朝起きて夢だったらいいのになぁと何となく思っていたけど、やっぱり夢オチにしてくれるほど神様は甘くない。


けたたましい目覚ましの音に起こされて、俺は眼を擦りながら部屋から出た。冬の冷気が薄い服の上から刺してきて思わず身震いする。今日は寒くなりそうだ。
静まり返ったリビングはいつも通りで、エアコンにスイッチを入れて、すぐに吹いてきた温風に手をかざした。冬の朝はまだ太陽も寝ているようで薄暗い。夏はこの時間でも電気つけなくてもいいんだけどな。
欠伸を一つして、寝癖をがしがしと撫でる。
朝ごはん何にしよう・・・・・・。昨日の夜の残りって何あったっけ。
名残惜しいけどエアコンから離れて冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の明かりを頼りにごそごそと中を物色してると、リビングの扉が開いた軽い音がした。
兄さんか?珍しく早いな。
「兄さん?どうしたんだよ、こんなに早く起きて。あ、パンとご飯どっちがいい?」
ご飯も今から炊けば炊き上がるしー・・・・・・と、時計を確認してから何だか違う雰囲気が背後にあることにようやく気がついた。
いつもなら、兄さんは「ご飯―」もしくは「パンー」と眠そうな声で言って来るのに、今日は返事が返って来ない。
「兄さん?」
卵片手に振り返ったそこには、ちょっと気まずそうな表情で「おはよう」と笑いかけてくる誠一郎さんがいた。

やっちまった・・・・・・。

うっかり忘れていたけど、兄さんの恋人の誠一郎さんとその弟の深継君が昨日からウチに住み始めたんだった。
兄さんに紹介されて一週間後、彼らの引越しが始まった。丁度部屋も4部屋あったから、一人一つ部屋があてがわれて、俺の部屋の隣りの空き部屋に深継君、その隣りは兄さん、その隣りにあった空き部屋に誠一郎さん、と無難な並びで。
何かもういっそ、友達と暮らし始めたみたいなノリで行けばいいのかな、と開き直った。
兄さんが幸せならそれでいいだろ、自分!と昨日の夜ひたすら自分に言い聞かせてたのに、朝になったらすっぽりとその記憶が抜けていた。
何かやっぱり変な緊張をする。それはやっぱり相手が久慈だからなんだろうか、幼い頃からの教育って恐ろしい。
しばし硬直していた俺がまず最初に我に返った理由は自分の恰好だった。
「うわ、おはようござ・・・・・・って俺き、着替えてきます!!」
知らない人に寝起きの姿を晒してしまうという醜態に卵を慌てて元の位置に戻して、素早く自分の部屋に戻った。パジャマ姿見られるって恥ずかしいにも程がある。
取り合えずセーターにジーパンを着て恐る恐るリビングに戻ったら、誠一郎さんはソファに座って新聞を読んでいた。
誰かがうちで新聞読んでるなんて滅多にない光景だ。兄さんは会社で読んでるみたいだし。
「あの、久慈さんおはようございます」
仕切りなおし、とばかりに俺が頭を下げると彼は新聞をたたんで苦笑する。
「そんなに畏まらなくてもいいし、名前で呼んでくれてかまわない」
「いや、でも・・・・・・」
畏まるというか、ただ単に緊張してるだけなんだけどな。
じぃ、と思わず彼を凝視してしまう。この人が兄さんの恋人なんだよな、体格も良いし顔もカッコいいし、確かに二人並んだらお似合いで。昨日二人で何か話してるだけで空気が輝いていた。
でもやっぱり妙なことも考えてしまうわけで。
この人と兄さんは恋人同士。やっぱり、そういう事もしてるんだろうな・・・・・・とか。やっぱ兄さんが女役で。
この人に兄さんが押し倒されている光景を思わず思い浮かべてしまい、自己嫌悪に陥った。
ごめん、こんな弟でごめん、兄さん・・・・・・。
「蒼生くん?」
「あ、俺も別に呼び捨てで良いですよ。君付けなんてされたことないし、皆そう呼んでるんで」
誤魔化すようにそう言うと誠一郎さんはそうかと言って新聞に眼を落とした。
はー・・・・・・危うかった。
「久慈さ・・・・・・誠一郎さん、コーヒーか紅茶飲みますか?」
変な想像してしまったお詫び。
まさかそんな意味があるとは知らない彼は俺の態度を好意的にとったんだろう、「じゃあ紅茶で」と言われた。
何となくコーヒー派かと思ってたけど、紅茶の方が好きなのか。
彼の好みを覚えておいた方がいいだろう、と頭の中にそれを書き込みながらヤカンを火にかけたら
「この間、全が君が淹れる紅茶が美味いと言っていたからな」
どことなく楽しげなそこ言葉にティーカップに伸ばしていた手を思わず止めていた。
そうだ、忘れてた、この人社長なんだ。
さっと血の気が下がる。
ウチに、紅茶の葉なんて無い。それどころか紅茶用のティーポットさえ無い。あるのは日本茶を飲む時に使う急須だけだ。
だって、ティーパックですから!!
気がつけばコーヒーもインスタントしかないんだ、250グラム100円だった特売のヤツしか。
今から買いに行くったって、開いてる店なんてコンビニしか・・・・・・やっぱインスタントとティーパックしか置いてないじゃないか!
「確か、奈良崎はイギリスにも支店があったな。そこから取り寄せてるのか?」
イギリス・・・・・・は確かに紅茶国だけど・・・・・・ついでに言えば、父さんと母さんがいるのはそこだけど、紅茶なんて送ってもらったことは一度も無い。
「いや、取り寄せはしてない・・・・・・です」
心なしか弱い俺の言葉に誠一郎さんは何の疑問も抱かなかったらしく、
「ああ、もしかして自分で買いに?葉は自分で選ばないと駄目なのか、本格的だな」
違う方向の解釈をしてくれた。
いたたまれない。
「その・・・・・・もっと近いところで買ってるんで」
「中国か」
規模が違う。
すでに疑問形じゃなくて断定形になっている誠一郎さんの言葉に俺は察した。
駄目だ、レベルが違う世界が違う。おかしいな、俺も一応社長一族のはずなのに。
一応ティーパックで淹れたけど、これ、出すべきなんだろうか。
紅く揺らめく水面を眺めて俺はしばし考え込んでしまった。
一口飲んで、違うって思われてもアレだし、でも俺から言っといて出さないってのも喧嘩売ってるし、でもここでティーパック飲んでるって知られたら、奈良崎の評判が・・・・・・しかも相手は久慈で。
もし、この話が彼から久慈の総帥に言ったら、絶対祖父さんに言うよな、この事・・・・・・俺、絶対怒られる。
「あの、兄さんは知らないんです」
取り合えず兄さんのフォローが先だ。だってこの人の恋人だもんな!
「兄さん、コーヒー派だしあんまり紅茶飲まないし、家で飲むの基本俺くらいで、だから俺がどこで紅茶買ってるのか、知らなくて」
突然の事に誠一郎さんも驚いたように眼を見開いた。そりゃまさか紅茶の話してたのにいきなりこんな話されたら吃驚だよな。
「だから、あの、誰にも言わないでくれますか?兄さんにも」
「・・・・・・どこで買っているんだ?」
俺のただならぬ様子に誠一郎さんも眉を寄せて聞いて来た。
ああ、何でこんなことを初日に兄貴の恋人に話してるんだろう・・・・・・。
情けなくて思わず俯いてしまう。
「・・・・・・ック」
「ん?」
「・・・・・・ティーパック、なんです、うち」
小声で言った・・・・・・言ってしまった。
そしてやってくるのは気まずい静寂。
しばしの沈黙の後、誠一郎さんは顔を背け、口元を押さえて肩を震わせ始めた。
あ、わ、笑われてる・・・・・・!
「ちょ、笑わないで下さいよ!俺家計一生懸命切り盛りしてるんですよ!?葉っぱなんてそんな・・・高いじゃないですか!しかも変な臭いするし!いいじゃないですか、ティーパック!手軽だし、後片付けも簡単!葉っぱから飲みたかったら、ティーパック破って淹れますよ!?ティーポット無くて急須で、ですけど!」
震える広い背中を揺すりながら俺は必死だった。必死すぎて色々と余計な事を言ってしまった気がする。
それが更に彼の笑いを誘ったようで彼はなかなか笑いがおさまらない様子。
「賑やかだねー、どしたの?」
兄さんが起きてくるまで、俺は必死に誠一郎さんの笑いを止めようと必死だった。
あまり知らない人との対話は難しい・・・・・・。
「おはよ、蒼生、誠一郎」
「あ、あぁ・・・・・・全」
兄さんを振り返った誠一郎さんの眼はやっぱり涙目で、兄さんの顔を確認してからまた笑い出しそうな勢いだったけど、どうやら俺のお願いは聞き届けてもらえたらしく彼はそれを堪えてくれた。
「深継は?」
「あ、まだ寝てるみたい。昨日頑張ってくれたから、疲れてると思う。もう少し寝せてあげて」
兄さんはそう笑ってちょっと不機嫌な顔になった誠一郎さんをたしなめた。昨日頑張ったってのは引越し作業の事だ。俺も心なしか、体の節々が痛い気がする・・・。筋肉痛か?
痛む気がする肩をぐるぐる回しながら朝食を作り、取り合えず兄さんと誠一郎さんに出した。社長サンの口に合うようなものでもない気がするけど、それでも誠一郎さんは美味しいと言ってくれた。いい人だ。
「それじゃ、俺たちは出るから、悪いが深継のことよろしく頼む」
玄関先で兄さんと誠一郎さんの見送りをしたら申し訳無さそうに言われた。
「深継君におはようって言えなかったのは残念だけど・・・・・・あ、誠一郎、ネクタイ曲がってる」
・・・・・・俺の目の前に新婚さんがいるよ。
誠一郎さんのネクタイを甲斐甲斐しく直す兄さんの姿にちょっと感動した。数週間前までは俺が兄さんのネクタイ直してたけど、兄さん他人の直せるようになったんだ。
「・・・・・・何、蒼生、その目」
「ううん、何でもないよ、行ってらっしゃい!!」
至極微笑ましいものを見る眼で見ていたはずなのに、兄さんはちょっと納得出来ない顔だった。それでも誠一郎さんが出て行くとそれに付いて行くんだから、可愛いよなぁ、もう。
それを見送って、リビングに帰る足でそのまま深継君の部屋の前に立つ。
兄さん以外の人を起こすなんて初めてだからなぁ・・・・・・。どう起こせばいいものか。
「深継君?朝だぞー」
コンコンと扉を叩いてみるが、やっぱこれくらいじゃ起きないよな・・・・・・俺だって起きない。
「みーつーぐーくーん?」
入るよー、と声をかけてゆっくりと扉を開けた。今まで使ってなくて半ば倉庫のようだった部屋が綺麗に片付けられて人が一人住める状態になっているところを見るとちょっと感動ものだ。学生らしく本棚と机と、机の上にはノートパソコン。あ、いいなぁ、俺もノーパソ欲しいなぁ。
フローリングの床の上を歩いてベッドで寝ている彼に近付いた。
「深継君、朝だよ?」
芋虫みたいに布団に包まった彼の、耳があるだろうところに顔を近づけてそう言うと微かに呻くような声が聞こえてきた。兄さんはこの程度じゃ起きなかったけど、深継君を起こすのは楽そうだな。
「深継君!」
「んー・・・・・・・・・・・・さん?」
「ん?」
誰かの名前を呼んだ彼は寝惚けた顔を布団から出して俺の顔をじーっと凝視した。
カッコイイ顔は寝惚けてもカッコイイもんだなぁ、と思いながら思わず俺も凝視し返していたんだけど。
突然その顔がふにゃりと無防備な笑顔になった。
「おはよ」
「あ、ああ・・・・・・おは、よう!?」
その笑顔にほだされてついつい普通に返してしまった俺の腕に深継君の長い腕が絡まり、布団の中に引きずり込まれてしまう。
何だ!?何が起きたんだ!?
「深継君!?ちょ、何寝惚けてるんだよ!!」
彼女とでも間違ってるのか!?ってか間違えるなよコラ!
胸あたりに抱え込まれた俺が慌てて顔を上げようとしたら、俺の頭が深継君の顎にクリーンヒットした。
深継君も痛かっただろうけど、俺も相当痛い。
「いっつー!何、何だ!?」
ようやく覚醒したらしい深継君の声が背後から聞こえてきて、俺は頭を撫でながらゆっくりと振り返る。
「おはよう、深継君・・・・・・」
怒りのオーラを漂わせた俺に、深継君は表情を引き攣らせながらも「おはよう・・・・・・」とか細い声で返事をしてくれた。
後で言われることだけれど、この時の笑顔は本気で怖かったらしい。この瞬間に、彼は俺を逆らってはいけない相手だと察した、と。何だか人聞きの悪い。


「あー、もー、遅刻する!」
何だかんだで遅くなってしまい、朝ごはんを深継君と共にかき込むように食べて、最寄の駅に走っていた。
「悪い・・・・・・」
原因は自分にあると解かっているのか、深継君も走りながら小さい声で謝ってきた。昨日の引越しの疲れが残っているのか、彼は走るのもダルそうだ。
送迎の車でも呼べばいいのに、俺が歩いていくと言ったら彼もわざわざついてきてくれた。歩いていく、じゃなくて正確には走っていく、になってしまったけど。
深継君の制服は青いネクタイに白ブレザーだから、ここら辺でも有名な金持ち学校と言われている私立高校に通っている。俺は、全体的に白い彼と違って紺のブレザーに紺のネクタイとありふれたデザインの制服で、高校も進学校と言われているだけの公立高。
「何で奈良崎なのに、ウチの学校に来なかったんだ?」
電車の時間には間に合って、ホームに立つと深継君が聞いてくる。あーあー、聞かれると思ったよ。
予想していた質問を投げかけらてしまうと苦笑するしかない。
「何かお金持ちって空気があんまり好きじゃなくて」
俺が車で送迎をしてもらわないのも、高校が普通の人達が通うところだからという理由もある。深継君の行くガッコだったら、むしろ送迎してもらわない方が目立つと思うんだけどな。
「あぁ、何となく解かるかも」
深継君の眼鏡の奥にある目が面白そうに細められる。
「俺も、ああいう空気は苦手かな。疲れるんだよな」
丁度その時に電車が入る放送が入り、目の前に人が沢山詰められた車両が止まる。相も変わらない光景に俺は臨戦態勢に入るが、あまり電車には乗らないらしい深継君はこの惨状を眼を大きくして見ていた。
「な、蒼生、これもう乗る場所無いぞ?次の」
「次のもこんな感じだし、っていうか次のじゃガッコ間に合わない!乗るの!」
灰色のスーツばかりの中に白いブレザーの彼を押し込み、どうにか自分も乗ったところで発車のベルが鳴った。
「これは、すごい・・・・・・」
深継君の苦痛の色を滲ませた声が上から降って来た。電車の中は毎朝毎朝身動き取れないくらいのぎゅうぎゅう詰め。毎朝乗ってる俺もキツイのに、初めて乗っただろう深継君は、大丈夫かな。
と、思っていたら。
「大丈夫?」
「へ?」
少し体の周りが楽になった、と思ったら深継君がドアに両手をついて俺を庇ってくれていた。
「だ、大丈夫って・・・・・・深継君の方だろ!電車初めてなのに」
「でも蒼生潰されそうだったし」
「社長子息に何させてんだ、俺は!」
ひぃぃ、畏れ多い。
がっくりと反省していると目の前にあった深継君の目が丸くなる。
「・・・・・・蒼生だって社長子息だろ」
呆れたように言われて、そういえばそうだと思い出す程度の認識だった。
だって、なぁ・・・・・・俺は次男でそういうパーティに行くのは兄さんの役目だったし、あ、俺社長子息なんだーと感じる場面は殆ど無かった。父さんも無駄に奔放な人で、小学校とか近所の友達と同じところが良いと言ったら公立に行かせてくれたし、中学もそのまま公立に行かせてくれたし・・・。兄さんは流石に全部お金のかかる有名私立に通わせられてたけど。
そうそう、深継君が通ってる学校が兄さんの母校だ。
じっと俺を庇ってくれてる深継君を見上げると、彼はにっこりと笑った。・・・・・・何か羨ましい感じに格好良いじゃないか。
誠一郎さんは何と言うか、完成された大人の男の色気を持つ人だけど深継君はまだ青年に成りきれてない少年というか、危うさを秘めた感じで、それもそれで色っぽいというのか、可愛げが残っているというのか・・・・・・。
でも、何の警戒も無く笑うと少し幼い感じがするところは、誠一郎さんにそっくりだ。さすが兄弟。
「蒼生だと痴漢とかに遭いそうだし」
ぼーっと考えていたらさらっと失礼な事を言われた。社長子息が痴漢なんて言葉使うんじゃねぇよ。
「失礼だな。2年目だけど痴漢になんて・・・・・・」
痴漢に、なんて。
えーと、えーと。
・・・・・・4回くらい・・・・・・か。
頭の中でざっと思い出していたら、俺のその思考中の沈黙に深継君がため息を吐いた。
「遭ったことあるんだ」
「4回くらいしかないって」
「いや、充分だろ」
「兄さんだったらもっといってるって。倍・・・いや、多分365日痴漢に遭うね」
兄さんが電車通学じゃなくてよかった。あの可愛い顔は襲ってくださいと言わんばかりの顔だからな。
兄貴の名前を出すと深継君の表情がちょっとだけ曇った。どうしたんだろ。
「全さんは・・・・・・そうかも知れないけど。じゃあ、とりあえず俺が一緒に乗る時は俺が蒼生の保護者役だな」
「え、なんだそりゃ」
「俺が一緒に乗ってて、蒼生に何かあったら全さんに悪いじゃないか」
「うーん・・・・・・それもそうかも知れないけど・・・・・・深継君も危ないんじゃないかな?」
俺は視線を上げてもう一度深継君の顔を確認した。うん、俺が知ってる中でもベスト5に入るくらいの容姿だ。ちなみに、他に兄さんと誠一郎さんもランクインしている。
多分、深継君も狙われるだろうなぁ。
俺の言葉に納得がいかないと言いたげに深継君が怪訝な顔をした。
「俺が?どうして」
「だって、俺に触ってきたヤツ、ウチのガッコでもよく見目のいい男子が被害にあってるし。ついたあだ名が紅マニキュア。更に縮まって紅子」
「・・・・・・べにこ?」
「うん、手に紅マニキュア塗ってる痴女だから」
何かもうすでに都市伝説並みの話になってる。紅子は太ったオバサンだとか、いや綺麗な女性だとか、金曜日は金色のマニキュアしてるとか。誰一人彼女の顔を見たことがないから噂は広まる一方。
俺はというと、その紅マニキュアさえ確認出来ていない。満員電車で確認しろという方が無理だ。
「紅子に首元にキスマークか引っ掻き傷が残されたら、次は全部頂くっていう予告だとか」
「・・・・・・それで、誰か喰われたことが?」
「さぁね。噂だし、変な尾ひれがついて当然だし。それに男子高生には、ちょっと刺激のある噂だと思わね?」
紅子が綺麗な女性だったら、と考えると。
ホラー系や犯罪系の噂より、こっちの方が性的に未熟な男子生徒的には尾ひれをつけたいもの。俺の友人も紅子に触られてみたいとか、色々教えてもらいたいとか言ってたっけ。
早く彼女見つけろよ、お前ら・・・・・・と涙を誘う言葉だった。
「あ、深継君、俺次の駅だから」
目的地の到着を告げる車内放送が流れ、俺はがっちりと鞄を胸に抱える。人に流されて鞄を無くしたら大変だ。
「解かった。あ、蒼生」
「何?」
「深継、でいいから。同い年なんだし」
な?と笑顔で言われ、俺も笑い返した。
「うん、じゃあな、みつ」
ぐ、と名前を呼ぼうとしたその時、電車が止まりドアが即座に開いて俺は人に流されてしまった。
俺は流されてもいいんだけど、深継君・・・じゃなくて深継は大丈夫だったかな?
そうは思ったけど、走らないと遅刻しそうな時間帯だったので、俺は後ろを振り返ることなく改札口へ続く階段を駆け下りた。


「蒼生、今日は学院のヤツと一緒だったな」
駅で見かけたんだろうか、友人の帯刀がそんな事を言ってきた。
その言葉で周りにいた友人達の視線がいっせいに俺に集まる。学院、ってのは多分深継のことを言ってるんだろう。彼の学校は通称「学院」だから。
学院と俺たちの学校は隣りだけれど、仲が悪い。ウチの学校の少々素行が悪いヤツは学院の弱そうなヤツを狙うし、あっちの少々素行が悪いヤツはウチのガッコの弱いヤツを狙う・・・らしい。俺はその現場を見たことは無いけど。でも、確かに確執みたいなのはある。あっちは俺たちを庶民庶民と馬鹿にした眼で見てくるし、時々これ見よがしに登校時間、高級車でウチの学校の前を通り歩きや自転車のウチの学校の生徒を鼻で笑ったりする。
そんなわけで、ウチの学校は学院の連中が大嫌いだ。何年か前の生徒会長の時は協定を結んでたらしいけど、今じゃその協定も昔の話。
「うん、えーと・・・・・・」
何て説明すればいいんだろう・・・・・・俺と深継の関係を。
「兄さんの、恋人の弟。一緒に住んでるんだ」
うん、嘘は言ってない、言ってない。
その瞬間、好奇心たっぷりだった友人達の目が凍りついた。
「えー!?全さんに恋人出来たの!?」
「あの天使のような全さんに・・・・・・」
俺の兄貴は文化祭やらで公開済みだから、皆顔は知っている。何だか知らないけど裏でファンクラブも作られたとか。おいおい、人の兄貴のファンクラブ作って何の意味が?とは思うけど気持ちは解からなくも無い。
「学院に通ってる弟がいるって事は、逆玉かぁ・・・・・・」
「まぁ、全さんの顔ならなぁ・・・・・・」
友人達は遠い眼をしてくれるけど・・・・・・ウチの財力と久慈の財力は五分五分だぞ、確か。
「ふーん、じゃあアイツ、初めてあの電車に乗ったんだな」
帯刀は悪意たっぷりにそう呟いた。彼にはウチの兄さんの近況はどうでもいいことだから、話題はそこだ。
俺が苦笑して見せると帯刀は綺麗な顔をちょっと険しくさせた。俺も理由はよく知らないけど、帯刀はあの学院が嫌いらしい。普段は無口で冷静だけど、あの学校に関係することだとすぐに熱くなる。
「紅子に気をつけろとでも言っておけよ」
はん、と彼は鼻で笑った。帯刀が紅子のこと口にするのは初めてな気がする。いっつもそういう噂みたいなヤツは信じてなかったから。
「あ、そうそう、紅子と言えばさー」
帯刀の隣りにいた噂好きの佐竹が新しい情報を手に入れたようでうきうきと話を始める。
「今度は、ちょっと怖い話を聞いちゃった」
怖い、と聞いてちょっと俺は心の中で身構える。昔からあまりこういう話は好きじゃない。・・・・・・でも、そう暴露するのは情けないから取り合えず平常心を保っているようにはしている。
「実は、紅子は幽霊なんだって噂」
・・・・・・平常心、保てないかも。
さっそくへこたれそうだった。
「何かねー、紅子の顔誰も見てないじゃん?見てないんじゃなくて、顔が無い、っていうか手しか無いんだって。紅子は昔、恋人に裏切られて電車で自殺して、その時バラバラになった死体を集めたけどどうしても両手首だけは見つからなくて、今でもどこかにその手首があるって話だよ。そして、自分を裏切った恋人を探してるって。でも手だけだから、触った感覚で恋人だと確かめるしかなくて、間違いもあるわけで・・・・・・ね。満員電車で誰か一人居なくなっても誰も気付かない」
ま、間違えられたらどうなっちゃうんだ!
何かを含んだような佐竹の語りに心の中で大絶叫してしまうが、あくまで平常心平常心。
「ちなみに、爪のマニキュアだけど・・・・・・実はアレマニキュア何かじゃなくて、爪が全部はがれてるらしいよ」
こそこそと佐竹が小声で言った内容は、怖いというか、生理的に駄目だった。
「そして、紅子が眼をつけた相手に恋する相手がいたら、恋敵は容赦なく殺すって」
耐え切れなくなった時に授業開始のチャイムが鳴り響き、慌てた様子で集まっていた友人達が自分の席へと戻っていく。こんなにチャイムが嬉しいのは初めてだ。
「大丈夫か?」
ほーっとしていた俺に隣の席の帯刀が声をかけてくる。
「え、あ、うん。俺ああいう話、生理的に駄目で」
「そうじゃなくて、兄貴の恋人とその弟と暮らしてるんだろ?」
「?別に平気だけど」
誠一郎さんも深継もいい人だし。
首を傾げると帯刀は何かを納得したように苦笑する。
「お前ら兄弟は仲良いもんな」
「うん、まーな」
あの可愛い兄さんを嫌えって方が無理な話だ。
にへらっと締まりのない笑みを返してしまったら、帯刀が少し淋しげな顔になる。
「兄弟皆が皆仲良いってわけじゃ、ないからな・・・・・・」


兄弟が皆、仲が良いわけじゃない。

俺と兄さんは仲が良いから、あんまりそんな事意識したこと無かったけど。

帰り、ぼーっとホームで電車を待ちながら帯刀の言葉を考えていた。
まぁな、男の恋人を認めてやるくらいには俺と兄さんの仲は良いみたいだし。誠一郎さんと深継だってそうだ。
多分、双方の兄弟仲が良いから成り立つ状況なんだろう。うん、そう考えれば何だか前向き。
ガタタン、という音と共に電車がホームにやってきた。何の考えも無しに開いたドアに足を一歩出した。
が、その瞬間に佐竹から教えられた怪談話が脳裏を過ぎる。
ヤベ、と思った瞬間、背後の扉が閉まり俺は電車の中に閉じ込められた。
落ち着け、落ち着け俺。電車で駅まで15分、15分だ。今は電車の中も空いているし、紅子が出るわけが無い。
「あ、蒼生」
「うわぁ!」
いきなりぽん、と肩を叩かれ、過剰な反応をしてしまうと、振り返った先に居た深継に驚かれた。
てか、深継だ・・・・・・。
「どうかしたか?」
「な、何でもないって。帰りも一緒で嬉しいよ、深継」
ああ、本当に嬉しいぞ!
紅子の恐怖から逃れることに成功した俺は深継の肩を何度も叩いた。
そんな俺に怪訝な眼を向けてきたけれど、深継は「そうか?」と笑ってくれた。
「ところで、蒼生。俺ちょっと聞きたいことがあるんだけど、さ」
「何?」
深継は周りの様子をちらちら伺いながら俺に顔を近づけてくる。
何だ何だ。
「蒼生は、兄貴が連れてきた相手が男で、本当に良いのか?」
俺にしか聞こえない小声で聞かれたことは、結構深継としては聞きにくい内容だったと思う。ってか、俺もそれ深継に聞きたかったんだよな。
でも流石に、本人達目の前にして聞けないし。
「・・・・・・俺は」
ちらっと視線を上げると、深継は真剣な顔でその先を待っていた。かなり緊張した面持ちで、俺の返事一つできっとその顔が笑みにも変わるだろうし、悲しげに変わるだろう。
それをあまり目の当たりにしたくなくて、俺はもうすでに夜と言っていい位黒い窓の外に眼をやった。
「俺は、正直なところ、女の人連れて来てくれた方が嬉しかった」
だって、男相手だなんて考えてもみなかったから。女の人を連れて来てくれていたら、きっと笑顔でおめでとうって言えてたし、奇妙な緊張もしないで済んだ。
それによりによって、久慈。今は関係ないと兄さんは言うけど、きっと奈良崎グループの人達は良い顔をしない。
「兄さんが選んだ人を、周りが貶すところは見たくないし、嫌だから」
男を選んだと知れたら周りは絶対兄さんと誠一郎さんを扱き下ろす。二人とも物凄く良い人達なのに、彼らを人が異質なものを見るような眼で見るのは嫌だ。女の人を連れてきていたら、多分陰でこそこそ言う程度だろうけど、男を連れてきたら絶対二人の目の前で二人の事を貶すだろう。ウチの祖父さんがそのタイプだ。
「俺は、兄さんが幸せになれる相手だったら誰でもいいけど・・・・・・でも、周りから祝福されないのに一緒になるってのも結構辛いだろ?何だかんだって愚痴愚痴言われたりとかさ」
「蒼生・・・・・・」
「あ、俺は誠一郎さんも深継も好きだからな!何か、兄弟増えたみたいで楽しい、し」
ふっと鼻腔を掠めた香りはどこかで嗅いだ覚えのある香り。何か安心するのは、アロマテラピー効果ってやつなのか。それのおかげでさっきの恐怖は吹っ飛んで行ったけど。
恐怖というか、紅子の話自体吹っ飛んでいった。何を思ったのか突然深継が俺を抱き締める・・・というよりは抱きついてきたと言った方がいいか。
何だ、どうした。
「み、深継君!?」
驚きのあまりついつい君を付けて呼んでしまうと、耳元に彼の苦笑が響く。
「深継で良いって言ったのになぁ・・・・・・」
それでも抱き締めるのを止めずに、むしろ腕に力を込めてくる。あぁ、電車に人が殆ど居なくて良かった。
「ありがとう」
そんな、ちょっと擦れた声で礼とか言われると何だか緊張してくるんですけど。
「え、え?何?」
「蒼生が、全さんの弟で良かった・・・・・・」
ばんばん、と離れた深継が俺の両肩を叩いて、ほっと息を吐く。
何か、良くは解からないけど。
多分、深継は俺が誠一郎さんと兄さんのことを反対してるんじゃないかって心配してた、って事なんだろうな。と、いう事は深継は二人の事を認めているんだ。
ふっと視線が合った時に微笑んだ深継の顔が、今朝見た誠一郎さんの笑顔と被る。今朝の一件を思い出すと恥ずかしいけど。
「深継、誠一郎さんとそっくりだよな」
「え?」
「何か、笑ったときの目元とかそっくり」
ちょっと似過ぎてて笑えるかも。
「そうか?」
俺の指摘に深継は自分の顔を撫でてから、ちょっと驚いたように眼を大きくさせた。
「・・・・・・って兄貴、笑ったの?すげぇな、どんなネタ使ったんだ?」
ネタって・・・・・・俺はお笑い芸人ですか。
「や、それは俺というか奈良崎の沽券に関わることなので」
言えない、絶対言えない。
言いにくそうにしている俺の様子を察したのか、深継は大して気にも留めず、ふーんと言いながら自分の顔をもう一度撫でていた。
「そっか、似てるか」
そう、ちょっと嬉しそうに呟きながら。
「そういえば、蒼生・・・・・・今日、ウチの学校のヤツに弐高のヤツと歩いてた!って詰め寄られたけど」
「あぁ、深継もー?俺も俺も。どこで見られてたんだかなぁ」
あっはっは。
この時は笑い飛ばしていたけれど、後にあまり笑えない事態になることを、俺はこの時気付いていなかった。気が合いそうな新しい友達との会話に、夢中だったから。


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