最悪の出会いから早半年、そして、彼を立派な委員長に育てようと決意をして4ヶ月。
 鉄は、目の前の光景が信じられなかった。いや、むしろ信じたくなかった。
 清潔な朝日が入る道場の中、生徒会仲間の一登瀬虎太郎と向き合うのは、鉄篤史が仕えるべき相手、織屋一進だ。彼とは色々とあったが、色々とあったおかげで今ではそれなりに打ち解けているし、友人とも呼べる仲になった。そして、彼も彼なりに色々と決意したらしく、本格的に体を鍛える事にしたようで、武道一門出身である一登瀬に師範を頼み毎朝授業以外にも体を動かすようにした。鉄もそれには賛成だったし、彼の食事も栄養バランスを考えたものにするようにさせた。一度熱で倒れられてから、彼の健康状態のサポートもするようになっていたから。
 それが良い方向に向かっていったようで、初めて出会った時はどこか頼りなく儚げに見えた織屋の体はしっかりと男らしい体つきになっていったのだけれども。
 彼の前の身長は、165cm。鉄の身長は、175cm。10cmの差があった。出会った頃の彼は間違いなく美少年と言っていい部類だったのに、だ。
 だが、今の彼の身長は185cm。今の鉄の身長は175,3cm。何故か、身長差は出会った頃と逆転していた。
「ニョキニョキ伸びたよなぁ、織屋」
 生徒会で一番身長の低い一登瀬は織屋の成長っぷりに目を輝かせた。頑張れば自分も伸びると彼に希望を見出したのだろうが、一登瀬にはそんな芸当は無理だろう。
 だが、どうすれば4ヶ月間で20cmも伸びるんだと、鉄は天に向かって叫びたい気分に駆られた。確かに、彼の組んだ食事メニューは完璧だった。だが、ここまで伸びるなんて想定外過ぎる。どこかで変な軍が開発した人体増強剤でも飲まされたんじゃないか?くっそ、それを今すぐ俺にも寄越せ!!と心の中で騒ぎ立てるのが近頃の日課だった。
「篤史!」
 ぎりぎりと奥歯を噛んでいたところで、迎えに来た鉄に気付いた織屋の声もどこか低く変化し、そしてその表情も美青年へと変わっていた。そして、その体も筋肉がしっかりとついたものに変わっている。
 人伝に聞いた話だが、彼の武術の腕前はいまやこの一登瀬に勝るとも劣らないらしい。鉄はいまだに一登瀬に勝った事がなかった。
 くそっ二重に悔しい!!
「篤史?」
 壁を思わず殴っていた鉄に首を傾げた織屋の隣りには、一登瀬の嫌味な笑みがあった。
「鉄もたまには武術の鍛錬をしたら良いんじゃないか?織屋みたいに」
 昔は織屋を「か弱い」と言っていた一登瀬の目が今度は自分をか弱く見ていると察した鉄はひくりと頬がひくつくのが解かった。
「黙れこの筋肉チビ。俺は文系なんだ」
「なっ!チビっつーな!」
「篤史」
 いつものように一登瀬とちょっとした言い合いが始まりそうになったその時、それを制止するように織屋が俺の体を抱き込んだ。毎度ながら、こうして抱き締められるたびに彼の成長した体が現実なのだと思い知らされる。体が小さい頃からこうして抱きつかれていたのだから、もう色々と慣れたが。
「委員長、朝の会議が始まります」
「ああ、行こう。篤史」
 律儀に一登瀬に一礼をし、織屋は前を歩き始める。それに鉄もついて行った。前を歩く織屋の背中はすっかり頼りがいのあるものに成長している。そのおかげか、最近はもう織屋が委員長であることに不平を言う委員会員はいなくなっていた。良いのか、悪いのか。いや、良いのだが。
 朝の会議も滞りなく終了し、鉄はほっと息を吐いていた。以前まではざわざわと騒がしかった会議室も、今では織屋の一喝で静かになる。前のどことなくか細い声ではなく、しっかりとした男の声だ。
 しかし、自分が作り上げた完璧なまでの委員長像に鉄自身満足している面もあった。ビシリと委員会員一同をまとめ、生徒会でも臆する事無く、廊下を歩けば囁き声が聞こえる。勿論、賞賛と畏怖の言葉だ。
 そんな織屋の周囲の反応を見る都度、鉄は満足感と達成感を得ていた。気付けば、いつの間にかNO.2にいることに慣れてしまっていた。が、それもまた悪くないと思う。家からは叱責の電話が来たが、そんな事がどうでも良くなるほどに、鉄は自分の仕事に満足していた。
「委員長、今日の仕事は」
「篤史、篤史」
 委員会員が全員会議室からいなくなったところで、今日の分の仕事を説明しようとすると、何故か目を輝かせた織屋が自分の膝をしきりに叩いていた。その仕草に、鉄は首を傾げた。
「……膝が、何か?」
「座れ、篤史っ」
「お断りします」
 彼の意図を察し、鉄は見なかった事にして書類へと視線を落とす。そんな素っ気無い鉄に織屋は、むぅと眉間を寄せた。
「……じゃあ、俺が篤史の膝に座るぞ」
「お止め下さい、俺の骨が折れます」
 体重もとうに鉄を越してしまっている織屋が自分の上に乗ったら、悲劇だ。
 その返答にどことなく不満げな織屋の様子に鉄はため息を吐くしかなかった。一つ不満があるとすれば、織屋が自分に触れたがるということだ。彼には毎日のように好意を告げられているが、それを単なる親愛と解釈し、鉄は上手く交わすようにしていた。実際のところ、織屋の気持ちを計りかねているという面もある。彼の言う“好き”がどういう意味なのか、織屋もよく解かっていない。ただ、この学校で初めて彼に優しくしたのが自分であるから、彼は懐いているだけだという解釈は恐らく間違っていない。かなりの箱入り息子だったらしい彼は、今までまともな恋愛をしてこなかったはずだ。そのうち彼の周りに女性が集まるようになったら変わるだろうと、何度かヨシワラに連れて行ったこともある。後から彼につけた女性に話を聞けば、事は無事済んだと聞き心底ほっとした覚えがある。初体験が商売女というのは若干可哀想なことをしたような気もするが。
「授業が始まります、委員長」
 しかし、昨晩もヨシワラの女性を部屋に招いたと聞いている。女性の体に興味を持てば、自分へのこの奇妙な執着も徐々に無くなっていくだろうことを期待しよう。
「鉄」
 その時、軽いノックと共に高遠が会議室に顔を出した。生徒会長補佐である彼がこんな小さな会議室に顔を出すなんて珍しい、と思いつつ「どうした」と鉄が答えると、白い受話器を差し出された。それには見覚えがある。生徒会室の子機だ。
「生徒会長がお前に話があると」
「う、碓井生徒会長が!?」
 高遠の言葉に思わず背筋を伸ばし、声を上げてしまう。そんな鉄の珍しい態度に織屋が眉間を寄せたが、そのわずかな仕草には誰も気付かなかった。特に、突然の電話に慌てふためいた鉄は気付ける余地もなかった。
「はい、換わりました、鉄です」
 受話器を耳に沿え、恐る恐る出した声が緊張を孕んでいることは自分でも気付けた。彼と一対一で話すことは滅多にないことで、それだけでも鉄を激しい緊張の波が襲う。何を言われるのか、という不安が一番大きかったが
『ああ、鉄か?人事の件では苦労をかけたみたいだな。高遠から色々聞いている』
「い、いえ!そんな……俺はこの仕事に満足しています」
 高遠が何を言ったかは知らないが、慌てて鉄は首を横に振った。本人が目の前にいるわけでもないのに、懸命に。やはり珍しいその態度に織屋は眉間の皺を深め、高遠は小さく笑った。
「珍しいだろう」
「え?」
 ぱっと織屋が目を上げると、高遠はそれに目を細め、近くの壁に背を預けた。
「電話の相手は生徒会長。プライドの高い鉄が初めて屈した相手だ」
「……碓井、生徒会長ですか」
 どことなくおろおろと、しかし嬉しげに話をする鉄の珍しい態度に、織屋は初めて鉄に対して苛立ちを感じていた。
「屈した……というよりは、単純に憧れたんだろうな。あの様子から見て」
 高遠の言うとおり、鉄は碓井に対して敵対感は持っていない。むしろ、どこか憧憬にも似た目で話している。そんな彼の様子に、やはり感じるのは憤りだった。しかし、それをひっそりと胸の奥にしまった時、くるりと鉄がこちらを振り返る。
「悪いな、高遠」
 電話が終わったらしい鉄はそれを高遠に渡し、高遠もこころよく受け取った。
「お褒めの言葉か?」
「当たり前だろ。俺の苦労が報われたってことだ!」
 この半年、どれ程苦労したと思っている!
 胸を張った鉄に高遠は苦笑し、会議室から出て行った。それを見送り、さぁて授業だ!と気合を入れながら荷物をまとめていると、自分をじっと見つめている織屋の視線に気付く。
「委員長?授業に遅れますよ」
 そう声をかけながら書類を片付けようとした手を、突然織屋が止める。思わぬ彼の行動には驚かされたが、もっと驚いたのは彼の黒い眼だ。その真剣な色に、諌めようとした口が動かない。
「……篤史の苦労は生徒会長に褒められて報われるものなのか?」
「は?」
 織屋の言葉の意味がよく解からなかった。
「……そんな事、当たり前でしょう」
 生徒会長はこの陸軍士官科生徒会では最高権威の持ち主で、自分も勿論織屋も彼の部下という位置にいるのだ。最高位に立つ人物に褒められることは最高の名誉だ。そして碓井という人物もただの生徒会長ではない。彼の才力は鉄自身が膝を折るほど。そんな相手に褒められて、自分の力を認めてもらえたということは、自信にも繋がる。だが、織屋は何故かその鉄の答えに眉間を寄せた。
「篤史、」
「嬉しいですよ、会長は貴方のことも褒めていましたから」
「え?」
 驚いたような織屋の顔に鉄は怪訝に思いつつも言葉を続ける。
「厚生委員長は近年稀に見る有能な人物だと会長は仰っていました。貴方だって嬉しいでしょう、褒められたんですよ、生徒会長に」
 これで喜ばない生徒会役員はいない。あの仏頂面が標準装備である高遠でさえ、生徒会長に褒められたらどことなく照れたような顔をするのだ。織屋も初めてのことに戸惑ったのか、しばし考え込むように俯いてから顔を上げた。
「……篤史は、俺が生徒会長に褒められたことが嬉しいのか?」
「勿論です!」
 何て言ったって、俺が教育して育てた委員長様だからな!
 織屋の有能振りを褒められたということは、遠回しに自分の補佐振りを褒められたことにもなる。胸を張って答えた途端、織屋の表情が輝いた。
「あ、篤史が嬉しいなら俺も嬉しい……!」
 そうそう、生徒会長に褒められたんだからそれくらいのリアクションはしないと。
 キラキラと目を輝かせた織屋の顔に鉄は満足げに頷いた。織屋も人並みに喜ぶのだと、少し安心しながら。
 少々織屋は欲が無さ過ぎる面があると常々思っていたのだ。この世界で欲がない人間はひたすら欲深い人間に利用される。織屋はまだこの軍という世界に慣れていない。その点が気になっていたが、これなら大丈夫そうだ。
「篤史!」
「ぐぇっ」
 しかし、突然織屋の体重が圧し掛かってきた……ではなく、織屋が抱きついてきたのに鉄は思考を中断させられた。
「喜んでる篤史は凄く可愛いぞ」
「……それはどうも」
 可愛い、とは織屋が小さい頃から言われ、そんな彼にお前の方が小さくて可愛いだろうにと思っていたが、今この身長差ではもうそう思うことも出来なくなっていた。
「大好きだ、篤史」
 そして、小さい頃には、はいはい、と適当に流せていたこの台詞も、自分より一回り大きくなった腕の中で聞かされると、何だか違う意味合いに聞こえてくる。
 まさかまさかとずーっと思ってきたけれど、やはりこれは、そういう意味なんだろうか。


「つーか、一発ヤらせれば良くね?」
 何の躊躇いも無くそう言った知り合いに、鉄は思いっきり眉間を寄せてみせた。相手は、同じクラスで元生徒会広報委員の嵯峨野律だ。そのあけすけな物言いに、相談相手を間違えたと密かに思う。だが、他にこんな相談を出来る相手なんて鉄の周りにはいなかった。律は、2年生まで生徒会に属し、3年になって突然辞任した、鉄から見れば奇妙な人間だった。彼がなるだろうと予想されていた広報委員長のポストには、彼の実弟が着任し、そつなく仕事をこなしている。
 律は自分の事情を知り、尚且つ今の生徒会の人間とは接点を持たない人物だ。相談をするには適任だったが、彼が少々遊び人の面があるという点を考慮し忘れていた。
「少し位譲歩してやれよ、処女でもねーのに何出し惜しみしてんだ」
 更に生々しい言葉を重ね、律は紙パックから飛び出しているストローを噛んだ。彼は甘いものを比較的好むらしく、昼食にはいつも林檎ジュースを飲んでいる。
「そりゃそうだけど、処女みてぇなもんだぞ。一回くらいしかしたことねぇもん、俺」
「一回も二回も大してかわんねぇよ」
「お前にとったらそうだろうな」
 言葉に棘を含みながら返したのに、律は苦笑するだけに止めていた。彼には、言い寄れば一晩共にしてくれるという噂がある。なまじ顔が綺麗なので、彼と一晩を過ごす事を熱望する人間はそれなりにいるらしい。女も、男も。
 鉄は今まで一応恋人と明言した相手としか関係を結んだことはなく、勿論女性相手のみだった。男の経験は、上司から言われて少々体を任せたことがあるくらいだ。それも任務の一環だった。
「何、お前は下側決定なわけ?」
「当たり前だ。織屋は俺の上司だぞ」
 その返答に、律はふぅんとどことなく興味なさげな声を出し、頬杖をついた。
「どうせ、男抱きたいなんていうヤツなんて基本興味本位だからな。一発ヤらせて、色々面倒だと学んだら二度と言い寄ってこねーって」
「確かにそうだろうが……」
 だが、そうなるまでの過程が問題だ。まず自分の身を捧げないといけない、というのが大問題だ。他の男を織屋の元にやるのはどうか、と思い、じっと律を見つめたが、笑顔で「断る」と言われた。何故、自分が考えている事を読まれたのだろう。
「良いだろ、どうせお前慣れてるんだし」
 律は“弟以外の人間となら誰でも寝る”と公言しているはずだ。しかし、それは噂だったのか、彼は眉を上げた。
「良くねーよ。俺は俺に好意を持ってる相手じゃねーと嫌なの。他のヤツ好きな相手に抱かれる程プライドねぇわけじゃねーよ」
 べ、と赤い舌を出してみせる友人に、鉄はため息を吐くしかなかった。そんな彼に、律は肩をすくめる。
「何も、悩むことじゃねーだろ」
「は?」
「体を求められたら、差し出す。心を求められたら、拒否する。それで決まりだろ」
 さらりと言う律に、鉄は彼の言葉からひっそりとした冷たさを感じた。それではまるで娼婦のようじゃないか、とも思うが、上司から迫られたら拒否出来ないという点は、それで違いないのかもしれない。
 でも、織屋が自分を娼婦として扱いたいのだろうか、と考えるとそれは違うとすぐに否定出来た。好きだ、と言ってくる彼の声は暖かい。心地良いと、思ってしまう程度には。
「……冷たい」
 ぽつりと呟くように言うと、律は驚いたように目を大きくし、深いため息を吐いた。
「これで冷たい、って思うってことはお前、結構織屋のこと好きなんじゃねーの?」
「当たり前だ。俺が育てた委員長だぞ。嫌いなわけがない」
「てめー、両想いの癖に出し惜しみしてんのか。どこの乙女?」
「……そういう意味じゃないぞ」
 律の冷たい声に、はぁ、と鉄はため息を吐き、碓井との電話を思い出した。
「それに俺、来週からちょっと航空科に行くことになったんだ」
 


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