「へぇー、痴漢する幽霊ねー。面白い話が広まってるね」
「面白くない!」
兄さんの笑いながらの言葉に俺は思わず怒鳴り返していた。
何でこの話が蒸し返されたのかというと、深継が兄さんに話してしまったから。兄さんと彼は前からの知り合いだったようで、結構話が弾んでいたから俺はそれを放っといて夕食の後片付けをやっていたんだけど。
「昔から嫌いだったもんね、蒼生そういう話」
にこにこと笑う兄さんにあっさりと俺が他の人に知られたくない弱点をばらされるし。
「兄さん!深継たちが居る前で変なことバラすなよ!」
思わずクッションを投げつけたけれど兄さんはそれを受け止めながらもくすくす笑う。兄さんのこういうところは可愛くない。
「いーじゃん、もう家族なんだから、ね?深継君」
兄さんが隣りでコーヒーを飲んでいる深継に甘い笑顔で話を振ると、深継は「まぁ」と適当な返事をしていた。因みにそのコーヒーは街中のコーヒーショップで買ってきた豆。それなりに高いやつを選んできた。一人サイドテーブルに置いたノートパソコンでネットをしているらしい誠一郎さんにも同じものを出した。多分仕事なんだろう、俺には良く解からない言語の折れ線グラフをひたすら難しい顔で眺めている。眼鏡をつけた横顔は格好良い。多分兄さんもこういうところに惚れたんだなぁ。
「ねー、蒼生、僕紅茶飲みたい」
同じ社長であるはずの兄さんはとことんお気楽で、俺は彼が家で仕事をしているところを見たことが無い。ていうか恋人なら少しぐらい彼の仕事を手伝ったらどうなんだ、提携してるんだろ、仕事。
「兄さん」
俺がその事を注意しようと思ったら、突然誠一郎さんが、むせた。
「誠一郎?」
「兄貴?大丈夫か?」
突然のことに兄さんと深継がほぼ同時に彼を振り返り、誠一郎さんはそれに片手を上げて大丈夫と答えていたけど、俺は目撃してしまった。彼が押さえている口元が、笑っていた。
この人まだ今朝の話引きずってる。
「兄さん変なこと言ったから駄目」
取り合えず紅茶の話から離れたかったので俺は兄さんのお願いを却下した。俺の珍しい態度に兄さんはちょっと驚いた風だったけど、すぐにむぅ、と膨れた顔をした。あ、ちょっと嫌な予感。
「今晩紅子が蒼生のところに来ても助けてあげないからね」
「う・・・・・・」
それは・・・・・・困るかも知れない。
「って、蒼生そこ悩みどころなのか?」
深継に突っ込みを貰うけれど、俺としては結構悩みどころだ。
「だって紅子が来たら!」
「いや、来ないと思うけど」
深継はアレか、超常現象否定派なんだな。俺も基本的に否定派だけど、ちょっと怖くなる時もあるわけで。
「でも蒼生結構背中が可愛いから、紅子に目ぇ付けられててもおかしくないって」
兄さんは俺を脅すし。
「え、俺背中?背中可愛いってすっげ微妙」
背面美人って、つまりは正面見たらがっかりするってアレか?
どうにも褒められている気がせず、兄さんを縋るようにみたけど、彼は
「えー、でも後ろ姿って結構肝心だよ?うなじとか尻とか。ね、誠一郎?」
「そこで何故俺に話を振るんだ・・・・・・」
それはあれだよ、誠一郎さん、きっと兄さんは自分の後ろ姿を褒めて欲しいんだ。
でも、下世話な会話に辟易したのか、誠一郎さんは呆れたように言ったその一言だけで、その後は何も言わなかった。



っていうか、そんな中途半端なところで話を止めないで欲しかった。

「あー・・・・・・憂鬱だ」
俺はそう呟きながらいつもの満員電車に乗っていた。満員ならもう乗れないはずなのに満員電車って言うんだよな、定員で満ちてもう乗れない状態のはずなのに停まった駅で必ず人が乗ってきて、乗れている。って、んな事はどうでもいいよ。
ガタゴトガタゴト規則正しく揺れる電車に俺は人に揉まれつつ乗っていた、そんな時。
するりと尻辺りを撫でる感覚に体が硬直する。
しばらくは、こんな満員だし、誰かの手が偶然当たっていると思ったけどその手が意思を持って撫で回しているようだと気が付いたら嫌悪感で喉の奥の方が気持ち悪くなってきた。ただでさえ、冬で暖房が入って、更に人の熱気で暑くなっている車内は二酸化炭素が充満していて気分が悪いというのに。
周りの人のおかげで俺は身動きをとる事が出来ず、しばらくは痴漢の思うがままになってしまっていたけれど、ガタンと電車が大きく揺れて、一瞬人と人との間に隙間が出来た。
今だ。
そう思い、その手を掴み手前に思い切り引っ張った。
俺の勝ちだ。
けれど、その勝利からの高揚感も一瞬にして下降する。その手が異様に冷たく、視界に入った腕は、生きている人間とは思えない程青黒い色をしていた。
そして、その指先はマニキュアを塗ったように真っ赤だったけれど、そこに爪はなく、俺の靴の上に血がぽたりとしたたり落ちる。
あ、と思うより早くその腕は俺の手を振り払い、逃がさないというように腰に回って来て物凄い力で後ろへと引っ張ってきた。
がくり、と俺の体は、人が沢山いるから倒れるはずが無いのに、どこかの空間に真っ逆さまに堕ちて行く。

「紅子が来たー!!」

がばっと起き上がると周りはまだ闇だった。
ここはまさか紅子に連れてこられた異次元とかいう場所か!
とも思ったけれど、カーテンの隙間から入る光りは俺のいつもの部屋をぼんやりと浮かび上がらせていた。
あ、何だ・・・・・・今のは夢か。
昔からそうだった。怖い話を聞いたその夜、それに即した夢を見てしまう。ある意味特技だけれど、こんな特技欲しくも無い。
はぁ・・・・・・とため息を吐きながら汗で湿った額を押さえた。こんな夢見るともう一度寝ようという気にならない・・・・・・。
シン、と静まり返った部屋は自室でも不気味で、何だか物凄く怖い。
『紅子が来ても知らないよー』
兄さんが悪い、兄さんが変なこと言うから!
来ても助けてあげない、という言葉を思い出して更に心細い思いに駆られる。
くっそ、17になるってのに幽霊が怖いってどうなんだ俺!
いやでも苦手なものは苦手だし!仕方ないじゃん!?
もう恥も外聞もない、と俺はベッドから出て、部屋の外に出た。
・・・・・・外は人気が全く無くて更に不気味な場所だった。
早く兄さんのところに、と兄さんの部屋の前に立ってドアを小さくノックする。・・・・・・返事は無い。
ノブを回そうとしたら珍しく鍵がかかっていた。酷い、もしかして本気で助けてくれないつもりなのか。
とにかくこの人気のない空間から逃げたくて、次は深継のドアをノックした。・・・・・・返事は無い。
そうだよな、熟睡してるよな・・・。
何だか起こすのも悪くて、俺はすごすごと彼のドアから離れた。
どうしよう・・・・・・。
「蒼生?」
その時、俺の前に救世主が現れた。
「誠一郎さん!」
彼が自室からひょっこりと顔を出し、不思議そうな顔で俺を見る。彼の背後から溢れてくる明かりが俺を心底安心させた。
「どうしたんだ、こんな時間に・・・・・・」
「一緒に寝かせてくださいー!!」
もうこの人しか居ない。俺はもう何も考えず彼の腰に抱きついていた。

「あぁ・・・・・・あの話」
ひとまず廊下よりはほんのり暖かい誠一郎さんの部屋で俺が説明すると、パソコンのキーを叩きながら思い出したように彼は呟いた。まだ仕事をしていたらしい彼は物音が聞こえたから廊下を覗いてみたらしい、俺はそこに救われたわけで。
「こんな時間まで、仕事ですか?」
俺が借りたベッドは体温が全く残っていなくて、彼が今日まだベッドに寝ていないことを示していた。誠一郎さんのベッドはどっかのホテルのベッドみたいで、雲の上に寝てるみたいだ。これ、飛び跳ねたらトランポリンくらい飛べるだろうな、気持ちいい。さすが社長ベッド。
「あぁ・・・・・・まぁ、な」
「すいません、お邪魔して」
「気にしなくていい。全の方がよっぽどうるさい」
「・・・・・・すみません」
兄さん・・・・・・一体どれだけ誠一郎さんに迷惑かけてるんだ。それともなんだ、今のはさり気無い惚気なんだろうか・・・。
さり気無さ過ぎて、解からない。
「何か、兄さん家であんまり仕事してるように見えないんですけど」
今日も仕事してる誠一郎さんの横で俺たちと話をしていたし。兄さん、自分の仕事を誠一郎さんに押し付けたりしてないのかな?
「あぁ、全は会社で全部終わらせるからな、要領が良いんだ。俺とは違って」
「え、そんなことないでしょう。誠一郎さん凄い一生懸命やってるじゃないですか。適当に出来ない性質なの見てれば解かります。兄さんは時々手ぇ抜く人だから・・・・・・」
思わず即座に否定してしまうと誠一郎さんはそこまでフォローされると思わなかったのか吃驚した眼で俺を振り返る。
「あ・・・・・・いや、その」
「蒼生は良い子だな」
何て言おうか迷っていたら布団から出ていた頭をぐしゃぐしゃ撫でられた。
・・・・・・何か照れるな。
「す、すみません・・・・・・」
照れ隠しに思わず謝罪の言葉が口をつき、
「何で謝る?」
と聞かれてしまった。何となく・・・としか答えようが無い。俺は典型的な日本人だと、痛感した。
「深継は俺に甘えてくる事無かったからな・・・・・・何かこういうの新鮮だ」
ぽつりと誠一郎さんは呟いて、軽いため息を吐く。
「そうなんですか?」
まぁ、あの深継が誠一郎さんに甘える姿って・・・・・・確かに想像出来ないけど。
「ああ。腹違いだったしな・・・・・・」
ん!?
同居二日目にて新たな情報を手に入れた。しかも、結構アレな情報を。
俺がコメントに困っていると、誠一郎さんがくるりとこっちを振り返る。
「全から聞いてないか?」
聞いてねぇよ。
兄さんとしては、別に話すような事でもないと思ったんだろうな。きっと。
昼間帯刀が言っていた言葉が蘇る。兄弟が皆仲がいいわけじゃない、と。
でも誠一郎さんと深継は仲が悪そうに見えないし、第一未成年で心配だからって、深継も俺たちと住む事になったんだろ?仲良いじゃないか。
「何か昼ドラみたいですね」
取り合えず考え抜いた末での俺のコメントはソレだった。そしたらまた笑われた。
「別に期待するほどドロドロな話は無いぞ」
「期待なんてしてませんって!」
「解かってる」
本当に解かってるのかな。
そんな不安を残すくらい、誠一郎さんの返事は軽かった。
しばらく話題を失い、誠一郎さんが叩くキーボードの音だけが部屋に響く。
この人が兄さんが選んだ人。
改めてそう思いながら彼の顔を見ると・・・・・・うん、確かにカッコイイよなぁ。人柄も悪くないし、社長だし、兄さんと二人並んでても絵になる。
いいなぁ。
何だか解からないけど漠然とそう思った。
兄さんと二人並んで絵になる誠一郎さんが羨ましいのか、それとも誠一郎さんと並んで絵になる兄さんが羨ましいのか、そこは良く解からないけど多分・・・・・・両方なのかもしれない。
「何か、ちょっと兄さんが羨ましいかも・・・・・・」
そう呟いてすぐに安心した所為か眠気が襲ってきた。ここなら紅子の夢も見ないだろうし。
うつらうつらし始めたらふっと明かりが暗くなるのが解かった。誠一郎さんが気遣って明かりを消してくれたんだろう。闇に誘われて俺はすぐに眠ってしまった。
この包まれるような暖かい安心感は、昔兄さんと一緒に寝ていた時と同じものだ。懐かしい。
兄さんも、もしかしたらそういう風に安心させてもらえる相手を探していたのかもしれない。だから誠一郎さんみたいな人に辿り付いたんだろう。
いい人だから、反対出来ないという理由もある。昼間の深継の問いを思い出し、夢の中でため息をついていた。
ほんと、いい人見つけてきた兄さんが憎らしいよ。


「今年のクリスマスは賑やかになりそうだね」


そうやって幸せそうに笑う兄さんを見たら、反対なんて出来るわけが無い。よっぽど嬉しいのか、カレンダーを毎朝チェックしている。その姿はまるで自分の誕生日を待ち焦がれる子供のようだ。
それを朝食の用意をしながら見ていたら、テーブルの上に置いておいた俺の携帯が震える。音がうるさいからすぐ取って耳に当てると聞きなれた声が鼓膜を震わせた。
「じーちゃん・・・・・・」
こんな朝早くから、元気だなぁ。
思わず疲れた声で応答してしまうと、カレンダーと顔をつき合せていた兄さんがこっちを即座に振り返った。その心配げな目に大丈夫と手を振ってみせる。
ここで4人暮らしになってから、今までまったく俺には音沙汰が無かったじーちゃんが小まめに電話をかけてくるようになった。それもこれも絶対兄さんが誠一郎さんと恋仲になったからだろうけど。
電話の内容は一つだけ。
「だから、見合いなんてしないってば!!婚約もしません!!」
兄さんが結婚出来ないと察したじーちゃんは、俺に狙いをつけてきた、ってわけで。
『お前しかもういないんだ!全は久慈のせがれと・・・・・・お前はそれでいいのか!?それにそこにいるとお前も危な』
「良くなかったら一緒に暮らしてないって。もう、結婚とかは俺まだ考えられないの!」
高校生に婚約とか結婚とかまだ早いだろう。それに俺は自慢じゃないけど女の子と付き合ったこと一度もないんだからな!少しは恋愛してからそういう話をしたいわ!!
勢いでそのまま電源も切って俺は携帯をソファの上に放り投げた。
「総帥から?」
兄さんはその携帯を拾い上げて俺の隣りに座る。それに俺は頷いた。
「ったく、せっかちだよなぁ。高校生に向かって見合いしろーはないだろ」
それに、しても。
何故か、俺のところに電話をかけてくるたびにじーちゃんは「そこにいるとお前も危ない」と訴えてくる。一体どういうことなんだろう。
「ごめんな、蒼生・・・・・・。僕の所為で」
しゅんとする兄さんには慌てて手を振って見せた。別に兄さんを恨むつもりはどこにもない。
「何言ってんだよ、兄さんの所為じゃないって。じーちゃんがおかしいんだ」
「んー・・・・・・僕は総帥が何を案じてるのか分かるからなぁ・・・・・・」
おかしい、とも言い切れない。
兄さんはそう言って苦笑するけど・・・・・・何?
首を傾げてみせると、彼は何かを決意したように俺の顔をじっと見つめた。
「蒼生は、総帥がどうして久慈グループを嫌ってるか、知らないんだよね?」
・・・・・・そういえば、じーちゃんの口から罵詈雑言はいくらでも聞いたけどその理由は聞かされていない。とりあえず、会うな話すなの一点張りで、幼かった俺はそれを鵜呑みにして久慈を恐れていたわけだけど。
うん、知らないと頷いて見せると兄さんはため息を吐いた。
「今の久慈の総帥・・・・・・つまりは深継君と誠一郎の祖父の慶一郎さんがね」
「うん」
「若い時、うちの総帥に懸想していたらしいんだよ」
「は?」
じーちゃん達の時代に合わせているのか知らないけど、随分と昔の表現を持ち出してきた兄さんの一言に俺は眼を丸くした。今はあまり使われないけど、その意味くらいは知ってる。
「それで、ある日ついうっかり我慢出来なくなって、うちの総帥を喰っちゃったらしくって」
兄さんは呆れたように肩を落とすけど、それって・・・・・・それって、オイ。
「無理矢理に近かったから総帥も臍曲げて、久慈なんて大っ嫌いだーって・・・・・・」
「いやそれは嫌うだろ!!」
無理矢理て!無理矢理て!
俺は白髪でまだナイスミドルと言えるじいちゃんの皺の多い顔を思い出して初めて彼に同情した。可哀想過ぎる。
「それでここまでこじれちゃったわけ。んでもね、蒼生、ウチと久慈って結構相性良いんだよ?僕達の父さんと誠一郎たちのお父さんも親友だし、ね?」
それと僕らも、と言いたげに兄さんは笑う。
「僕らは、きっと惹かれあうよう遺伝子に書き込まれちゃってるんだよ。蒼生だって、深継君と誠一郎に会って第一印象悪くなかったでしょ?」
「それはあの二人が一般的にもカッコイイから・・・・・・」
「そうかな?蒼生も奈良崎の遺伝子持ってるからねー。恋しちゃうかもよ?」
にやにや笑いながら兄さんは俺の胸を軽くつついてきた。
恋・・・・・・って。
「無い、絶対無い」
「そうかなぁ?あ、でも誠一郎は駄目だよ」
はいはい、わかっていますって、もう。
兄さんの恋人に恋をして、兄弟仲が不仲になるなんてそれこそ昼ドラ的展開だ。昼ドラ的展開、と書いてありえない展開、と読む。うん、俺としてはなかなか的を射ている表現だ。
もうそろそろじーちゃんも諦めたかな、と思って携帯に電源を入れた。その瞬間に再び手の中で振るえ始めて本当にうんざりする。
ため息を吐きながら見ると、非通知の文字。
またか、と思いながら俺は電源を切った。
「出ないの?」
その動作を見ていた兄さんが驚いたように眼を大きくした。じーちゃんからじゃなかったから、出ると思ったんだろう。でも俺は首を縦に振る。
「最近、何か無言電話多いんだよ」
どこで俺の番号を手に入れたのか知らないけれど、無言電話が最近良くかかってくる。そのうち飽きると思うけど、いい迷惑だ。
兄さんは「ふぅん」とだけ言って、何故か俺ににじり寄ってきた。
「な、何だよ兄さん」
「この間は本当に吃驚したんだからね?」
・・・・・・どうやら話は無言電話から誠一郎さんの話に戻されたらしい。
この間、とは俺が誠一郎さんの部屋で一泊した日の事だ。あの時の俺は恐怖で正常な判断というものを出来なかったんだと思う。兄さんが居るってのに、誠一郎さんの部屋に泊まったのは軽率だった。普通の男同士ならまぁ、許されることだろうけど、兄さんと誠一郎さんが恋人同士という事実があると許されないことになってくる。
「解かってるって。でもあれは兄さんだって悪いんだぞ」
兄さんが必要以上に俺を脅すから。
そういう眼で睨んでやると兄さんは明後日の方向を向いていた。この人は、もう・・・・・・。
はぁ、と諦めのため息を吐いたら、誠一郎さんが濡れた頭をタオルで拭きながらやってくる。シャワーを浴びていたらしい、どうりでいつも朝早いのに姿を見かけないと思った。
「全・・・・・・早いな、珍しく」
誠一郎さんの方はいつもは居ない兄さんの姿を見て驚いているようだった。そりゃあな、俺だって朝起きてちょっと吃驚した。
「クリスマス近いと何かわくわくしてくるからさ」
兄さんの早起きの理由はソレらしい。なんと言うか、兄さんらしい。
「子どもか」
そんな兄さんの返事に心底呆れた、と言いたげに誠一郎さんは肩を竦めた。結構酷い事言われているのに兄さんはにこにこと笑っている。
「うん、子どもだから、誠一郎からのクリスマスプレゼント楽しみにしてる」
「可愛くない子どもだな。だったらサンタにでもお願いしたらどうだ?まぁ、体は大人のお前にプレゼントが来るとは思えないが」
「確か、誠一郎日石の株持ってたよね、それでいいよ」
「プレゼントの内容も可愛くないから却下」
・・・・・・。
何か、仲良いなぁ、兄さんと誠一郎さん。喧嘩するほど仲が良いって言うし。
他人が割り込む隙なんて全く無いように見えた。折角のクリスマスなんだから、二人でどっかに行けばいいのに。
そんな提案を俺が言うより早く、誠一郎さんが「深継は」と時計を見ながら聞いてくる。それを待っていたかのように、兄さんが「じゃあ僕が起こしてくる」といそいそと行ってしまった。
あぁう・・・・・・兄さんちょっと待て。
何て心の叫びが届くわけが無く、兄さんが深継君の部屋のドアを開ける音が聞こえてきた。
実は、ちょっと気まずい思いを一人抱えていたりする、誠一郎さんに。この間、部屋に泊まらせて貰ってから。いい人、だけど。
ちらっと彼を見ると何故か眼が合い、それが更に気まずくてとりあえずにへらっと笑うと、笑み返された。
恋しちゃうかもよ?
そんな悪戯っぽい兄さんの声が脳裏を過ぎる。いや、無い。絶対無い。あってたまるか。
「蒼生は何か欲しいものは?」
「え?」
作りかけの目玉焼きとにらめっこしていたら、声をかけられ顔を上げるとカウンターに肘をついた誠一郎さんが正面に居て心臓が止まりそうだった。
「欲し・・・・・・って、え?」
「クリスマスプレゼント。深継も世話になってるし、何だかんだで家事もやらせてしまってるから」
そのお礼、と彼は言うけど。
兄さんが貰わないで俺が貰うってのは不味いんじゃ・・・・・・。ってか、ああ言っておいてもしかしてこっそり指輪とか用意しておいてるのかな?やっぱり。
「俺は何も出来ないし、何か悪いから・・・・・・」
「そんな事は無い。何でも良いから言ってみろ」
何でも良い、というその言葉に妙に真実味がある。
でも、特に今欲しい物は無いんだよな。一応やっぱり社長子息だから、必要なものはすぐに揃えて貰えちゃうし。
しばらく考えて、不意に浮かんだのはこの間のホテルのロビー・・・・・・の角。
「ケーキ・・・・・・」
「ん?」
「ケーキ食べたい、です」
高いケーキ屋って憧れを感じる。この時期になると新聞に入ってくる折込チラシのケーキのチラシを見るのが好きだ。一度食べてみたいなぁと思いつつも、何だかんだで買うのを諦めていたし。
「あれ、ケーキって蒼生が作るんじゃないのか?」
けど俺の答えが意外だったのか誠一郎さんは俺としても思いがけない事を言ってくる。
「そんな、作れませんよ、ケーキなんて!」
慌てて首を横に振ると彼はまた意外な事を言われた、と言いたげに眼を大きくする。料理とお菓子作りは勝手が違うんだ。
「ああ、ならこうしよう」
誠一郎さんは俺のそんな様子を見て何を思ったのか突然手を叩いて
「蒼生は俺にプレゼントとしてケーキを作る。俺は買ってくる。買ってきたヤツより蒼生のヤツの方が美味かったら、もう一つ俺からプレゼントをやろう」
そんな提案をしてきた。その、面白がっている笑顔は、俺の後ろに現れた人物にも向けられる。
「深継も蒼生と協力してケーキ作れよ。美味かったらお前にもプレゼントもう一つ付けるぞ?」
「あー・・・・・・?」
深継は寝起きが悪い、というのは最近知ったことで、物凄く低い声が背後から聞こえてきて俺はびくりと体を震わせてしまった。でも、兄弟である誠一郎さんはそれに慣れてしまっているらしく表情を変えることはない。
「何言ってんだよ、兄貴・・・・・・ケーキっつーのは職人が作ってこそ」
「良いね、ソレ!僕も深継君たちが作ったケーキ食べたいなぁ〜」
深継の意見はその背後からの兄さんの明るい声にかき消されてしまった。
悔しげな眼で兄さんを睨む深継の姿は哀れ以外の何ものでもない。
俺たちはこの勝手な兄貴達の所為でクリスマスにケーキを作ることを余儀なくされてしまった。


「ごめんな、深継・・・・・・」
「蒼生の所為じゃない、気にするな」
いつものように満員電車を待つホームでほぼ二人同時にため息を吐いてしまう。
兄さんにも誠一郎さんにも困ったものだ。ケーキのデザイン、いっそウェディングケーキみたいなのにしてやろうか?
「でも、最近兄貴何か楽しそうだよな」
ぽつりと深継が呟いた事は俺としては意外でも何でも無いことだ。
「そりゃあ、なぁ・・・・・・」
好きな人と一緒に暮らしてたら誰だって楽しいもんなんじゃないか?
毎日毎日あの二人のラブラブっぷりを見せ付けられて俺は恥ずかしくて仕方が無い。兄さんも毎日活き活きしてるし。じーちゃんには悪いけど、俺はあの二人を応援する。
「そういえば、紅子の話はどうなったんだ?」
「むしかえさないでくれよ、深継・・・・・・」
電車に乗った瞬間にその話を始めた深継を俺は呪ってやりたくなった。
でも、深継のほうは何か考えていることがあるらしく、視線を上の方にやりながら、ドアに片手をついた。
「うちの学校でも、この電車乗ってくるヤツ、居ないこともないんだ」
そして突然何を言い出すのかと思えば、学院の連中もこの路線を使っている、と深継は言う。まぁ、お坊ちゃん学校と言ってもピンからキリまであるだろうから、使ってても不思議じゃない。
「でも、そいつらは紅子の話なんて知らなかったぞ?」
でも、深継が不思議に思ったのはその事らしく。
「そりゃあ、ウチの学校と学院は仲悪いから、話しねぇし噂話が伝わらないからじゃないのか?」
それに、電車通学が少数派なら噂を広めたところでその内容に興味を持つヤツは少ない。
「そんなもんか」
俺の見解に深継は納得していた。
その時がくんと電車が揺れる。毎日乗っている身としては慣れた振動だったから俺は何とも無かったけれど、慣れていない深継は思わぬ人と人との間に挟まれた手を慌てた様子で引き抜いていた。
「っつ・・・・・・」
「深継?」
けれど、あまりダメージが無かっただろうその様子に不釣合いな彼の痛みを堪えるような声に俺は彼を見上げる。深継はその手を庇いながら「何でもない」と苦笑していた。
でも、多分傷が出来たんだな、少し痛そうにしてるから。
「深継、これ」
鞄の中から絆創膏を一枚取り出して、俺は怪我をしていない方の手に握らせる。どうせ学校に行けば保健室もあるだろうから、それまでの応急処置だ。
俺も降りる駅がすぐだった、ってのもありそれだけ渡すことしか出来なかったけど、深継は笑って俺を送り出してくれた。
「紅子の正体って、まさか・・・・・・」
俺を見送った深継がそう呟きながら、絆創膏一枚じゃ全然足りない手の傷を眺めていたことなんて、俺は知ることが出来なかったのだけど。
傷は大丈夫だっただろうか、と発車寸前の電車を振り返ると、どんと後ろから来た人がぶつかってきた。
「危ないなー」
朝、大体の人は逸る心の所為か機嫌が悪い。イライラした声に俺は反射的に頭を下げて謝った。
「すみません!」
ぱっと顔を上げると、ぶつかった相手はさっさとどこかへ行ってしまっていて、白い服の残像だけが俺の眼に残っていた。
あれ?今の、学院の制服じゃなかったか?
そう思って確かめようにも、もうその姿はどこにもなかった。見間違いだったんだろうか。
次の駅のはずなのに、何でだろう。


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