『織屋に屈しただと!?この馬鹿者が!あんな王室堕ちに負けるなど、鉄家の恥さらしが!!』
 電話で父親からそんな怒りの声を浴びせられたのは、今から4ヶ月ほど前。
『鉄、うちに来ないか?お前ならやっていけると思うんだ』
 航空科の生徒会で活躍する幼馴染から誘いを貰ったのは、つい先日だった。鉄の力量を知る彼らが、彼が委員長の座につかなかったところに目をつけて声をかけてきたのだ。丁度織屋の件で砕けたプライドを建て直しかけていた時で、その誘いは魅力的だった。空でもっと自分の力を試してみるのも良いかも知れない。
 空から誘いがあった、となれば父親も満足だろうし、自分にとっても有益だった。考えてみる、と答えたが、選択は一つしかない。高遠にも既にこのことは言っておいたし、碓井も認めてくれた。後やるべきことは、空への正式な返答と、後任決めだった。
 しかしこの扱いづらい委員長のお世話をしないといけない新たな副委員長を見つけるのは難儀だ。自分が勝手にいなくなるのだから、後任は自分で見つけなければいけないのだが、なかなか良い人材が見つからず、昨日律に声をかけたのだ。彼なら生徒会での経験があり、高遠も納得するだろうし、何より暇だ。律には物凄く嫌そうな顔をされたが、あれでも一応友人だ。根気良く説得すれば、引き受けてくれるだろう。
 はあ、と無意識にため息を吐いた鉄に、隣りに座っていた織屋が不思議そうに首を傾げる。
「どうかしたのか、篤史」
「あー……俺、もうすぐ」
 そういえば、彼にまだこのことを言っていない、と思い出し鉄は口を開きかけたが、彼が自分に懐いているのはよく知っている。泣き喚いたりなんて、まさかしないよな?と思いつつも口を止めていた。
「何でも無いです……」
「篤史?」
 面倒だから、高遠あたりにでも説明をお願いしようか、と思いつつ手早く書類をまとめた。


 俺、もうすぐ。
 一方、織屋は鉄が言いかけた言葉が気になってしょうがなかった。
 もうすぐ、一体何なんだろう。
 本人は打ち消していたが、気になってしょうがない。
「もうすぐー?」
 その話を最近仲良くなった一登瀬に聞けば、彼は大きな目を更に大きくして首を傾げた。鉄と仲が良い彼なら、と思ったが、彼も首を捻るばかりだ。
「さぁなぁ……俺もよくわかんねぇよ。確かに鉄とは付き合いは長いけど。詩野、お前解かるか?」
 一登瀬の隣りで緑茶を啜っていた彼女の婚約者もとい保健委員副委員長は、もぐもぐと食べていたみたらし団子を飲み込んでから、一言。
「……誕生日とか」
「あ、そうだ!鉄、確か今月誕生日じゃなかったか!?18日!」
 一登瀬がパン、と手を叩き言った言葉に織屋は息を呑む。
「誕生日……篤史の」
「そうそう、きっとそうだ。ここで良いところ見せてやれよ、織屋!鉄を惚れさせたいんだろ?」
 満面の笑みでの一登瀬の一言に、織屋は顔を赤くした。その反応に一登瀬は解かりやすいなぁ、とひっそりと思う。織屋があのスパルタ指導の鉄についていけたのは、彼に出会った瞬間に恋をしたからなのだ。そうでなければ、とっくに根を上げている。自分だったら、きっと鉄を殴り飛ばして逃走している。鉄の理想は高すぎるが、それを全てやりこなす織屋も相当なものだ。それだけでも、織屋の鉄への愛は深いと解かるのに、鉄当人は気付いていなかった。恐らくは、自分の指導の賜物……!と自分に酔っているに違いない。ああ、織屋の趣味は悪すぎる。確かに、鉄の顔は良いが。
「俺も協力するぞ、織屋」
 しかし、織屋は良い奴だった。だからこそ、鉄は止めておけなんて野暮なことは言わず、応援する側につくことにした。鉄も、織屋には心を許している面もあるだろうし、何より委員長と副委員長の仲が良いことは、生徒会の安泰へと繋がる。
 任せとけ!と拳を握る一登瀬に、織屋はコクコクと嬉しげに頷く。そんな2人を見て、詩野はこそりと呟いた。
「でも、鉄様ってそんなこと言うような人だったかな……」




「失礼します、織屋委員長」
 高遠に頼めば、そういう話は自分でしろ、と怒られてしまった。そう言われると思っていたが。
 とりあえず、委員会中では支障が出たら不味いな、と判断し、消灯後に彼の部屋の扉を叩いた。合鍵も持っているが、ノックはマナーだろう。と言っても、普段はノックなしに突入しているが。それも致し方ないのだ、この部屋に来るのは最近では急ぎの仕事がある時だけだから。
「篤史?どうした」
 扉を開けた織屋も仕事かと思ったらしく、声がどこか切迫していたが、それに首を横に振り、彼の部屋に足を踏み入れる。相変わらず、自分達とは違う香りのする部屋だった。
 織屋が王室出身であることは有名で、それを最も顕著に見せるのが、彼の部屋だ。どことなく高価な香の香りがし、織屋自身が着ているのは王宮の普段着である着物だった。着物は過去国民服だったらしいが、今ではすっかり王室のイメージがつき、高級品だ。それなりの家出身である鉄でさえ、着物など着た記憶が無かった。幼い頃、端午の節句に着せられた写真があるが、その当時の記憶はすでに覚えることの多い日々に掠れ消えてしまっている。
 そんな着物を今でも私服として着こなす織屋は、やはり異質な存在だ。もう見慣れてしまったが。
 今日は藍色の着物なのか、とぼんやり考えながら帯などにも目を滑らせ、ついでに頭の中でその値段を計算し、喉の奥で呻いていた。一般生徒よりは高い衣類を身につけている鉄の服も、織屋に比べれば天と地の差がある。王室堕ちだとしても、その財力はなかなかのものだということだ。
「明日の会議の資料です。お渡しするのを忘れていたので。会議までに目を通しておいて頂けると」
 委員会中に渡すのを忘れていた振りをして、鉄は手に持っていたファイルを彼に渡した。織屋も何の疑問も抱かずそのファイルを受け取り、そんな動作に何故か鉄は緊張してきた。今、あの事を言うつもりだったが、それは委員会中に言うと仕事に支障が出たら困るという理由からだったが、今思えばこの彼の部屋に2人きりというシチュエーションでいうのもある意味不味いのではないか。
 彼に懐かれているのは自覚している。それが、恋愛の意味であることも。でも、恐らくは彼はまだ好意を抱いていることに気付いていても、それが恋だということには気付いていないはずだ。でなければ、あんな天真爛漫に「好きだ」なんて言えないはず。願わくは、気付かないままでいて欲しかった。
 しかし、この状態で、自分が彼から離れることを告げてしまえば……何かに気付いた彼が思わぬ行動に出てしまう可能性があるじゃないか!!
 やばいやばい、それはやばい……!と混乱しかけていた鉄の頭の中で、律が馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「篤史?」
「あ、……じゃあ俺はこれで」
 結局逃げるしか出来ない自分に心の中で嘆きながら、部屋から出て行こうとした腕を織屋がやんわり掴んで止めた。
「もう行くのか?」
 耳元で聞こえた声に、思わず叫んでしまいそうだった。
「な……っ!」
 かっと耳が一瞬で熱くなったのが解かり、慌てて彼を振り返る。その珍しい鉄の慌てっぷりに、織屋のほうも驚いていた。
「何ですか、いきなり!」
「え?あ……ただ、もう少し話が出来たらと思っただけで……すまない、驚かせたか」
 即座に手を離した彼に、自分が過剰に反応してしまったことに気付き、鉄は困惑しつつも、首を横に振る。
「ああ、いえ。すみません。俺もちょっと考え事をしていたので」
「……あまり無理はするな。篤史はたまに頑張りすぎるから、心配だ」
 鉄の言い訳を真摯に受け止めた織屋が眉を下げたのに、良心が僅かに痛む。そんな自分に、鉄は違和感を抱いていた。今まで、こんな事で良心が痛んだことは無い。それどころか、誰かに心配をされたことも無いのだ。そう自覚してから、ぞわりと背筋に冷たいものが走るのが解かる。
 何か、最近俺おかしくねぇか?
「篤史は最近細くなったように見える。心配だ」
「それは貴方がでかくなったからです!」
 織屋の言葉にいつもの調子で返しつつも、変な動揺は収まらなかった。そんな動揺をしている自分に更に動揺するという悪循環に、さっさとこの部屋から逃げ出したい気分に駆られる。
「実家から茶と菓子が送られてきたんだが、食べていかないか」
「え、あ……」
 上司からのこういう誘いを断われない体質に作られていた鉄は、反射的に頷いてしまっていた。そんな自分の性質にがっくりときたが、彼の実家から送られてきたものは常に美味だった。軍属である鉄の口にはなかなか入らないものばかりだ。
 今日出されたものも、小さな花のような菓子だった。黄色から赤へと変わる花弁の部分のグラデーションが綺麗で、食べるのが勿体ないと思わず見つめてしまう。
「全く、着るものやら食べるものやら、定期的に送ってこられるのは流石に困る」
 要らないと言っているんだが、と呟きながら織屋は苦笑していた。恐らく、軍という異質な環境に送ってしまったことを彼の両親は後ろめたく思っているか、もしくは純粋に心配しているのだろう。
「心配されているのですよ、ご両親は」
「……兄が死んだ今、息子は俺一人だからな」
 ふっと織屋が笑い、ベッドの上に放ってあったらしい篠笛へ視線を流した。鉄が来る前までそれを吹いていたのだろうか。
 篠笛という名だと教えられたそれを物珍しげに見ていれば、織屋はそれを差し出してきた。
「気になるなら吹いてみると良い」
「はい!?」
 兄の形見と教えられたそれをあっさりと目の前に差し出され、慌てて両手を上げて遠慮する。
「いえ、それは確か御兄弟の形見では……」
「篤史なら構わない」
 柔らかく微笑まれ、それを無碍にするわけにはいかなかった。それに、興味もある。今まで音楽と無縁の世界に生きてきたので、好奇心に流されるままにそれを手に取り、恐る恐る吹いた。どんな音色が響くのか、大きな期待と共に。しかし、何度息を吹き入れても音は出ない。
「……出ないんですが」
 と、織屋を振り返ってみれば彼は自分のベッドに突っ伏して肩を震わせていた。
「……委員長?」
「いや、すまない。なれていないのだから当然だな……」
 顔を上げた彼は、やはり目尻に涙を浮かべて笑っている。それに鉄は自分の耳が熱くなるのが解かった。
「壊れてるとかじゃないんですか」
 悔しくて思わずそうぼそぼそと言ってしまうが、それに更に織屋は肩を震わせていた。そんな彼にさっさとその笛を返して出されたお茶を飲み続けると、一通り笑った彼がその笛を構え、曲を奏で始めた。壊れていないことは良く解かったが、その繊細で柔らかな音に鉄は思わず動きを止めてしまう。
 軍にいたら絶対に聞けないような音だった。優美で透明、聴くだけで落ち着くような音色に肩の力が抜けていくのが解かる。軍で聞く音楽と言えば、行進曲や力強い軍歌の類だ。聞くだけで肩や足に力が入るような曲ばかりで、落ち着かない。こんな安らかな音は今まで聞いたことがなかった。
 これが、織屋が育ってきた環境なのだと察し、自分との違いを見せ付けられた気分だ。
「帰りたいとは思いませんか?」
 ここは彼が育ってきた環境とは違いすぎる。曲が終わってからすぐに思わず聞いてしまって、しまったと思うが、織屋のほうは特に気にしていない様子だった。
「特に思ったことはないな。ここには篤史がいる。戻ったら篤史に会えなくなる」
「……そうですか」
 彼の言葉に僅かに良心が痛む。どう考えても、けたたましい軍歌よりもこっちの曲に囲まれていたいと思うのが普通だ。彼には軍服よりも、高価な着物の方が似合っている。
「……そう、ですか」
「篤史は、帰りたくないのか」
「え?」
「実家に、戻りたいとは思わないのか」
 実家、というのは今は一番思い出したくない場所だった。思わず眉間を寄せると織屋が首を傾げる。
「……思いません」
「何故?」
「うるさいのが多いので。うちには」
 脳裡を過ぎるのは先日一喝してきた父親の声だ。この学校の寮に入り、ようやく父の怒号から解放されたというのに、この間は彼から連絡を取ってきた。軍部の彼の同僚からチクリと言われたのだろう。充分彼の期待に答えてきたのだから、これくらいの失敗に目くじらを立てなくてもいいだろう、と逆に腹ただしかった。
「小さい頃から、人の上に立てと言われ続けてたんです。成績から何から全部。俺はこの位置に満足しているんですけど、父はどうも不服らしくて」
「……この位置ってもしかして、副委員長か?俺が委員長になったから、篤史はお父上に怒られた?」
 不安気に首を傾げた上司に鉄は小さく笑って見せた。こんな話をすれば彼が気にすることは目に見えていたが、それでも言ってしまったのはちょっとした報復だ。しかし、その悪戯もすぐに止めた。
「言ったでしょう。俺はこの位置に満足していると。貴方が気にすることじゃない」
「だが」
「父に褒められたくて生きているわけじゃありませんし」
 出されたお茶を一気に飲み干すと、予想に反して苦味より甘味の方が強い茶だった。甘みを感じる茶は高級だと、昔聞きかじったことがある。過去王室にいたとしても、今彼の両親の生活が苦しい事には変わりない。恐らく、少ない金銭を集めて息子にこうして高級なものを送っているのだ。その親心を織屋がどれだけ理解出来ているかは解からないが、ここにも自分と彼の違いを見出してしまった。
 確かに、こうして衣類や菓子を送ってくる彼の両親の存在は羨ましい。それでも、無いものを求める気は無かった。自分達は、戦って死ぬために生まれたのだと、幼い頃から言われ続けてきたのだ。自分が戦場で死んでも、両親は嘆きはしない。
 でも、彼の両親はきっと違う。
 やっぱり、世界が違うな。
 繊細な外見を持つ菓子を口に放り込み、咀嚼しながら心底思わされた。この菓子は美味しい。自分は、親から菓子など貰った事がない。貰う菓子といえば、戦場での疲れを和らげる為に投げ渡されるチョコレートくらいだ。それを、美味しいなんて思ったことは一度も無い。
「篤史」
 無言でもぐもぐと食べていた鉄の頭を、織屋がそっと撫でる。
「俺が篤史の父親だったら、毎日褒めるぞ」
「冗談止めて下さい。俺は父親の面倒まで見る気はないですよ」
 織屋が父親だったら、きっと毎朝ネクタイを結んでやらボタンをとめてやら騒がしいことになっている。そんな日々はごめんだ。
 ふ、と息を吐いたところで、鉄は覚悟を決める。
「あの、委員長……実は今度、俺」
「あ、知っているぞ篤史!だから、みなまで言うな」
「は?」
 今度空にちょっと行かないといけなくなったんですけど、と言い掛けたのを織屋に止められ、鉄は首を傾げた。
 知ってる?マジで?
「知って……いたんですか?」
 一体誰が彼に教えたのだろう、と思いつつも鉄は安堵した。そうか、知っていたのか。
「ああ。俺もちゃんと準備しているから」
 織屋の言葉に更に安堵が深まる。自分がいなくなる準備もしているらしい。
「なら、良いです」
 ほっとした笑みを見せた鉄に、織屋もこれ以上ない位の笑みを返す。何だコイツ、俺がいなくなるのがそんなに嬉しいのかと邪推してしまったが、まぁ、良い。
 思っていたより呆気ない反応に少し残念だ、なんて思っちゃいないぞ、別に。
 どことなく楽しげに菓子を食べる織屋を観察しながら、鉄は心の中で呟いた。




「織屋を、除隊させることは出来ないのか」
 唐突な問いに高遠はコーヒーを飲む手を止めていた。
 しかし、鉄の顔は真剣で、彼が今の言葉を本気で言ったことを察し、呆れた。
「お前、まさかまだ委員長の座を……」
「違う!そうじゃない」
 即座に否定した彼の様子に、高遠は眉を上げ、ため息を吐く。
「じゃあ、何だ」
 高遠に問われ、自分でも何なのか上手く説明出来なかった。ただ、あの時強く思ったのはたった一つ。
「……あいつは、俺たちとは違う」
「何を今更。だからお前が補佐に入ったんだろう。立派な委員長にすると言ったのはお前だ。音を上げたのか?」
 高遠の返答は至極当然の答えに聞こえるが、それでも鉄の望む答えとは違っていた。違うのだが、その違いが何か解からず、鉄は首を軽く振るしかなかった。
「違う。ああ、もう良い。聴かなかった事にしてくれ」
 わざわざ業務外で高遠の元へと来たというのに、何の収穫も得られなかったことに落胆し、部屋から出ようとしたところを、怪訝な顔の高遠が止めた。
「待て。もしかして……話はそれだけか?」
「あ?そうだけど?」
「……そうか」
 高遠は、鉄は委員会の話を本題として持ってきていると思ったのだが、どうやら今の会話が彼の本題だったらしい。どことなく鉄らしくない印象を受けたが、今簡潔に答えたのは、別な本題があると思ったからだ。
「織屋の除隊は無理だ。むしろ、除隊されて困るのは織屋の方だと思うが」
 軍の体質や彼の事情を考慮して、高遠は改めて答える。それに鉄は僅かに眉間を寄せた。
「……わかってるよ」
 ちっと舌打ちをし、外に出ると今まさにノックをしようとしていた一登瀬と眼があった。
「あ。鉄、お前」
「あ?なんだチビ」
「チビだと!?折角お前誕生日祝ってやろうと思ったのに、随分な言い草だな!」
「誕生日?」
 何でそんな半年前の話を持ち出されたのだろう、と首をかしげると一登瀬の怒りがぴたりと止まる。
「あれ。お前誕生日じゃねぇの?」
「誕生日?半年前だぞ」
「あれ?」
 怪訝な顔をする鉄に、一登瀬は首をかしげ「まぁ、いいか」と告げ、生徒会室へと入って行った。一体何なんだ。
 しかし、らしくないことをしてしまったな。
 鉄は廊下を歩きながら思わず舌打ちをしてしまった。答えなど高遠に聞かずとも解かりきっていたことだった。なのに、聞いてしまい、高遠の反応は驚きに満ちていた。何故、鉄がそんなことをわざわざ?と言いたげな顔を思い出し、眉間を寄せる。
 うるっせ。俺だってわかんねーよ、こんなの。
 ただ、明日から自分はここからいなくなる。すべてやる事はやったが、どうしても心残りがあったので、それを高遠に聞いた。それだけだ。
「あ、鉄」
 廊下の向こう側からやって来た遊井名田陽壱の姿に、鉄も今まで考えていたことを払拭させ、片手を上げる。
「遊井名田か」
「お前、空に行くんだって?エリート集団と言っても結構癖のあるヤツばっかりだから気をつけろよ」
 陽壱の耳にもそのことは届いていたらしい。行く日も明日なのだから当然だろうが。
「ああ」
「後任に、嵯峨野兄を持ってきたのはあまり良い判断じゃないけどな」
 ため息を吐く陽壱に、鉄は目を大きくしてその言葉の真意を問う。
「何でだ?あいつ今暇だし適任だろ」
 律は噂は酷いが、能力はそれなりだ。しかし、陽壱はもう一つため息を吐いて肩を竦めて見せる。
「兄はともかく、弟の方だ。アレは俺がいうのもなんだが結構なブラコンだぞ……」
 律の弟の嵯峨野珪司は2年生にして広報委員長になったなかなかの人物だ。身長がすでに180を超えている弟と、170になかなか届かない兄は並んでいて兄弟だとは解からない。何故かと問えば、彼らは幼い頃に再婚した両親の連れ子同士で血の繋がっていない兄弟なのだと律から聞いた。仲が良いから本当の兄弟かと思っていた鉄は純粋に驚いた記憶がある。
「でも、嵯峨野は兄と違ってかなりの人格者だ。別に心配することは……」
 委員会で顔を合わせる嵯峨野珪司は一言で言えば、堅実な男だった。剣道で中学時代全国で1位を取っていると聞いて思わず納得してしまうくらい、誠実で寡黙な人物だ。しかし、そんな鉄の言葉に陽壱は足を止め、ついでに視線もその廊下の先にあるものに留めていた。
「……そう言っていられるのも今のうちだぞ」
 陽壱は厚生委員会室に入っていく珍しい姿を見て、小さく呟いていた。


 織屋が細々とした仕事を片付けながら鉄の帰りを待っていると、その扉をノックする音が聞こえる。この時間にこの部屋に来るのは鉄くらいしかいない。
「鉄、この書類」
「失礼します」
 しかし、その低い声は鉄のものではなかった。顔を上げると、目の前に立っていたのは委員会の時にしか顔を合わさない広報委員長の精悍な顔だった。
「確か広報の」
 何か広報と組んでやる仕事が出来たのだろうか、と思いかけたその時
「あんた、兄貴に何をした?」
 無表情だった嵯峨野珪司の顔に皺が刻まれ、首を傾げるよりも早く喉元を掴み上げられた。
「嵯峨野っ!」
「何をやっている!」
 陽壱と鉄の登場に珪司はすぐに織屋から手を離す。何が何だか解かっていない織屋は、ただきょとんとした顔をしていたが、そんな顔に苛立ったのは珪司だ。
「律が生徒会に戻ってくるっていうから、俺は広報に来てくれるんだと思ってたのに、何で厚生だ。兄さんは仕事内容なんて知らない。最近織屋委員長からは不穏な噂も聞く。女性をよく部屋に連れ込むようになったと。まさか、兄さんにもそんなことをしたんじゃないだろうな?」
 どこか攻撃的な口調に鉄は彼が変な勘違いをしたのだと悟り、鉄は額を押さえるしかなかった。陽壱の言うとおりだ。ちらりと「ほらな」と言いたげに陽壱が自分に視線を向けたのが癪だ。
「違う。律には俺から頼んだんだ。明日から俺、空に行くから、後任が欲しくて」
「なんで兄さんなんですか」
「暇そうだったから」
 さらっと答えると珪司が呆れたような顔を見せ、ため息を吐く。簡単な理由だが、納得してくれたらしい。
「……先走ってしまったようで申し訳ありません。ただ、最近織屋委員長からはあまり良い噂は聞かないもので……そうした噂を抑えるのも副委員長である貴方の仕事かと思いますが」
「ご、ごめんなさい……」
 年下に怒られてしまったことにショックを受けつつも素直に謝ると、それに珪司が驚いたように鉄を見つめた。
「何だ?」
「……いえ、以前の鉄さんならこんなに素直に謝罪なんてしなかったのに、どうされたんですか?」
 きょとんとする珪司と、彼の言葉に頷いたのは陽壱だ。彼もそんな鉄の態度を珍しいと思った一人だ。しかし、彼は特にその答えを求めていなかった。
「嵯峨野、お前のは誤解だ。さっさと部屋から出る出る」
「そうですね……どうやら、それどころでもなさそうですし」
 珪司はちらりと鉄の背後に立つ人物を見て、何か全てを納得したかのような顔で頷く。その顔は何だと言う前に彼らは出て行った。
「全く、人騒がせな……」
 ブツブツと鉄が呟き、織屋を振り返ってようやくその不穏な空気に気付いた。いつも織屋は自分に、言うなればお花を纏ったような笑顔しか向けてこないというのに、今日は黒いオーラを背負い、不機嫌ですというような顔でこちらを見ている。
 そうか、よっぽど嵯峨野の襲来が気に障ったのだな。
「委員長、申し訳ありませんでした……今後は」
「空に行くって、どういうことなんだ?」
 え。
 鉄はその問いにぴたりと謝罪の言葉を止めた。じっとこちらを見つめる織屋に、首を傾げるしかない。
「……あれ?御存知では」
「ありませんでしたが、どういうことなんだ」
 鉄の台詞を奪い、更に問いただしてくる彼は不機嫌過ぎた。これは不味い空気だとようやく鉄も気付く。
「えーっと、その……俺、明日から空に行きます。御報告が遅れて申し訳ありません。後任は先程の話の通り」
「そういうことを聞いてるんじゃない!」
 ばん、と机を叩き声を荒げた織屋の目には、見間違いでなければ涙が浮かんでいた。
「い、委員長……?取り合えず、その落ち着いてくだ」
「何で?何で空に行く?俺が委員長になったから?なら委員長は篤史に譲る!俺が副委員長になればいいんだろ!?それでも篤史が行くなら俺も空に行く!!」
「ちょ、無理言うな、ドアホっ!って、何で泣くんだー!!」
 ぼろぼろと黒い瞳から大粒の涙を落とし、鼻まで鳴らし始めた織屋の情けない姿に、鉄は慌てるしかなかった。取り合えずティッシュ、と本棚の上にあった箱ティッシュを開けていると、その腰に重いものがしっかりと引っ付いてきた。
「委員長!!」
「嫌だ行くな篤史―!!」
 うわんと大きな声で泣き出した織屋の声は部屋の外まで聞こえていたらしい。何だ何だと部屋の前に人影が集まり始めているのを見て、鉄は背筋に冷たいものが走るのが解かった。
「わ、解かったから泣かないで下さい、委員長……!」
 こんな無様な委員長の姿を誰かに見られるのは困る。今まで折角自分が作り上げた有能な厚生委員長のイメージがガラガラと崩れてしまうのだから。それだけは絶対に許してはいけない。
 自分の腹に顔を押し付け、泣き続けるその頭に手を乗せ、ぐしゃりと撫でてやると、腰に回っていた彼の腕の力が一層強くなり、苦しい。
「俺は篤史がいないと何も出来ないのに、そんな俺を篤史は置いていくの?」
 涙に濡れたその声に、ちょっと心臓が引き攣る感じで痛かったなんて、本人には絶対言えない。
 取り合えず、言いたいことは一つだけだ。
「……あの、行くといっても研修で10日間くらいなのですが」


 フライトの免許が欲しい、と思ったのはつい最近だ。それがあると今後それなりに優位に立てるのだが、それを取れるのは空でだけだ。そんな事を思っていたら、空の友人からお前フライト免許欲しくないか?と声がかかったのだ。空でも何人かの陸の生徒に取らせたら良いのではないかという意見が出ていたらしい。試験的に、生徒会の中から適切な人間を選んで、フライト免許の講習を受けさせてみようということになった、と数週間前に高遠から聞いた。
 講習期間は10日。その間、矢張り織屋を一人にするのは怖くて、嵯峨野に声をかけたのだけれども。
「10日程度なら俺も一緒に行ったって良いだろう!?」
「駄目だ。ふざけんな」
 織屋の主張はあっさりと高遠に切り捨てられ、そのあまりにも素っ気無い態度に織屋は自室に戻ってから部屋の隅で膝を抱えていた。
「……しょうがないでしょう、委員会の仕事を放り出すわけにはいかないんですから」
 そんな織屋の後ろで鉄は自分が不在になる10日分の仕事をきっちり分けていた。スケジュールもちゃんと組んでおいたから、突然の仕事が入らない限り万事順調に進むはずだ。
「……篤史は俺と10日も離れて淋しくないのか」
「まぁ、むしろ清々するというか」
「……篤史酷い……」
 しくしくと泣き始めた彼の横で鉄は全ての引き継ぎを終わらせた。これで何の心配もなく、空に行けるというものだ。
「じゃあ、あの誕生日っていうのは?」
「俺の誕生日は半年前に終わっています」
 そして再度しくしくと織屋は泣き始める。正直、彼を置いていくことが一番不安だ。
「では委員長、俺は行ってきますけど」
「待って。俺は許可してない」
 織屋が取り出したのは、外泊許可証だった。それは委員用のもので、生徒会会長の分の印は高遠が代わりに押してくれたから良いものの、所属委員会委員長の印はまだ押されていなかった。つまり、織屋がそこに直筆で名を書いて、印を押してくれないことには、鉄は外泊出来ないのだ。
「……委員長」
 織屋の子どもっぽい抵抗に思わずため息を吐いたが、彼はそれを机の上に置き、じっと鉄を見つめた。
「書いても良いけど、いくつか条件出す」
「条件」
「これからずっと俺の事を、名前で呼ぶこと。それと、敬語は一切無し」
 それは許容範囲内の条件だった。自分よりも位が高い相手を呼び捨て、敬語無しというのは少々引っ掛かるものがあるが、まぁ良いだろうと頷くと、彼はにこりと笑い
「それと、俺にキスして」
 彼の顔を張り飛ばさなかったのは、まだ彼と自分の上下関係が体に残っていたからだ。
「……そんな固まるな。流石に俺も少し傷つくんだが……」
 その代わり見事に硬直した鉄に、織屋が声をかけるがなかなか鉄は動き出せなかった。
 きす、ってキスか?あの、マウストゥーマウス的な。
 思わず想像して、ドン引きしてしまった。
「い、委員長……そういうのは普通」
「好きな相手にやるものだな。俺は篤史が好きだからキスをするぞ?」
 そんな、はっきりきっぱり言うなよ!
 無表情で言い切った織屋に、鉄は心の中で叫ぶしかなかった。
「キスしないなら、俺はサインしない」
 このクソガキ……!
 ぷぃっとそっぽ向いた織屋の姿は、背がいくら伸びたといえども子どものようだ。いつか殴る。卒業して身分の上下がなくなったら真っ先に殴ってやる。そう、心に決めた。
「篤史、キス」
 よし、二発殴ってやる。
 彼の甘えるような声に流されるまま、口を寄せながら決意した。
 うわ。
 口の中に入ってきた織屋の舌に鉄は身を引こうとしたが、彼に抱きすくめられそれも叶わない。こういうキスは初めてではないが、何だか微妙な気分だ。
 やっぱり三発殴る。
 背を受け止めたベッドの柔らかさに、不穏な気配を感じたが、そこから逃げ出すことは出来なかった。口が唾液で汚れるまでキスをされ、こんなスマートじゃないキスは初めてだとぼんやり思う。キスなんて10秒してれば充分だろう、というのが鉄の今までの見解だった。それが、たっぷり1分以上も、なんて。
「……てめぇ、殴るどころじゃねぇぞ、ぶっ殺す」
 敬語もすっかり消え失せた自分の言葉に心底嬉しそうに笑う織屋の顔を叩いてやりたかった。
 

 終


next