「兄さん、最近家庭科の満井先生と仲良いんだ。生徒の周りでもちょっと噂になってるの知ってた?」
 千草の一言に、俺は目を上げた。
 満井。
 その名前なら俺も知っている。一応俺の学年の家庭科も彼女が教えていたからだ。歳は恐らく蒼龍様より一つ二つ下くらいだろう。たまに二人で廊下を歩いているのを俺も見かけていた。
 彼女が蒼龍様に恋心を抱いていることも、何となく気付いてはいる。そんな彼女が「玉の輿ゲッツ!」と密かに叫んでいるのも聞いたことがある。
 うーん……。
 カフェオレを注ぎながら思わず眉間に皺を寄せてしまう。
「その満井という女性はどのような方なのですか」
 蒼龍様の恋人となれば、執事長である嵩森さんも黙ってはいられない。眼鏡を上げながら俺と千草の会話に入ってくる。彼に任せていれば大丈夫だろう。
 千草は少し考え込み、「俺はあんまり知らない」と肩を竦めた。高校3年生に家庭科の授業は無い。
 と、なると二人の視線は俺に集中する。俺の答えは勿論、
「……俺もよく知りません」
「今日秀穂のクラス調理実習だろ」
 千草の一言に、そういえば、と思い出したが、ちょっと待て。
「なんで貴方が俺のクラスの時間割知っているんですか。時間割どころか授業内容まで」
「丁度良いじゃない。満井先生の人となりを調べてくればいい」
 って俺の疑問はスルーですか。
 しかし、満井先生の人となり……。
 思わず考え込みながらも出来上がったカフェオレを差し出して、俺の朝の仕事は終わり。
「……秀」
 エプロンを取ろうとした俺に、嵩森さんが何かを懇願するような目で見てきた。俺も何故今まで彼女を気にかけてこなかったのか、少し後悔していたところだった。
 何度も彼女と二人でいるところを見かけていたのにどうして気に止めなかったのだろう。俺は彼の執事だというのに。見習いだけれど。
 いつも気にかけていたつもりだった、蒼龍様のことは。
 彼が何度も旦那様に見合いをしろと言われ、その都度断わっている姿も何度も見てきた。彼はその時ではないと言っていたが、もしかしたら心に決めた女性がいるのかも知れない。その女性が、もしかしたらその満井先生。
「確かに蒼龍様の奥方となれるか、見定める事は必要ですね」
 蒼井家の執事見習いとして。
 うんうんと嵩森さんも頷き、俺も密かに気合を入れる。今日の学校は目的があるだけ、久々に早く行きたいと思えた。

 そう決意を固めたはいいが。
「怪我しないように気をつけて料理をして下さいね」
 どうも今まで人づき合いというものを学んでこなかった所為か、人となりというものを探るのにどうすればいいのか解からない。満井先生とも個人的に話すことなく授業の半分を終えてしまう。
 俺から話しかけないといけないだろうが、しかし何と話しかけるんだ。
 料理を作りながら悩んでいる間、何だか周りがうるさいと思ったら、俺のテーブルの上にはいくつも見事な料理が並んでいた。鯛かぶとの梅香蒸し、山クラゲのキンピラ、つまみ菜とあわび茸の煮浸し、茄子の田楽、とお吸い物。
「すげぇな、和泉」
 賞賛の声と歓声に口元が引き攣るのが分かった。
「趣味、だ……」
 良い言い訳になっただろうか。
しまった、勉強中の料理を無意識で……しかもこのメニュー嵩森さんに蒼龍様の好物だと言われていたヤツだ。レシピが鞄の中に入っている。俺はまだ執事見習いだから、このメニューは作れても主人の前には出せない。第一俺は料理人じゃないしな。料理に関われても補佐程度。
 クラスメイトの驚愕の視線はこの際無視だ、無視。そう心に決めて、林檎で作った鳳凰を果物盛りの頂上に乗っけた。ちょっと形がいびつなのは修行中の身だから。
「……和泉君、凄いけど、今日のメニューは鯖の味噌煮とほうれん草のおひたしよ?」
 ようやく出来た彼女との会話は、何とも情けないもので、それに追い討ちをかけるように、やっぱり俺が作ったらしいケーキが焼けたというオーブンの鳴る音が聞こえた。
 なんで、そのメニューでこんな材料揃えているんだ……と心の中で嘆くしかなかった。


 まいった。
 千草にチャンスと言われた調理実習は俺が失態を見せた以外はあっさり終わってしまった。
 俺が作った料理は同じグループの奴らが、始末してくれた。おかげで何故か俺は料理人と呼ばれるようになる。俺は料理人じゃない、執事(見習い)だというのに。まぁ、それを気付かれなかっただけまだマシなのか。
 残ったのは、俺の手の中に収まっているカップケーキが一つ。パティシエの勉強をしていた嵩森さん直伝だから、味はそれなりに美味いはず。彼には足元にも及ばないが。
 丁寧にラップに包まれたそれを眺めながら人通りも少なくなった廊下の窓際でため息を吐いていると、中庭で親しげに話している男女が目に入る。蒼龍様と、満井先生だ。
 確かに、傍から見ればそれなりに人目を引くカップルだろう。料理の手並みも悪くはなかったし、生徒にもそれなりに人気はある。
 けれど、俺の脳裡に蘇ったのは、「玉の輿ゲッツ!」と裏庭で一人でキャイキャイ言ってた満井の姿。
 あれさえ、無ければ……。
 正直、執事見習いとしてそんな不純な動機で蒼龍様に近寄られては困るし、嫌だ。彼の背後目当てで彼に近寄ってきた女は今まで何人もいた。そういう女には蒼龍様も目もくれなかったが、今回はどうだろう。
 それを見極めるために俺がこうして奮闘しているんじゃないか。
「秀?こんなところで何しているんだ」
 ってー!!
「蒼龍さ……っ!」
 危うく蒼龍様、と呼びそうになった口を両手で覆うと、彼が少し首を傾げる。そんな彼を小さく「蒼井先生」と呼び直して息を吐く。下にいたと思ったのに、何でいきなり俺の後ろにいるんだか。
「今日、満井先生から聞いたよ。調理実習で秀の腕を見せ付けたそうじゃないか」
 後悔中の事をにこやかに言われ、思わずもう一度ため息を吐いてしまう。そうか、満井先生から聞いたのか。それは深読みするべきなんだろうか。
「いえ、俺はまだまだ未熟者です」
「短時間でそれほどの量が作れれば充分だ。私が君の料理を口に出来る日も近いかな、楽しみだ」
「そんな畏れ多い……」
 癖でその場に跪きそうになったのを、蒼龍様が慌てて止めた。
「秀、ここは学校だから」
 確かに、生徒が教師に土下座をする図など他人に見られたら問題になりかねない。俺も慌てて顔を上げたら、少し身をかがめていた蒼龍様の顔がすぐそこにあった。
 整っている顔だと思う。俺も初めて会った時は一瞬さっそく天国から迎えが来たのかと思ったくらいだ。学校内の女子にも人気がある。
「秀」
 ん?
 そっと彼に肩を押され、抵抗することなく廊下に座り込んだ俺に彼は覆いかぶさってきて。
 ふにょっとした感触が俺の唇に触れ、何かと瞬きをしてすぐにそれは離れた。
「……蒼、様?」
 ぽかんとした顔で彼を見上げれば、彼は少し気まずそうに俺から視線を逸らし、「えーと……」と何を言おうか悩んでいる様子だった。
「ごめんな、秀穂」
「……どうして謝るんですか?」
 何となく今触れた自分の口を指でなぞりつつ、聞いてみた。彼が謝ることは何一つしていないような気がするのだが。
「どうして、っていたいけな子どもに手を出すのは一般的に良くないことだろうし」
「俺って、いたいけな子ども……でしたっけ?」
 今までの自分がやってきた事を思い返したけれど、見た目も行動もいたいけと言われるような部類には入らないと自分でも思う。最近は自粛しているけれど、色々と。
「秀穂は俺から見れば充分いたいけだよ」
 ちょっと淋しげに笑い、俺の頭を撫でてくる彼の言葉には首を傾げるしかなく。
「そういえば、職員室に秀穂のクラスの子達が調理実習で作ったもの持ってきてたけど、秀穂は何か余ったものないのか?」
「え?あ、ああ……あ。」
 そういえば、さっきまで手に持っていたカップケーキはどこに。
 何も持っていない自分の手を見てから、何となく視線を下へ落とすと、中庭のレンガ道にそれがぽつんと落ちているのを見つけた。しかも、それをウチのクラスの篠田と矢吹が見つけ、「あれ?」と二人で何か話しながらそれに向かっている。
「あれ、秀穂が作ったのか?」
 蒼龍様もそれを見つけたようで、それに力なく頷いた。後で嵩森さんに味見して指導してもらおうと思ったのに……まぁ、しょうがないか。
「篠田くーん、矢吹くーん!」
 とか思っていたらいきなり隣りにいた蒼龍様が大きな声で奴らに呼びかけたのに驚いて、思わずその場にしゃがみ姿を隠した。
 彼らも、そんな教師にすぐ気付いたらしく
「あ。あお先生―、もしかしてコレせんせーの?」
 篠田の能天気な声に蒼龍様は頷いた。
「そうなんだ、うっかり落としちゃってな。後でそれ職員室に届けてくれないか?」
「次の休み時間で良いなら良いけどー!せんせ、モテモテじゃん!さっすが!」
 あははははと笑う篠田が何だかとても恨めしい。蒼龍様に対してなんて口の利き方をしているんだ……!
 クラスに戻ったら一発殴ってやろうと心に決めていると
「まぁな。可愛い子から貰ったんだ、羨ましいだろ?」
 って貴方も何を言い出すんだ。
 その軽いやり取りが終了し、こちらを振り返った彼を恨めしく睨んだが、一笑されて終わった。一笑といっても嫌な印象を受ける笑い方じゃない、柔らかい微笑みだ。
「……まさか、アレ食べる気じゃないでしょうね?」
 袋に入っているといっても、地面に落ちたものを口にするわけがないとは思いつつも一応釘を刺しておいたが、彼はにへらっと笑うだけ……って。
「アレを喰う気か、貴方は!!」
「秀穂作ったもの食べた事ないからな」
「当たり前でしょうが、俺はまだ半人前なんですから!大体、地面に落ちましたよ、アレ!」
「袋に入ってたから、大丈夫だろう?」
「それでも、駄目です。嵩森さんに怒られても知りませんよ」
「言わなきゃバレない」
「俺が言います」
「……秀穂、少し嵩森に似てきたな」
 それは俺にとっては褒め言葉なのだけれど、蒼龍様は微妙な表情だった。
「有難う御座います」とニッコリ笑えば、彼はがっくりと肩を落として「本当に似てきた」と額まで押さえていた。


 その後、クラスに戻ってみれば矢吹と篠田が机の上に例のものを置いて、周りの奴らと談笑していた。ってか、お前ら俺が作ったヤツだって気付かないのか。
 少し呆れつつ、でもどうにかしてアレが蒼龍様の手に渡らないように出来ないかと画策してそれをじっと見ていたら、それに気付いた篠田が「何?お前欲しいの?」と聞いて来た。
「……まぁな」
 ここで頷いたら俺の手に渡らないもんだろうかとちょっと期待してみたけれど
「ダメダメ、これ、あおセンセが可愛い子から貰ったヤツなんだって。後で届けに行くんだ。しっかし、あのあおセンセが可愛いっていうなんてどんな子なんだろうな?やっぱちっこくて細くてほわほわーっとした女かな」
 アハハハハと笑うヤツに俺は乾いた笑いしか返せなかった。まさかヤツもこの俺がその可愛い子だとは思わないだろう。思ったら思ったで病院行きを勧めてる。
 しかし、そんな話を聞いていた日向が俺とそのケーキを見比べて首を傾げていた。コイツ、このケーキの出所気付いたな……!
 それを察し、思い切り眉間に皺を寄せてしまうと、何を思ったのか日向がそのケーキを手に取り
「篠田、俺、次の休み時間職員室に用事あるからついでに届けてやるよ」
「お。マジで?んじゃ、頼むわ、日向」
 その一連の行動を遠目からぽかんと見ていたら、俺の視線に気付いたのか日向がにこりと笑ってきた。
 何だ、何なんだ……。


「ほら」
 次の休み時間、日向が行ったのは職員室ではなく俺のところだった。手の上にぽすんとそのケーキを乗せられ、正直唖然としてしまう。
「……なんだ、これ」
「ん?コレ和泉が作ったヤツだろ?さっきの調理実習の時に」
 きょとんとした眼で見上げられ、矢張り気付いていたと知り思いっきり表情を歪めてしまう。ここで素直に礼を言えるような人間になれたら、友人を作るのに苦労していない。
 ただ無言で受け取った俺に、日向は苦笑した。
「でも、和泉も難儀だな」
「……何がだ」
 まさか、執事の事がバレたか?
 ぎくりとしつつ聞き返せば、日向は肩を竦めて
「それ、確かに出来が良いしな」
「……ん?」
 しかし、日向の言いたいことがイマイチ理解出来ず、俺は首を傾げる。すると
「自分が作ったって言って、女子が蒼井先生に持ってったんだろ?折角和泉がその子にあげたのに」
 ………うん?
 女の子ってそういうところ計算高いよなーとうんうん、と頷きながら日向は一人納得しているが……。
 コイツの頭の中では、俺が好いた女子に作ったケーキを渡し、その出来があまりにも良いためにその女子は自分が好意を持っている蒼井先生に自分が作ったと言って持って行った……ということになっているらしい。
 何だろう、この微妙な屈辱感は。
 しかし、変に否定することも出来ず、俺は口元を引き攣らせながら日向の話に頷くしかなかった。
「ま、まぁな……」
「ウチの姉さんもさ、彼氏に俺が作ったケーキ持ってってるんだ。自分が作ったって言って。協力出来るのは嬉しいんだけどさぁ、たまに彼氏さんに悪い気分になる」
 どうやら、日向がそんな誤解をしたのはそんなバックグラウンドがあるからのようだが……お前の姉の事情は正直特殊だと思うぞ。そして彼氏はそんな女と別れろ。
「あ、蒼井先生には俺から言っておくから!」
 とにかく、誤解はあるが日向の機転には助かった。が……それは少々面倒な事になりそうだと一瞬思ったが、蒼龍様がコイツの誤解を察せないわけがない。
「ああ、頼む」
「おう。じゃあな」
 ひらひらと手を振って日向は去り、俺も一息吐く。
「……さて、と」
 取り合えず、俺の手元に戻ってきたわけだし、嵩森さんに試食してもらおう。


 その日、帰ってきた蒼龍様に恨めしげな眼で見られたが、ひたすら気にしないように努めた。


next



次くらいで終わるはずです。