「……大丈夫か、和泉」
 日曜日、映画を観終わった後、俺はグロッキーになっていた。映画の内容を聞かずに頷いてしまった俺が完璧に馬鹿だったのだけれども……全身あちこちが痛い気がする。それに寝不足が後押しして俺の体はフラフラだった。
 精神的に参ってしまった俺に気付いたのか、日向が気を使ってくれて映画館近くの喫茶店で一休みをしていた。アーケード内にあるそこは、昼時が過ぎた時間だったので人もまばらだった。人ごみを嫌う俺としては有り難い。今の精神状態を考えると尚更有り難かった。
 思わずため息を吐き、半券の無いチケットを改めて眺める。
「お前、あんな映画好きなのか?」
 俺は思いだすだけで背筋に震えが走る。内容は、外国ものの医療系ホラーというのだろうか……。人間を生きたまま解剖されるというのをテーマにしているのか、科学の狂気をテーマにしているのか解からないが、スプラッタ好きな洋物らしい映画なので無駄にリアルで見ていられなかった。話題作といっても、内容までは知らなかった俺の負けだ。
 日向も乾いた笑みを浮かべ、
「いや、俺も流石にああいうのはちょっと……」
 確かに、主人公級の人間が悪の魔の手に落ちて解剖されるシーンでは日向も目を閉じて身を縮めていた。
「……遠也は、絶賛してたんだけどな……臓器の並びが正確だって」
 遠也、というのは日向の友人の一人で学年首席の天才少年だ。彼の家は大病院だというくらいは俺も知っている。知ってはいるが……。
「お前、臓器の並び云々言われた時に何か察せ」
 臓器の並びが見所な映画なんて、正直見たくもなかった。
「あ、そうだよな……悪ぃ、ごめん」
 日向も大分ダメージを受けているらしく、笑う顔に力が無い。
「でも、今日は付き合ってくれて有難う。ごめんな、変な映画で」
 炭酸飲料が入った透明のグラスを揺らして氷を鳴らした日向に、頬杖を付きながら俺もグラスを揺らす。この中身が日向と同じだというのは、変な意気投合だった。スポーツをやっている日向は普段こういうものは飲まないようにはしていると言っていたが、今は体の中からスカッとしたい気分なんだろう。俺もだ。
「いや……なかなかに貴重な体験だった」
 肩にかかった長めの後ろ髪を払いつつ息を吐く。誰かと出掛けるなんて今まで一度も無かった事だし、あんな映画を観たのも初めてだ。
 そんな俺を日向がじっと見つめていたことに気付き、何だと眼で問えば、彼は首を横に振る。
「あ、いや……えーと……なんつーか、怒んねぇ?」
「内容に寄る」
「……和泉の私服姿初めて見たなーって思って。なんつーかアレだな。和泉って格好良いっていうよりもキレイ?っていうのかな」
「は?」
 今日の服は適当に着ていこうと思っていたら、いきなり千草に起こされて着せられたもので……まぁ普通の服だから抵抗せずに着てきたけれど。シャツと黒ジーパン合わせて実はン万円です、と言われた瞬間は硬直したけれど。
「眼鏡もないし」
 それは千草に没収された。眼の色を隠すカラコンだけは死守したが。
「何か、和泉目立ってたな。姿勢もいいし」
 それは嵩森さんの教育の賜物だ。それに日向も結構目立っていたことに、コイツは自分で気付いているんだろうか……。
「でも、何か今日和泉元気無いなって思ってたんだけど」
「へ」
 何かあった?と日向に微笑まれ、少し驚いた。何かあったかと言われたら、あったのだが。
 昨日、蒼龍様に考えろといわれた事を考えて、あまり眠れなかった。もし静かな映画だったら寝れるかとちょっと期待していたのだが、それはあっさりと打ち砕かれる。流石に、悲鳴が飛び交う映画館では眠れない。五感というのは恐ろしいものだ、視覚と聴覚だけで感じているというのに、何となく血生臭いものも感じてしまうのだから。
 でも、映画の中でもキスをしている登場人物はいた。二人は恋人同士という設定だった。その男の方は解剖されてしまったのだが……いや、これは思い出すのは止めよう。
「……日向は、キスしたことあるか」
「えぇ?」
 まさか、そんな事を言われるとは思わなかったらしい。日向の眼が大きくなってからしばらくして、その頬がじわじわと紅くなる。ああ、日向お前はいたいけだな。
「……ある、っていえばあるけど、さ……なんで?」
 俺から視線を逸らし、恥ずかしげに俯きながら聞いてくるが。
「誰と?」
「んなこと言えるか!」
 俺の不躾な問いに彼は声を荒げた。何でこんな反応されるのは少しわからなかったが、まあ良い。日向もこんな顔をしていていも男だ、恋人がいた時期もあるだろう。
 そして俺は自分で解からないのなら他人に聞けばいい、と簡単な解決方法を選んだ。
「……ある人に、キスされた。でも俺はその意味がよく解からない。それを考えて、眠れていない」
 正直に言えば、日向も肩の力を抜いて目を瞬かせる。
「え……と、解からない、って……その人は和泉の事が好きなんじゃないのか?」
「嫌われてはいないと、思う」
「……その人、他に恋人とかいるのか?」
 そう聞かれて、満井の顔が浮かんだ。……なんか、いい気分ではないが。
「いる、かもしれない」
「かも知れない、って……」
 結局蒼様は彼女が好きなのかどうか、教えてくれなかったから、かも知れないとしか言えない。グラスを揺らすと氷がからりと鳴った。
「キスは、俺以外にはしないが、俺にはしたいらしい。それがよく解からな」
 目を上げると、顔を紅くした日向が困ったように俺を見ていた。なんだ、その眼は。
「……あー?何、俺惚気られてるのか?」
 ボソボソと日向は呟き、ため息を吐く。何だ?
「俺が言うのもあれだから、その人にはちゃんと聞いてみるといいよ。どう思っているのか」
「……聞いて、どうする?」
「どうする、って俺に聞くなよ。後は和泉次第だろ?和泉がその人の事が好きなら、キスもそれ以上の事もすればいい」
「……好き?」
 俺が、蒼龍様を?
 そんな事、一度も考えた事がなかった。あの人は確かに誰よりも大切で、尊敬している人としか思った事が無かった。それ以上の感情もそれ以下の感情も持つことは失礼だと、思っていたのだが……。
 蒼様は、違ったのだろうか。
 思わず眉間を寄せた俺に、日向は首を傾げる。
「和泉は、その人の事好きじゃないのか?」
「……大切な人ではある」
「キスされて、嫌だったのか」
「嫌ではないが……」
 千草相手にも嵩森さん相手でも俺はそれをこなしてしまっている。まぁ、人にそうほいほいやることではないと言われてからは、蒼龍様だけだが。
「……何か、あんまり難しく考えるの止めれば良いんじゃね?」
 困惑する俺を見かねて、日向が苦笑した。
「なんか、嫌だったら嫌って直感的に思うものだろうし、多分」
「そういう、ものか?」
「そうだ。少なくとも、俺は好きな相手以外とそんな事したくない」
 それは、蒼龍様の言葉にも当てはまる言葉と考えていいのだろうか。蒼龍様も、好きな相手以外とはしたくない……で、そうなると蒼龍様は俺が好き、ということになってしまうのだが。
 好き?
 蒼龍様が、俺を?
 ……どういう、意味で。
「お前は、甲賀とキス出来るか」
 そう聞いた瞬間、日向は思いきり咳き込んだ。
「おま、いきなり何聞いてくるんだ……!」
 あまりにも酷い咽ように流石に「悪い」と謝っていた。そうだな、炭酸は肺に入ると苦しいな。
「克己と俺は、親友なんだ!それに、アイツ彼女だっているんだ!そんな事出来るわけがない!」
 咽つつもちゃんと答えてくれる日向の物凄い気迫には、何でそこまで……とは思ったけれど。ああ、でも彼らが友情でしか結ばれていないというのであればもしかしたら失礼な事を聞いたのかもしれない。
「親愛では、出来ないという事か」
「そうだ!」
 力いっぱい頷かれては、納得するしかないのだろうが……。
 親愛じゃなかったら、一体なんなんだ。
「……そう、か」
「あー!もう面倒臭いな、お前!」
 どうも納得出来ない俺の返事に業を煮やしたのか、日向は俺の襟元を掴み、思い切り引っ張ってきた。いきなりだったのと、日向の力が思ったより強かったのとで、俺はあっさり引き寄せられ、蒼龍様とは違う感触が口に触れたと思った瞬間、すぐに離れた。
「どうよ?」
 そう、聞かれても。
「……一瞬だったから良くわからん」
 あ、と思った瞬間のことだったので、何も思うことはない。強いて言うなら感想は「あ」だ。
 首を傾げる俺に、日向は眉間を寄せて紙ナプキンを何枚か手に取った。
「これ以上はしねぇぞ」
 てか、日向……お前そんなに口元拭うな、俺に失礼だとちょっとは思え。
 でも。
 日向が触れたそこに指を当て、思い出す。温度が違う気がする。蒼龍様の時は、もっと熱かった。それに、何か良く解からないけれど、上手くは言えないけれど、色々な事が違う気がする。
「……解かったか?」
 そんな俺の様子に気付いたのだろう。日向が呆れたようにため息を吐いて、俺はそれに小さくだけれど、頷いた。
「じゃあ、お節介ついでにもう一つ。その人が違う人とキスしてるところ想像してみろ。それが、特別の意味だ」
 テーブルの端に置かれた伝票の値段を確認してから日向が顔を上げた先にあったのは、きっと俺のしかめっ面だったに違いない。
 それを日向はニヤリと笑い、俺はどうもバツが悪くて彼から視線を逸らし、店の外へと目を投げる。人通りの多いアーケード内で、見つけたのは
「あ」
 蒼龍様と、満井が並んで歩く姿だった。そういえば、今日は日曜だったな。
「どうかしたか?」
 視線をとめた俺に、日向も外を見たが、もう人の波に流され二人の姿は見えなくなっていた。見えていたら恐らく一騒動だったに違いない。
その時思わず立ち上がってしまったのには、自分でも驚いた。
「……もしかして、その人、いたのか?」
 日向はたまに察しがいい。
「悪い、日向」
 見上げてきた眼にそう答えると、日向は笑う。
「いーって。映画はもう付き合って貰ったし、ここも俺おごるよ。ただし、次は和泉がおごれよ?」
 日向も店を出る気なのか、伝票を手に立ち上がっていた。なら金くらいは払おうとしたけれど、それは日向に止められる。早く行かないと本当に見失うぞ、と目で言われ。
 もう一度「悪い」と短く謝って店を飛び出した。


「流石に、もう見えないな」
 店に出ればもう和泉の背は見えず、俺は苦笑した。和泉と歩いていたら色んな人の視線を集めて大変だった。学校ではあまり解からなかったけれど、眼鏡を取り制服を着ていない彼はそれなりに格好良かった。スタイルも悪くないんだよな、和泉。姿勢も良かったし。もしかして、何か武術でもやっているんだろうか。
でも、和泉が気付いていたかは知らないけど、好意の視線ばかりではなかった。
 そう、今背に感じている視線も。
「お前、さっきのヤツと知り合いか?」
 意図して人通りの少ないところへ来れば、少し柄の悪い男達が俺を取り囲む。多分、和泉の事を指しているのだろう。俺も噂には聞いている、街中で喧嘩っ早いという和泉の噂を。
 初めは少し怖かったけれど、話してみるとちょっと変だけど、悪いヤツではなかった。
「知り合いじゃない」
 そうキッパリ言えば、前にいた男達は眉間を寄せて嘘だとか何とか怒鳴ろうとしたのだろう、奴らが口を開けようとしたその時
「友達だ」
 そう、知り合いじゃない。友達だ。
 だから、和泉の邪魔はさせない。何か、意外と純粋でじれったい恋愛をしているようだし。
「へぇ?じゃあ、俺達とも友達になろうぜ?」
 下卑た笑いが俺を取り囲み、思わず盛大なため息を吐きたくなった。俺は、一応自覚している。自分の顔が、女顔だということくらい。だからってこんな風に声を掛けられる筋合いはないんだけど。
「嫌だ。これでも、一応友達は選んでいるんだ」
「あいつと友達って時点で、全然選べてねーよ」
 男達はそう言いながら、4人のうち2人がポケットからナイフを取り出す。それに眉間を寄せ、後退すれば彼らもついて来た。
 てか、ナイフって。それだけで銃刀法違反アウトだっての。
「……付いて来るな」
 一応そう言ってみたけれど、効果は矢張りなかった。解かってはいたけどな。
「大人しくしていれば、痛くしない」
 ニヤニヤ笑いながら男は俺の服を掴み、切り裂いた。肌ギリギリにナイフの刃が滑っていったのが解かる。
 まぁ、これくらいやられたら流石に正当防衛は成立するよな?
 それに、警告もした。ついてくるなって言った。
「お願いだから殺さないで……なんて、な」
「はぁ?」
 す、と息を軽く吸い込むと煙草の臭いと湿った空気を感じた。それと同時に、両手で拳を握り、全身の力をそこに集めるイメージを持ちながら、吸った息を吐いた。そして今度は短く息を吸い、それを吐き出す力を借りてナイフを持った男をまず思い切り殴りつければ、面白いくらいに吹っ飛んだ。修行不足だ。
 一瞬何が起きたのか解からなかったらしい彼らは、茫然としていたけれど、どうもまだ苛々は収まらない。男が一人減ったスペースに足を広げ、慣れた構えをとるとコンクリートと靴底が擦れる音がした。
「俺だって、普段はこんなことはしないんだけど、話しても解かってくれなさそうだし」
 ゴキリと手の骨を鳴らし、恐怖を訴えるその眼に笑いかける。俺だって、普段はこんな八つ当たりなんてしないんだ。っていうか、素人相手に拳は振るわないんだ。
 でも、今日は駄目。
和泉の邪魔はさせない。
……それに……あ、思い出したらまた苛々してきた。
「ごめん、ちょっと俺に付き合ってくれね?」
 一応周りからは可愛いと言われる顔で笑ったのに、彼らは笑い返してくれなかった。ま、当然か。
 頑張れよ、和泉。
 そう心の中で応援しながら、俺は目の前の男を蹴り上げた。



 ……どういうことだ?
 その頃日向が伝説を作っているなど俺は露知らず、俺は蒼龍様と満井の後を追っていた。角に隠れて彼らの様子を伺う。いわゆる、尾行だ。慌てて出て来たはいいものの、やはりまだ蒼龍様に声をかける度胸はない。
蒼龍様は手に荷物を持っていて、多分満井のなんだろうけど……と思っていたらいきなり背を誰かに叩かれた。それにぎくりと身を揺らせば
「あれぇ?秀ちゃんってば映画館デートはどうしたの?」
 ……うちのメイド達だった。
「それはこっちの台詞ですよ!何してるんですか、こんなところで……!」
 小声でも口調は強く問えば、彼女たちはにやにやと笑う。それに、ものすっごく嫌な予感がした。そして
「蒼龍様のデートの尾行に決まってます!」
 何でそんなに自慢気に言うんだ。
 てか、お前らなんで今日蒼龍様が満井と出かけるってこと知っているんだ!
 恐ろしい、うちの使用人達の情報網と、尾行術。俺も今まで彼女たちが付いて来てるなんて全然気付かなかったんだが……。
「目標、F地点通過しました、どうぞ!」
『了解、33カメに切り替えて!どうぞ!』
 メイドの一人がノートパソコンを持ち、別な人間が無線を持ち……という万全な体制には正直呆れたが。
 もしかしなくても、さっきから頭上をバリバリ飛んでいるヘリはアレか、蒼井家のヘリなのか……。
 俺、ここにいなくてもいいんじゃないか?
 つか、思いあまって蒼龍様に声かけようとかしなくて良かった……!本当に良かった……!
「……おかしいわね」
 パソコンを弄っているメイドの衣里さんがその時ぽつりと呟いた。
「何が変なの?衣里ちゃん」
「このままだと、蒼龍様は最寄り駅に行かれるわ。となると、もう御帰宅……ってことかしら?」
 え?
 俺は彼女の推測に思わず腕時計で時間を確認していた。まだ3時だぞ。大人のデートにしては早すぎないか?
「えぇー?もう終わり?折角市内のホテルというホテルの監視カメラ記録回してもらえるようにしてきたってのにぃ」
 それを聞いていた一人がそんな声をあげ、頭痛を感じた。
「それは盗撮っていうんですが……御存知ですか?」
「やっだー、秀ちゃんってば。慌てなくても蒼様のにゃんにゃんシーン撮れたら秀ちゃんにも見せてあげるわよぉ」
 きゃ、と彼女は声をあげ、俺の額を軽くこずいた。
殴って良いか、この女。いや、ここは蒼龍様の閨の安寧の為にクビにするべきだ。
「……あ!」
 と、そこで衣里さんが声をあげ、どうしたと全員でそのパソコンの画面を覗き込む。と
「……駅で二人、別れちゃいました」
「へ?」
「どうやら、今日のデートは終わりのようです……」
 しょんぼりと眉を下げた彼女の言葉に、俺も驚いた。だって、まだ3時だぞ、15時。学生だってこんな時間にデートを終わらせたりしないだろうに。
 あまりにもあっけない終了に、周りから不満の声が上がる。
「えー?なんでー?」
「折角のデートなのに、キスもなし?」
「っていうか、ホテル行きもなし?」
 ……お前らは何を期待してるんだ。
 でも、正直俺もちょっと驚いた。ホテル行きまでは考えていなかったけれど、大人だし、キスくらいはするのかとかちょっと身構えていた。恋人同士だとしてもいい行為のようだと知ったから。
 そうか、キスも……しなかったのか。
 あの、俺以外にはしたくない、というのはもしかしたら本当なのだろうか。いや、嘘を吐いていたとかそういう風に考えていたわけじゃない。ただ、それが正解なのかどうか分からなかった。
 思わず灰色のアスファルトを見つめ、考え込んでしまった。
 もし、だ。
 俺が仮にあの方の恋人となって、その後はどうする?俺は子どもを産める体ではないのだし、その先がある関係にはなれない。それに、今まで優しくしてくれた旦那様や奥様、千草や嵩森さまを悲しませるような事になるのではないだろうか。
 そのまま、もしかしたら別れたのはフェイクなのかもしれない!と食い下がる彼女たちに付き合ったけれど、1時間経ってもそんな風ではなく、むしろ家に帰ったという連絡が入ったので俺は息を吐いた。
「じゃ、俺は帰ります」
 デート追跡班も解散の連絡を取り合っていたようだし、俺も普通に帰路についた。後ろでギャイギャイメイドたちはうるさかったが……。
「ちょっと待って秀ちゃん!」
 誰が待つか、と思っていたけれど
「嵩森さんから、連絡!」
 そう言われては引き返すしかない。
 大きい無線機を渡され……ってか何で無線機なんだ、携帯で良いだろこの御時勢。
「はいはい、秀穂変わりました、どうぞー」
 ガガッという音が聞こえた、次の瞬間
『秀穂!今すぐに帰って来い!!』
 そんな嵩森さんの怒声が飛んできてすぐ、切れた。
 ……ん?
 な、何か嵩森さん怒って、た……?
 何だか理由は解からないが、背筋に冷たい物が走り、恐らくこの怒声が聞こえていただろうメイドたちを振り返れば、彼女たちも怯えた眼で俺を見ていた。そんな眼でみるな!!
「しゅ、秀ちゃん、早く帰った方がいいよぉ……?」
「うんうん、嵩森さんマジ切れするとホント怖いしぃ……」
 それくらい知っている!!
 無駄にデカい無線機を彼女たちに投げつけ、俺は駅へと走り出した。こんなに急いだのは多分人生で初めてだと思う……。
 ホラー映画より嵩森さんの方が数百倍怖いと、心の底から思った。

「秀穂、ただいま戻りました!!」
 慌てて今嵩森さんがいるだろう厨房に駆け込み、俺は硬直する。
「あれ?秀穂……早かったな。おかえり」
 そこには、のん気に笑う蒼龍様と、真っ白に燃えつきかけていた嵩森さんがいた。
「ん……?あ、あ……?嵩森さん?あの……」
 俺は、状況が理解出来ないんだが……。何でさっさと帰って来いと言われたんだろう。
「おれは、やるだけのことはやった……」
 声をかけようとすると、嵩森さんはゆらりと顔を上げたが、その顔は疲れきっていた。しかも一人称が俺になってる……。
「た、嵩森さん?」
「後は、頼んだぞ秀穂……」
 ふらふらと嵩森さんは足取りも怪しいまま厨房から出て行く。ここで、俺は蒼龍様と二人きりになったわけだけど……。一体、何が?
 調理台をみれば、お菓子らしきものを作っているようなボールや卵の殻、小麦粉などが散乱していた。嵩森さんが作っていたのだろうか。でも、彼が作っていたにしては調理台が悲惨すぎる。
 まさか、とは思うが……。
 ちーん。
 厨房で一番小さいオーブンが高らかに鳴り響き、その瞬間「お!」という蒼龍様の嬉しげな声が上がり、嫌な予感が的中した。
「お待ち下さい、蒼龍様!!」
 素手でそのオーブンの中身を取り出そうとした彼を慌てて止めた。火傷しますから、それ!
 俺に止められた蒼龍様が驚いて身を固めている隙を突いて、俺はミトンを取り、彼の代わりにその中身を取り出し、調理台に置く。そこには、とても嵩森さんが作ったとは思えないケーキらしきもの……があった。
「……あまり膨らまなかったな」
 それを見てしょんぼりしている蒼龍様に、眩暈を感じる。
「あの、蒼龍様……まさかと思いますが、これは」
 厨房には、嵩森さんと蒼龍様。嵩森さんは、たとえ目隠しをしても立派なケーキを作りこなせる。ということは、だ。
「俺が作った」
 ……ああ、やっぱり。
 ちょっと困ったように笑いながら彼は出来たその膨らみきれなかったケーキを観察していた。ベーキングパウダーが足りなかったのかとか、混ぜ方が足りなかったのか、とかブツブツと言っていたけれど。
「どうして、こんな……食べたいのであれば、嵩森さんがいくらでも」
 もしかして、この間のケーキを嵩森さんにあげたの、まだ怒っていらしたんだろうか。だからこんな御乱心を……。何という乱心の仕方だろう。キレてケーキ作るとか、聞いたことがないぞ。
 思わず彼の手を見てしまう。ケーキだからナイフを使うことはあまり無いけれど、火傷や何かあったら一大事だ。多分、嵩森さんは彼が怪我をしないように指導をしていたのだろう。それが、燃え尽きかけていた理由か。嵩森さんの努力の賜物か、彼の指には傷一つ無い。ナイスガッツ、と千草なら褒めただろう。
 思わず額を押さえてしまった俺に、彼は口を開いた。
「作りたかった。俺が、秀に」
「……はい?」
 驚いて目を上げると彼は照れたように笑い、嵩森さんから借りたらしい白いエプロンを外した。
「今日のために、満井先生から作り方を聞いて、今日は材料の買出しまで手伝ってもらった。おかげでちょっと誤解させてしまっていたから、今日言ってきた。今日は、俺が大切な人と出会った日なんですって」
 それに、俺は今日の日付を思い出す。心当たりは、あった。
「今日、って……」
「今日は、俺が初めて秀と会った日だ。忘れた?」
 何を馬鹿な事を聞いてくるんだろう、この人は。
「……忘れるわけ、ないじゃないですか」
 3年前の今日、俺は雨の中彼に拾われた。忘れるわけがない。忘れられるわけがないのに。
「本当は、何か普通にプレゼントしようと思っていた。でも、何か金は使いたくなくて、思いついたのはこれだったんだけどな……見事に失敗したようだ」
 少し残念そうに膨らまなかったそれを見てから、蒼様は俺に視線を移す。その強い視線に、思わず背筋を伸ばす。
「3年経った。だから秀穂には選んでもらいたい」
「選ぶ?」
 突然の話に俺は思わず問い返していた。何だか、嫌な予感がするのは気のせいだろうか。眉間を寄せた俺に何を思ったのか、彼は小さく息を吐き、目を伏せる。
「執事修行なんて押し付けてたのは、悪いと思っていた。俺も恩とかそういうので君を縛りたくない。だから、君にはこの家から出て行く選択肢を今、与えたい」
 嫌な予感は的中した。何となく、俺も日々それをいつ言われるか怯えていたような気がする。
 俺は元々この家に必要とされた人間じゃない。いつかは、言われると覚悟をしていたつもりだった。けれど、いざとなると足が震える。
「ああ、勿論、この家から出て行っても金銭面はちゃんと面倒見る。大学まで、いけるようにしてあげる。行きたかったら大学院まででもいい」
 蒼龍様の言葉は優しいようで残酷だ。遠回しに出て行けと言われているような気もする。
「おれ、ここにいない方が良いんでしょうか……?」
「……そうじゃない、秀穂」
 突然、崖から突き落とされたような感覚だった。けれど、蒼龍様は俯いた俺の頭を撫でる。
「もう一つの選択は、このままこの家に残る」
 その救いの手に縋る思いで顔を上げた。
「それが、良いです。俺はこの家に残りたい。この家に残って、蒼龍様に仕えるために俺はずっと」
「なぁ、秀穂」
 けれど、それを窘めるように彼は俺の名を呼び、それにまた情けないくらい喉が震えた。
「……はい」
 駄目なんだろうか。ここに残る選択を、蒼様は許してくれないのだろうか。もう、ここにはいられないのだろうか。
 でも、また俯いた俺に語りかける蒼様の声は優しい。
「千草の言う事も、一理あると思うんだ。俺は君を助けたかも知れない。でも、君を助ける為に使ったのは蒼井の金だろう?俺個人のものじゃない。だから、俺にそこまで恩義を感じなくて良いんだ」
 けれど、思いがけない彼の言葉に、俺はゆるりと顔を上げる。
「何を、言ってるんですか?」
「……秀穂、君は頭が良い。俺の言いたいこと、解かるだろ?」
「いえ、解かりません」
 言いたいことは分かるが、何故彼がそんなことを言い出したのかが解からなかった。はっきりと答えた俺に蒼様は困ったような顔をしたが、彼は何かを誤解している。その誤解を解けばもしかしたら俺はここに残れるんじゃないだろうか。その一心で、俺も口を開いた。
「金を、持っている人間は沢山います。でも、その人間がどれくらい誰かの為にその金を使っているとお思いですか?」
 思わず彼の両腕を掴み、強い口調で訴えた。俺がそんな風に喋るなんて、俺でも思う、珍しいと。蒼様もそう思ったのか、何度も瞬きをしていた。
「秀穂?」
「……俺は、ずっと金を持つ人間は自分の利益しか考えないやつばっかりだと思っていたんです。だから、本当は最初貴方が嫌いだった。どうせ俺を拾ったのも、金持ちの気まぐれだと……偽善者だと思って……でも、違った」
 そうなんだ、違ったんだ。この人は。
 大人というもの自体にも不信感を持っていた俺の考えを一瞬にして変えた人だった。なのに、彼自身はそれに気付いていなかったということが悔しくて、思わず喉と手に力を入れてしまう。
「貴方は、俺だけじゃなくて他のみんなも助けてくれた。費用も、半端無いくらいかかったはず。蒼井の親類に反対されていたことも知っています。でも、それを押し切って貴方は俺達を助けてくれた。金を持っていても、そんな事出来る人間はそうそういない……だから、俺にとっては貴方だけで。俺に手を伸ばしてくれたのは、貴方だけなんです、蒼龍様。そんな風に金を使える貴方だからこそ、俺は貴方に仕えようと思った。貴方じゃなければ、駄目だった」
 まさか蒼様がそんな事気にしているなんて思いもよらなかった。千草があの時変な事を言ったのが悪い。と、思ったけど。
 一番悪いのは、それを伝えなかった俺なんだろうか。態度でわかってもらえるかと思ったけれど、それは甘えだったのかもしれない。この人なら、俺の考えている事を察してくれると、無意識のうちに甘えていた。
「俺を救ったのは、貴方です。だから、俺は貴方の側にいたい」
「秀……」
 彼の腕からそろそろと手を離し、伺うように彼を見上げれば、まだ驚いたような顔をしている。
「秀……良いのか?」
 眼が合うと困ったように眉根を寄せ、壊れ物でも触れるように俺の頭にそっと手を乗せた。
「お前がそう選ぶのなら、俺は二度と放してやれなくなるぞ」
 何だ、そんな余計な心配なんてしなくていいのに。
「……俺は、構いません。好きな相手の側にずっといられるというのは、恐らくこれ以上無い幸せなのでしょうから」
 ふ、と笑いながら目を伏せて頭を撫でるその手を感じていれば、突然その手の動きが止まる。どうしたのだろうと視線を上げれば、きょとんとした蒼龍様の眼が俺をじっと見ていた。
「……秀穂、今なんて?」
「幸せなのでしょうから」
「いや、その前」
「構いません」
「それより、後だ」
「……蒼さま」
 俺に何を言わせたいのかすぐに解かり、思わずため息を吐かずにはいられない。だって、そんなことどうしてそこまで聞きたいと思う?
 子どものようにそわそわとその言葉を待つ彼に、小さく笑ってしまった。
 でも。
「正直、まだよく解からないのです。貴方が言った事、多分俺は全て理解しきれていないと思うのですが……」
 俺の顔のすぐそこにあった彼の唇に触れるのは容易かった。誰かにされるのはいつものことだったが、誰かにするのは初め……いや、嵩森さんには俺からやったか……。あれは取り合えずノーカウントにすれば、初めてだ。
 俺からされるとは思っていなかったのか、彼の驚いた眼と視線が合う。何だか少し恥ずかしい気がするが……。
「好きです。だから俺は、貴方がいないと生きていけない」
「……秀、君は」
「……何か、間違っていましたか?」
 俺はどうもこういう事に関しては知識がない。だから、俺は思わず首をかしげて問うけれどそんな俺を蒼様は笑って首を横に振る。
「間違っていない。間違っていたら俺の方が泣く」
「俺は、まだ少し解からないことは多いんですけど……」
 不安になったり嬉しくなったり、何か良く解からない感情に振り回されるこの心の状態を落ち着かせる方法とか、どうして蒼様とキスすると体が熱く感じるのかとか。疑問は絶えない。
 まぁ、良いか。
「これからは蒼龍様が教えて下さるのでしょう?」
 これらが全て恋という言葉で括られるのであれば、俺は間違いなくこの人に恋をしている。多分、彼に手を差し伸べられた瞬間から。
 手を握れば、蒼様も握り返してくれる。俺が笑えば、蒼様も笑ってくれる。ああ、これは悪くない。
「教え甲斐がありそうで困るな」
 こうやって、蒼さまが喜んでくれるなら、俺も嬉しい。
 色々と不安はあるが、俺が笑ってこの人も笑ってくれる間は多分大丈夫だと、そう思う。強く抱き締められるのも、悪くない。
「好きだよ、秀穂」
「はい、蒼様」
「だから俺も、君がいないと生きていけない」
「覚えて、おきます」
「……参ったな……」
 耳元で蒼龍様がそう呟くのが聞こえ、一体どうしたのだろうと首を動かそうとしたが、彼に強く抱きこまれ、それは出来なかった。
「……君の嫌がることはなるべくならしたくないが、覚えておいてくれ」
 ……ん?
 何か話が飛んだな。
 俺から体を離し、正面から向き合った蒼様は物凄く嬉しそうだったけれど
「俺を犯罪者にするかしないかは、君次第のようだ」
 困ったように、何だか怖い事を言った。




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