執事の朝は早い。
 この広い屋敷の雨戸を開け、朝食の準備、準備が終わったら主人を起こしに行く。
 頭の中で朝やるべき事を思い出して、今起きるべき時間だと察した。重いまぶたを開ければ障子が白くなっている。
 いつもの朝だ。
 俺の部屋は勿論屋敷の使用人用の部屋で、机、箪笥が一つあるだけの部屋。まぁ、寝るだけの部屋だからこれで充分なのだけれど。布団をたためばそれなりに広い。
 それにしても、今日の布団は何だかとても温かくて気持ちが良い。
 気持ちが、良い……。
 ふと横を見れば、人の顔があった。
 人の顔、人の顔、人の顔…………。
 ああ、そうか……。
 重い頭を持ち上げ、寝癖のついた髪を乱暴に撫でた。
「千草様……人の部屋に勝手に入ってくるのいい加減止めて貰えませんか」
 そう声をかけてすぐに、千草が目を開け悪戯っぽく笑う。これで彼がこうして俺の寝床に入ってくるのは今年に入って19回目。理由を聞けば、トイレに起きて間違えた、寒かった、なんとなく、といつも理由は違う。今となっては理由を聞くこと自体が面倒だ。
「もうちょい寝ていようよ、秀」
 大きな体が擦寄ってきたけれど、それを手で押し返した。
「駄目です。仕事があります。蒼龍様起こしにいかないと」
 俺の朝一番の仕事はそれだ。寝て乱れていた襟を整え、すぐに脱ぐ事になるけれど帯の弛みを直した。
「兄さんなんて放っておいても自分で起きれるって。それより秀、俺を起こして」
 立ち上がろうとしたところをいきなり腰に抱きついてきた千草を無視して、着替えを始めた。いつものことだから、彼を腰に引っ付けて着替えるのももう慣れた。
「千草様はもう起きてるでしょう」
「起きてない」
「返事が出来るってことは起きてる証拠です」
「起きてないって。秀穂がちゅーしてくれたら起きる」
「はいはい」
 袴の帯を強く締めて、仕方無しに身を屈めてその額に口を寄せてやる。金持ちのおぼっちゃんの考える事は良く解からないが、これだけで彼は満足気に笑う。
「じゃあ、俺も秀穂にお返し……」
「それはお断りします」
 何故か俺の口めがけて顔を寄せてくる千草を軽く受け流し、部屋の外に出た。

「蒼龍様」
 雨戸を開けてから障子の向こうで休んでいる彼に呼びかける。だが。返事はない。
 彼は昨晩も遅くまで仕事をしていたらしいから、まだ起きていないかもしれない。
「失礼します、蒼様」
 音をなるべくたてないように障子を開ければ、やはり彼はまだ寝ていたらしい。
「蒼様、朝です」
 そう声をかけると彼はうっすらと目を開けて俺を視界に入れた、と思えばまた目蓋を閉じる。
「蒼様」
 また寝ようとしてもそうはいかない。咎めるように名を呼べば、彼は布団を頭まで被ってしまった。
「昨日、寝たのが遅かったんだ……もう少し」
「いけません。生活リズムの崩れは体調も崩します」
 喧嘩で鍛えた腕では彼の抵抗を抑えるのはまさに朝飯前だ。布団を剥ぎ、「おはようございます」と頭を下げると観念した彼は苦笑しながら起き上がる。
「君には勝てないな、秀穂」
 そして、少し体温の上がっていた手で俺の頭を撫でた。誰にも言った事はないが、実はこの時が結構好きだったりする。
 起き抜けで温かいその手は、初めて出会った時の彼の手に似ているから。
 秋と呼ばれる季節ではあったけれど、冬寄りの時期だった。雪になりきれない雨が陰気に降り注いでいた夜、その日の喧嘩を終わらせた俺はフラフラと街中を歩いていた。
 傘も持たずに、しかも顔に沢山の傷まで作った俺の姿を周りの人間は怪訝な目で見ていたが、それだけだった。誰も俺に声をかけやしない。
 歩くのも面倒になり、路地裏に適当に座り、ぼんやりと雨が降る空を見上げていた。そんな、時だ。
「大丈夫?」
 蒼龍様がそう声をかけて、俺に手を差し伸べてくれたのは。
 一瞬何が起きているのかはよく解らなかったけれど、反射的に握ったその手はとても温かくて泣きそうになった。もしかしたら泣いていたかもしれない。
 そんな俺を彼はこの家に連れてきて、風呂に入れてくれて服も着せてくれて怪我の手当もしてくれて、飯も食べさせてくれた。泊めてくれた。
 その日は色々あって礼もまともに言えなかったから、朝起きたら一番に礼を言おうと心に決めていたのに、雨に濡れた所為で次の日熱を出してしまった。
 蒼龍様が。
 思えばあの日が若干トラウマになっているのかも知れない、ここまで彼の健康面に気を遣うのは。
 礼を言いに行ったら布団の中で死にかけてたもんな……アレには流石に驚かされた。
「蒼龍様、お着替えはこちらに用意しておきましたので」
「秀」
 いつものように一礼し、部屋から出ようとしたところを突然呼び止められ、「はい」と顔を上げれば何か困ったような彼の表情。
「如何いたしましたか」
「いや……その……」
 困惑している彼には首を傾げるしかない。具合でも悪いのだろうか……。
 その額に手を当ててみたが、熱はないようだ。
「しゅ、秀?」
「どこか具合でも?」
「あ、いや……そうじゃなくて……着替え、手伝ってくれないか?」
「良いですけど………」
 そんなことで一体何を戸惑っているんだろう。前にも何度か彼の着替えを手伝った事がある。その時は1人で着るのは面倒な礼服とかが多かったけれど。
 こんな、着物一つ着るのに手を借りないといけないなんて、やっぱりどこか具合でも悪いんだろうか。
「では、失礼しま」
「しゅーう!」
 蒼様の着物に手をかけようとしたところで、突然背中に何かが飛びついてきた……って千草か。
 制服に着替えた彼が、ネクタイ片手に俺の背中に引っ付いてきた。
「何ですか……」
「ネクタイ!結んでよ、秀」
「それくらい自分で」
「出来ないから頼んでるんだろー?兄さんなら1人で着替えられるって!」
 結んでくれないと離れないと言いたげに腕に力を込めてくる彼に、負けた。首が絞まって死んでしまいそうだったから。
「すみません、蒼龍様……」
「いい。愚弟が悪いな」
 蒼龍様は笑顔で言ってくれたが、何だかとても申し訳なかった。これがもう3日も同じ事くり返してるんだからな、流石に。
 明日は蒼龍様の着替えを手伝おう、と心に決めながら千草のネクタイを思いっきり締めてやった。

朝の仕事を終え、学校へ行くために準備をし、給仕中には髪につけることにしている髪留めを取っていると、メイドの南さんが近寄ってきた。彼女は俺より二つ上で、この家で仕事をするようになって3年くらいになる。内気な彼女は始めは俺の外見に怯えて近寄りもしてこなかったが、最近ようやく慣れてきてくれたらしい。
「秀君、ちょっといいかな?あ、ご、ごめんねっ?学校行かないといけないの、解かってるんだけど」
 けれど、あわあわと慌てる様子は変わっていない。
「いえ。それで、俺に何か?」
「……最近、蒼様の周りで変わったことないかなぁ?」
「蒼龍様が、何か?」
 俺自身、そんなに意識はしていないのだけれど、俺は蒼様関連になると眼の色が変わる、と周りからよく言われる。今もそうだったのか、彼女は俺の食いつきに一瞬驚いたように目を大きくしたが、すぐに眉を下げて話を始めた。
「なんか、ね?最近、蒼様宛てに手紙とか電話とかいっぱい来るんだけど、手紙は……何か、真っ白い封筒に宛名だけで、出した人の名前が無くて。しかも、切手貼ってないの。電話はね、女の人の声で秘色さんいらっしゃいますか?って毎日来るんだけど、いつも蒼様に繋ぐ前に切れちゃうの。これって……」
 おいおいおいおい。
 彼女のたどたどしい説明に思い切りため息を吐きたくなった。どうしてそんな重要な事を彼女は黙って居たんだろう。じろっと思わず睨んでしまうと、彼女が「ご、ごめんなさい!」と頭を下げた。
「蒼様は、気にしなくて良いから、って。嵩森様にも、秀君にも言うなって仰られて」
「それは」
「間違いなくストーカーだな」
 いつの間にいたのか、嵩森さんが俺の背後に立ち、興味深げに自分の顎を撫でている。突然の登場に南さんが「ひゃあ!」と声を上げ、俺も正直ちょっと驚いた。だけど、彼はそんな俺に一言。
「学校でのあの方の身辺、気をつけてやってくれ」
 初めて、嵩森さんに頼られた。

 ……なんか、執事っぽくなってきたんじゃないか?俺。

 しかし、蒼様にストーカーか。
 何となく感慨深い気分になるのはおかしいだろうか。確かに彼は格好良いと言っても良い部類に入るし、御曹司だし、そういうのがわいて来てもおかしくない。テレビで見たストーカーというのは物凄く陰湿で、嫌がらせを繰り返し、しまいには殺意まで向けてくる人々だったが、そんな人間が蒼龍様を狙っていると考えると……単純にアホだな、と思う。
 蒼井家はSPも沢山いるし玄関や塀には監視カメラがつけられている。蒼様に嫌がらせをする隙間があるとしたら、恐らくこの学校内くらいしかない。蒼様を守れるのはこの俺しかいないということだ。少々不謹慎かも知れないけれど、気合が入る。
 そんなわけで、今日は一日蒼様を影ながらお守りする事に徹底したのだが。
 蒼様は、一人になる時間があまりなかった。
「蒼井先生、調理実習で作ったの、食べてくれませんか?」
「蒼井先生、お弁当作ってきたの、食べて!」
「蒼井先生、授業でわからなかったとこあるんだけどー」
 休み時間になると、蒼龍様の周りには女子の壁が出来、俺でさえその姿を見ることは叶わなかった。すげぇな……何か。これじゃ、ストーカーも近寄れないだろう。あの中にいるとしても、皆いる前で何か出来る訳がない。まぁ、まず学校内にいるとも限らないけどな。
 昼は、家庭科教師の満井という女教師と談笑していた。今、この放課後も。
 それを教室の窓から見て、彼に何の異常も降りかかっていないことにほっとした。しかし、今日は随分と彼女と一緒にいるなぁ……。
「あ。みっちゃん先生とあお先生じゃん。あの二人付き合ってるって噂、マジなのかなー」
 ……。
 クラスメイトが窓の外を覗き込んで話していたことに、俺は一瞬思考が固まった。
 蒼様と、あの女が?
 満井という女教師は、歳も蒼龍様と近い。確かに、見ようによってはお似合いカップルに……見えるかも知れない。あ、笑ってる。
 職員室前の廊下で、満井先生がグロスに濡れた唇を上げて笑い、蒼様もそれに答えるように微笑んでいる。
 ……。
 二人が別れた後もしばらくその場所から目が離せなかった。
 蒼様に、恋人?
 ストーカーの件なんてもう吹っ飛んでしまっていた。いや、確かにあの年齢なら恋人の一人や二人いてもおかしくはないのだけれど……むしろ、いない方がおかしいか。
 鞄を持ち、色々と考えながら帰路に立つ。取り合えず、ストーカーの件もあるから、蒼様とは今日一緒に帰るようにと嵩森さんからは言われているから、学校内のどこかで時間を潰して……。
 と、色々考えながら裏庭近くの廊下を通った時だ。
「玉の輿ゲッツ!!」
 突然飛んできた声にはっと振り返ると、裏庭の松の木の下には、さっきまで蒼様とにこやかに話していた満井がそこにいた。
 って、おい……お前。
 きゃーっと天に向かって拳を突き上げている彼女の本性を、うっかり垣間見てしまった俺は一体どうすればいいんだろう……。唖然としてしまって、その場から動けなくなってしまった。
 どこからともなく聞こえてくる野球部の声が、何だかとても虚しく聞こえる。
 玉の輿、確かに玉の輿だろうけど……。
「秀穂?」
 職員室前の廊下で、生徒と話していた彼がこっちに顔を向けにこやかに笑う。その生徒は頭を下げて、帰って行き、蒼様はそれに手を上げてあいさつしてから俺の方にやってきた。
「どうした、こんな時間にここに来るなんて珍しい」
「いや……その」
 聞きたいことは沢山ある。
 あるのだけれど。ストーカー、満井、玉の輿ゲット………一体何から切り出せばいいのか。
 俺の困惑する顔に彼も首をかしげ、ああ、俺から何か言わないといけないってのは解かっているんだけど。
「蒼さま、あの……」
 カキン。
 野球部のバッドが硬球を打ち上げたいい音が聞こえてすぐに、「あーっ!」という悲鳴に近い声が耳に届き、蒼様もそれが聞こえたらしく後ろを振り返り、俺は彼の後ろの窓のすぐ近くまでに硬球が飛んできているのを見て反射的に動いていた。
「危ない!」
 目の前の体を突き飛ばしてすぐに硝子が割れる音が廊下中に響き、体と顔に鋭い痛みを感じた。それでも、飛んできたボールは避けたつもりだったのだけれど、壁でバウンドしたそれが背に当たり、思わぬ痛みに息が詰まった。
 おいおい、これってまさかストーカーの嫌がらせか?と考えてしまったけれど、こんな偶然あって堪るか。
「秀穂!」
「今の何の音だ!」
 蒼龍様が俺を呼ぶ声と職員室から教員が出てきた音が重なり、そこでようやく目を開けた。目の前には割れた窓ガラスと、足元にはその破片。と、少量の血。それが俺の腕から滴り落ちたものだということはすぐ気が付いた。傷より、どっちかというと背中の方が痛いんだけどな……。
「お前ら危ないだろうが!」
 割れた硝子越しに、下で野球をやってた奴らに怒鳴る。ここは校舎近くだから野球やっちゃいけないはずなのに。すると彼らは俺の顔を見て慌てたようにして逃げ出した。近所のガキか。
「秀……」
「あ、お怪我は……っと」
 周りに騒ぎを聞きつけた教員や生徒がいるのに気付いて、俺はそこで止めた。彼らはまず窓の惨状を見てから、俺と蒼龍様、それと転がっているボールを見て状況を判断し
「大丈夫ですか、蒼井先生。和泉、お前は保健室に行きなさい」
 まぁ、それが正しい。
 理事長の血縁者である彼を気遣うのがまず先だろう。でも、蒼様に怪我が無くて本当に良かった、彼は一度血が出たらなかなか止まらない人だから。
 保健室か。包帯と消毒薬くらいなら借りてもいいか。
 無言でその場を去ろうとしたら、いきなり蒼龍様に手を掴まれる。
「蒼井せんせ?」
「保健室だ」
 そう言って、彼は俺を肩に抱え上げた……ってちょっと!俺一応170ちょいあるんですけど!
「一人で歩けます」
「駄目」
「蒼様」
「文句言うならお姫様抱っこするぞ」
 ……それは嫌だな。
 流石にそう言われると黙るしかない。大人しく肩に担がれた俺は、保健室のベッドの上に下された。ぽふっという間抜けな音に少し茫然としていると、消毒薬やらガーゼやら絆創膏やら片っ端から持ってきた蒼龍様が隣りのベッドに座り、向かい合わせになる。
「秀穂」
「はい?」
「どうして、俺を庇ったんだ」
 ん?
 質問の意味が解からず、俺は思わず首を傾げてしまう。
「俺が、執事見習いだからですけど」
「学校では違う。俺は教師、お前は生徒。お前は俺に庇われる立場なんだ」
 言い聞かせるように口調を強くして言う彼の言いたい事は解からないでもない。しかし、だ。
「でも、俺は執事見習いですから。それに蒼様のお体のことを考えれば妥当な判断だったかと」
 彼は一度血が出たらなかなか止まらないという体質で、少しの傷も油断が出来ない。もし今の俺の体に付いたくらいの傷が彼に出来ていたら、救急車を呼ばないといけなくなっただろう。
「秀穂……」
 彼は少し困ったように眉を下げ、消毒液のついた脱脂綿を俺の顔に押し当ててきた。痛いのは多分そこに傷があるから。
 それに少し眉を寄せると、彼の方が痛みを感じているような表情になる。とにかく、優しい方だ。
「そんな顔されないで下さい。俺はこれくらい慣れてますか、ら……」
 とん、と軽く肩を押され、突然の事に目を瞬かせると背はベッドに柔らかく迎えられた。
「蒼さま?」
 っていうか、主人の前で寝転がるとかすっげぇ失態じゃないのかコレ。
 はっとして慌てて起き上がろうとしたけれど、それが出来なかったのは、突然彼の顔が物凄く近くに来たからだ。吐息が触れそうになったこの距離に、思わず息を呑むと、彼は小さく微笑み、俺の額に口を寄せてきた。その感触に思わず肩を震わせてしまう。いや、そう来るとは思わなかったから。
「あまり心配をさせるな……」
 困ったように笑う彼に、思わず「すみません……」と小さく答えると、今度は唇に柔らかいものを感じた。
 ……あれ。
 千草を起こす時に額やら頬やら手やらあちこちにキスされたが、口は初めてだな。これも、アレか、親愛と謝礼の証ってヤツなのか。千草曰く。
 秀穂は俺を起こしてくれただろ?だから俺はありがとーって意味で秀にちゅーしてるの!
 そう言った千草の言葉を思い出して納得する。
 そうか、これは蒼さまが庇った俺に感謝しているって意味なのか!
 俺は基本的に人付き合いというものをしてこなかったから、知らなかったが。そういえば昨日メイド達が見ていたドラマでも、自分を危機を助けてくれた男に女性がキスをしているシーンがあったような。
 なるほどな。
 彼の行動を納得したところで、顔を上げた蒼さまと再び眼が合う。
「俺にこうされるのは嫌か?」
 少し戸惑いながら聞く彼には、首を傾げるしかない。
「どうしてですか?」
 だってこれは謝礼の行為だろう。
「俺は、嬉しい……ですけど」
 感謝をされて嫌だと思う人間は基本的にいないだろうし、相手が蒼様なら尚更だ。
「それは、本当か?」
 何故か驚いたように目を大きくした彼に、何でそこまで驚くのか不思議だったが頷いた。
「秀穂……」
「はいはいはいはいはい何やってんの、先生」
 蒼さまが何か言おうとした時、カーテンが引かれ千草が顔を出した。しかも、どこか不機嫌な表情で。
 蒼さまが覆いかぶさるような姿になっていたのを冷めた目で見て、無理矢理その体を押しのける。容赦ないその力に、蒼様は眉を寄せる。
「千草……」
「先生、他の先生が探していましたよ?つーか、俺の執事に触らないでくれませんか?」
 にっこりと笑う彼の言葉に思わず身を起こしてしまう。何で、俺が千草の執事になってんだ。
「千草様!どうして俺が貴方の」
「将来的にはそうなる。だって、ただの学校の教師に執事なんて必要ないだろ?」
 ハッと鼻で笑いながら彼は言う。確かに、それは最もだけれど。
「でも俺は……」
 蒼様に恩義を持っているわけで。
 ずっと、彼に恩を返すことしか考えていなかったのに、千草の執事になっちゃそれが出来ない。
 俺のそんな考えを読んだかのように、千草はため息を吐いた。
「何言ってんだ、秀穂。お前を助けるのに使った金は全部蒼井のだ。兄さん個人のじゃない。お前は、兄さん個人じゃなくて、蒼井家に恩義を感じるべきなんだよ」
「それは」
「秀穂」
 静かな蒼さまの声に俺は言いたい事を止められ、彼を見ればただ、微笑まれた。
「千草と帰りなさい。私は今日少し遅くなると嵩森に伝えてくれ」
「蒼さま」
 止める間もなく保健室から出て行く彼を見送ってから、俺は思わず千草を睨みつけていた。
「……何?」
 それに彼も文句があるならかかって来いと言うような視線を返してくるが、まさか上司に殴りかかることなんて出来るわけがない。
「何でもない」
「嘘。言えばいい、秀穂」
 挑戦的なそれに乗らないほど、俺も大人じゃなかった。
「俺は、俺が仕えるのは蒼さまだけだと……!」
 心に決めている。
 だから、蒼さまがあんなどこか淋しげな顔をするのは嫌だった。例え彼の実の弟だとしても、彼にそんな顔をさせるのは許さない。
 そう、色々言いたい事はあったのだが。
 そう言おうとした口は千草の口で塞がれた。
 あまりのことに唖然としていると、彼はニヤリと笑って
「言わせないけどな」
 おい。なんだ、それ。


「わー、秀ちゃん今日も凄い顔だねぇ」
「今日も喧嘩?喧嘩?勝ったの、負けたの?」
 執事見習いやメイドたちが体のあちこちを怪我した俺を囲み、どこかキラキラした目で怪我をした俺を見た。こいつらは何故か人の怪我に興味津々だ。こういう人種が今まで周りにいなかったから、そうしたスリルに枯渇しているとかなんとか。だから、いつも喧嘩をして怪我をすると、目を輝かせて寄って来てその話を聞きたがる。悪趣味な。
「……今日は蒼龍様をお守りしただけだ。喧嘩じゃない」
 ブスッとした顔で答えると、何故かいつもより反応が凄かった。
「何何何、蒼龍様誰に狙われたの!?」
「すっごい、秀ちゃんヒーローじゃん!」
 うるさい、耳元で叫ぶな。
 思わず両耳を塞いでそのやかましさを訴えていると、嵩森さんが彼らの襟足を掴んで俺から引き剥がしてくれた。
「狙われたんじゃなくて、事故だったそうだ」
 事故、という単語に、一体何を想像していたのか不謹慎な使用人達は一気に興味を失ったように散っていく。何なんだお前ら。
 それに茫然としていると、千草から話を聞いたらしい嵩森さんが俺の肩を叩く。
「よくやったな、秀穂。今日は早めに休め。後の仕事は私がやっておくから」
「嵩森さん……」
 彼の気遣いが心に滲みる。なんと言うんだろう、じーんと来た。いつも思っているけど、この人は根は優しい人だ。そして、まともな人だ。
「嵩森さん、有難う御座います!」
 この人は少し俺より背が高いから、背伸びをしてその口に自分の口を重ねた。その瞬間、周りの空気が凍ったのは気のせいだろうか。
 っていうか、嵩森さんが凍ってる。
「嵩森さん?」
 おーい、と彼の目の前で手を振ってみたけれど、反応は無かった。
 何なんだろう。


 後から聞いた話だけれど、その夜蒼龍様と千草が二人、正座をさせられ嵩森さんに2時間も説教をくらっていたらしい。内容は知らないが。
 俺は次の日、嵩森さんからむやみやたらにキスはするなと言われた。でも、謝礼の意を表すのにはこうするんじゃないのかと聞けば、ため息を吐かれてしまった。本当の意味はまだよく解からないが、謝礼の際にするというのは違うらしい……。
「お前、私にした時嫌だと思わなかったのか?」
 嵩森さんには呆れたように問われたが
「いや、特に。あ、少しかさかさしてましたけど、乾燥してます?」
 そう言ったら深いため息を吐かれてしまった。
 ……まぁ、良い。学校帰りに薬局寄ってリップクリームでも買って帰ろう。

 ……あれ?そういえば、ストーカーはどうなったんだ?


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