『ひーちゃん、ひーちゃん』
駅のホームで大泣きする自分。
誰かが優しく頭を撫でてくる。この大きな手が凄く好きだった。
『ひーちゃん、行っちゃやだぁ』
涙ながらに訴えても無駄だという事はどこかでわかっていたけれど、言わずにはいられなかった。
後ろから父親に窘められても彼に抱き着いて離れようとしない自分。
こんなことをしたら彼が困るのは解っている。でも
『要』
俺、また来るから、と彼は微笑んだ。
『ほんと?ずっとオレといっしょにいてくれる?』
自分の必死の問いに彼は苦笑しながら頷く。
そこまでなら、綺麗な思い出で済むのだけれど。
『じゃあ、おおきくなったらおれをひーちゃんのおよめさんにしてね!』
男同士が結婚できない事を知るのはそれから1年後の事。
要は元々寝起きはあまり良くない方なのだけれど、今日はさらに気分が悪かった。
幼い頃の過ちを思い出してしまったからだ。
今はもうひーちゃん、という名前しか覚えていない相手だけれど、あの頃は本当に彼に懐いていた。
嫁とか結婚とかそういう意味がよく解っていないあの時、『お嫁さんっていうのはね、好きな人と一緒にいる為になるの』という当たらずとも遠からずな知識を使って自信満々にプロポーズ。
相手は男。
自分だって男だ。
本来男がなるのは『婿』で女性のみ『嫁』になれると知ったのはそれから1年後のことだ。
何で男の子だとお嫁さんになれないの?
そんな幼い子供の問いに父親が困ったような顔をしたのを覚えている。
で、それから結局“ひーちゃん”と会うことは無かった。
そう、この歳になるまであれから一度も。
「久我さん、朝ですよ」
朝食を律儀に作り終え、自分は完食してから彼の部屋の扉をノックする。
彼を起こすタイミングがいつもココだから彼と朝食を共にしたことはない。
「くーがーさーんー」
乱暴にノックしても返事が無い。
一瞬見捨てて学校へ行ってやろうかとも思ったが、彼に働いてもらわないとこの家に住めなくなる。
昨日女性の甘い声が聞こえなかったことを思い出し、ノブを回した。
カーテンで遮られた朝日を部屋に入れ、ベッドでまだ寝息をたてている彼に近寄った。
いい気なものだ。こっちは朝から早起きしてわざわざ朝食を作ってやっているというのに。
美形は寝顔も美形だ。油性マジックで落書きしてやりたくなるほど完璧な。
そして、どことなく見覚えのある顔でもある。
そう、自分の僅かな記憶が正しければ、彼は幼き頃の自分の憧れ“ひーちゃん”だ。
初めて会った時に気が付いては居たのだけれど言う前に彼の本性を知り、懐かしい思い出は葬り去りたい過去に早変わりした。
でも。
日月のベッドの下には昨日の書類が散らばっていた。
それを何となく集めながら紙に書かれてある字に眼を通す。
自分にはよく解らない文字や言葉の羅列。多分、遅くまで彼は仕事をしていたのだろう。
どうして自分が大体の準備を終わらせてから彼を起こしに来るのか、この人はわかっているのだろうか。
『ずっとおれといっしょにいてくれる?』
小さい頃の自分の問いが脳裏を過ぎり、寝ている日月に視線をやる。
「・・・・・・ひーちゃん」
どうして俺を引き取ってくれたの?
素朴な疑問。
まさか本人に聞けるわけもなく、心の中で呟くに留めておいた。
悪態はついていても、何となく彼と過ごしている大きな理由。
ま、今更どうでもいいんだけどね。
自己完結をしてまとめた書類を机の上に置いてやる。
そこに置かれているシンプルなタイプの目覚まし時計の針は7時を指していた。
最終手段はスイッチオン。
「久我さんー、7時―」
ジリリリリとけたたましい音をたてる目覚ましを彼の耳に近づけると流石の彼も驚いたらしく飛び起きた。
「うわ、要!その音止めろ!嫌いなんだよ!」
「・・・・・・だったら何でコレ買うんだよ」
スイッチを切るとリン、と名残惜しそうな音をたてて音は止んだ。
「そういう脳に直接振動を与えてくるような音を聴くのは脳に悪い。拷問法にだって適応されているんだからな」
不快気に彼は文句を言ってくれるが、こちらから言わせて貰えば起きないヤツが悪い。
「じゃあ、久我さんいつもどうやって起きているんだよ」
聞いた自分が馬鹿だった。
「そりゃ勿論、一晩を共にした相手のキ」
「じゃあ俺学校行って来るから」
みなまで聞かず部屋から出た。
小さい頃は純粋に好意を持てた相手なのに、変われば変わるものだ。
はぁ、とため息をついて玄関から出ようとした時
「要」
後ろから彼の声が。
「何だよ、くだらない話は聞かねーぞ」
ちょっとうんざりした気分で振り返ったら
「行って来い」
少しだるそうに壁に寄りかかりながらの、見送りの言葉。
「い、行ってきます・・・・・・」
驚きながらも自然と口から返答がこぼれてしまった。
何なんだろう、この気分。
あれ?と思ってすぐに口元を押さえていた。
「要?」
どうした、と言われたけれどそれはこっちが聞きたい。
眼が熱くて仕方が無い。
たつ、と何かがコンクリートの床に落ちた時抱き寄せられた。
「お前、何で泣いている・・・・・・」
「わかんねーよ・・・・・・」
自分でも吃驚。
そういえば、親が死んでまともに泣いた事は一度も無かった。
自分より大きな相手に抱きしめられる感覚に安堵してしまうのは男として失格なのかも知れないけれど。
「とぅさん・・・・・・」
小さな声で呟いた言葉に日月が苦笑するのがわかる。
「お前、遅くないか?」
「・・・・・・んなことない」
まだあの人達が居なくなって1ヶ月ちょっとしか経っていない。
不意打ちで、見送りの言葉なんて言われて、驚いただけだ。
「日月!ゴメン昨日の書類出来てるか!?あれ今日大至急って大伯父さんが!」
がちゃりと玄関のドアが開けられた瞬間、場の空気がフリーズした。