そういえば、克己に追われるってのも始めてかも。
 人目に付かない場所で昼食の餡パンを食べながら、翔は何となくそんな事を考えていた。
 普段は、前を走る克己を追うことの方が多い。足の長さとスピードの違いだとは解かっているが、矢張りどこか口惜しかった。たまには、追われる側というのも良いものだ。
「みーつけた」
 その時、頭上から降ってきた声にぎょっとする。しかし、顔を上げて思わず力を入れていた肩から、その力を抜いていた。
「何だ、磯貝さん」
 そこにいたのは、白衣を着た磯貝だった。
「ごめんな、驚かせて。お疲れ日向くん」
「ああ、知ってるんですか……」
 彼が片手を上げながら言ったことに、翔は磯貝が自分の状況を理解していると知り、ほっと息を吐く。
「知ってるよ、あの人魚姫のお仕事の邪魔したって話もな」
 くすくすと笑う彼に、翔は飲んでいた紅茶を噴出しそうになった。何で彼がそこまで、という目で見れば、彼は片目を閉じて笑う。
「救護室の人間の情報を舐めないほうがいいぞ」
 愚痴を聞いていると、自然とそういった情報も入ってくるのだ。
「そうなんですか、でも、お仕事……って?」
 磯貝の言った言葉には気になる単語が含まれていた。目ざとい翔に、磯貝は少し言い難そうに視線を揺らし、そして口を開く。
「俺たちは、1年間の大方をこの艦で過ごす。それは、知っているよな?」
 それに翔は頷き、それを確認してから磯貝が再び口を開いた。
「そうなると、やっぱり若い男の集まりだし、性欲の捌け口ってのが必要になってくる。そういうのがないと、苛々して……任務遂行の足かせになってしまうからな。そこで決まった相手が居ればそれにこしたことはないんだけど、やっぱり基本女がいいだろ?だから、女顔の……こういうのは何だけど、君みたいなのが襲われたり、酷い時は強姦事件みたいなのもあるんだ。そういうのを防ぐ為に、あの子は身を捧げてる。基本誰でも拒まないから、船の中が安泰してるのは、あの子の存在があるからってのもちょっとある。あの子は深いこと考えないで好きでやってるから、良いんだろうけど」
 その話に、翔は目を見開いた。脳裡に過ぎったのは、陸にあるヨシワラの女性達だ。彼らはクローンやアンドロイドだが、岩山は人間だ。
「そう、なんですか……」
「うん、まぁ……そうなんだよ。それほど、悪い子じゃないよ」
 それでも眉間に皺を寄せたままの翔の頭を磯貝は軽く撫でる。
「理解出来ない?」
「あ……いや、その」
 優しげな磯貝の問いかけに、翔は困惑したが、胸の中に燻ぶっているものをゆっくりと吐き出した。
「俺、ちょっと誰かを抱くとか、抱かれるとか、正直あんまり考えたくないんです。どんな場合でも」
 男女の行為も考えたくない、と表情を曇らせた翔に、磯貝は眉を上げて見せる。
「珍しいな、男の子なのに」
 確かに、翔くらいの年齢の男なら、女性に興味を持ち、それにともない性交にも関心を示すようになる。自分の周りにいる友人も、とっくの昔に女性経験を終えている者も少なくない。教室でも、女性の裸体を並べた雑誌を広げている友人がいる。そんな友人達を思い出し、翔は眉間を寄せ、僅かに感じた吐き気を耐えた。
「……だって、気持ち悪い。そういうの」
 翔が知るのは快楽ではなく、苦痛と恐怖だ。あまり思い出したくない過去の記憶が蘇りそうになったのに、とうとう目蓋を強く閉じた。
「君の言いたいことも、何となく解かるよ」
 そんな翔に、磯貝は優しく声をかけた。のろのろと目蓋を上げた翔の眼はどこか哀しげで、その目に磯貝は眉を下げた。
「でも、君の考え方も少し淋しいな」
「……自覚してます」
 ふ、と細く息を吐き出し、翔は目を伏せる。自分でも、極端な考え方をしていると理解はしていた。
「日向くん、恋をしたことは?」
「ありません」
「なら、してみるといい。きっと、ちょっとは考え方が変わるよ」
「恋、って言っても……」
 今、身近にいるのは全員男だ。一クラスだけ女子クラスはあるけれど、女子というものは妙に大人びていて、どこか近寄りがたい雰囲気を放っているのだ。普段、友人達とキャイキャイ騒いでいるのが楽しい翔には、恋はまだまだ早いのかも知れない。
「日向くん、キスとかはまだ?」
 磯貝が更に聞いてきたことに翔は背筋が固まるのが解かった。
「い……」
「い?」
「一回……じゃない。多分三回……?全部男なんですけど」
 あまりカウントしたくない数字だと自分で言っていて思う。翔の声がガチガチに固まっていたのをどう解釈したのか、「日向くん可愛い顔してるもんなぁ」と磯貝はコメントしてくれた。
「どうだった?」
「どう、って……別に、特に何も」
 悪いとは思わなかったが、良いとも思わなかった。そんな翔の答えに、磯貝は少し考え込み、そしてぽん、と手を叩いた。
「日向くん、俺と寝てみる?」
「……は?」
 ちょっと、待て。今の流れでなんでそんな話になるんだ?
 唖然と開いた口が塞がらない状況になっていた翔に、磯貝は更に笑みを深めた。
「俺、結構巧いよ。痛みも怖いこともない。ただ気持ちよくさせてあげることだって出来る」
 床に置かれていた翔の手を取り、中指に音を立ててキスをしたその優雅な仕草から、翔は目を離すことが出来なかった。
「あの……え、え?」
 困惑し、目をきょろきょろと動かしていた翔の様子が妙に可愛らしく映り、磯貝は思わず噴出す。
「にっぶいなぁ。遠回しに好きだって言ってるんだけど?気付いてよ日向君」
「……へ……?」
 にこにこと笑う磯貝の顔は翔の間近にあり、その近さに今更ながら顔が熱くなる。慌てて彼の肩を両手で押したが、なかなか彼の体は引いてくれなかった。
「ちょ、っと……待って下さい。だって、俺たち昨日?会ったばっかりで」
「残念、一目惚れ」
「それに、俺、男だし、陸だしっ」
「俺は男じゃないと駄目な人間なんだよ。遠距離もおっけーだよ」
「でも、でも……!」
「何?もしかして俺、遠回しに振られてる?俺の事嫌い?」
 しゅん、と眉を下げた磯貝に翔は口を閉じるしかなかった。そういう態度は少し卑怯なんじゃないかと思いつつ、自分の口元を手で覆った。
「嫌いじゃ……ないですけど」
「じゃあ、好き?」
「……何でその二択なんですか」
 自分が彼と口で勝つには経験値が大幅に足りないことに翔は気付いた。つい数分前まで、恋愛事なんて自分にとっては遠い話だと思っていたのに、突然目の前に現れてしまった。これで動揺するなという方が無理だ。
「日向君に好きな人がいるっていうなら諦めるけど……」
 先程恋なんてしたことがないと言ってしまっているから、今更好きな人がいます、ごめんなさいと嘘をつくことも出来ない。
 どうしよう。
 激しい困惑の中、思い出したのは克己の顔だった。彼ならこういう時の上手い断わり方をきっと知っているんだろう。こんなことになるなら、聞いておけば良かったと後悔していた。
「お、俺……っ」
 その時、目の端に入った自分の腕時計の時間に目を見開く。そろそろ、午前中が終わる時間だ。
 脳裡に克己とのルールが過ぎり、慌てて立ち上がる。
「すいません、俺、もう行かないと……!」
 白々しかっただろうか、とちらりと磯貝を見たが、彼はにこりと笑い、手を横に振ってくれた。それにぎこちなく一礼し、翔はその場から走り去る。いつもならこれくらい走ったところで心臓が早くなることはないのだが、今はこれ以上ない位に心臓が高鳴っていた。
 こんな風に誰かに好きだと言われたのは、初めてかもしれない。困惑はしているものの、胸が妙にむず痒い。
「うわぁぁぁどうしよう!」
 思わずそう叫んでしまったところで、背後から克己の声が追ってきた。
「見つけたぞ!何で海の制服着てるんだ、お前!」
 うわぁぁぁ、どうしよう!
 同じ言葉だが、今度は違う意味合いで心の中で叫び、翔はひたすら逃げた。





 何か、船の中が奇妙な雰囲気だな。
 志賀はその空気にいち早く気付いていた。どことなくピリピリしている空気を感じ、海の生徒達の視線を観察する。通常通りに業務をしている者の中に、苛立ちを含んだ視線を遠いところにいる陸の生徒へと向けているのを見つけ、志賀は眉間を寄せる。
 元々海と陸は仲が良くない。ただでさえ敵対心を持っているのに、例の勝負の一件で、怒りや憤りが増幅しているのかもしれない。
 あまり良い雰囲気じゃ無いな。
 統吾を探し、その姿を見つけた志賀は真っ先にその事を忠告しておこうと口を開く。
「佐川!」
「へぇっ!」
 背後から声をかけられた彼は突然の事に驚いたようで、奇妙な声を上げる。その珍しい様子に志賀は片眉を上げた。
「佐川?」
「志賀……?な、何だよ……」
 自分が奇妙な態度をとってしまった自覚があるのか、統吾は妙に目をきょろきょろと動かし、挙動不審な態度をとっている。普段の統吾からはあまり見られない態度に、志賀は彼を探していた理由を一端頭の隅に追いやった。
「……何か、あったんだろ」
 にやーと口元を歪めた友人に、統吾は後ずさりをする。普段見ている友人の顔が、今日は妙に恐ろしく見えた。
「何もねぇよっ!」
「へぇー?あ、久瀬先輩だ」
「なっ!」
 瞬時に反応し、志賀の視線を慌てて探るその姿に、志賀はにまにまと笑う。そして、その笑みに気付いた統吾はだまされたと知る。
「……志賀、お前……」
「あ。久瀬先輩」
 再び視線を遠くにやり、同じ台詞を口にした友人を、統吾は鼻で笑う。二度も同じ手には引っ掛からない。
「何が久瀬先輩だよ。お前いい加減に」
「……いい加減にするのはお前の方じゃないのか、佐川」
 背後から聞こえてきた声に、統吾は背筋が固まるのが解かった。
「……久瀬さん」
「会長がお前をお呼びだ!早く来い!」
 後輩の襟元を引っ掴み、久瀬は早足で歩き出した。それに逆らう事も出来ず、統吾はただ笑顔で手を振る志賀に親指を思いっきり床めがけて突き落とすことしか出来なかった。しかし、友人は笑顔を崩さない。
「良いコンビじゃん」
 志賀がそう呟いた頃、統吾は久瀬と舌戦を繰り広げていた。





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