いたいけ、という単語を辞書でひいて、何となく後悔してしまった。

 意識をしてしまったからだろうか。最近、満井と蒼龍様が二人で歩く姿を、よく目にするようになった。
 クラスの話に耳を傾けてみれば、結構あの二人は噂になっていたらしい。千草の言うとおりだ。
「満井先生と蒼井先生?ああ、確かに最近仲良いよな」
 何となく日向に話を聞いてみると、彼も知っていたことだったようだ。そういうことには鈍そうなのに、と思いつつ日向をじっと見つめたら首を傾げられた。こいつは結構可愛い顔立ちをしているから、そういう仕草が人によっては可愛く見えるだろう。一般的にはこういうヤツをいたいけというはずだ。
 ……蒼龍様、教師なのに言葉の使い方間違っているんじゃないか?
「和泉、眉間に皺寄ってる」
 不思議そうにそれを指摘してきた日向に、無言で自分の額を押さえていた。その動作に日向は何を思ったか噴出した。
「和泉、面白ぇ」
 何がだ、ちくしょう。
 じろっと日向を睨んだが、こいつにそんな威嚇が無意味なのはもう知っている。そんな時、日向が思い出したように自分の鞄から何かを取り出した。
「そうだ、和泉今度の日曜暇じゃねぇ?」
 日向が机の上に置いたのは、二枚の映画のチケットだった。そこに書かれているタイトルが今期の話題作である事は、芸能情報に疎い俺でもギリギリ知っている。内容は詳しく知らないが。
「時間はある、が」
 確か、次の日曜は昼間は何の仕事もなかったはず、と思い出すと日向が表情を輝かせた。
「マジ?んじゃ、行かね?二人で!」
「……俺が、お前と、二人で?」
「そう!」
 意気揚々と答えられ、思わず
「何で?」
と問い返してしまった。
 篠田とか甲賀とかこいつの仲間がワイワイやるから、一緒にどうだと誘われるならまだ分かる。だけど、どうして日向と二人きりなんだ。チケットが二枚しかないのなら、いつも一緒にいる甲賀といけばいいのに。
 理由を言わず簡潔にそう問うから、他人に冷たく思われるのだろうが、日向もいい加減俺のそういう性格に気付いてきているらしい。
「……だめか?」
 少し残念そうに眉を下げる相手に、思わず言おうとした言葉を飲み込んだ。大勢の面子が決まってて誘われてるならまだしも、二人きり前提という状況は何だかとても断わりにくい。
「甲賀といけばいいだろ」
 取り合えず、そう素っ気無く言うと、日向は「ああ……」と声を上げ、一瞬目を伏せてからいつもの笑みを浮かべた。
「克己にはさっき振られちまって、さ」
「だったら別の日に行けば良いだろうが」
「別の日も無理なんだ。克己、あいつ彼女いるから。土日放課後ほぼ全滅なわけ。俺、実は今まであいつと学校外で会ったことねぇぞ」
 それはなんと言うか……意外だ。学校内では日向がいればその隣りにあの男がいるという感じだったのに、案外希薄な関係なのか。そんな顔をしていたのだろう、日向は少し淋しげに笑んだ。
「実はこのチケット、篠田達が克己と行けってくれたもんなんだ。一応、さっきまでは一緒に行く予定だったんだけど……駄目に、なっちまって……。篠田達誘うのも、何か悪いかな、って。それに、最近和泉と仲良くなれて嬉しかったし!あ、でも和泉他に一緒に行きたい人いるなら、これあげても良いぞ?」
 満面の笑みで二枚のチケットを差し出され、俺は正直戸惑った。一緒に行きたい人、と言われ候補に浮かんだのは、まず嵩森さん。……いや、でも何かあの人と映画って想像出来ない。いつも忙しそうで、たまにこういう癒しも必要だとは思うけど、俺は別に嵩森さんと一緒に行きたくはない。無駄に緊張しそうだ。
 次に浮かんだのは千草……は一番誘いやすいが、後々面倒なことになりそうだ。絶対、後でうるさい。
 最後に浮かんだのは蒼龍様だが……誘えるか!!畏れ多い!!
「いるなら、本当にあげるぞ?」
 考え込んだ俺に日向が心配そうに言ってきたが、取り合えず、一枚だけ手に取った。それに、日向は驚いたように目を上げる。
「和泉?」
「日曜、時間あるから別に良い」
「……俺と一緒に行ってくれるのか?」
 何だその怯えるような目は。何か全体的にプルプルしてて小型犬みたいだなコイツ。
 頷いてやれば、顔を輝かせ「ありがと、和泉!」と喜ぶ喜ぶ。蒼龍様、やっぱりいたいけってのはこういうヤツに使うべき単語だ。……まさか、俺も蒼龍様の前ではこんなんなのか!?
「何だ?」
 首を傾げる日向の姿を見て更にダメージを喰らう。こんな、無邪気な小動物みたいなオーラを放っていない事を、心から願った。



「えぇー!!秀ちゃん、お友達と映画行くの!?」
「うそー!秀ちゃんがお友達となんて、どういう風の吹き回し?」
「なになに、どんな子どんな子?」
 うっかり執事見習いやメイド達に、日曜俺いないからと理由も言ってしまったのがまず間違いだったようだ。キラキラと目を輝かせて俺の周りを取り囲む。つか、お前ら俺をどんな目で見ていたんだ。
「どうでも良いでしょうが」
「ちょーう可愛い子と行くんだよなぁ?秀穂」
 その時どこから聞いていたのか、千草の登場に俺は持っていた皿を割りかけた。それを察して俺を睨みつけてくれた嵩森さんは流石だ、その温度で俺は反射的に手から力を抜けたから。
「聞いたよ、秀穂。日向くんと映画行くんだって?いいなぁ、俺も一緒に行きたい」
 にやにや笑いながら俺の肩を抱く千草に言いたい事は取り合えず
「……どうして、そんなこと知ってるんですか」
 日向という名前は出していなかったのに、すでに知っているこいつが俺は物凄く怖い。誰だどこだコイツの情報源は。いつか潰す!
 そんな決意を固めている事も知らずに、千草はのん気に笑っている。
「秀穂のことなら何でも知ってる……って言いたいところだけどね。相手が悪かったよ?今回ばかりは」
 同情するように言われ、俺は思わず眉を寄せたが、それに気付いているのか気付いていないのか、千草が肩を竦めた。
「校内でも人気者の日向くんが、甲賀くんや篠田君たち御一行以外と学校外で会う約束したーって。学校中大騒ぎです」
「んなことで大騒ぎしないでください」
 下らん、とにかく下らん。
 てか、日向は学校の人気者だったのか……知らなかったな。ま、あの顔と性格じゃ人気者になってもおかしくはないか。
 なんか面倒臭くなってきた……行くのいっそやめようか。でも、日向の嬉しげな笑みを思い出すとそれも何だか気が引ける。元はと言えば、日向と映画に行かない甲賀が悪い。アイツがいけたら何の問題もなかったのに。
「いいなー、日曜は秀ちゃんデートなんだぁ」
 どこからか聞こえてきた声にその場にすっ転びそうになった。何だ、デートって。俺が、あの日向と?ハハハハ笑うしかないな。
「蒼龍様おかりなさいませ」
 そんな時、玄関の方からそんな声が聞こえ、使用人室から顔を出せば学校から帰ってきた蒼龍様が廊下を歩いている。今日は早いな、と時計を見れば6時近くだ。いけない、こんな下らないこと話している場合じゃなかった。仕事仕事。
 彼の帰宅に周りも下らない噂話を止め、自分の仕事へと帰って行った。蒼龍様に心底感謝する瞬間だ。
「おかえりなさいませ、蒼龍様」
「秀穂」
 いつものように頭を下げて、彼の手から荷物を受け取る。後は部屋まで行って、だな。
 心の中でやるべき事を復唱しながら少し離れた場所にある彼の部屋へと先導する。蒼龍様の部屋は喧騒が届かない静かな離れにある。まぁ、あんな騒がしい使用人達が居れば静かな場所が欲しくもなるだろうな。旦那様も奥様も陽気な人で、明るい使用人達を大目に見ているようだが。
「秀穂」
「はい?」
 部屋に着く直前、突然呼びかけられ振り返れば蒼龍様がじっと俺を見ていた。何だろう、と聞こうとしたら、先に彼が口を開く。
「日曜日は、日向くんと出かけるらしいが」
 って、蒼龍様もその話聴いていたのか。
 情報伝達の早さに少し眩暈がしたが、俺が何か言う前にまた彼は口を開いた。
「日向くんは可愛いし、いい子だ」
「……はい?」
「帰ってきたら、話色々と聞かせてくれよ」
 俺の横を通り過ぎ、荷物も俺の手から取って部屋へと一人入っていく彼を俺は茫然と見送った。スパン、と閉められた障子がなんだか虚しい。いつもなら、何だかんだいって俺もしばらく部屋に止まるのに、今日は入れても貰えなかった。
「……なんだぁ?」
 日向が、可愛くていい子。特定の生徒を褒めるなんて珍しい。珍しいんだよな……。
 うーん……?
 何だか奇妙なわだかまりが胸に生まれたことに、俺は戸惑いつつもその奇妙な感覚を誤魔化すように頭を掻いた。


「蒼様、もしかして日向のこと好きなんでしょうか」
 ブッフォ!
 先に一人で夕食を取っていた千草に給仕をしながら何となくそう聞いてみれば、奴は飲んでいた味噌汁を盛大に噴出した。
 無言で汚れた畳を拭いていると、千草は恨めしそうな目で俺を睨んでくる。
「ってか、秀穂、何?お前、俺が味噌汁飲んでたタイミング狙ってたのか?」
「俺の仕事が増えるんですよ、そんなわけないでしょうが。何となくそう思ったので聞いてみただけです」
「何でいきなりそんな変な風に思うんだ?大体にして、兄さんと日向君じゃ全然接点無いだろ」
 確かにそうなんだが。
 呆れたように見てくる千草には何とも言えず、「はぁ」と曖昧な返事しか出来なかった。自分でもなんでそんな風に考えが飛んだのかよく解からない。でも、何となくそんな気がした……んだよな。
 まず、あの人が誰かを可愛いと褒めたのを聞いたのは初めてだ。ついでに、誰かをいい子と褒めたのを聞いたのも初めてだ。温厚な振りしてあまり他人を褒めない人なのに。
 だから、俺は……。
 何で?と千草に問われ、仕方なく理由を口にする。
「蒼さまが」
「兄さんが?」
「日向を褒めた、ので」
「……で?」
「で、そうなのかと」
「……これは流石に兄さんに同情を禁じ得ない」
 はぁ、とため息を吐いて千草は自分の額を押さえていた。何だ、俺は何か悪い事を言ったのか。怪訝な顔をした俺に、彼は仕方無さそうに口を開いた。
「あのね、秀穂?」
「秀くん!」
 話の途中でやってきたのはメイドの南さんだった。彼女は千草を見て慌てて頭を下げていたが、すぐに俺の横にやってきて小声で
「例の電話、またきたの。今保留音にしてるんだけど」
 そうだ、ストーカーの話色々合って忘れかけていた。けれど、俺の行動は素早かった。
「分かった、俺が出る。千草様の事は頼む」
 彼女に自分が持っていた布巾を渡し、俺は部屋から飛び出した。
「はい!秀君頑張って!」
「って、おい、秀穂―ッ!」
 千草の止める声など聞こえない。すれ違った嵩森さんには「廊下を走るな!」と怒られたけれどそれどころでもなかった。
 保留にしているらしいその電話の前に立ち、受話器を取って保留状態を終える。そして、耳に当てた受話器から聞こえてきた声は。
『あ、あの……っ!日曜日楽しみにしています!』
 そして、電話は切れた。
 ツーツーツーという音しか聞こえなくなった受話器を持って俺はしばらくそのまま硬直していた。千草の給仕を終えた南さんが慌ててやってきて、いまだ受話器を放さない俺に「どうだった?」としきりに訊ねてきたが、俺は何も言えずただ受話器を置く。

 ………っていうかこの声思いっきり聞き覚えあるんですけど………。

 思わず項垂れた俺に、南さんはひたすら「どうしたの?どうしたの?」と慌てていた。



 そしてその夜遅く、俺は蒼龍様の部屋を訪ねる羽目になる。
「……満井先生のことですが」
 夜遅く俺が彼を訪ねていくことは滅多にない。少し機嫌が悪そうだった彼に会うのは少し戸惑われたが、快く部屋に入れてもらったことには安心していた。
 夜遅いというのに、蒼様はまだ仕事をやっていた。そろそろ寝てもらわないと困ると言いに行くついででもある。
 そんな俺が口にした事に彼は一瞬仕事の手を止めていたが、すぐにそれを再開する。
「ああ……満井さんがどうかした?」
「気付いておられるようなので、私は何も言いませんが、あまり下の者に心配を掛けさせないで下さい」
 咎めるように言ってようやく彼も俺が言いたい事を察してくれたらしい。仕事をしていた手を止め、机に向かっていた視線をこちらへと向けた。
「だから、彼女には嵩森にも秀穂にも言わないようにと口止めをしておいたはずだが」
 あの電話も手紙も満井先生からのものだった。恐らく、どうにか告白しようといつも電話をかけ、緊張の末に切り、また電話をかけ……をくり返していたのだろう。社会人にもなって、と思う人間もいれば、微笑ましいと思う人間もいるだろうが、俺は単純に呆れた。満井先生にも、蒼龍様にもだ。
「人が悪すぎるのではないですか。南さんのことも、満井先生の事も……彼女の気持ちに気付かれているのであれば尚更です」
 彼女が蒼龍様に恋をしているのは俺にも分かった。多分蒼龍様も気付いている。それでいて、学校であんなに共にいるというのは、彼女に期待を持たせすぎるのではないか。何より、周りの盛り上がり方がうるさい。すでに校内で噂になっているのも、頂けない。そんな奇妙な噂が広がり、彼の今後に支障をきたすのは単純に困る。
「今後はあまり彼女と行動するのはお控えしたほうが」
 ため息を吐きながらそう言えば、いつものように彼は苦笑しながら頷くと思った。そうだな、すまないと言いながら。でも
「私が、彼女を好いていないと思うのか?」
 ……ん?
 平坦な声で言われ、思わず顔を上げると蒼龍様は笑ってもいなかった。
「蒼、さま?」
「私が彼女を好いていないとどうして言える」
 す、と蒼龍様の眼が細くなり、その瞬間緊張が走った。
「……あー……っと」
「答えろ、秀」
 心なしか厳しい声に、俺は思わず額を押さえていた。ってことは、アレか、そうなのか、そうだったのか。
 ああ、そういう事だと思っていいんだろうか。
「蒼様は、満井先生の事を気に入っていらっしゃる……ということですか?」
 電話口で言っていた、日曜楽しみにしていますというのは、彼が彼女をデートかそこら辺に誘った……ということだろうか。
 取り合えずその仮定を口にしてみると、蒼龍さまは眉間を寄せて、俺から目を離した。
 ……なんだ、大正解?
 ってことは、だ。
「これは、おめでたい!」
 夜中にもかかわらず俺は思わず叫び、自分の膝を叩いていた。そのテンションに驚いたのか、蒼龍様も目を見開いて顔を上げる。
「しゅ、秀穂?」
 俺も、何か驚いた。
「これは何とも……めでたいことではございませんか!蒼さまが伴侶となるお相手を見つけられたのですから!明日さっそく嵩森さんに報告しなくては!」
 そう、これは喜ぶべきことなんだ。我に帰らせる為に叩いた膝が鈍く痛む。
「ちょ、待……」
「それならば良いのです。今日はもうお休み下さい、蒼龍様。明日また起きれなくなりますよ」
 なのに、何故か思っていたより嬉しくない。嬉しくない、と柔らかい表現じゃ物足りないくらいに渦巻くこの奇妙な感覚は、何だろう。
 それを誤魔化すために高めのテンションで机に向かっていた彼の肩を押し、強引にすでに敷かれていた布団へと彼の体を投げ込んだ。いつもなかなか寝ない彼を力任せで寝かしつけていた俺には容易い事で。もがいたその体の上に羽根布団を掛け、机の上のライトも部屋の電気も消した。これで仕事終了だ。
 この変な感情も、この部屋から出れば終わるはず。
「それでは、お休みなさいませ、そう、」
「秀穂、待て!」
 部屋から出て行こうとしたところで、焦ったように身を起こした蒼龍様に手首を掴まれ、振り返ればどこか哀しげな顔をした蒼さまがいた。
「蒼龍様?」
「……お前は、俺が結婚したら嬉しいのか?」
 一瞬、俺の心を見透かされたのかと思ったけれど、そんなはずはない。
 どうして彼が自分にそんな事を聞いてくるのか理解出来ず、怪訝な顔になったのが自分でも分かる。そんな事、俺が決められることじゃない。蒼龍様か、もしくは……これはあまり嬉しくないかも知れないけれど、蒼井家が決める事だ。でも、蒼龍様が好きな相手と結婚されるなら俺は嬉しい……と思う。いや、嬉しくなければならない。
「蒼さまが望まれた事なら、心より祝福いたします」
「では、」
 俺の手を掴んでいた力が緩み、けれどもう一方の手に彼の手が重なる。病弱と言ってもきちんと成長している彼の手は、俺より少し大きかった。
「もし、俺が望まない事だったら……秀穂はどうする?」
 どう、とは。
 どこか探るような眼で見られ、正直戸惑う。多分、家が決めた事なら嵩森さんも誰もそれに反対出来ないし、蒼龍様の味方をする人はいなくなる。それに蒼龍様自身も受け入れるんじゃないか、実際そうなったら。
 まぁ、でも旦那様も奥様も良い方だから、そんな事にはならないとは思うが。
「その時は、蒼龍様のお望みのままに」
 飛行機のチケット取るくらいで済みそうだけどな、と思ったところで突然手を引かれ、はっと気付いた時は彼の腕に抱かれていた。
 蒼龍様の体温は平熱35度台。高くない、むしろ低いその温度が、何故か今日は熱く感じた。
「秀」
「はい」
「秀」
「……はい」
 一体、どうしたというんだ、本当に。蒼龍様も、俺も。
 さっきまで感じていた不快な感覚が、彼に名前を呼ばれるたびに薄らいでいく。こんな短時間に、感情の起伏がここまで露骨にはげしかったのは初めてだ。上がったり下がったり……今は落ち着いてきたのだが。
 執事は常に沈着冷静と指導してくれた嵩森さんに申し訳ない。これじゃ俺執事失格だな。
 そんな事を考えている額に柔らかいものが触れた。目を上げると、月明かりに照らされた蒼龍様の顔が微笑んでいる。
「……嵩森に、聞いたか?」
「何を、ですか?」
「キス、の意味」
「……取り合えず、謝礼でほいほいするものではないと……」
 あの日、説教というより言い聞かせられた……と言った方が近い。嵩森さんに、これはほいほいするもんじゃない!と言われ、では誰にするものなのですかと問えば、沈黙を貫き通された。悪い意味ではないらしい。一応辞書でひいてみたが、接吻、口付けと書かれているだけ。接吻でひいてみたら愛情や尊敬を表すこと、と書いてあった。……俺は一応嵩森さんを尊敬してるつもりだが、駄目な場合もあるということなのだろうか。後、接吻自体幕末に作られた新漢字だということを無駄に知った。
「でも……まさかキス知らないなんてな……秀穂可愛すぎる」
「……それはもしかしなくても馬鹿な子ほど可愛いってヤツですか」
 無知を笑われたようで少し悔しかったが、俺を抱き直して彼はそれを否定した。
「違う、秀穂はいたいけなんだって前にも言っただろ」
「だから、俺のどこがいたいけだと……」
 喧嘩三昧でヤクザ相手にも拳を振るっていたことのある俺のどこが。
 困ったように相手を見上げれば、目を細めて笑った蒼龍様の唇が、俺の口に触れた。……3回目、だっけな……多分これで。辞書が正しいなら、彼は俺に尊敬、もしくは愛情の気持ちを持ってくれているということになる。尊敬はないから、愛情……か?あれか、ペットみたいな感じで。千草にも何度か忠犬忠犬言われた事があるしな。
「こういうのは、ほいほいしないと聞きましたが……」
 嵩森さんの言葉を借りて一応そう言うと、彼も頷く。
「そうだ。ほいほいしない」
「……俺にほいほいしてるじゃないですか」
「秀穂以外には、ほいほいしない」
 ん?
 それは一体どういうことなのだろう、と眉間を寄せたら、何故か蒼龍様は嬉しげに笑んだ。
「そうだ秀穂、考えろ。俺は秀穂以外にはこんなことしないけど、秀穂にはしたい。この意味に解かるか?早く、気付け」

 そう言われて一晩考えたが、結局よく解からなかった。


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