味が無くてもこっちにはあるんですよ」
神父はそう言って腕の力を抜く。
「うわ!」
ばたん、と要の渾身の力でようやくドアは閉められたが
「お前!」
招き入れたくなかった客が、その前に立っていた。
先程とは打って変わった笑みを浮かべて。
「一応初めまして?島崎要君?」
それが、久我日月との出会いだった。
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出会い系。