「ちょう、怒らせたっぽい……」
ずーんと重いオーラを背負った翔は食堂のテーブルの上に突っ伏して反省していた。確実に言い過ぎてしまったのは自分だ。後悔したところで遅いが。
「……ちょ、日向大丈夫か?」
朝からフラフラとしていた翔の様子が更に悪くなっている事に、大志に声をかけられ、適当に頷いた。
「おーぅ」
しかし、その気の入っていない声は、説得力がない。翔の目の前にある食事もあまり減っていないことに、大志は声を上げた。
「全然駄目じゃん!ほら、しっかり喰えって」
背中を叩かれ、一度投げ出した食べ物に目をやるが、そこに盛られている唐揚げやら油豆腐やら胃に重たそうなメニューに、やはり目を逸らしてしまう。その視線の先には、そのメニューをモリモリ食べる海の生徒達がいた。食べながら談笑している彼らは尊敬に値する。
「ごめん、ちょっと気分悪くてあんまり喰えねぇ……」
船酔いもプラスされ、精神的にも肉体的にも限界が近い。とりあえず、水だけは飲んでおこうとグラスに口をつける。と、その時
「お、遠也だ!」
食堂に別グループも顔を出したようで、大志の弾んだ声に咽てしまった。彼が手を振る方向には確かに遠也と正紀がいて、そしてその後ろには相変わらず岩山を腕にぶら下げている克己がいる。
これは、チャンスと喉に力を入れようとしたその時、克己より先に翔に気付いた岩山がにやりと笑い、何故か克己の腕を引き、食堂から出て行った。
は?
その動きに疑問を持ったのは翔だけではなく、大志もだったらしい。
「……あれ?な、甲賀今……」
「何も言うな、三宅」
あの言葉を実行したかどうかは解からないが、どうやら随分と仲良くなったようだ。普段の克己なら、昨日今日会った人間に腕を引かれておいそれと動く人間じゃない。
「いやでも、日向」
「……すっごく、仲が良い友達が出来たってことだろ」
前半の単語に力を込めたその声には苛立ちが含まれていた。それに大志が肩を揺らしたのを尻目に、翔はあまり口にしなかった食事のトレイを持ち、配膳室へと運ぶ。残飯を捨てる青いバケツの中は、同類が多いのかすでにかなりの量だったが、そこに自分が残したものを捨てるのは矢張り良心が痛む。食べ物は大切に、と穂高にも教えられてきたのに。
「何してんだ、俺は……」
人知れずため息を吐き、何となく泣きたくなった。
「大丈夫かい?」
その時、背後からかけられた声にハッと顔を上げると、そこには昨日知り合った磯貝が立っている。目が合うと彼は安心したように微笑んだ。
「ようやく見つけた。二日酔いはまぁ良いとして、船酔いしてないかと思って探してたんだ」
この時間なら、食堂に来るだろうと思って、と続けた彼に小さな錠剤を渡され、何となくほっと息を吐いていた。
「ありがとう、ございます……」
「どうしたの?元気ないけど」
顔を覗きこんできた彼に、ようやく翔は苦笑を返すくらいの余裕が生まれた。
……ん?
遠也はきょろりと食堂を見回した。大志がいるなら、彼も居るだろうと思ったのだが、姿が見当たらない。
「日向は?」
大志に問えば、彼も首を傾げた。
「さっきまでいたんだけどな。先に部屋に帰ったのかも」
「……そう、ですか」
そういえば、今日顔を合わせた時、少し顔色が悪かった。船酔いでもしたのだろうか、後で彼の部屋に行ってみようかと考えていた時、目の端に白い白衣が映る。そして、その隣りにいた見覚えのある顔も。
「……日向?」
「会長……」
統吾は仕方なしに相良を探した。この船の最高責任者である彼なら、きっと磯貝を止める事が出来ると思ったからだ。
突然の統吾の訪問に、相良をその側近である北條は目を丸くしたが、彼のやつれっぷりにただ事では無いと判断してくれた。
「何だ、どうした。佐川……珍しく疲れてるな」
北條の知る佐川統吾という人物は、常に久瀬と言い争いをし、事あるごとに反発しているエネルギーの有り余っている青年だった。しかし、今の統吾には久瀬と出会っても喧嘩を売るようなことは出来ないだろう。
「お願いします、磯貝先輩をどうにかしてください……」
縋りつくように統吾が口にした名前に、相良は苦笑を禁じえなかった。磯貝という人物がどういう人間か、相良も良く解かっていたからだ。
「また何かやったのか、磯貝が」
「やった、というか……これからやりそうなので、会長から止めて下さい」
相良であればあの磯貝の破天荒振りを止められる!と今まであった話を全部話した。話を聞くにつれ、相良の視線が徐々に上がり、最終的には天井を見上げて思案している。きっと、どう磯貝を説得するか考えてくれているに違いない、と期待したが
「……そうか、なら少し様子を見よう」
「はい!?」
相良の結論に統吾は口元を引き攣らせた。今まで自分が報告した話を彼は真面目に聞いていたのかと思ってしまうような回答だ。
「その日向と甲賀は友人同士だと言ったな」
「はい。それが何か……」
「……いや。まぁ、様子を見てみてくれ」
何か思案している相良には何か思い当たる事があるらしい。北條も「磯貝か……」とどこか複雑な顔をしていた。
「磯貝先輩って……何かあるんですか?」
眉間を寄せた佐川の問いに、北條と相良は顔を見合わせ、二人ほぼ同時にため息を吐いた。
「……本人があまり話したがらないから、聞かなかったことにして欲しいんだが」
誘われるがままに例の救護室に来た翔はぼそぼそとついさっきあった一件を気付いたら話していた。こんな話は、誰にすればいいか解からなかったから、磯貝と会って丁度良かったかもしれない。
船酔いによる悪心はまだ晴れないが、少し心は軽くなったような気がした。
「別に、間違った事は言ってないからいいんじゃないかな」
優しい声で磯貝はそう言うが、翔は眉間を寄せるしかない。
「……でも、正しくもなかった」
自分が悪いことは翔も自覚していた。普段なら、こんなことは言わない。自分が口を出すようなことではないと、理解出来ていたはずだ。克己の中にはまだ、自分の知らない遥という女性がいる。その人物を知らない自分は、たまにその存在を忘れがちだ。もしこれがあの山川至辺りだったら、上手く立ち回るのだろうと思うと、イラッと来るものがあるが、今はそんな苛立ちを感じられる立場では無かった。彼に笑われてもしょうがないことをしてしまったのだから。頭の中に、想像の山川の笑い声が高く響く。
さっきまで感じていた心の中の苛々は、すっかり自己嫌悪にすり替わっていた。
「そう、自分を責めるもんじゃないよ、日向くん」
くしゃりと頭を撫でる磯貝の言葉も耳を通り抜けてしまう。
「昨日の夜、見たんですよ。その友達がその子とキスしてるの」
「……それは、ショックを受けて当然だろ」
男同士のキスなんて見てて気持ちの良いものでも無いし、ましてや身近な友人のラブシーンだ。居心地が悪くても仕方がない。
しかし、翔はゆっくり首を横に振った。
「そうじゃないんです。ただ……」
息を吸うと、先ほどまで感じていた消毒液の香りを感じなくなっていた。鼻が慣れるくらいここにいたということだ。
「心から好きな相手がいれば、一夜限りの相手なんて必要ないもの……ですよね?」
自分の考え方が合っているかどうか、翔は少々不安だった。磯貝を見上げ、答えを求めると彼は何故かしばし逡巡し、それから「そうかもね」とどこか曖昧な音が残る答えを出す。しかし、翔はそれに気付かず、再び俯いた。
その際、目に入った自分の腕時計の短針は10を指している。夜と言って充分いい時間帯だった。もしや、克己は今頃昼間自分が言った事を実行しているのかと思うと、自然と眉間に力が入る。
「……多分、あいつは誰でも良いんだ。元々、目の前の人間を抱くつもりなんて無くて、結局心にいるのは一人だけで」
きっと、今でも過去彼の唯一の安らぎだった彼女を思っているのだろう、今でも。鈍い自分でもそれだけは解かる。
「俺は、恋愛も知らないし、女の人とそういう事したことないけど……でも、誰でも良いっていうのは何か凄く」
一度言葉を切ってしまったのは、自分に恋愛経験がないのに、解かったような口を聞いても良いものかどうか迷ったからだった。しかし、どんな立場にせよ、誰かを誰かの代わりとしてしか見れないのは哀しいことだと思い、するりと口から言葉が出た。
「凄く、淋しいな、って思うんです」
そう言い切った翔に、磯貝は目を細めていた。俯く翔の頭に手を伸ばそうとしたその時、突然翔が顔を上げ、自分の頭を掻き毟った。
「俺、あいつが淋しいのは嫌だけど、こればっかりはどうすることも出来ないから、あんな事言っちまったけど……そうだよなぁ、俺が忘れろなんて、言える立場じゃないよなぁ」
自分にも、忘れられない人はいる。無理に忘れろ、と言われる事が、その努力をする事がどれ程苦痛か、自分もよく知っていたはずだ。
脳裡にちらりと姉の姿が浮かび、翔は肩から力を抜いた。
「でも、そうとは限らないじゃないか」
自分の唇を指で撫で、なにやら考え込んだ翔に、たしなめるように磯貝が口を開く。
「もしかしたら、君の親友はその美少年を好きになったから抱くのかも知れない」
そんな彼の言葉に、翔は思わず笑ってしまった。
「それなら良いんですけど、それは絶対に有り得ませんよ」
「どうして?」
「だってアイツは、昨日今日出会った人間に心を許すようなヤツじゃない」
それだけは自信を持って言える。見知らぬ人間が近くにいたら全身で警戒する男なのだ、彼は。そんな彼が、あの時自分に「疲れた」とぼやいたのに、あんな事を言ってしまったことは本当に反省していた。
もしかして、あれは彼なりのSOSだったのだろうか。疲れた、休みたいという。そう考えると、後悔も感じるが、彼が自分の事をそれなりに思ってくれている事に少し気分が上昇する。
「よし!」
ぱん、と翔は自分の膝を叩き、勢いよく立ち上がった。その勢いに磯貝は驚いたように一歩後退するが、そんな彼に翔はスッキリした笑みを浮かべた。
「話聞いてくれて有難う御座いました!俺ちょっと行ってきます!」
「へ、あ、ああ……でもどこに?」
その問いに、快活に笑う翔の笑みが更にイイ笑顔になり、彼は力強く親指を立てた。
「邪魔しに!」
「え」
あまりにも短い説明だったが、大方磯貝は彼が何をしに行くのか察し、彼の行動に思わず硬直していた。その隙に翔は救護室から出ていき、その入れ違いに顔を出したのは、統吾だった。
「……先輩、日向からは手を引いたほうがいーんでない?アイツ結構変なヤツっすよ」
「……変なのは、充分理解した」
けれど、あの時何故、彼に手を伸ばしたのだろう。
無意識のうちに動いていた自分の手に磯貝は視線を落とし、不可解な感情が生まれ始めているのを感じていた。
「佐川、ちょっと陸のデータから、日向くんの生い立ちとか引き出してくれないか」
「はい!?絶対嫌ですよ!陸のデータ漁りとか面倒過ぎて泣けるし!」
「なら泣きながらやれ」
素っ気無い返答に、統吾は舌打ちするしかない。はいはい、と適当に返事をし、救護室から出た。上官の命令は絶対だ。
しかし、その前にやることがある。
統吾は翔が走って行った方向へ、足を踏み出した。
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