今日も疲れる一日になりそうだ。
 高遠は生徒会室で書類を整えながら朝日が昇り始めていた窓の外を見る。そのつかの間の静寂を破ったのはノック音だった。
「高遠先輩、ちょっと」
 顔を出したのは情報部の棗だった。コーヒーの入ったタンブラー片手にやってきた彼は部屋に入る事無く、再び外へと姿を消す。それを高遠は追った。
「何だ」
「大したことじゃないんすけど、一応、高遠先輩の耳に入れておこうと思って」
 徹夜の作業をこなしていたのか、棗は欠伸を一つし、二晩風呂に入っていない髪の毛を掻いた。
「外部からのアクセスがあったんですよ。しかも海の上から」
「……目的は?」
「日向翔のデータです。それだけ」
 棗は肩を竦め、高遠はそれに軽く首を倒した。
「報告ご苦労だったな。シャワーでも浴びて寝てこい。そのままじゃ女も男もお前と寝るのを嫌がるぞ」
 手に持っていた書類の束で軽く棗の頭を叩くと、彼は自分の服の袖に鼻を持っていく。
「うぇ。そんなに匂いますー?」
 その問いに高遠は手を軽く振り、生徒会室に戻った。そして真っ先に備え付けの電話の受話器を取り、すでに記憶している番号を素早く押す。
 2コール後に出た声は機械的だったが、もう耳に鳴れた声だったので気にする事無く高遠は椅子に座り、近くにあったボールペンを手に取り指先で軽く回した。
「陸上士官科の高遠だ。演習中の浅葱と回線を繋いでくれ」


 何か変だな。
 翔は荒い息を吐きながら廊下の隅にあった木箱の上に腰を下した。荒い息を整えて、思いっきり息を吐き、ようやく落ち着く。肌にじんわりと浮かんでいた汗を服で拭い、被っていた帽子で額の汗を拭いた。借り物だが、後で洗濯すれば良いだろう。
 時計をちらりと見ると、克己と最後に顔を合わせてから3時間ほど時間が経っている。その時間に眉間を寄せてしまう。
 そんな翔の背後に手が伸びてきたのだが、それに気付いたのは肩にその手を置かれてからだった。



 思ったより難しいゲームだったな、と克己は艦内を走り回って思い知らされていた。
 翔の姿をどうにか見つけても逃げ切れられ、船の広さと親友の足の速さに脱帽する。だが、これくらいでないと面白くない。
 船の中は蒸し暑く、場所によっては機械臭い。こんな環境でよく働けるものだ、と密かに克己は海の生徒達を褒めた。潮臭い、と陸では言われている海の生徒だが、潮よりは汗にまみれている時間の方が明らかに長いだろう。
「克己!」
 その時、自分の名を呼ばれ一瞬翔かと思うが、そこに立っていたのは岩山だ。
「……何だ」
 この忙しい時に、と内心舌打ちしたが、突然彼は泣き出しそうな顔をして頭を下げる。木の床に涙らしき物が散ったのも、恐らく身間違いでは無い。
「ごめんなさい!」
 高飛車な彼の突然の謝罪に克己は少々面食らう。
「何がだ」
「僕の所為だ、僕の……ごめんなさい、どうしよう、克己!」
 混乱しきっている彼の様子はただ事ではなく、どうした、と聞いても要領を得ない。しかし、彼がはっきりと「日向翔が」、と涙声で訴えた時にようやく克己の眼の色が変わった。
「翔がどうした?」
 岩山の話はこうだ。一人では翔に太刀打ち出来ないと察した彼は、数人の取り巻きに翔の捕獲を頼んだ。少々脅かして負けを認めさせたら終わらせるつもりだったのだが、翔が激しく暴れた為に取り巻きの方は納得せず、彼を連れてどこかへ行ってしまったと。それを止めようとした岩山は彼らに殴られ、確かに額にコブが出来ていた。
「こんなつもりじゃなかったんだ……」
 岩山に案内されたのは、人気のない狭い廊下だった。彼の話に寄るとここで翔が捕まり、男達が連れて行ったらしい。確かに、ここは人気もなく誰かを捕らえるには持って来いの場所だ。
 ゴウンゴウンと頭上で回る換気扇を見上げ、克己は眉間を寄せた。蒸し暑い船内に、喉を流れた汗を拭う。
「何人くらいいた?」
「5人だよ」
「5人」
 落ち着いた岩山の言葉を静かに反芻し、克己は近くの船室の扉を開けたがそこには誰もいない。木の床と丸い窓から光が入っている、それだけだ。
「岩山、解かった。翔を探そう。来い」
 扉を閉め、少し離れた彼を手招きすると、彼は流れた涙を拭いながらそろそろと克己に近寄ってきた。
「ごめんなさい、克己……」
 そう言いながら両手を伸ばしたその細腕を克己は掴み、そして素早く捻り上げ、彼の背中で纏めてその体を扉に強く押し付けた。
「克己!?」
 驚いた声を上げた彼の服の裾を捲り上げると、そこには小さな拳銃が挟まれている。それを取り上げ、中に弾を入っているのを確認した。
「これは?」
「護身用だよ……!だって僕はいつも狙われてて」
「その護身用をどうして使わなかった?お前も殴られてるだろうが」
 弾が一発も減っていない拳銃に克己は岩山の顔を扉に強く押し付ける。その痛みに岩山は悲鳴を上げた。
「怖かったんだよ!」
「無駄な装備だな。翔はどこだ?」
 岩山の腕を押さえている手に力を込め、克己は低い声で問う。その低さに岩山は寒気を感じたが、必死に首を横に振った。
「知らない!僕は何も……!」
「さっき、5人と言ったな?」
 骨が折れるほどに彼の腕を拘束していた手に力を込めると、岩山の口から苦悶の声が漏れた。
「覚えておけ、あいつを捕まえるのには8人以上必要だ」
「なら、10人集めよう」
 第三者の声に克己は顔を上げると、左右廊下の奥を海の生徒が固めていた。しかも、全員が銃を持ち、標準を克己に合わせている。まるで、何かの犯人扱いだ。
「……何のつもりだ」
「何って。見りゃ解かるでしょ。お前を捕まえに来たんだよ」
 愚問を鼻で笑いながら近寄ってきた男には見覚えがある。前に遠也を襲い、自分と正紀で殴りつけた男だった。逆恨みか、と目を細めた克己に彼は顎で指示をする。
「おい、手の銃を岩山に渡せ。変な動きを見せたら撃つからな」
 仕方なしにその銃は岩山に渡すと、彼はそれを受け取り、男の近くへと走っていった。
「両手を上げろ」
 その指示に従わず、彼をただ観察していると、彼は声を張り上げた。
「最後だ、両手を上げろ!」
 克己が両手を上げると、彼の背後に居た生徒達が素早く克己に近寄り、武器の所持を確認してからその手を後ろにまとめ、素早くガムテープで固定した。なかなか手際がいい。
「この間のお返し、たっぷりしてやるからな」
 歪んだ笑みを浮かべた男は、口にガムテープを貼られても静かに自分を見つめる克己の顔を強く殴りつけた。


 
「篠田!」
 肩を叩かれた翔は思わず飛びのいていたが、それに驚かせたと察した正紀は両手を上げる。
「悪い、日向。お前まだ捕まってないんだな。お前らが走り回ってる姿見えなくなったからてっきり捕まったのかと思った」
 正紀のその言葉に翔は自分の心の中に広がりつつあった不安が増幅するのが解かる。そしてようやくその異変に気付いた。自分は追われているはずなのに、克己の姿が全然見当たらないのだ。それは自分が逃げおおせているという証拠のような気もしたが、午後になって3時間、克己の姿を見ないのは流石におかしい。
「克己……見なかったか?」
「いや、見てない。お前のこと探してるんじゃないのかよ」
「克己の姿が見えないんだ」
 不安気に周りを見回した翔の眼は、鬼である克己を探していた。それに正紀は肩を竦める。
「お前が逃げてるからだろ。それに、あの甲賀に限って何かあるわけがねぇよ」
 彼の力量は翔もよく知っているはずだ。そう窘めるが、翔が正紀の言葉に目を上げた。
「そうだ、あの克己だぞ。あの克己が3時間も俺を追い詰められないのはおかしい」
 もしこれが克己の作戦だとしても、自分はこうして隠れもせずにフラフラと歩いているのだ。そこを狙ってこない彼ではない。
 その根拠に正紀は何も言えなくなった。そう言われてみれば確かに、と思い直し、沈黙する。そこに畳み掛けるように翔は眉間を寄せた。
「それに何か、すっげ嫌な予感がするんだ」
 拳を握り俯いた翔の様子に正紀は眉を上げた。
「……そういう時の直感は大切にした方が良いな。俺も探してみるよ。クラスの奴等にも声かけてく」
 正紀も翔のただならぬ様子に何か感じる物があったのか、頷いてくれた。正紀の頼もしい言葉に翔も安堵し、他の心当たりに足を向ける。それでも矢張り克己の姿はどこにもなかった。
「日向」
 食堂近くで片手を上げて駆け寄ってきたのは、統吾だった。
「佐川?」
「やっと見つけた。お前足速いな……」
 は、と荒い息を整えながら佐川は茶色い髪を掻いた。そして
「お前の友達、今第四倉庫にいるぞ」
「え?」
「悪いな、ウチの生徒が馬鹿やらかしてる」
 軽く目配せして事情を告げた彼の心情は伺えなかったが、翔はすぐに彼に背を向けた。
「……行かないと」
「ちょっと待て」
「なんだよ」
 急いでいるところで腕をつかまれ、翔はそれを思いっきり振り解こうとしたが、統吾の腕の力は強い。焦りを見せる翔を、統吾は落ち着けと言う様に真剣な眼で見つめた。
「ちょっとした、問題があるんだ」
 




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