頭が、痛い。
 ずきずきする。
 また、殴られたのかな、おれ。
「……」
 翔はぼんやり目を開けた。
 真っ暗で、ああ夜なのかと思う。しかも、何故か野外で、キラキラ光る星が見えた。
「気がついたか?」
 気遣いらしきものは全然無い言葉にあわてて身を起こすとまた頭が痛む。
 手で押さえようとするが、後ろで縛られているらしくそれは叶わなかった。
「どこだ……ココ」
「森だ」
 さっきと同じ声が説明してくれる。
「和泉……」
 目の前に立っていたのは気を失う直前まで考えていた人物。眼鏡の奥の目が自分を嘲笑った。
「おはよう。お姫様」
「誰が姫だ、誰が!」
 自由になる足でじたばた反論するが、それは鼻で笑われる。
 嫌なやつに捕まってしまった。
 和泉を強く睨みつけると彼は目を細める。
「誤解するな。俺の計画はこんなに杜撰じゃない。明石だ」
 明石、という名に自分がこんな目にあわされている理由を納得。蹴り飛ばされたのを根に持っているのだ。
「くだらない」
 突然の冷たい印象を持つ声に翔は慌てて振り返る。
「ああ、悪い沢村。もう行っていいぞ」
 和泉の言葉に彼が誰かを知る。
 沢村良高。背はそんなに高くないが遠也と張るくらいの美形で、ナイフの使い方がプロ並のクラスメイトだ。勿論南側で、雰囲気が怖くて話したことが無い。
 彼はアンドロイドだという噂もある。
 それに、彼の戦闘服のエンブレムは自分たちと違ってこの学校で最高の地位をしめす特待生のものがある。生徒会の委員会に所属しているのだろう。
 例え3年生の南の生徒だとしても特待生には相手が1年だとしても逆らえない。
 沢村は和泉を一瞥し、どこかへ行ってしまった。
 彼と入れ違いに明石と榎木が帰ってくる。どこに行っていたのかは知らないが。
 仲間が帰ってきたのに和泉もその場を二人に任せてどこかへ行ってしまった。榎木と明石も充分厄介な相手だが、一番警戒していた和泉がいなくなって正直ほっとした。
「起きたか、日向」
 けれど、そう安心もしていられないらしい。明石がにやりと笑う。その手には鈍い銀色に光るナイフが握られていた。
「言ったよな。お前にはお姫様役がぴったりだって」
「うっせー!姫姫ゆうな!俺は男だ!」
「どうかな?そんな顔して、説得力ねーよなぁ」
「おい、明石調べてみろよ」
 榎木のいらない助言に明石が嫌な笑い方をする。
 思わず身動きのとれない体で後ずさった。
「調べるって、何を……」
 ああ、凄く嫌な予感。
「こういうことだろ?」
 明石の手が翔の上着のジッパーを引き下げる。中には黒のタンクトップしか着ていない。
 だから体の線は何にも邪魔されず見れたはずだ。
「なんだ、胸無いじゃん」
 明石のあっさりとした感想に頭に血が上る。
「ったりめーだろ!男だっつってんだろーが!!」
 足をばたつかせてわめく翔に明石は低く笑う。
 そんなに蹴った事が頭にきていたのだろうか。
「なんなら、女にしてやったら?俺も手伝うし」
 近くで傍観していた榎木が翔の肩を強く押す。
 倒された方は堪ったものじゃない。後ろで縛られていた手に全身の体重を乗っけてしまい、激痛が走る。
 痛みに顔を歪めたのが嬉しかったのか、翔を見下す二人の顔は笑っていた。
 それに不快感を覚え翔は唯一自由な足にひそかに力を入れて膝を立てる。
「案外、甲賀辺りにもう喰われてたりして」
 そんな明石の台詞は途中で止まる。
 翔が思い切り明石の胸を蹴ったからだ。
 学校側から配給される戦闘用の靴は普通の靴より若干重さがあり、底が厚い。靴底は滑らないように細工してある。
 若干の重さ、といってもかなりの重量。これで胸を蹴られたら結構キツイだろう。しかも、まがりなりにも翔は武術をたしなんでいる。自然と人の急所を狙っていたから、相当痛かったはずだ。
 明石も思わぬ攻撃に激しく咳き込み、それを見て榎木はおろおろしていた。
 そんな二人に翔は怒鳴りつける。
「女女うっせーんだよ!その女に負けてるお前らは何だ!」
 気にしていることを何度も口にされ、流石の翔も怒り心頭といったところだ。
「……状況がわかってないようだな!」
 苦しんでいる明石の代わりに榎木が翔のほぼ無防備な体を踏みつけ、馬乗りになり2、3発顔を殴る。
「かまわねぇ!榎木、やっちまえ!」
 げほ、と咳き込みながら明石が叫び、その言葉を実行しようと榎木が翔の服を乱暴に掴みあげた。げほ、と口から微量の血と吐き、翔は次にどうするか考え始めたが、それを邪魔するかのように拳が振り上げられる。
 眼を殴られるのは不味い。咄嗟に眼を閉じ、衝撃に供えたが
「お前等、何している!」
 意外にも和泉がそれを止める。
 仲間からの怒声に二人は一瞬動きを止め、彼を振り返った。
「和泉……?何って、だってコイツ!」
 戸惑う榎木の弁解を和泉は聞こうともせず、彼の下から翔を助け出した。元々、彼らの力関係は歴然としていた。ある程度授業で異彩を放っていた和泉の技量に、榎木と明石はくっ付いて来ているだけで、和泉の方はきっとつるんでいるという自覚もないだろう。
 そんな和泉に下等なものを見下すような冷たい眼で見られ、二人はぎくりと身を竦めた。
「お前らの目的は甲賀だろう?コイツには手を出すな」


「お前、俺より先に帰ったくせに何で俺より遅いんだよ」
 大志の恨みがましい台詞は聞かなかったことにして、克己はある人物の姿を探した。
 けれど、彼の姿は無い。
「日向は?」
 多分、この場で一番冷静で頭が良いだろう遠也に聞くが、彼も首を横に振る。
 遅い。
 そう思った時、再び克己は森へと向かっていた。
「甲賀?」
「探してくる」
 遠也の呼びかけにそれだけ伝えてさっさと行ってしまった。
 それに一番驚愕したのは大志だ。
 先程自分を置いていったくせに、翔の時は探しに行くのか。
「……何でだろう?」
「ガタイの良い男より可愛い少年を心配するのは当然でしょう」
 遠也のあっさりした分析に納得できるような、したくないような。






 翔は切れた口の中の傷を舐めながらどうしたものかと思案する。
 正面には先程何故か自分を助けてくれた和泉が。他二人は見張りにいっている。おかげで気まずい沈黙が流れていた。
「なぁ、和泉、お前なんで助けてくれたわけ?」
 絶対、自分は嫌われていると思っていた。
 けれど、さっきは何故か助けられる。
 和泉は瞑っていた目蓋をわずかに上げて、「ノーコメント」とだけ。
 多分、同じ質問を繰り返しても彼は答えてくれないだろう。
「じゃあ、質問を変える。お前、何で俺のこと知っているんだ?」
「秘密」
「お前、俺とどこかで会ったことがあるのか?」
「さぁな」
「お前、何者?」
「黙秘権」
「……じゃあ、」
 埒が明かない問いかけになってきたので一番聞きたいことを翔は聞くことにした。
「どこまで、知っているんだ」
 鋭く睨んでくる翔の目に和泉は低く笑う。
「全部」
 初めてのまともな返答に背筋が凍る。たったそれだけの返事でも、翔を動揺させるには十分だった。
「なん、で?」
 頭の中がパニックになると顔が引きつった笑みで歪んでしまう。
 それを感じながらも緊張した喉から擦れた声を絞り出す。
「何で、知ってんだよ」
 和泉の様子から嘘をついているようには思えない。
 しかも困惑している自分を面白そうに見てくる。その眼からは何も伺えない。正体不明の恐怖に翔は足元に力を入れていた。
「答えろよ、和泉!!」
 翔の真剣な眼に僅かながらの恐怖を読み取ったが、和泉は彼から眼を離し違う気配にいち早く察した。不意に顔を上げた和泉の動作に翔も怪訝に思いながらも彼の視線をなぞる。
「日向!」
 この声は克己の声だ。どうやら探しに来てくれたらしい。
「嘘、克己・・・・・・」
「呼べよ。どうせ今回、お前は甲賀を誘う餌役だ」
 餌役、という単語にさっき和泉が言っていたことを思い出す。
 克己が目的だと。
「克己に、何する気だ?」
 その問いに和泉は肩を竦める。
「明石たちに聞くんだな」
 和泉は翔の首元を掴んで立ち上がらせた。そのまま押されるままに移動すると視界に睨み合う3人の姿が現れる。
「日向はどこだ?」
 冷静に明石たちに問う克己に榎木がサバイバルナイフ片手にこちらに視線をやる。
 和泉に背を押され、よろけながら翔は克己の視界に入った。
「日向」
 克己の呆れたような声に本当に申し訳ない気分になった。
「ごめん、マジゴメン!!」
 榎木は謝る翔をナイフの切っ先で示しながら勝者の笑みを浮かべる。
「コイツを返して欲しかったら、大人しく殴られな、甲賀。なぁに、死にゃあしないくらいに手加減してやるよ。まずは、武器を棄ててもらおうか」
 克己はあっさりと腰元にあったナイフを投げ捨て、ため息を吐きながら両手を挙げる。今までどんなにやっても勝てなかった相手の従順な姿に二人は下卑た笑みを浮かべ彼に近寄り、馴れ馴れしい態度で肩に腕を回したり、ナイフで頬を叩いたりしていた。
 そんな様子をハラハラと見ていると、不意に背にあった気配が遠くなったのに気付く。和泉が翔から離れ、手近な木に寄りかかっていた。本当に彼らが何をするのか興味が無いらしい。
「さぁて、どうしてやろうか。とりあえず・・・・・・おいおい、和泉。日向の事ちゃんと見ていてくれよ」
 和泉のやる気のない態度に気付いたのか、明石は呆れたように言うが、当の本人は聞こえないと言いたげに無視をする。諦めた榎木が翔の後ろにつき、ナイフを首元に当ててきた。
「動くなよ、甲賀。動いたらコイツの顔に傷がつく」
「・・・・・・それは止めてやってくれ。女顔に傷痕なんて残ったら眼も当てられない」
 克己は淡々と言い、その落ち着き払った態度が気に障ったのか明石が拳を振り上げる。
 自分が殴られた時以上の鈍い音に翔は身を竦ませていた。
 眼を開けると、息を荒くして拳を握り締める明石と、殴られても眉一つ動かさない克己がにらみ合っている。彼の顔が徐々に紅くなっていくのを見て、自分の中で何かが切れるのを感じた。
「てめぇらなぁ・・・・・・」
 克己とは最近出会ったばかりで、友人になれるかどうか危ういところだった。それで、今回の実習で思いがけず同じグループになれたから、少しは親しくなれるかと思っていたのに、こんな迷惑をかけては台無しだ。
 八つ当たりか。そうかも知れない。
 自分の不注意の所為でこうなってしまったのだから、彼らにここまで怒りを感じるのは間違いなのかもしれない。師である叔父には怒りにまかせて拳を振るってはいけないぞ、とも言われていた。ついでに、素人相手に自分の力を見せ付ける事はないとも。
 ああでも、ごめんなさい叔父さん、無理そうです。
「克己殴りやがって、許せねぇ・・・・・・」
「は?」
 近くにいた榎木は翔の低い声を聞き取れなかったらしく、少し身をかがめたがそれがいけなかった。次の瞬間、翔がその榎木の顎に向かって思い切り頭突きをし、相手が倒れるより早く明石に向かって走り出した。展開の速さもだが、翔のスピードについていけなかった明石は慌ててナイフを構えようとするも、あっさりと翔の足に蹴り上げられ、武器は遠くへと飛んで行く。
 ようやく力の差に気付いた明石の顔が恐怖に歪むが、もう遅い。すでに翔の足がその顔にめり込んでいた。本人もきっと何が起こったのか解からないうちに、その体は地へと伏す。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 克己は少し茫然とし、一息ついた翔の横顔を見つめる。
「何か、騙された気がする」 
 克己が呟いた言葉に翔は首をかしげた。
「何が?」
「何がって、お前……」
 克己は再確認するように視線を下ろした。
 地面には翔に蹴り飛ばされて意識を失っている男二名。微動たりしない。
「言ったはずだ。俺は克己が思っている程弱くないって」
胸を張る彼はいまだに後ろで縛られたまま。
実はいつ落としたナイフを拾おうか、克己もタイミングを見計らっていたのだが、翔の活躍でそれは無駄となった。
「なら来るんじゃなかったな」
 殴られ損だった、と克己は紅くなった頬を手の甲で撫でる。その動作に翔が思った以上に辛そうに表情を歪めたから、流石にしまったと思ったが。
「ごめん・・・・・・」
 今にも泣き出しそうなその弱々しい声に、克己は気にするなという意味で返事はしなかったが、気になるのは
「そこにいる奴はやらないのか?」
 克己が振り返ったところには和泉がいた。仲間が倒されたというのに余裕の表情だ。
「無駄なことは嫌いでね」
 肩を竦めてこちらに背を向ける。戦闘意思は無いようだ。
「・・・・・・克己、コレはずして?」
 倒れている榎木の体を飛び越えてやってきたと思えばくるりと克己に背を向ける。
 一度片付けたナイフを再び取り出し、翔の自由を奪っていた縄を切るが、その縄は血まみれになっ
ていた。どうやらかなりはずそうと頑張っていたか、もがいたかしたらしい。
「おい、痛くないのか?」
 平気そうな翔に問うと、本人は不思議そうに首をかしげ、久々に自分の手を視界に入れる。
 そして自分の手首の惨劇に思わず声を上げていた。
「うお!何だか凄いことになってる!」
 後ろで縛られていたから傷が出来たことに気がついていなかったのだ。
 皮が摩擦で擦り剥け、ピンク色の肉が剥き出し。そこから血が溢れている。
「うあー、見たら痛くなってきた」
 ヒリヒリするその患部を押さえると上の方からため息が。
「下手に動くと怪我が多くなるだけだ」
 克己が手際よく白い布で傷を手当してくれる。
 下手に動く、というのは恐らくさっき自分が縛られているのに行動を起こしたことを指しているのだろう。
「だって、克己が殴られて」
 ばっと顔を上げたそこにある克己の顔は、呆れ顔だった。
「俺は、お前が思っている以上に強い」
 ここまで言い切られると反論する気にもならない。
「じゃあ、俺も騙された」
 これでお互い様だろう。
「でも克己が無事で良かった」
 これで本当に目の前で殺されでもしたら目覚めが悪くてかなわない。殴られていた頬はすでに赤みも引いてきていて、そんなに大した怪我ではない事に翔はほっと笑顔を見せた。
「そんなに正直に安心する相手じゃないぞ、日向」
 今まで黙っていた和泉が翔の呟きを笑う。
 まだ居たのか。
「何だよ、どういう意味だよ」
「そのまま。お前、何でそいつが自分より階級が上なのか、理由を考えたことが無いのか?」
 和泉は無表情の克己を顎で示してにやりと笑う。
 そういえば、彼の階級に関しては深く考えたことは無かった。なんとなく、普段の彼の行動を見ていれば納得できたから。どんなことも完璧にこなすオールマイティ。それが評価されたのとばかり思っていた。
「ま、考えていたら懐かないか」
 木に寄りかかっていた和泉はそこから背を剥がし、ゆっくりこちらに近寄ってくる。
「コイツ、お前の嫌う“人殺し”だからな」
 克己の横を通り過ぎながら和泉は翔に向かって笑ってみせた。
「は?何言って」
 あからさまに困惑する翔に和泉が追い討ちをかける。
「でも、ま、お前も人のこと言えないからな。いいお友達になれるんじゃないか?」
 くすりと笑う彼の顔はどこか棘があり、その顔に翔は背筋に悪寒が走る。彼はやはり何かを知っている。
「和泉、お前っ」
「じゃあな“有馬”」
 昔の名字を呼ばれ、翔の表情が凍ったのを確認してから和泉はどこかへ行ってしまった。
 仲間を置いて、薄情な。
 そう思いつつも、翔は隣りにいる克己の反応が気になって仕方が無い。思わずぐしゃりと髪をかき上げて、この気まずい状況をどうにかできないものかと困惑していた。
「日向」
 そんな時に今の名字で呼ばれたから、はっと顔を上げて思わず克己の顔を凝視してしまう。
「は、はい?」
 慌てて笑顔を取り繕い、克己に近寄ろうとしたら両足首に激痛が走った。
 転びそうになったところを克己の腕に救われる。
「やっぱり」
 受け止められた時、耳元でそんな呟きが聞こえた。
「え?やっぱりって?」
「お前、この靴の重さ調節していないだろう。それでさっき暴れていたからな。足首に負担がかかって当然だ」
 しかも、手が使えなかったから足で感情を表現していた。バタバタと思い切り足を振り回し、足で攻撃。まぁ、かなり重い靴で攻撃された彼らも気の毒だ。
「重さの調節?聞いてねーよ!!」
「遅く入学したからだ」
 だから大人しくしていれば良かったのに、と克己が嘆息する。
 今更言われてもどうしようもない。やってしまったものはやってしまったのだから。
「大体、何で戦闘靴重くするんだよ・・・・・・実戦だったら無駄な体力消耗だろ」
「実戦じゃないからだろ。体力づくりだ。それに使いこなせばこれも武器になる」
 翔の嘆きにもしっかり説明をくれる。確かに、蹴ったくらいであんなにあっさりと卒倒されるとは思わなかったが、そんな理由が。
 立つのも疲れてきたような気がしてその場に座ると、克己も膝をついて翔の足首を掴む。
 激痛とまではいかないが、確かに痛みが走った。
「痛っ」
「少し腫れてるな。大人しくしていればすぐ治る。まぁ、こういう診断は佐木の方が得意だろう」
 遠也の名前を出され、少し気が重くなる。
 また、彼に迷惑をかけてしまうことになるから。
「遠也には、言わないでくれるか?」
 彼と別れる前に会話したことを思い出す。
 コレで怪我をして帰ったら、きっと彼にまた色々気を使わせてしまうに違いない。
「どうして?お前等仲良いんだろう?」
 彼ならきっと献身的に治療をしてくれるだろう。特に翔には。
 けれど翔は首を横に振る。
「頼むよ、克己!」
「頭から血が出ているぞ」
 克己が血を拭い、翔の目の前に紅い液体が付着した指を差し出した。ぬるりとしたそれはまさしく血液だ。
「げえ!嘘だろ!」
 思わず自分でも手を伸ばすと、傷口に触れてしまったらしく引き攣った痛みが走る。そういえば、結構体のあちこちを殴られた。
「ついでにお前体と顔も殴られたろう。ぱっと見てすぐわかる。頭の良いあの天才が気付かないわけが無い」
 無駄な隠し事は止めたほうが良い。そう彼は暗に言っていた。
 けれど翔は首を横に振る。
「嫌だ!遠也には余計な心配かけらんねーの!だって遠也は」
「はいはいはい。わかったからそんなに切なげに訴えるな」
 翔の肩を二三回叩いて落ち着かせる。
 俯く彼の顔はどこか悔しそうで。
 克己は本日何度目かもうわからないため息を吐いた。
「あの天才の診断と治療は適格だ。自分の体を考えるなら」
「いいよ。ほっとけば治る」
「日向!」
 突然の厳しい呼びかけに翔はびくりと体を揺らす。
 怒られる?
 そう思って身構えたが
「男は顔だぞ」
 克己はきっぱりとそう言った。
「・・・・・・はい?」
 いきなり彼は何を言い出すのだ。
「だから、男は顔。傷はあまりつけるな。殴られた後は必ず即手当て。そうすれば傷は残らない」
かなり真剣に言われ、絶句するしかない。しかも彼の顔がかなりの美形だから妙に説得力がある。さっき大人しく顔を殴られたくせに。
「や、お前も十分変だぞ、克己」
 てっきり彼は自分の顔には興味の無い人間だとばかり。
 女の子にキャーキャー言われても我関せずのクールタイプだと思っていた。実際そうだった。
 もしかしたら意外と気を使っているのかも知れない。
 そう思うとついまじまじと彼の美形顔を見つめてしまう。そんな翔の視線に克己は視線をそらす。
「とにかく、その顔に傷はヤメロ。見ていて気持ちのいいものじゃない」
 その言葉で納得した。
 自分の顔は女顔だ。確かにぱっとみて体格も男らしいとは言えないものだから翔は女に見える。
 それで顔に青痣を作ったり、切り傷を作ったりしたら確かに男としてはいたたまれない気分になるだろう。
「じゃ、帰るぞ日向」
「うん?って何やってんだよ」
 帰る、と言ったのは彼の方なのに、克己は自分に背を向けて立ち上がらない。
「乗れ。歩けるとは思えないからな」
 つまり、おぶってくれるということか。
 気恥ずかしい思いをしつつも、仕方なく彼の背に乗る。
「それとも、横抱きのほうがお好みか?」
 立ち上がる直前、克己が嫌味っぽく笑う。横抱き、という状況がどういうものか頭に浮かばなかった
から翔は首を傾げるが、「お姫様抱っこ」と付け足され顔を真っ赤にする。
「姫じゃねえ!」
「ま、姫だったらもう少し丁寧な言葉遣いだな」
「克己まで何だよ!みんなして姫姫言いやがってぇ〜〜」
 女顔だという自覚はある。けれどそれを今まで性格と特技でカバーしてきたのだ。それを知らない人間のところに行くと半年はこんな扱いを受ける。
 憤慨する翔を多分克己は笑っているのだろう。顔は見えないがわかる。首でも絞めてやろうかと思ったが、実行するには至らなかった。
 克己との会話が無くなった所為で考えるほうに集中していたから。
 さっき、和泉が言ったこと。
 克己が人を殺していて、自分も大して変わらないことをしている、と。
 克己にとっては、驚愕の事実だろう。でも、聞いた後も態度は変わらない。
 変われないのだろう。克己も、自分を責めることが出来る立場でないことを解っているから。
 そして、自分も。
 何もそれについて聞いてはいけない、暗黙の了解。
 そして、同類に対する警戒心が出来ているに違いない。けれどこの人が人を殺していると、聞いただけでは飲み込めない自分がいた。
 自分を、助けてくれた。
 今も、こうして気をつかってくれているのに。
 暖かくて広い背中が、なんとなく安心する。
「・・・・・・俺」
 自分の声に反応して克己が少しこちらを振り返る。
「何?」
「初めてかも。男の人におぶってもらうの」
 翔の言葉に克己が訝しげな表情になる。
 そりゃ、普通の家庭なら親におぶってもらっているだろうから。記憶が無くても予想は出来る。
「俺をおぶってくれてた人はいつも姉さん。兄貴なんていなかったし、父親は・・・・・・」
 やさしくしてくれた記憶さえ、ない。
「虐待、なんて難しい言葉、初めて知ったのは中学の時だった。毎日、殴られるのが普通で、言うがままになるのが子供の役目だと思ってた。逆らうと、死ぬほど殴られたから。あの人の手は大きくて、石のように硬くて冷たかった。背中の暖かさなんて、知らない」
 どうして血の繋がりの無い人の背中で寛いでいるのか、少しわからなくなっていた。
 その所為か、しゃべらなくて良い事まで話しそうだ。
「俺をおぶってくれたのは、姉さん。姉さんの背中は、段々ちいさくなってきた。細くて、俺なんか乗っかったら壊れてしまいそうで、正直安心なんて出来なかったな。俺が、守らないといけなかったのに」
 自分の話を克己がどんな顔で聞いているのかわからないけれど、どうせ無表情なのだろうと自己完結する。
「虐待なんて今の時代、珍しい事じゃないけどな。毎日のようにニュースで子供が死んで、親が逮捕されてる。殺されないだけ、マシだったのかも。ああ、違う」
 殺される前に、殺したんだ。
 翔の呟きはきちんと克己の耳にも届いていた。
 振り返る彼に、翔は穏やかに笑ってみせる。
「和泉が言ってたの、本当。俺が殺した相手は実の父親」
 理由を言え、と言われたら沢山並べられる。
 姉を守りたかった。
 彼が怖かった。
 痛いのが嫌だった。
 死にたくなかった。
 自分に与えられる罰はなかった。
 正当防衛として、認められたから。
 けれど、この手で人の命を奪ったのは事実。
「どんな理由でも、人殺しは人殺しだから、誰かに怯えられたり、警戒されたり、罵倒されたって、反論は出来ない」
「・・・・・・そうか」
「今の姓は叔父さんに引き取られて、変わった。和泉が言ってた『有馬』が元々の名前」
 ついでに色々疑問に思っているだろうことを解消しようと、説明した。
 手の内をさらしたところで、本題。
「俺、克己のこと信じるから」
 彼にとっては煩わしいことだろうけれど。
「俺のことを信じてくれとは言わない。でも、俺は信じる」
「お人よしだな」
「言ってろ。克己は俺を助けてくれた。和泉の言葉なんて信用しない。克己の言葉を信じるから」
 ぴたりと克己が歩くのを止める。
 怒ったのだろうか。
「何故?」
 克己が口にしたのは簡単な疑問句。
「お前の背中、暖かいから」
 翔はあっさりその問いに答えた。
「それは、人間なら当然だろ」
 的確な突っ込みに苦笑する。
「そうだよ。人なら当然だ。人なら」
 血の通っている人間なら。
「少なくとも、俺にとって父さんは人じゃなかった」
 冷たい視線。
 冷たい拳。
 思い出すだけで体が冷える。あれはまさしく鬼とか悪魔とか獣とか、そう形容して良い人間だった。
「克己は、暖かい、人だ」
 あの父親が人間だと気が付いたのは、彼を刺して彼の体から生温かい血が噴出した時だった。




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