「先輩、俺と勝負してください!」
……えー。
思わず久瀬は心の中で間延びした声を上げていた。目の前に立っているのは、確か1年の生徒だ。統吾並みに高い身長の彼がその体を半分に折って、つまりは自分に頭を下げている。
ついさっきまで、自分は生徒会の仕事で走り回っていたのだが、彼に捕まってしまったのだ。
「悪いけど、俺たち生徒会は忙しいから勝負事は免除になってて」
「好きなんです、俺、先輩が……!」
穏便に断わろうとしたのに、彼はその大きな顔を久瀬に近付け、強く迫ってきた。
正直、困った。久瀬はあまり体術の類が得意ではない。こんな屈強な男と殴り合いの勝負なんてことになったら、例え1年相手でも勝てる気がしない。けれど、そんな事を認めるのは上級生のプライドが許さない。
第一、遠回しに断わっていることを察して欲しい。
久瀬には密かな想い人がいるのだ。今、手に持っている自分用のボードにも、書類の間に挟まって彼の写真がある。これはどこぞの馬鹿が「あげるよ」と渡してきたもので、捨てるに捨てられず行き場も見つけられず、仕方なく書類の間に挟めていたものだ。
そんな物を持っている自分が、見ず知らずの生徒の告白に頷くわけがない。
「いや、だからね、俺たちはー」
「久瀬さん!」
その時、その男を押しのけて顔を出した相手に、不覚にもときめいてしまった。というか、何でこんなイイタイミングで来てくれるのだろう。
「佐川……」
けれど、彼は自分と視線を合わせた瞬間、どこか不快気に眉間を寄せた。その顔に、ああ、矢張り自分は嫌われていると思う。
「会長が呼んでる。何してるんですか、行きますよ」
「会長が?」
しかし、生徒会の仕事は仕事だ。気を引き締めていかないと。
目の前の生徒には悪かったが、久瀬は統吾に促されるがままに彼の前から何事も無かったかのように立ち去った。
助かった。
密かにほっと息を吐いたその時、目の前を歩いていた統吾がくるりと振り返り、何とも言えない表情で久瀬を見た。
「……佐川?」
「何あれ」
「何?」
「だから、さっきのヤツですよ。何で、一発怒鳴ったり一発殴ったりしてやんないんですか?俺にはすっげ怒鳴るのに」
先ほど言い寄っていた相手に、久瀬があまりにもオロオロとしていたのが、何故か統吾は気に入らなかった。その指摘に久瀬は驚いたように目を大きくしたが、すぐに眉間を寄せ、いつも統吾を怒る時の顔になる。
「そんな事より、会長は?」
「あんなの、嘘に決まってるでしょうが」
「はぁ?嘘?」
その言葉に久瀬は更に驚かされる。そんな久瀬の態度が、統吾はどことなく面白くなかった。
「……そんなに、会長に会いたいんですか」
「へ?」
「何つーか、バレバレ過ぎて見苦しいですよ、久瀬さん」
その言葉に、統吾に自分の気持ちがバレたのかと、久瀬は背筋に冷たい物が走るのが解かった。頭の中がパニックになる。
久瀬が生徒会の一員でいるのは、その明晰な頭脳のおかげだった。しかし、今はその自慢の頭も上手く動かない。
「な、何、がっ?」
折角出しても、変に高くなったり下がったりした声では、動揺していることがバレバレだった。
「だって、好きなんですよね、久瀬さん」
決定的な言葉に、久瀬は手に持っていたボードを強く抱き締めた。そのボードに挟めていた書類が、ぐしゃりと歪む音が聞こえるが、構っていられない。
「相良会長のこと」
………ん?
ハッと顔を上げると、統吾はそれを肯定ととったのか、鼻で笑う。
「つーか、マジバレバレですって、久瀬さん。何かもう告れば良いんじゃないですか?当たって砕けろってやつで。あ、でも砕けたら駄目なのか」
ははは、と乾いた笑いを始めた男を、久瀬は手に持っていたボードで思い切り叩いた。硬い物質で作られているそれは、ゴッという音を立てて統吾の顔にヒットする。
「っってぇぇぇ!何するんすか!ちょっと!」
狭い艦内、叩かれた反動で鉄で出来た壁にも顔をぶつけてしまい、統吾は頬を額と二箇所を押さえて久瀬を睨み上げる。しかし、そこには今まで見たことがないくらい怖い顔をした上司が立っていた。
「……く、久瀬……さん?」
「この………馬鹿野郎!!」
最後にもう一度、そのボードを統吾の顔に投げつけ、久瀬はその場から走り去った。追いかけなければ、とは思ったが、何分攻撃された顔全体が物凄く痛い。
「何なんだよー……」
一番痛む鼻を撫でながら、投げつけた拍子に舞った書類を拾う羽目になってしまった。
しかし、彼のあの反応。相良の事はなんとも思っていないという事なのだろうか。その事に、何となく安堵してしまうのは何故なんだろうか。
眉間を寄せながら書類を拾っていると、まとめたその中に一つ書類とは違う紙質のものに指が触れ、何となしにそれを引っ張ってみて、目を見開いた。
「……え?」
「……おい、翔見なかったか」
「へ?日向?そういや、朝から見てないなー」
そんな声が背後から聞こえてきて、翔は内心ヒヤヒヤだった。それでも、彼はここには目的の人物はいないと判断したらしく、すぐに出て行った。
「おい、もう良いぞ」
クラスメイトの声に今まで背を向けていた翔は振り返る。その青いセーラーに帽子といった格好は、海の制服だった。これでしばらくは誤魔化せるだろうと踏んで着替えたが、思った以上に効果は絶大だった。
「悪いな。ごめん、俺の分の仕事さっさと終わらせるから!」
例え勝負が絡んでいても、自分の仕事の量は変わらない。クラスメイトに頼んで、仕事をしている間は誤魔化してもらうように頼んだのだ。
両手を合わせた翔に、同じ班のクラスメイトは破顔する。
「良いって。それより、お前負けたら甲賀のグループに行っちまうんだろ?それ困るしさ。絶対勝てよ!」
「おお。んじゃ、アイツ戻ってくる前に俺逃げるな」
「頑張れよー!」
クラスメイト達の声援に見送られ、翔もそれに手を振り答えた。一見元気そうな彼の姿だが、田中は一人呟く。
「大丈夫かな」
それを拾った辻が、田中の不安に気付いていた。
「どうしたんだ?」
「うーん……日向、最近船酔いであんまりご飯食べて無いから、気になって」
大丈夫かなぁ。
もう一度同じ言葉をくり返した田中に、辻は苦笑する。
「大丈夫だろ」
だって、相手は甲賀だぞ。
そう続けた辻に、田中も納得した。克己と翔が仲が良い事はクラスでは周知の事実だ。翔が克己を大切な友人と思っているのは傍目からでも良く解かるし、克己も翔を大切に思っていることも良く解かる。
あの二人がお互いを傷つけることは、絶対に無い。
「日向がふらついたら、甲賀が負けを認めるだろうしな」
どこか確信めいた辻の言葉に、今度は田中が苦笑する番だった。
「ま、基本日向の方に分があるんだよな」
それが、傍目から見る立場であるいずるの見解だった。翔は体も小柄だから、通気口やダクトなど、隠れる場所は沢山ある。そして、逃げ足も速い。
「俺は甲賀も良い線行くと思うけどなー」
正紀の見解は克己の勝利だ。克己は体力だけではない、頭脳もクラスで1,2位を争うほどなのだ。今回は体力勝負の面もあるが、頭脳戦にもなる。
甲板で何人かの友人達と座り込み、うーんとほぼ同時に唸った彼らの真ん中には、数枚の紙幣と山積みされた小銭があった。
「じゃ、とりあえず午前中の予想ってことでー、日向に賭ける人―!」
正紀の声に何人かが手を挙げ、それを遠也は冷たい目で見ていた。友人達の勝負の行方は、クラスメイト達の一時の遊びと化していた。
「何か、案外平和に終わりそうだね」
ぼけーっと太陽を見上げている大志の言葉に、遠也はため息を吐く。
「だと良いんですけど」
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