結局、あまり眠れなかったな。
 二日酔いの頭痛は治ったものの、今日は寝不足で翔の頭はクラクラとしていた。
「……日向、大丈夫?」
 どことなくふらふらとしている翔に、田中がこそりと聞いてきたが、それには笑顔で答えておいた。まさか、克己が男とキスをしていたのを見て、何となくショックで一日眠れなかったなんて、言えるわけがない。
 俺って、そんなに同性愛に理解出来なかったっけ……?
 うーん、と悩んでから、自分を心配してくれた田中の顔をじっと見た。美形とまではいかないものの、可愛い顔立ちをしている彼は、クラスの辻と付き合っている。彼と田中のカップルはほのぼのとしていて、観ていて別に不快ではないし、むしろ応援したいと思う。
 もしや、身内が同性愛者だったらショックだとかいうそういう方面なのか、と思い、遠也に男の恋人が出来たら、と考えてみたが、矢張り自分は応援するだろう。女だろうが男だろうが、彼が幸せならばそれでいい。
 ……じゃあ何で克己は駄目なんだ。
 自分の心情が不可解すぎて、もしや気の所為なのではないかと思うにしては、はっきりとその感情は自分の胸中に鎮座していた。
 嫌だ、苦しい、哀しい。
「ひゅーぅが!」
 その時、怒声にも似た声に呼ばれ、バッと顔を上げると、そこには思いっきり不機嫌な顔をした本上が立っていた。背後に、怒りのオーラを背負って。
 げ、と心の中で呻くが、彼は翔を逃がしてはくれなかった。
「ねぇ、どういうこと?」
 彼は、怒りの限界点を超えているらしく、口元は笑っていたが目が全然笑っていない。
 本上に良く思われていないのは知っていたが、いきなりここまで睨まれる覚えは無い。それとも、無意識に何かしたのかと、自分の最近の行動を考え直してみたが、思い当たる事は何も無かった。少なくとも、昨日今日は克己と会っていない……はずだ。
「な、何が……」
「良いから、来い!」
 突然腕を引かれ、翔は本上に連れて行かれるがままに歩くしかなかった。
「ちょ、な……なんだよ!」
 本上の勢いに流されるしかないのは、何だか彼が物凄く怖かったからだ。
「良いから、来い」
 ほら、声が怖い。
 それ以上何かを言うことが出来ず、翔は黙り込み彼に付いて行く。本上の足は甲板に向かっていた。確か、今の時間の甲板掃除は克己たちがいるグループのはず。
連れて行かれた先の光景を見て、本上の言いたいことが何なのか、すぐに解かった。
「あれ何?」
 甲板に到着した本上が顎で示した先には、見覚えのある少年を左腕にぶら下げた克己がいた。甲板掃除の邪魔になっているのが傍目からも解かる。
「あの子……」
 間違いない、昨晩克己と一緒にいた少年だ。明るいところで見るのは初めてだが、かなりの美少年なのは遠目からでも解かる。それが、本上を苛立たせる一つの要因だろう。克己の腕にしがみ付き、その上機嫌な表情は本上とは対照的だった。
「ねー、克己!休み時間になったら僕の仕事場にも来てよー」
「馴れ馴れし……っ!」
 そしてここまで届いてきた高い声が、さらに本上の怒りを煽っていた。翔が止める間もなく、彼は足音を立てながら彼らの前に立ちはだかる。元々沸点が低い本上に、堪えろという方が無理だったのかも知れない。
「ちょっと!」
 ダン、と床を踏み、本上はその激しい音で美少年の高い声を止めさせる。突然の登場に、彼はきょとんとした顔をし、克己の方はさらに疲れたような表情になっていた。周りのクラスメイトは、何だか愉快な状況に色めき立ち始める。
 しかし、本上は周りの状況など関係なく、冷たい目で美少年を睨み付けた。
「お前、何?甲賀さんの邪魔になってるじゃん、離れなよ」
「……誰、この不細工」
 彼は本上をちらりと見上げ、さらりととんでもない単語を口にした。本上は、決して不細工などといわれるような容姿ではない。むしろ賞賛される顔立ちだ。今まで一度も言われた事の無い単語に、彼は一瞬何を言われたか解からなかったのだろう。硬直していた。
 クラスメイトの反応は、思わず噴出しそうになった口を手で覆った者と、同情の視線を本上に向ける者とほぼ半々だ。正紀など堪えきれず、本上に向けた背を震わせている。硬直が解けた本上はまず正紀の背に張り手をし、美少年を睨みつけていた。
「不細工だって……!?誰に言ってんの!?僕は、甲賀さんの……!」
「ね、克己この人誰?」
 本上の話はスルーをして、克己に問いかける彼はそれなりに頭がいい。
「クラスメイトだ」
克己の方も、そう聞かれたらそう答えるしか術がない。確かに、それが真実なのだから。
 これは、本上の負けだな。
 翔は敗北した本上の背を見て、肩を竦める。何だか自分も居心地が悪い、さっさと持ち場に戻ろう。
「日向?」
 その時、背後から聞こえた声に振り返ると、そこにはブラシを手にしていた遠也がいた。見当たらないと思ったら、掃除用具を取りに行っていたのか、と納得して翔は彼に笑みを向ける。
「久し振り、遠也」
「はい。日向も元気そうですね」
「……な、遠也。あれ、どうしたんだ?」
 遠也ならこの状況を説明してくれる。そう判断して、視線で今の克己の状況を示した。すると、彼は疲れたような顔をし、「あぁ」と呟く。
「何か、昨日甲賀が殴り飛ばした相手だそうですよ。名前は確か、岩山敦也」
「殴り飛ばした?」
 どうして殴り飛ばされて懐けるんだ、と翔は怪訝な表情を見せたが、遠也はさらりと「そういう趣味なんじゃないですか」と答えてくれる。
「理由は知りませんが、昨晩からあんな調子です。キスしろ抱き締めろ、しまいには抱け。積極的過ぎてうるさいです」
「……昨晩?」
「あの海の生徒、うちの大部屋に来て甲賀の隣りで寝たんです、昨日」
 遠也の苛々が言葉尻から伝わってきて、翔は思わずその小さな肩を叩いていた。お疲れ、としか言いようがない。
 そんな翔に、遠也が目を上げて首をかしげる。
「日向はどうしてここに?」
「え、あー……本上に何か連れてこられて」
「……お疲れ様です」
 もう笑うしかないな、お互い。
 克己の方を見れば、相変わらず腕に岩山という美少年は引っ付いているし、そんな彼を近くにいた正紀が笑いながらからかっている様子だった。
 何だ、元気そうじゃないか。
 安堵とちょっとした寂しさが胸を過ぎり、思わず眉間を寄せていた。
「……日向?」
「俺帰るよ」
「甲賀に声かけていかないんですか?」
「忙しそうだから遠慮しとく。俺も面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ」
 今克己に声をかけたら、確実にあの少年に睨まれる。肩を竦めてみせると、遠也も納得したらしい。ですよね、と笑い、片手を上げ、翔が彼に背を向けようとした時だ。
「翔」
 腕を引かれた、と思えばすぐ後ろに克己が居て、突然の近距離にぎょっとしてしまう。彼の腕には、すでにあの少年はいなかった。あれ?と思い、さっきまで彼がいたところを見れば、あの美少年がぽかんとした顔で床に座り込んでいる。恐らく、無理矢理振り解いてきたのだろう。
「克……って、何だぁ!?」
 そのまま腕を引かれ、翔は克己に甲板から連れ出されていた。今度は克己かよ、と思いつつ、ちらりと後ろを見れば、遠也が呆れたように「適当に誤魔化しておきます」と言ってくれる。
 って、遠也は克己のグループだから俺の不在は誤魔化せないじゃないか!
「か、克己!ちょっと待て!」
 本上よりずっと歩幅が広く、歩くスピードも速い彼についていくのは至難の業だ。どこへ向かっているのか解からないが、何度か駆け下りた階段で転びそうになり、ヒヤヒヤした。
「おい、克己!」
 少し腹部に力を込めて目の前を無言で進む親友に声をかけたところで、彼は横にあった無人の部屋に翔を放り込み、自分も中に入り、後ろ手に鍵をかけた音が聞こえる。
 恐らくは船員が休む部屋なのだろう、簡易ベッドが狭い部屋に一つ置かれただけの部屋はあまり使われた形跡がない。
「おい、克己一体どう……」
 どん、と背に硬く冷たい壁が当たり、翔はそれ以上の言葉を言う事が出来なかった。克己の手は強く翔の両肩を掴んでいる。
 ……なんだ、この状況。
 唖然としながら、目の前にある克己の黒い頭を眺めていると、深いため息が聞こえた。
「―――つ」
「ん?」
「疲れた……」
 そう言った親友は、すぐ近くにあったベッドに腰掛け、頭を抱える。珍しく疲れ切っている様子だった。
「大丈夫か……?」
「いや、あまり。昨日あまり眠れなかったしな」
「あの海の子が添い寝してくれたのに?」
「だから、だろうが。ただでさえ、海の上で大部屋で無意識に警戒するのに、さらに見知らぬ人間にぴったりくっ付かれたら、休む暇がない」
 少しの物音で目を覚ますように訓練されている克己には、まったく休める場所ではない。陸とは勝手が違う海の上では、陸より疲労が激しいようだった。
「それに、腕に人一人がぶら下がって、きゃんきゃん騒がれてみろ……海に投げ落としたくなるぞ」
「……お疲れ」
 目が据わっている克己なんて久々に見た。体力的にも精神的にもギリギリなのだろう。
「でも、今みたいに逃げれば良かっただろ。お前なら」
「何度か試したが、やっぱり海の人間だな。この船のことは、俺たちより詳しい。ものの5分で見つけられた」
 この克己をここまで追い詰めるとは、なかなかの人物だ。
「……でも、何でこんなことに?」
「勝負を挑まれたんだ」
「……受けたのか?」
 思わず克己に眉間を寄せてしまったのは、あの華奢な少年の挑戦をあっさりと受け入れたことに対してだ。一目で力の差が解かるだろうに、自分よりあからさまに弱い相手からの挑戦を受けたのか。どこか責めるような翔の視線に克己は肩を竦めた。
「しょうがないだろう。挑まれたんだ」
「まぁ、な。で、勝ったんだろ?何賭けてたんだ」
「あいつが賭けてきたのは、あいつの体だ」
「……克己、お前……」
 もしかして、あからさまに勝てる挑戦を受けたのは、そういう意味か?と一歩後退すると、克己は軽く首を横に振った。
「それは断わった。だが、それが気に喰わないのか妙に引っ付いてきた」
「……本当かよ。お前、何でも巧いし、それで懐かれたんじゃねぇの?」
「……翔?」
 克己の怪訝な声に、翔は言いすぎたとすぐに気付き、唇を噛んだ。思わず口から出ていた言葉は、克己以上に自分が驚いていた。
「悪い。でも、別に良いんじゃねぇの。あの岩山君だっけ?可愛いし、お前は勝負に勝ったんだ」
「……どういう意味だ」
「どうって……俺だって男だし、解かるよ、そういうの。お前は特に、昔そういう相手いたんだから、夜が淋しくなる時だってあるだろうし、そろそろ違う人に目を向けても良いと思う。一晩だけでも付き合ってみたらいいんじゃね?もしかしたら、そこから何か見えてくるかも」
「……もういい」
 克己は軽く手を上げて、翔の言葉を制した。だが、まだ言い足りない翔が更に口を開こうとすると、腰を上げて扉の方へと向かう。
「克己」
「解かった」
「え?」
「解かった。お前がそう言うなら、そうする」
「……へ?」
「無理矢理、こんなところに連れてきて悪かったな」
 かちゃりと鍵を開ける音がし、克己はそのまま出て行ってしまった。止めようとした手も虚しく宙を掴んだだけで、克己が止める事を許してくれなかった。
 ばん、と閉じられた扉の音が、心なしか荒い。
 ……これはもしかすると。




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