「君は、誰?・・・・・・俺は、誰だ?」

 不思議そうな彼の顔を見て、さっきまで感じていた焦りが吹っ飛んだ。
 それどころか、チャンスだと思った俺は、救いようがないほど嫌な人間だったかもしれない。
 不安げな彼の眼に、俺はなるべく優しい表情を浮かべて、ゆっくりと口を開いた。

「俺はね、お前の恋人だよ」



しろつめくさの咲く頃に




 チャイムが鳴り、今日一日の授業が終わる。
 一気に教室中が開放的な空気になり、俺も思わず肩の力を抜いていた。
「国枝、これから飲みに行くんだけど一緒に行かないか?」
 高校からの付き合いの梶が誘ってきたが、苦笑してそれを断る。
「悪い。俺、智也と約束してるんだ」
 今日は同居人が珍しく家にいる。その同居人の顔も知る梶も「ああ」と声を上げた。
「何、白柳のヤツ彼女と別れたのか」
「違う。彼女が今ゼミの研修旅行でいないんだって」
「だからって国枝がアイツの相手しなくたっていいだろ。付き合えよ、たまには」
「んー、悪ィ、また今度」
 俺は不満げな梶に手を振って、講義室から早足で飛び出した。
『裕真、暇だしどっか遊びに行かないか?』
 その日、珍しく智也がそんなメールを送ってきていた。だから、梶の誘いに乗るわけにはいかなかった。
 俺と白柳智也はいわゆる幼馴染みというヤツで、幼稚園から今の高校まで共に過ごしてきている。
 高校を出て、お互い親から離れてみたかったというのもあり、県外の大学を受け、学校は違うものの、一緒にアパートに住んでいた。
 いわゆるルームシェアというヤツで、俺の親も「智也君と一緒なら」と了承してくれた。
 俺も、智也との二人暮らしは正直嬉しかった。
 同じ時を歩んできた幼馴染みに俺は気が付いたら恋をしていて、自覚した高校の頃からずっと智也だけを見ていた。けれど、気付かれてはいけない感情だったから、ひた隠しにして智也の隣で笑っていた。
 そんな俺の努力で智也は俺の気持ちに気付くことなく、女の子との普通の恋愛を楽しんでいた。俺が知る限り、7人の女の子と付き合っている。智也は格好良かったしバスケなんてモテる部活にも入っていたから女に困ったこともないだろう。
 時にはそんな恋愛相談に乗りつつ、時には「お前、誰か紹介しようか?」と心配されながら、良い親友を演じてきたつもりだ。
 その関係は一生変わらない。智也の側にいられれば、それでいい。
 ずっと、そう思っていた。
 今、智也が付き合っている彼女とは3ヶ月目に入っていてラブラブだ。今では俺と過ごす時間より彼女と過ごす時間の方が多い。夜だって、帰ってこない事がしばしばだった。
 けれど、今その彼女がゼミの研修旅行に行っている為、智也は俺を珍しく遊びに誘ってきた。
 待ち合わせの駅には既にアイツの姿があって、俺は手を振って彼に近寄った。
「ったく、俺はお前の暇つぶしかよ?」
 嬉しい誘いだったけれど、ちょっと不機嫌ぶって答えると、智也は身を起こしながら苦笑する。
「ごめんごめん、今までずっとほったらかしだったもんなー?機嫌直せよ、裕真。お詫びに夕飯おごるから」
「・・・・・・ふーん、なら付き合ってやるよ。フルコースな!」
「げ。俺そこまで金無いし」
 夕飯に誘われた振りをして、俺は久々に智也と一緒に外に遊びに出た。冗談なのに、本気で慌てる彼に思わず笑ってしまう。
 そんな些細な事が嬉しくて、俺は物凄く浮かれていた。
 たまに、こんな日があるだけでいいんだ、俺は。
 昔みたいに二人だけで適当にぶらついて、くだらないこと話して、馬鹿なことで大笑いして。
 アーケードの中にあるアクセサリーショップの前を通ったら、智也の歩きが止まる。
「智也?」
 ガラスのショーケースの中に入っているものに、彼は目をやっていて俺もそれを見た。
 四つ葉のクローバーをモチーフにした女性用の小さな指輪。
「奈津実に似合いそうだなぁ」
 智也がぽつりと呟いた名前に、胸が少し冷えたのが分かる。今の智也の彼女だ。大学で出会ったらしい。一度だけ会ったけれど、結構美人な子だった。
「確かに越河さんには似合いそうだな。そんなに高く無さそうだし、買っちゃえば?」
 このバカップル、と笑いながら言うと智也は照れたように笑う。
 そうするか、とあっさりヤツは言って店の中に入っていく。それに付いていく勇気は流石になかった。
 くるりと後ろを振り返ると、さっきから智也をちらちら見ていた女の子達が一斉に視線をそらした。まぁ、智也格好いいけど、彼女持ちだよ?と心の中で呟いて、まだショーウィンドウに入っていた指輪を見つめる。
「お待たせ、裕真」
 カランというドアの開閉音と共に、上機嫌で智也は帰ってきた。お帰り、と笑顔で迎えて再び歩き始める。
「そういや、裕真、正月実家に戻る?俺んとこ、電話来てさぁ・・・帰って来いってうるせぇの」
「俺は帰るよ。てか、何で今実家の話?」
 正月まではまだ時間があるというのに。去年は確か大晦日に「帰る?」という会話をした覚えがある。珍しく気が早い。
 智也は、さっき買った店の袋をあげて
「お前ん家の裏にいっぱい生えてただろ?コレ」
 ああー・・・・・・。
 俺の実家の裏は、小さな丘だった。子どもには良い遊び場で、俺は智也と夕飯まで良くそこで遊んでいた。時期がくると白詰草の花が沢山咲く。そして、三つ葉が敷き詰められる。
 そこで一度智也が珍しい四つ葉を見付けた事があった。うらやましがった俺に、智也はそれを渡してくれた。
 ねーちゃんが言ってた。これ、持ってると幸せになるんだって。
 お前にやるよ、と幼い笑顔を向けられて物凄く嬉しかったのを覚えてる。今も押し花にして持っているくらいには。
 実際、貰った日はそれを食卓の上に放置してその存在を忘れていたのだけれど、高校の時にアルバムに挟まっているのを発見した時からの宝物だった。母親が珍しいからと取っておいてくれたらしい。この時ほど母親に感謝した時はない。
「そういや、俺一度お前に四つ葉あげたよなー覚えてるか?」
 智也の突然の言葉には正直吃驚した。同じ時のことを考えていたらしい。
「そうだっけ?」
 でも、とぼけることしか出来なくて。
「あ。お前その様子だと捨てたな、すぐに。ひっでぇヤツ」
 智也は苦笑して、俺も笑いながら謝った。まさか、机の引き出しに入っているなんて言えるわけがない。
「俺本屋行ってくるわ」
「あ。俺も」
 二人で本屋に入っても俺と智也じゃ行く先が違う。智也は多分好きな作家の新刊目当てで小説コーナーへ。俺は、料理の本のコーナーへ。
 男だから女性ばかりいる場所に行くのは最初とても勇気がいったが、今ではもう慣れた。
 二人暮らしをするようになってから、飯を作るのは俺の仕事だった。外食が基本的に苦手な体質だったから、金もそこまで無いし自炊しようと始めたことだったけれど、今ではすっかり趣味の一つに。
 いや、意外と面白いんだ、料理って。
「お前また料理か」
 用を済ませたらしい智也がちょっと呆れたように言うけれど、俺は一冊手にとってレジに向かう。
「いいだろ、好きなんだから」
「ま、同居人が料理上手だと俺が楽でいいけどな」
「最近飯時に帰ってこないヤツがよく言うよ」
 誰の為に、料理の上達を心に決めたと思ってんだ、馬鹿。
 心の中で呟いたところでコイツは気付いてくれない。
「あー、ごめんごめん。でも、時々お前の料理マジ喰いたくなる時があるんだ。奈津実よりお前の方が料理美味いし」
 笑いながらいうその言葉で、どれほど俺が動揺するかも気付いてくれない。
「お世辞言ったところで何もでねーよ」
「お世辞じゃねぇって。んで、何喰いたい?裕真が好きなもので良いけど」
「だから、フルコース」
「お前、それは無理だって・・・・・・」
 本屋から出て、照れ隠しに視線を外の風景に滑らせると、大通りにふらふらと走るバイクが目に入った。
 危ないな、と思ったその瞬間だった。
「裕真、危ない!」
 どん、といきなり突き飛ばされて俺は思いきり背中をコンクリートの地面に叩き付けた。誰かの悲鳴が聞こえる。
 何?と顔を上げようとして、ガシャンと何かが壊れる音と、俺の目に俺とは反対の方向で倒れている智也の体が映る。
「智也!」
 救急車の音がするまで、俺はその場を動けなかった。

 バイクの男は酔っぱらい運転で歩道に突っ込んできた。
 ヘルメットを被っていた男は軽傷で、俺を庇った智也は頭を打ち意識が戻らなかった。
 俺は何を考えても嫌な方向しか考えられなくて、病院の待合室で抜け殻になっていた。
 智也が死んだらどうしよう。
 智也がいなくなったら、どうしよう。
 病室に入って見た智也の顔は真っ白で、まるで死人のようだった。額に巻かれた包帯と、頬に貼られたガーゼが痛々しい。
 俺も手の平と腕に軽い擦り傷を負っていたが、そんな痛み全然感じなかった。
「君も怪我をしているじゃないか。消毒するからこっちに来なさい」
 智也を診てくれた若い医師が俺の肩を掴んで病室の外へと誘うが、俺は首を横に振ってそれを拒否した。
 見ていないと、智也が本当にどこか行ってしまいそうで怖かった。
 それに医師の肩が下がるのが見えたが、俺はずっと智也を見ていた。
 お願いだから、早く目を開けて欲しい。
 その願いが通じたのか、朝日が病室に入り始めた頃、智也が目を開けた。
「智也・・・・・・!」
 彼は、ゆっくりと周りの状況を眺めて、一言

「君は、誰?・・・・・・俺は、誰だ?」

 医者の話によると、衝撃による一時的な記憶喪失、らしい。 
 他に目立った外傷は顔の擦り傷程度で、その日一日智也は入院して次の日には退院することになった。
 記憶は何かの切っ掛けがあれば戻るだろうと。脳に異常はないと。
 その説明を不安げに聞いていた智也と病室に戻り、俺しか頼る相手がいない状況の彼に、心がざわめいた。
 これは、チャンスなんじゃないか。
 何年、お前に苦しい恋をしていたと思っているんだ。何回、他の女と付き合うお前の背を眺めたと思っているんだ。
 今までひた隠しにしてきた気持ちが心をじわじわと浸食する。
 今、彼女はいない。智也は彼女のことを忘れている。
 今、智也を支えられるのは俺だけ。 
 でも、もし智也が記憶を取り戻したら、俺と彼の関係はきっと終わってしまう。親友でさえいられなくなる。
 それでも、俺は思わず言っていた。

「俺はね、お前の恋人だよ」

 その瞬間の智也の表情は、忘れられない。
 戸惑いと困惑の顔は、きっと俺が告白したらこんな顔をするんだろうなって顔だった。
 俺は早速後悔していた。
 冗談だ、と今なら笑い飛ばせる。
 笑え。
 笑え、俺。
 笑って、冗談だと言わないと。
 でも、顔の筋肉が硬くて笑えない。
「智」
「そ・・・うなのか。ごめんな、忘れて。好きな相手の事忘れるなんて、最低だな俺」
 智也は、訂正しようとした俺のか細い声を聞かずに、心底済まなそうに笑った。
 何度も近くで見た、智也の笑顔だ。
 これが俺のものになるのだと思うと、さっきまでの後悔が吹っ飛んでしまった。最低なのは、俺の方だ。
 何も知らない智也は、優しく笑う。
「名前、教えてくれるか?」
「国枝、裕真・・・・・・裕真」
「裕真か。何か、何度も呼んだ覚えあるかも」
 智也は、何も知らずに嬉しそうに笑う。
 当たり前だ、俺とお前は幼馴染みなんだから。
 あっさりと俺の嘘を受け入れた智也が、恨めしかった。
 何で、男同士なのに、とか、嘘だろ?とか、そういう台詞を言わないんだよ。そう言ってくれれば、俺にもまだ逃げ道があったのに。
 あのクローバーの指輪が入った包装袋を強く握りしめた俺の目から、涙が落ちたのはその時だった。
「裕真?」
「なんで、忘れちまったんだよ・・・・・・!」
 その悲痛な声は、きっと智也には恋人に忘れられた人間の嘆きに聞こえただろう。
 でも、これは俺の自分の軽はずみな行動への後悔と自己嫌悪の呻きだった。

 智也が優しい奴で、人を疑わない人間だってことは、俺が誰よりも知っていたのに。

 俺は自ら、今まで築いてきたものをたたき壊してしまった。



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