「甲賀、呼び出し」
 翔が教室で克己と他愛も無い話をしていると、正紀がやってきて、扉の方を指差した。克己も翔もほぼ同時にその方向を見れば、女子が数人、一人は恥ずかしそうに、そんな彼女を勇気付けるように肩を抱いている少女達の姿がある。そんな様子に、呼び出しの内容くらいは翔でも察せる。
 無言で立ち上がり、友人2人に背を向けた克己を正紀は見送り、そしてその背が教室の外へと出た時にため息を吐いた。
「ったく、何であんな男がモテるんだよ」
「格好良いからだろ」
「日向、お前なぁ……」
 さらっと克己の格好良さを認めてしまっている翔に、正紀は再びため息を吐いた。甲賀克己がモテる理由を察せない程正紀は愚鈍ではない。しかし、同じ男としてそれを認めてしまうのは少々癪だ。なのに、翔はあっさりとそれを受け入れていて、翔が克己と友人関係を結べている極意を知る。
「甲賀に告白する子って、可愛いよなぁ。何であいつあっさり振っちゃうわけ?」
 克己が今まで座っていた椅子に座り、本格的に話す姿勢になった正紀に翔は眉を上げた。確かに、先程の女子も可愛い子だったなぁ、と翔が思い出していると、正紀がぼんやりと宙を見上げる。
「もしかして、甲賀って熟女好きだったりすんのかなぁ。人妻じゃないと駄目とか」
「……や、それはどうだろう……」
 翔も克己の好みのタイプは詳しくは知らないので、きっぱりと否定は出来ない。言葉を濁した翔に、正紀が顔を覗きこんだ。
「なぁ、実際甲賀ってどういうのがタイプ?」
「え?」
「AVとか一緒に見たりしねーの?」
「しないな」
「うっそ、マジで。こういうのは真の友情関係を結ぶ為には必要なイベントだぜ、日向君」
「篠田も矢吹と観るのか?」
「アイツと観るとエロが死亡フラグなんだぞ……!」
 両手で顔を覆う正紀に、いずるがホラー好きだということを思い出す。それは確かに盛り上がらない。
「なぁ、じゃあ日向今度一緒に観よう。お前だって興味あるだろ?」
 気を取り直した正紀からの誘いに、翔は困惑する。
「あー……いや、俺は」
「あんまり聖人ぶんなよ、俺はお前の頭の中理解出来るぞ。何故なら俺も同い年の男だからだ!」
 ビシッと決めた正紀の言葉を流石に否定は出来ず、翔はそんな彼から視線を泳がせた。興味がないと言うのは確かに嘘になるだろう。自分も一応普通の思春期真っ最中の男子で、女性に興味がないわけでもない。
「で、日向はどういうタイプの子が好き?」
 ニヤリと笑いながら肩を抱き寄せてきた正紀の馴れ馴れしい態度に、翔はぎくりと身を竦めた。先程まで克己に向けられていた興味の矛先が自分に向けられてしまったのだ。
「俺は、別に」
「別にー?」
「別に、普通だっ」
 答えずにいて克己のように人妻やら熟女好きだと思われては堪らない。少なくとも自分の趣向は普通のはずだと、それだけ答えれば、正紀が質問を変える。
「そういえば、日向って彼女作ったことねぇの?」
「え?」
「ちょっとはモテそうな顔してるじゃん、お前だって」
 つん、と頬をつつかれ、その指摘に翔は表情を微妙に歪めた。確かに、告白された事はないと言えば嘘になる。そして、遠也にも話したことの無い事実も、ある。
「……一回だけ」
「おぅ?」
「一度だけ、ある」
 正直あまり思い出したくない過去で、翔は少々悔しげに口を開いた。
「中3の時、今好きな相手がいないなら付き合ってって言われて、それで」
「まーじでぇ?」
 心底意外そうな反応をする正紀の態度が癪だが、それだからこそこの先の展開を言いたくないのだが、彼はきっと逃がしてはくれない。だから、腹を括るしかなかった。
「でも、一緒に帰ろうって言われても、俺は穂高さんとの稽古があるから早く帰らないとだったし、朝も稽古あって余裕持っての登校出来なかったし、その人とは違うクラスで、告白されても3日くらい顔を合わせられなくて。昼も遠也達と食べるからって断わってたし、携帯も持ってなかったし」
 早口でまくしたてる翔の話に、段々正紀の顔からにやけた笑みが消えていった。そして、極めつけのエピソードを翔が口にする。
「4日目に、ちょっとガラの悪いヤツに絡まれてる女子を助けたら、何か見られてたみたいで、怒られて、何で怒られるのか解からないって言ったら、キスしろって言われて、出来ないって言ったら終わった」
「日向……」
 お前ってやつぁ。
 呟くように言った正紀を翔は強気の目で見上げる。自分は何一つ間違った事はしていないはずだ。
人間としては恐らく間違っていないだろうが、男としては若干ズレた面がある。だが、それが日向翔の良いところでもある。しかし、昼休みくらいは友人ではなくその女子を選んでも良いものを。
「俺はお前のそういうところ悪くないと思うけど、女子が少し可哀想だ……お前、それじゃあ一生彼女出来ないぞ。よし、お前には俺が女の良さを教えてやる!」
 見てろよ!と何故か捨て台詞を吐いて正紀は教室から出て行った。そんな彼の姿をポカンとして見ていたが、まぁ良いか、と瞬時にこの事は忘れてしまった。
 
 そんな会話をしたのは、昨日だった、と翔は思い出したのは、正紀が翔達の部屋に来て、克己の不在を確認してから、5枚のDVDを取り出して翔に渡した時だった。正確には、この時はまだ思い出せてはいなかった。その真っ白いDVDの正体を彼の口から告げられた時だ。
「いずると俺で選んだヤツだ。普通路線だから、まぁ安心しろよ」
「矢吹も!?まさか矢吹に変なこと……」
「言ってない言ってない。ただ、日向がAV見たがってるって言っといた」
「それ既に変なことだろうがー!!」
 見たがった覚えはないと顔を真っ赤にするが、正紀は笑って流した。
「まぁまぁ。それあげるから許せ」
「いらない、持って帰れ。第一、克己がいるのに見れるか!」
「一緒に見れば良いじゃん」
「俺らの友情に亀裂を入れる気か?」
「いや、むしろ深まると思うぞ。気になるなら、俺に考えがある」
 任せとけ!と笑う正紀を翔はどうにかして止めたかった。彼の考えはどうせロクなことではないことは予想がついていたが、何か翔が言おうとしたその時、克己が帰ってきた。翔は慌ててそのDVDをベッドの中に隠すしかない。
克己は正紀が部屋に居ることに少々怪訝な顔を見せたが、正紀はそんな彼の肩を叩いた。
「なぁ、甲賀明日休みだし、これから俺らで飲まないか?」
「ああ、別に良いが。翔もか?」
「そ、日向も来るよな?」
「え?あ、うん」
 思わず頷いてしまったが、その時正紀がにやりと笑ったのを見てしまう。これも、彼の突飛も無い計画の一部だとその笑みが語っている。
 胸騒ぎを抱えつつ、彼らの部屋に行けば、話を知っているいずるがにこやかに迎えてくれた。酒の肴も酒も大量に用意されている。異常だろう、と思う程の量が。しかもその種類も、アルコール度数が高いもののような気がするのは気のせいだろうか。
「な……」
「さぁ、今日は飲むぞー!」
 うきうきと手当たり次第瓶を開ける正紀と、克己もその酒の量に驚いているらしく、なかなかその種類の豊富さから目が放せないらしかった。
「お、おい……」
 戸惑う翔に、いずるがこそりと話しかける。
「大丈夫、正紀は親父さんに似てザルだから、甲賀も潰せるぞ」
「つ、潰す?」
 不穏な単語に翔が目を見開くと、彼は何故かウィンクを返し、そして
「日向がアレを観る時間を作る為に、甲賀に酒をひたすら飲ませるってこと。ま、正紀は単純に酒飲みたいってのもあるだろうけどな」
 その言葉に、全身から一気に力が抜けたような気がした。下らない、下らなすぎる。
「えぇー……」
「日向だって観たいだろ?それに……」
 いずるは意味深に視線を下し、そしてニコリと笑う。
「溜めすぎは体に悪いし、思いっきりやる機会は必要だろ。甲賀は外で解消出来るだろうけど、日向はそういうタイプじゃなさそうだし」
 まるで、最近の自分の性事情を見抜いているような彼の一言に、顔を赤らめるしかなかった。
 確かに、そういうある種生理的な欲求は声を潜めてシャワー中に済ませるしか術がなかったのは事実だ。そして克己は外で済ませているということは、つまり、外で女の子と……ということだろう。
 自分と彼のあまりの落差に正直ため息を吐きながら、翔は渡されたアルコール度数の低い酒を飲み干した。

「秘蔵の酒だぞ!これ高っけぇんだからな!」
 とうとう用意をした酒を飲み干し、正紀がそれを取り出してきたのは一体何時間前だったんだろう。そして、一体自分は何時間前に意識を失ってしまったんだろう。翔はあまり明瞭にならない頭を動かそうと必死だった。
 目を覚ましたその時、自分は正紀達の部屋に居た。意外なことに下戸だといういずるが、彼自身のベッドで眠っているのは予想がついていたが、目の前でいまだ向かい合って酒を飲む2人の姿に、翔は戦慄した。
「か、克己に篠田……お前ら、まだ飲んでたのか?」
 それぞれ小脇に一升瓶を置いていた2人は、胡坐をかいてグラスにそれを注いでは飲み干している。
 思わず壁掛け時計に目をやれば、もう午前3時になっていた。翔の意識が失われたのは確か1時くらいだったような気がする。それから2時間、彼らはひたすらに飲み続けていたのだろう。しかも、黙々と。
 正紀が自分のグラスに透明な液体を注ぎ、それを飲み干せば、克己が自分のグラスに酒を注ぎ飲み干すという飲み方から見るに、2人は飲み比べをしているらしい。正紀が克己を潰すと豪語していたが、潰すつもりだとしても、きっともう当初の目的は忘れているに違いない。
「お、なぁんだ?日向、起きたのか?」
 くるりと翔を振り返った正紀は、完全に酔っ払っている顔だった。上気した顔に、どこか舌足らずな口調は間違いなく酔っ払いのそれだ。対して、克己の顔色は大して変化がないように見られたが、どこか緩慢な動きに、彼も酔っているのだと悟る。もう限界だ。
「お前ら……酔ってるな。もう止めろよ、明日休みだけど、それ以上は体に毒だ」
 遠也がいたら、彼に説教をしてもらうところだが、きっと泥酔しているこの2人には遠也の怒気は全く伝わらなかっただろう。
 取り合えず正紀の手に持つグラスを取り上げようとすれば、その手は正紀に捕まれてしまった。
「篠田?」
「日向げぇーっと!」
 ひゃははは!と高い声で笑い、正紀は翔の体を強く抱き締め、そしてひたすら笑い続けた。その音量の高さに翔は慌てる。
「おい、篠田!矢吹が起きるぞ!」
「んー?起きれば良いぞ!そしてまた飲みなおすぞ!」
「これ以上飲むな!」
「まぁだまだ飲むぞぉー!ごふっ!」
 頭上で変な声が聞こえたと目を上げれば、正紀の頬に拳が入っていた。その犯人は、彼しかいない。
「克己」
「翔を放せ」
 淡々とした声でそう言ったかと思えば、正紀の腕から翔を奪い上げた。正紀はそれに抵抗することもなく、というか、最初から危うかった意識が、殴られたおかげで完全に沈んだらしい。そのままフローリングの床の上に転がってしまったのを見て、翔は若干血の気が下がる思いだった。
「ちょ……だ、大丈夫か、篠田?」
 勿論、そんな翔の気遣いが正紀の耳に届くことは無かった。しかし、翔を軽々と抱え上げていた克己の耳にはしっかりと届いていたらしい。
「お前は、俺よりも篠田を心配するのか?」
「おい、お前が殴ったんだぞ」
 酔っている所為で、克己は自分の力の制御を出来ずに正紀を殴り飛ばしてしまっていた。眉間を寄せて克己を見れば、彼もまたどこか不満げな表情だ。
「部屋に戻るぞ」
「あ、こら……うおっ!」
 自分を抱えたまま歩き始めた克己に文句を言う前に、長身の彼に抱えられているおかげで、天井や色んなところに頭をぶつけるのを阻止しないといけなかった。普段の克己なら、そういう事も考慮するのだが、今日は酔っ払っている為に、自分の思うがままに行動している。
 そういえば、こんな克己を見るのは初めてだな。 
 酔っているのを見るのも初めてで、ただ自分のやりたいように行動をしている彼を見るのも初めてだった。物珍しさに言葉を失くしている間に、自室へ戻り、翔は自分のベッドに落とされた。まるで、荷物でも落とすように。
「お前、酔ってるにしても乱暴だぞ!」
 痛みはなかったが、突然枕に顔面を深く埋めることになり、翔は息苦しさに呻いた。年代を経ているベッドも危うく壊れそうだった。そして、背に隠していたDVDが当たったことにも、少々ハラハラしていた。
「俺は、酔ってない」
 克己はそう言いながら翔のベッドに腰掛けるが、足元が覚束ない辺り、どう見ても酔っ払いだ。
「酔ってるだろ。水飲んで寝ろよ」
「さっきの、答えは?」
「さっきの?」
「翔は、俺よりも篠田の方が心配か」
 至極真面目な顔で問う克己はいつもどおりの顔に見えたが、若干の違和感は絶対に酔いの所為だ。酔っても顔に出ないタイプというのは解かり難くて面倒だ。
「あれは、お前が篠田を殴るから」
「篠田がお前を抱いてたから殴った」
「何でそれ位で殴るんだ」
 正紀はあの時完璧に酔っ払っていたのだ。酔っ払いに絡まれるのは初めてではない。あの程度は普通だろう、と翔は捉えていたが、克己はどうやら違ったらしい。
「……お前、篠田が好きなのか」
「え?」
 思わぬ問いに目を大きくすれば、克己はもうそれが決定したと言わんばかりにため息を吐く。
「そうか、それは気付かなくて悪かったな」
「ちょっと待て、なんでそうなる!」
「お前、篠田に抱かれたかったんだろう?」
 だって、と言わんばかりに言う克己の言葉はいちいち理解出来ない。思考が恐ろしく飛んでしまっているのだ。
「だ………ば、ばかっ!そんな意味じゃない!」
 克己の言わんとしていることを察し、翔は顔を赤くして怒鳴る。自分があの元不良に?彼には悪いが、絶対に有り得ない、死んでもごめんだとまくしたててしまった。正紀自身も翔にそんなことをしようと考えた事はないだろうが、この必死の言葉を耳にしたらきっと嘆いただろう。
 しかし、克己には効いたのか、彼はどこか納得したような表情だった。
「篠田よりは俺の方が好きか」
「は?」
「俺が好きか?」
 何でそんな方向に話が進むのか解からないが、克己の黒い目にじっと見つめられ、またさっきとは違う意味で顔が赤くなるのが解かった。
 いや、酔っ払いに緊張してどうするんだ、俺。
「克己は特別だ。親友だし、す、きだよ、そりゃ」
 ふいっと克己から目を逸らしながら答えれば、その顔を両手でつかまれ、戻される。
「そういうのは、ちゃんと俺の目を見て言え」
「な……!」
 酔っ払いの更なる要求に、翔は言葉を失いかけた。それでも、克己はやはり酔っているくせに真面目な顔で見つめてくる。酔っ払いにまともに付き合ってはいけないとは思うが、思うが……。
 何でコイツ、こんな微妙に色気をまとっているんだろう。
 それが、翔が妙に自由に動けない理由だった。普段も勿論女子に騒がれるだけあって、なかなかに格好良い親友だが、酒気を帯びた彼は何と表現すれば良いのか解からないが、妙に色気があった。たまに、芸能人のランキングで「最もセクシーな男」というのを見かけ、男にセクシーとかアホかと思っていたが、今唐突に理解した。そして、直視出来ない。
「す、好きだ、克己が好きだよ。もうこれで良いだろ!」
 もう寝ろよ、と顔を固定していた手を外させ、顔を再び背けたが、そんな翔のこめかみに、何かが擦寄ってきた。ぎょっとして見れば、克己が顔をそこに埋めている。
「そうか、良かった」
 耳元で聞こえた声にカッと顔が熱くなった。その声が妙に熱を帯びているくせに、どこか安堵したような声色で、そんな友人の声を聞いたのは初めてだ。ついでに、こんなに近距離に彼を招いたのも初めてかもしれない。いや、抱えられたり手を貸したりというのは、訓練中によくしているけれど、こんな形での触れ合いは初めてだ。
 その所為か、妙に緊張してきた。もっと自分を失うほど酒に呑まれていれば良かったと、こっそり思うくらいには。
「お、前は」
 これを聞くのは恐らく今しかない、と口を開いたが、矢張りそれほど酔えてない所為か、羞恥でなかなか口が上手く動かないのが解かる。それでも相手は酔っ払いだ、と心の中で自分を励まし、どうにか言い終える。
「克己はどうなんだ。俺が好き……なのか?」
 って、これは何か恋人に聞くみたいで何か変じゃないか?
 ストレートすぎた聞き方に、少々後悔をしたが、矢張り相手は酔っ払いだった。それほど気にせず「好きだ」と、質問者の躊躇に全く気付かずあっさりと答えてくれる。しかし、あっさり過ぎて、若干翔の中に不満が残った。
「どこが?だって、俺はお前ほど強くないし、遠也ほど頭も良くねぇし、矢吹みたいに家柄が良いわけでもないし、篠田ほどぃででででででででで」
 個性的な友人達の取り柄を上げていたら、克己に両頬を軽く抓られた。突然すぎる出来事に何事かと痛みで潤んだ目で友人を見上げれば、
「こんなに可愛いくせに何言ってるんだ、お前」
「可愛……なんだそれ、まさか俺の顔のこと言ってるのか?つーか可愛い言うな!」
「可愛い可愛い」
「この酔っ払い!早く寝ろ馬鹿!」
 さっきの正紀のように翔の細い体を後ろから抱き締め、頭を撫でてくる親友のこの過剰なスキンシップに翔は暴れるしかない。
 普段は克己は自分に対してそんな言葉は使わない。何故なら、翔がそれを言われるのを嫌うことを知っているからだ。それなのに、その言葉を引かないのは、相当酔っている良い証拠だ。
「好きだから、可愛いんだろうが」
「な……」
「照れるな」
「違う、照れてない!」
「顔が赤い」
「酒の所為だ!」
 それが正解だろうが、顔が熱いのはそれだけでないのも事実だろう。まさか、酔うとこんな天然の口説き魔になるとは思わなかった。女の子が隣りにいたらきっと大変だったんじゃないかと思うが、そんな事を考えている暇はなかった。
「脈も上がってるぞ」
「うぉわっ!」
 服の下に入り込んだ手が心臓部分、つまりは胸元を撫で、そのくすぐったさに翔は声を上げた。単純に驚いた声だ。
「何お前、酔うとセクハラすんの?」
 こういうタイプに出会ったのは初めてではない。が、振り向いた克己の顔はその指摘に少し不満げだ。
「これがセクハラの域に入るのか?」
 確かに、男が男の胸を触ったところでセクハラに入るかどうかは解からない。女性なら確実にそうなるだろうが、そういえば自分も前に克己の胸筋に感動して触らせてもらったことがある。あれもセクハラに入るのだろうか。そんな事を考えていると、
「翔お前、細いな」
「うん、今セクハラ認定した。離れろ」
 背中からの失礼な一言に拳を握ったが、克己はあっさりと離れ、そしてそのままベッドに沈んでいた。
「克己?寝たのか……?」
 こそりと声をかけても反応がない。本当に眠ってしまったらしい。その事に息を吐き、翔はシャワールームに向かった。シャワーを浴びて寝るつもりだったが、仮眠をとってしまった所為か、眠気が飛んでいってしまっていた。シャワーを浴びれば、更に意識がはっきりしてしまい、どうしたものかと暗い部屋に戻り、自分のベッドに克己が寝ていることを確認した。とりあえず、自分は克己のベッドでと考えたその時、思わず「げ」と声を上げてしまう。
 克己が寝ているベッドに、隠したDVDが入っているのだ。
 そろそろと自分のベッドの近くにしゃがみ、DVDのあった場所に手を忍び込ませてどうにか5枚とも救出する。そのミッションを無事済ませて翔は安堵の息を漏らした。
 正紀は自分にこれを見せる為に、あんなに頑張ってくれたんだよなぁ。
 それを思うと、何だかこのタイミングで見ておかないと可哀想な気がしてきた。確かに、今は彼が目論んだ状況になっている。克己はもう朝まで起きないだろう。
 1枚くらいなら観てもいいか、とパソコンにDVDを入れ、床に座った。こちらが何か操作をする前に再生が始まり、暗い部屋で一人鑑賞会が始める。
 AVの類は、以前色々あった所為かずっと性的なものを避けていたが、中3の時に自分でもいつまでもこのままではいけないと思い、一度だけ観たことがある。友人に誘われて、友人宅で。メロドラマ仕立てのそれを見ることは出来たが、興奮の類はしなかった。今日もそうだろうと思う。舞台はどこかの高校で、あからさまに高校生には見えない役者達が、恋愛劇を繰り広げていた。多少棒読みなのは、目を瞑った方がいいのだろうか。
 確かに流れは普通で、そして展開も所謂王道だった。メインの男女は幼馴染で、隣の家に住んでいる。そして最近2人は付き合うようになり、本日彼女の家に両親は不在で、そこで一線を越えると。
『私、初めてだから……』
 そう不安気に訴える彼女に彼はキスをし、そして2人は服を脱ぎ始める。その後に始まる行為から、何となく視線を外してしまう。他人のそんなものを見て良いのかという罪悪感と気恥ずかしさからだ。
 男優の黒髪に何となく横で寝ている友人の存在を思い出させられた所為もある。髪型が若干似ているだけで、顔は全く似ても似つかないが、ちょっとした連想はさせられた。
 こいつはもう、こんなの見るような虚しい事をする必要はないもんなぁ。
 そう考えるだけでひたすら虚しい。
『あん、あ、あ……っかつみくんだめぇ!』
 ぶっ。
 一気に映像の方に意識を持っていかれたのは、突然女優が友人の名を叫んだからだ。普通、こういうビデオは誰かの名前は入れないものだとは聞いていたが、最近は科学が進み、呼ばせたい名前を入れるとそれを呼んでくれるという機能がついている物があることを翔は知らなかった。つまりは、正紀といずるの共同の悪戯である。因みに、他の4枚のうち1枚、翔の名前を呼んでいるものもあるのだが、何も知らない翔はそれを選び抜くことは出来なかった。
「な……」
 しかし、これでも充分驚かされた。あまりの出来事に翔は絶句してしまう。画面の中では白い体が友人の名を呼び、身をくねらせている。因みに、女優の方の役名は“ゆいこ”と見知らぬ名だった。一瞬凍りついた思考は徐々に溶解し、これがあの隣りの悪友の悪戯であることに気付き始めた。ここまで来ると、怒りを通り越して、手の込みように感心してしまう。
 画面は女優の大きな胸がアップになり、それを揉む男の大きな日に焼けた手に合わせて女優の喘ぎが高くなる。
『克己くぅん!』
 うわぁ、何かすっげぇ気まずい。
 思わず床に投げ出していた脚を寄せ、身を縮めてしまう。矢張り比較的男優の顔が映らない所為か、まるで友人のそういう場面を見ているようで居心地が悪すぎる。というか、こういうものを観て興奮しない方が男として不味いと思うのだが、友人の名を叫ぶ女優に興奮するのは倫理的に問題のような気がした。
 他のDVDにも何らかのトラップがあるのではないかと思うと、それに手を伸ばす気にもなれず、もうこの虚しい鑑賞会は終わりにしようと若干熱を持っていた腰を持ち上げようとした時だ。
「楽しいのか、これは」
「楽しいっつーか……克己!!」
 ため息を吐きながら答えようとして、その声の主に翔は心臓が止まるかと思った。いつからそこに居たのか、克己が自分の後ろでパソコンの画面を眺めている。
「な、なん、な……お、お、」
 なかなか言葉を言えない翔の様子に克己は片眉を上げた。
「自分の名前をこんな声で呼ばれたら流石に起きる」
「ですよ、ねー……」
「これは何だ?」
 一番問われたくない質問に翔がどう答えようかと考えていると、先に克己が助け舟を出した。
「どうせ、篠田と矢吹辺りに見ろと言われたんだろう」
 若干経緯はあっていないが、正しくその通りだった。話が解かる友人だと助かる。
「そうなんだ、そう!俺もこんなの貸されるとは思ってもみなくて!」
「だろうな。俺も篠田からそう聞いている」
「は?」
 今コイツ何て言った?
 きょとんとした翔に克己は小さく笑う。
「女との付き合い方を日向に教えてやるんだって、酒を飲みながら豪語していやがった。それに、俺の所為で翔が上手くストレス発散出来てないとも。後、お前が昔女相手に失敗したことも」
 正紀は酒には強いが、口が軽い方だったらしい。翔が寝ている間に酔いに任せてあっさりと克己に目的を話していたらしかった。普段止める役であるいずるは寝入っていたし、誰も彼を制止しなかったのだ。
 余計な過去の話までされていたと知り、翔は項垂れるしかない。
「そ、そうか……」
「悪かったな、気を遣ってやれなくて」
 克己の方は何かを反省していた。そんな風に言われては「気にするな」と言うしかない。元々それほど気にはしていなかった。自分も男だから、2,3日に一度くらいはシャワールームで処理をする。しかし、それで充分だ。確かに今回AVで気分が盛り上がるかと思ったけれど、そうでもなかったし、邪魔をされたとも思っていない。
「ちょっと、聞きたかったんだけど」
 背後で克己の名を叫びながら喘ぐ女性の声を聞きながら、今なら聞けると翔も口を開く。
「あの、克己って、帰りがたまに夜遅くなるのってもしかして、女の人と……」
 後半の方はもう殆ど消えてしまいそうな音量になっていた。AVよりもこっちの話の方がよほど恥ずかしい。
 克己はしばし怪訝な顔をしていたが、翔が何を聞こうとしているかようやく察したようで、ああ、と声を上げた。
「ああ、まぁ……特定の相手じゃないが」
「恋人じゃないのに、するのか」
 責めるつもりはなく、単なる問いだったが、克己は少し眉間を寄せた。
「そこを聞くのか……相手も商売だ。自分に好意のある相手は抱かないことにしている」
「え、何で」
「本気にされたら困るからな」
 モテる男の言い分は凄い。翔には考えもつかないことを話した克己には少々唖然とさせられたが、その沈黙をどう捉えたのか、克己はため息を吐いた。
「俺も男だ。特に、激しい訓練の後は気が高ぶってしょうがない。危険に晒されればされるほど、どうも興奮する性質みたいだ」
 その感覚は翔にも理解出来なくも無い。確かに、危険に晒されるほど心臓は高鳴り、気が研ぎ澄まされるが、それが性欲に直結したことはあまりない。しかし、軽いドラックでも使われたような感覚に囚われることがある。体が妙に軽く、まだまだ動けるという時に授業が終わると、戦闘用に作られた脳を静めさせるのには苦労する。けれど、克己もそんな感覚に陥っていたとは知らなかった。
「……お前、授業終わってもそんな変わんねーじゃん」
「授業はそこまで興奮しない。だが、酷い時は酷い。誰かを殺すか犯すかしないと気が済まない」
「嘘だろ」
「本当だ」
 克己があえて酷い言葉を選んでいると思ったが、彼の眼は言葉の内容にそぐわないほどに冷静な黒だった。嘘を吐いているような眼では無い。
 この友人はたまに自分にこうして遠回しに警告をしてくる。怖いと思ったら自分から即座に離れて構わないと、そう言いたいのだろうが
「なんだったら、俺が相手してやろうか」
 この俺がその程度で逃げ出すと思ったら大間違いだと、笑ってやった。けれど、克己の方は驚いたように目を見開き、そして即座にその顔を顰めた。
「流石に、言って良い事と悪い事があるぞ」
「何だよ、冗談だと思ってるのか?俺ならタダだし、後腐れもないし、篠田はその程度は友情関係を深められるって……あぁ、物は試しだ、やってみるか?」
 触り合い程度のことは、中学時代悪友達が馬鹿騒ぎをしながらやったとか何とか言っているのを聞いた事がある。克己はそういう環境にいなかっただろうから、そんな翔の申し出についていけないらしく唖然としているようだった。普段は冷静な彼の驚く顔というのは珍しく、そしてとても楽しい。
 早い話、翔のこの言葉は冗談というよりも、ジョークに近いものだった。女性に誘われたことはあっても、男に誘われたことはないのか、克己の慌てぶりは更に翔を増長させる。
「つっても、俺そんな上手くねーと思うけどー……」
「待て」
 手を伸ばそうとしたところで、克己に止められる。流石にやりすぎたかと翔が撤回を口にする前に、彼は翔が着ていたパーカーの白いプラスチック製のジッパーに手をかけた。
「俺はシャワーを浴びてないから、俺がしてやる」
 今翔が着ている服はシャワー後によく着ている部屋着であることは克己も見抜いていた。
 ジジジとゆっくり下げられるジッパーの音に今度は翔が硬直する。するのとされるのでは、全く違う。それ以前に、自分の今までの言葉は冗談だ。
「ままま待てッ!俺は良い!別にお前ほど困ってない!」
「俺だって別に困っては無かった。困ってるのはお前の方だろ。俺に遠慮して溜まってたんだろうが」
「ば、溜まってなんかない!それは篠田が勝手に……!」
「俺にするつもりなら、それなりに上手くなって貰わないと困る」
「何だとー!それじゃあまるで俺が下手みたいな」
「違うのか」
「違わないけど真顔で聞き返すな」
 下手なのは自覚をしているけれど、それを何も見ていない克己に指摘される筋合いは無い。ふいっと怒りに任せて顔を逸らした先には先程のAVが流れていた。それにぎくりと身を震わせた翔の背に克己の一回りくらい大きな体が覆い被さった。
「か、克己」
「丁度良いな。それ見ていれば良い。それなら自分でやっているのと大して変わらない」
 耳元で囁かれている時点でかなり違うような気がするが、それを指摘する前に短パンの中に手が入ってくる。自分よりずっと大きな手だ。
「おぃい!」
 思わずその手に繋がる腕を掴んでいたが、男の最大の急所である部分を軽く掴まれ身を竦めるしかない。
「ぅわ、克己……!」
 軽くもがいた拍子にバランスが崩れ、どん、と肩が彼の肩口に軽く当たり、体全体を彼の胸に預ける羽目になる。背にじんわりと伝わってきた克己の体温に、かっと体が熱くなるのが解かった。それに下半身もあっさり反応し、おかげで背後の親友にも自分の熱を知られてしまう羽目になる。恥ずかしさに目尻に涙が溜まった。
「やだ、もぅ嫌だ」
「そんなに怯えるな、大丈夫だ」
 ふるりと震えた小さい身体を片腕で抱き締め、あまり聞いた事の無い甘く優しい声で翔の耳元で囁いた。その声にふっと恐怖心が軽減されたような気がした瞬間、下半身への刺激が再開された。
「ひゃ……」
 思わず身を縮め、両足でその腕を挟んだが、何の抑止力にもならなかった。普段よく力を貸してくれる彼の手が自分の体、しかも他人にあまり晒すことのない場所に触れている事実だけでも頭の中が沸騰しそうだった。そろりと涙がたまった目を下に向けても、克己の手首しか見えない。後は自分の黒い短パンが隠してくれているが、相手の慣れた手付きに弄ばれ、熱い息を吐くしかなかった。
「結構溜まってたんじゃないのか。それともお前が感じやすいのか?」
「っ……そんなんじゃ」
 確かに、自分でも変だと思う程体が熱い。普段の処理ではこんな腰が砕けてしまいそうな感覚をあじわったことがない。
「昨日、したのに……」
 は、と熱い息を吐いたついでにぽろりと零すと、克己が「昨日?」と低い声で聞き返してきた。しっかりと聞こえていたようだった。こんなに密着していて聞こえないはずがないのだが。
「昨日、俺は部屋にいたぞ」
「だ、から……シャワーのとき、だろ」
 快感に流されるがままに素直に答えると、「ああ……」と納得したような声が後ろで聞こえた。
 もう、この短パンの中がどうなっているのか何て考えている余裕はなかった。粘着質な水音が僅かに耳に届き、無駄な動作だとわかっていても片耳を克己の横顔に押し付ける。まるで頬を摺り寄せたような動きになっていることに気付きもせずに。
 全身から力が抜け、頭を克己の肩に任せると自然と視線が天井へと向いた。反らされた喉の筋肉が唾液を嚥下するたびにその動きを伝えてくる。ぼんやりと投げ出した視界の隅に、暗い天井を仄かに照らす光りが揺れた。
「かつみ……」
 もうただ友人の名を呼ぶしか術が無い。その甘さを含んだ切ない懇願の声が、彼の暴挙を増長されることになるとは予想もしていなかった。
 突然、自分の体を抱いているだけだったもう片方の手が、パーカーの下のTシャツの下に入ってきたのに、霞みつつあった脳が警鐘を鳴らした。
「な、に……?」
 しかし、それはあまり危機を教える役目は果たしていなかった。今まで克己と付き合ってきて、彼が自分に危害を加えるわけがないと、どこかで安心しきっていた所為もある。
「大丈夫だ」
 彼のその一言だけで納得させられてしまう位、翔は彼を信用しきっていた。
「ん……」
 腹部を撫でる手の感触が何だか気持ちよく、喉の奥から自然と声が漏れる。まるで犬か猫のようだと自分でもぼんやり思う。服従のポーズを取った犬の腹部を何度か撫でたことがある。その時は楽しさと面白さ半分でわしゃわしゃと友人と撫でていた覚えがあるが、克己の手付きはそれとは違い、まるで壊れ物に触れるような慎重さがある。
 こんな触られ方したら、例え克己が好きでなくとも一晩体を預けても思ってしまうだろうな、と納得してしまう。
 腰から胸へと滑る手が故意か偶然かは解からないが、硬く尖る乳首の先を軽く擦った瞬間、何とも言えない感覚が腰に流れ、下半身の熱を高めた。
「うわ……!」
 強い刺激に半分夢心地になっていた頭が一気に覚醒し、思わず自分の胸にある克己の手の甲に手を重ね、動きを止めようとしたが、無理だった。
「克己、そこ、」
 止めてくれ、と訴えようとしたが、上手く言葉をつなげないのを良い事に「気持ち良いか?」と言葉尻を奪われてしまう。しかし、素直な下半身の反応を知られている手前、違うとも言えず、否定の言葉を飲み込むしかない。
「かつみ」
 代わりに今自分の体の主導権を全て握られてしまっている相手の名前を呟くが、それで彼にどうして欲しいのか自分でも解からない。止めて欲しいのか、それとも。
「それ、良いな」
「……へ?」
 その時、ぽつりと克己が耳元で呟いた。
「お前に名前呼ばれるのは、こんな作りものよりよっぽど良い」
 目の前には克己の名を叫んで抱かれている女性の動画があるが、それを彼は冷めた目で観ていた。画面の中で、『気持ち良い!』と叫ぶ女性の存在を翔も久々に思い出す。それと同時に、これはただの友人との戯れであることも思い出した。別に恥ずかしがる必要も、快感を堪える必要も無い。
「……い」
 つまりは素直に言っても克己相手なら大丈夫だ、ということだ。
 ちらりと克己を見上げると、一瞬視線が合うが、流石に気恥ずかしく目は伏せた。
「きもちい、から……もっと、して」
 そうどうにか言い終えた瞬間だった。
『キャー!!』
 突然甲高い悲鳴が部屋の中で響き、その異常性に目を上げると、画面の中で今までいちゃついていた女優と男優が斧を持った謎の男に襲われている。
「……な、何だこれ……」
 あまりの出来事に翔はポカンとしてしまうが、克己はため息を吐いて終わらせる。
「矢吹だな」
 そしてその一言で納得出来るから凄い。よくよく見れば、斧男に襲われているのは先程まで睦みあっていた男女ではなくて、ブロンドの青年と少女だった。恐らく、前半AV後半ホラー映画と編集した悪戯DVDなのだろう。
 しかし、相変わらずハイレベルな悪戯を仕掛けてくるものだ、と隣人達に呆れるよりも感心してしまった。彼らの苦心の作は克己の手により終了され、画面は黒くなる。
 はぁ、と色々な意味を込めてため息を吐こうとしたその時、体を抱え上げられ、その浮遊感に吐きかけていた息を呑んだ。
「克己?」
 そのままぼすりと体を克己のベッドに置かれ、え、と目を上げると横たわる自分の上に克己が乗る。ぎしり、とベッドが鈍く軋み重量オーバーを訴えたが、克己は気にも留めなかった。
「続きだ」
「続き、って、おい」
「お前だって、このままじゃ辛いだろう。すぐ終わる。それに」
 克己の肩に置かれた接近を無意識に止めていた翔の手を彼はやんわりと外し、その甲に口を寄せた。
「お前が言ったんだ、もっとって」
 その時、唐突に理解する。先程克己が言っていた、「激しい訓練の後は気が高ぶってしょうがない」というあの言葉を。通常の訓練ではあまり見ないが、他のクラスとの合同訓練で、ほぼ同等の力を持つ相手と真剣勝負をしている時の克己の眼、危険と隣り合わせであるはずなのに、妙に生気を宿らせているあの眼だ、今自分を見ている眼は。
 授業で自分と一戦交える時は、まるで教師か何かのように、翔の能力を伸ばす為の戦い方をしてくれるだけで、彼自身の本気をぶつけられたことはあまり無い。だからか、他クラスの生徒達との一戦で見せるあの眼が、あの眼にさせる他クラスの生徒が羨ましいと思った事もある。
 だが、今その眼が見ているのは自分だった。
 なんだ、これ。
 急に心臓の鼓動が重く、それでいて早くなり、翔が困惑しているのにも構わず、彼の手は体を這い始めた。
「ちょ、待て……!何か変だ、やだ、やめろ!」
 まるで体全体が心臓にでもなったかのようで、指先から頭の中まで心音の脈動を感じる。一番激しく感じるのは、克己に触れられた場所だ。彼の手の下には常に心臓があるようだった。一気に体温が上昇し、頭がクラクラする。半裸状態だったから、風邪でも引いたのだろうか。
「翔?」
 流石に異変に克己も気付き、望まれたとおり手を止める。しかし、それは翔を更に困惑させた。止められて安堵するべきなのに、瞬時に体の熱がサッと引き、物悲しい気分になる。
 もうどうすればいいのか本格的に解からなくなり、ただシーツを強く握り、眉間を寄せていると、何を思ったか克己がそんな自分を抱き寄せる。
「……大丈夫だ」
 そう言われ、頭を撫でられてしまい、眼の奥から涙が滲み始め、思わずその背にすがり付いてしまう。
「克己、なんか変だ」
 涙声でどうにかそれを訴えると、どう解釈されたのか「変じゃない」と返される。
「男ならしょうがない」
 克己の方は、どうやら自分が性的な反応をしてしまった事に戸惑いを感じていると解釈したようだ。だが、そんなことに戸惑うほど自分は若くも無いし、知識がないわけでもない。
「違う、そうじゃない、そんなんじゃなくて」
 克己に抱き締められて今度は心臓がむず痒い。もしや何かの病気になってしまったのだろうか。
「俺、変だ。変なんだ、どうしよう、なんだこれ」
 言葉を発する度に克己の匂いを鼻が嗅ぎ取り、それにも心臓がいちいちうるさくなり、目元が熱を帯びる。
「翔」
 それどころか、耳元で呼ばれる自分の名前にさえビクリと体が揺れるのだ。大して刺激も与えられていないのに、下半身の熱は限界を訴えている。きっと、この変調はこの熱の所為だ。
「大丈夫、か?」
 克己の黒い瞳にそっと顔を覗き込まれ、翔は心臓がまた鈍く痛むと同時、激しく鼓動するのが解かった。さっきのあの眼とは違う優しい色だったが、それを見せられると甘えたくさせられる。
 強く克己の肩にしがみ付いていた手をそこから剥し、彼の髪の中へ手を埋める。その手を流しながらその感触を確かめ、すぐ近くにある唇に少し震えていた自分の唇を重ねた。単なる接触のみのキスだが、それでも精一杯の懇願の道具にはなるはずだ。
「頼む」
 口から緊張の所為か弱々しい声が出た。それでも、近距離の相手に伝えるのには充分な音量だった。
「つづき、して欲しい」



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