「俺の名前は蒼井秘色」
 雨に濡れた蒼い目の少年に柔らかいタオルを渡し、蒼龍は軽い自己紹介をした。思わず連れ帰ってしまった自分の行動に戸惑いはしたが、後悔はしていない。
「……ひそく?」
 彼はあまり聞き慣れない名前にその眼を細めた。自分でもこの名前は変だというよりも、特殊である自覚はある。
「秘密の色と書いて秘色だ」
 苦笑し、肩を竦めようとした時、少年が軽く声を上げる。
「ああ……青の、色の名前か………」
 まさか彼が自分の名前の意を知っているとは思わず、息を呑んだ。そんな自分を見据えた彼の眼は青く、部屋のライトにくるりと揺れる。
 これが自分の名前の色なのだと、何故かその時直感的に思った。




「……どうして今日の給仕は嵩森なんだ」
「さぁて、何故でしょうね」
 そうすっとぼけた嵩森を蒼龍は強く睨みつけていた。今日は、晴れて恋人同士という間になった日であるというのに、夕食の給仕は何故か嵩森が来た。折角ゆっくりと話が出来ると思っていたというのに。
 もくもくと夕食を食べる蒼龍を横目に、嵩森は人の悪い笑みを浮かべた。
「今日の夕食は如何ですか」
「……ああ、美味いが……いつもとは少し違うな」
 その返事を思わず鼻で笑ってしまい、蒼龍は怪訝な眼で嵩森を見やる。
「流石にお分かりになられましたか」
 いつもは料理に興味を示さない蒼龍は、こちらが何か言わないとそのまま流してしまいそうだ。だからわざわざ料理の味を聞いたのだ。いつもは聞かれないことを聞かれて蒼龍は更に不思議そうに目を細めたが、それほど気には留めなかったらしい。
「どうした。料理長が変わったか」
 興味なさそうなその声が、更に嵩森の笑いを誘う。
「はい、まぁ、今日だけ、貴方だけ」
「何だ、それは?」
 怪訝な目で見てくる蒼龍に、嵩森は笑みを深めた。さぁ、爆弾を落とそう。
「今日の貴方の膳は全て秀穂が作りましたので」
 そう言った瞬間、蒼龍の手が止まる。想像通りのリアクション過ぎた。
「……秀、が?」
「貴方のあのみっともないケーキの礼なのではないですか。まだまだ半人前ですが、今日だけは私も許しを出しました。貴方も、どんな豪勢な料理を出したところで、秀穂の膳の方が上でしょうから」
「みっともないは余計だ」
 本当に彼は自分の配下なのだろうかと、あまりの言い草に嘆きたくなる。だが、嵩森も覚えのいい秀穂のことは気に入っている。彼自身、自分の上司と自分の部下がそんな関係になるのは内心複雑なのだろう。
「流石に恥ずかしかったようなので、私が給仕に出ました。閨の支度は彼をやりますが……どうぞ、分別をわきまえた態度でお望み下さい。貴方は教育者なのですから、犯罪者になられぬように」
 ……複雑、というよりも何だか睨みつけられているのは気のせいだろうか。
「お前、真面目な顔で変な事を言うな」
 人の悪い側近を軽く睨みつつも、蒼龍自身少し期待を胸に秘めていた。けれど、相手は10以上も離れた少年だ。まだまともな恋愛もしたことがないだろうに、こんな悪い大人に捕まってしまったのは哀れとしか言えない。
 そして自分は、一応教育者という聖職に就いている。もし秀穂が自分を訴えたら確実に負けるだろう。
 それでも、彼はそんなことをしないと確信している自分は矢張り悪い大人だ。そんな思考に行くような暇は与えないつもりだ。今までも、自分以外に眼が行かないよう策を巡らせていたのだから。ただ、今回彼がクラスの友人と映画に行ったのには焦りを覚えた。だから、彼が外出しても自分の事を考えるようにあからさまな態度をとってみたのだが……自分でもあざと過ぎると思う。
 でも、欲しいのだからしょうがないだろう?
 秀穂が貴方だからと言ったように、自分も秀穂だから、だった。あの雨の日、いうなれば一目惚れだったのかもしれない。彼じゃなければ自分も手を差し伸べなかった。あの蒼い眼と視線が合い、思わず手を伸ばしていた。
 この眼に自分を映したい、そう思って。
 彼の純粋な尊敬と敬愛を恋愛へと強引に結びつけた自分は本当に悪い大人で、それを見抜いている嵩森はため息を吐くだけだった。恐らく、秀穂への同情だろうが。
「大丈夫だ、嵩森。これ以上ない位甘やかすぞ、一生」
「……貴方という人は、全く……」
 呆れたように嵩森は笑い、それから小さく「お幸せに」と言った。
 



 けれど、甘やかされているのは自分の方かも知れない。
「日向君との映画はどうだった?」
 閨の準備をし終わり、そこに座らせた秀穂に思い出したように世間話を投げかけた。本当は、食事が終わり、彼が来るまで仕事など殆ど手につかず、彼が来て布団を敷いたりなどのいつもの仕事も、そわそわと見守っていたのだが、表面では仕事をしている振りをしていた。
「……ああ、まぁ……貴重な体験でした」
 秀穂は逡巡して言葉を選んだようで、なんとも彼らしい返答だと笑いそうになる。この分では、自分が心配するような事は何もなかったようだ。
「次は、俺と一緒に行こうか、映画に」
「よろしいのですか?」
「よろしいもなにも、恋人同士なら普通だろう。デートくらい」
「……あ……そういうもの、ですか」
 少し戸惑ったように視線を揺らした秀穂は恋愛初心者すぎる。
「でも、そういうものは普通男女が」
「俺は、秀穂と行きたい」
「……蒼さまがそうしたいのであれば、俺もそうしたいです」
 秀穂は従順だ。
 控えめに微笑むその顔が、ああ、何と言うか可愛い。
 決して亭主関白肌というわけではないのだが、自分を信じて全て身を任せてくる彼が愛しくて仕方がない。本当にいたいけだと思う。
 気をつけないと本当に顔がにやけて困る。
「……日向に」
 その時、ぽつりと秀穂が零した名前に口元から笑みが消えた。けれど、畳を見つめていた秀穂はそれに気付かずに言葉を続ける。
「日向には、色々と教えられました。俺一人では考えたところで、解からなかったので。彼と話さなければ、俺もきっと気付けなかった。だから、貴重な体験でした」
 ……日向君には後でお礼言っておかないといけないようだな。
 行かせたくないと思っていたけれど、今日の友人との時間は秀穂にとっても蒼龍にとっても幸運なものだったらしい。
「でも、蒼さまが行くなと仰られるなら」
「いや、友人を作れといったのは俺だからな。行くといい」
 それでいい具合に恋愛の知識をつけてくることを期待しよう。
 満面の笑みで言われ、秀穂のほうはほっとしたようだった。その言葉の裏に下心があるとはきっと気付いていない。
「それで、どんな映画を観てきたんだ?」
 そう問えば、何故か秀穂の表情が僅かに引き攣ったのは見逃さなかった。
「秀?」
「……いや、その……説明するまでも無い映画と言いますか」
 きょろきょろと視線を動かし、落ち着かない様子の秀穂はなにやら隠しているようだ。それを見抜けないほど馬鹿ではない。
「どうした?」
「……あまり夜中にそんな話はしたくないのです」
 降参したように秀穂は項垂れ、これから帰らなければいけない自分の部屋までの距離を思う。絶対無いとは思っているのだが、暗い廊下の中で、もし白衣を着た男達が自分を取り囲んだらどうしよう、という馬鹿な不安に背筋が寒くなる。いや、もしかしたらあの部屋に待ち構えているかもしれない。そして、気を失って眼が覚めた時は自分の体は分解されているのだ。
「……ホラー映画だったのか?」
 あまりにもおかしい秀穂の態度に気付いたのだろう、蒼龍のその言葉に、小さく頷く。
「秀、苦手だったのか、そういうの」
 これは気付かなかったと言いたげな蒼龍は、密かに再び翔に心の中で礼を言っていたのだが、そんな事秀穂は気付けない。最近の映画のホラーというと、と考えると思い当たる映画が蒼龍にはある。
「幽霊の類は平気なのですが、変に実際にありそうな設定はどうも……」
 眉を下げる秀穂は、オカルトめいた話は何とも思わないが、恐らく都市伝説の犯罪系に分類される話が苦手なタイプなのだろう。その映画を思い出したのか、眉間に皺を寄せ、そこに指を置いていた。
「そうか……それは、災難だったな」
 蒼龍が茶色い髪を撫でると、秀穂も困ったように笑う。
「あの映画は実際にあったという噂を俺も聞いている」
「え」
 しかし、蒼龍の一言に秀穂はその笑みを凍りつかせた。
「人間が生きたまま解剖されるというのは、過去本当にあったことだ。特に二次大戦中はドイツや」
「蒼龍様……そのような話をされるのであれば、俺は自室に戻ります」
「わかった、しないからここに居てくれ」
 あっさりと話をやめた蒼龍を軽く睨み、秀穂は小さく息を吐いた。また腹部がなんとなく痛み出したような気がする。
「……怖いなら、共に寝るか?」
 腹部を擦っていると、そんな声が聞こえ顔を上げると彼が笑いながら自分を見ている。
「怖くなどありません」
 子ども扱いされたかと思ったが、蒼龍は笑いながら秀穂の手を取った。
「なら、俺が怖いから共に寝よう」
「……蒼さま?」
 まさか、これだけの話が怖かったのかと目を上げれば、取られた手は彼の頬へと誘導され、手の平に低めの温度を感じた。
「今のこの時が夢ではないかと思うと、怖い。朝起きたら君は普段どおり接してきそうだからな」
「……普段と同じではいけないのでしょうか?」
 いつものように、朝起こして朝食の支度をしてというスケジュールはすでに秀穂の頭にあったのだけれど、それに蒼龍は目を伏せる。
「……少し、淋しい」
「では、どのようにしましょう」
「共に寝てくれ。朝起きて君が俺の隣りにいたら俺は嬉しい」
 そう頼まれ、ちらりと彼の布団の方に目をやった。二人寝るには少し小さい気もするが、無理ではない大きさだ。
 まぁ、良いか。
「では、そのように」
「良いのか?」
「蒼さまが嬉しいのであれば、俺も嬉しいですから」
 よくもまぁ、ここまで従順に仕立て上げたものだと、嵩森がいたら呆れられるかもしれない。
 それでも、良いか。
「寝るだけで済むかどうか怪しいけどな」
 秀穂の耳には届かない程度の音で、そう呟いた。あまり良い事が続きすぎるのは良くない、と自分に言い聞かせても、1秒後の自分の行動に責任は持てなかった。





おしまい

お付き合い有り難う御座いました!