「日向、翔……?」
「うん、知ってるよな?佐川」
 にこーっと有無を言わせない笑みを浮かべた磯貝に、統吾は背筋に冷たい物が流れるのを感じた。ああ、だからこの人は珍しく自分に声をかけてきたのかと納得したが、逃げ出したかった。
「知って、いますけど……」
 しかも、統吾は生徒会の人間といえど、位が自分よりずっと上である磯貝には逆らえない。久瀬相手ならば食って掛かれるのに、と思うが、磯貝は救護室の人間だ。今後何かあってそこに世話にならないとも限らない。なのに、治療拒否なんてされた日には自分の命が危うくなってしまう。逆に、恩を売っておいても損にはならない相手だ。
「この子のことも事前に調べてみたんだけどね、どういう子がタイプだと思う?」
 知るかよ、と思わず満面の笑みの磯貝に心の中で吐き捨てていた。彼のいう“どういう子”というのは女子の事ではない、男の事だ。その時点で統吾は勘弁してもらいたいのに、彼の前からは逃げられない。
「さ、さぁー……?」
「何か聞いてないのかい?」
「そ、そういえば……あいつ、俺の友達の方が海の連中より格好良いとか、何とか……」
 言っていたような……と統吾は弱々しい声で付け足した。顔見知りではあるが、その場の会話だけで突っ込んだような話は何一つしていない。ギリギリ引き出してきた言葉は、磯貝の求めるものとは全然違うようにも聞こえるが、予想に反して磯貝はその言葉に反応する。
「それ、本当か?」
「はい、本当です……」
 どうかこの情報だけで解放して欲しい。そう強く願ったが
「じゃ、ちょっと協力してもらえないかな?」
 磯貝の言葉に、統吾はその場に崩れ落ちそうになった。





 頭痛いなぁ。
 ズキズキと定期的に痛みを訴えてくる頭に翔は一日中眉間を寄せていた。
 元はと言えば、昨晩統吾に誘われるがままに飲んでしまったのが悪かった。そんな自分の軽率な態度を反省しつつ、昨晩の事を思い出そうとしたが、なかなか思い出せない。気付いたら、部屋で寝ていた。
 どうやってここに帰ってきたんだろうとぼーっと天井を見上げていて、不意に覚えのある香りに覚醒する。
「克己?」
 がばりと体を持ち上げた瞬間、頭を激しい痛みが襲い、それでも周りを確かめたがそこに眠っているのは、同じグループの連中だけだった。しかし、自分の腰にかけられていた上着に、その香りの正体を知る。
「昨日、克己と会ったのは確か……だよな」
 彼が置いていった上着を眺めながら、翔は憂鬱なため息を吐く。こんな頭痛がするほどの酒量だったのだ、何か醜態を演じていてもおかしくない。
 会いにいくのは怖いが、この上着は返さないといけない。ネイビーグリーンのアーミージャンパーが、手の中でカサカサと音を立てる。作業中に偶然会えればその時に渡そうと思って持ち歩いていたが、矢張り彼に会うことはなかった。班が違うから、その日のスケジュールも解からない。
 今日も気付けば夕方になっていたが、夜になれば時間が出来る。その時に、これを返しに行こう。
「日向」
 その時だ、背後から呼び止められたのは。
「佐川?」
 今日は彼に会うことが多いな、と思いつつも二日酔い仲間の彼に軽く手を振る。彼も「や」と手を挙げ、どこか困惑した顔で翔を見ていた。
「可愛いか?……確かに、まぁ……そう見えなくも無いけど」とか何とか、ブツブツ呟きながら。不穏な単語が含まれている彼の呟きに、翔は眉間を寄せる。
「何だよ?」
「……あのさ、日向……例の勝負のことなんだけど」
 どこか言い難そうに口を開いた彼は、意を決したように次の言葉をはっきりと告げた。
「今更で悪いんだけど、取り消して欲しい」
「……良いぞ、別に」
 何だ、そんなことか、と翔は頷く。妙に神妙な顔をしていたから、もっと違うことを言われるのかと思っていたのだ。
 すっかり佐川と顔なじみになってしまっていた翔は、彼に対する怒りはほぼ失せていた。あの時は自分も言い過ぎたと後悔していたところでもある。翔のあっさりとした答えに、佐川は少々肩透かしをくらったが、それでもホッとしていた。
「悪いな。あ、もし誰かに絡まれたら俺の名前出しても良いからな」
「大丈夫だよ、そん時はどうにか出来る」
「……お前、俺らの力舐めてるな?」
 統吾は不満げな表情を見せたが、それには悪戯っぽい笑みを返しておいた。
「……それとさ、日向」
「ん?」
「お前が前に言ってた、格好いい友達って誰?」
「は?」
 統吾の問いに翔は目を丸くする。何故、今彼がそんな話題を持ち出してきたのか解からず、怪訝な目で見上げてしまったが、彼はバツの悪い表情を見せるだけだった。その目は、どこか答えを懇願しているようにも見える。
「……甲賀克己ってヤツだよ。でも、そんな事知ってどうするんだ」
「あ、そうか……いや、ちょっと気になっただけ。だって、俺より格好いいって言われたらそりゃ気になるだろ」
 はっはっはと笑う統吾の声はどこか乾いていたが、それに翔は気付かなかった。
 その時だ。
「佐川」
 何故か、磯貝が姿を現し、内心心臓が飛び出すかと思うくらいに統吾は驚いていた。口をパクパクと開いたり閉じたりというリアクションを見せた彼に、磯貝は何食わぬ顔で、それどころか不思議そうにその様子を見ている。
「どうした、佐川。久瀬が呼んでたぞ」
 それは多分嘘だ。自分をここから消す為の。
「……そうっすか。解かりました」
 しかし、統吾は彼のその策に乗ることしか出来ない。翔は恐らく突然美形男が登場して驚いているのだろう。きょとんとした大きな目で、磯貝を見上げている。そんな彼に、磯貝は軽く眉間を寄せた。
「君、顔色が悪いな」
「え?」
 驚く翔の頬に手を沿え、更に額に手を乗せるその自然な動作は洗練されている、と統吾は心の底から思う。改めて、磯貝の色男っぷりに悪寒を感じた。
「……軽い船酔いと二日酔いかな?救護室においで、薬をあげよう」
 その優しい言葉に翔も素直に頷いていた。その様子に、統吾はやばいと直感した。翔は恐らく人を信用しやすいタイプだ。そんな彼なら、きっと磯貝はあっさりと目的を達成するだろう。
「磯貝先輩、俺も二日」
「名前を聞いても良いかな」
「日向です。日向、翔」
 意を決して統吾がそれを阻止しようとしたが、それは磯貝によってあっさりと無視された。そのスルーの仕方もどこか年期が入っているのは気の所為か。
 でも、まだ彼の口説き方では第一段階だから、すぐにそんなことになるわけではない。
 その事を知っていた統吾は、仕方なく二人の背を見送る事にした。


「へぇ、日向くんは昔武道やってるんだ。なら、それなりに強いんだろうな」
「そんな事ないですよ。俺なんかまだまだで……周りの方が強いです」
 救護室で薬を飲んでから、頭痛が治まるまでここにいるといいと磯貝と名乗った青年に誘われ、その言葉に甘えさせてもらった。こんな風にゆっくりと海の生徒と話をするのは初めてだ。磯貝は雰囲気も穏やかで、悪い人では無いと判断した。統吾もだが、海の生徒には良い人も沢山いるのだと思わされた。
 救護室は艦にいくつかあるらしく、その一つらしいこの部屋はわずかに消毒液の香りがした。ベッドが4つほどあるこの部屋は、救護室の中でも小さい方だ。
磯貝以外の生徒はいないが、休みの時間になると軽い怪我をした生徒が集まり、この狭い部屋も賑やかになるらしい。そんな他愛も無い話をしながら磯貝に差し出されたお茶は温かく、思わずほっと息を吐いていた。
「……慣れない環境で、疲れてるだろう」
「少し」
 磯貝の指摘に軽く笑い、翔は彼の顔をちらりと盗み見た。所謂イケメンと言っても良い顔だな、と思わず感心してしまうくらいには、目の前に居る青年は容姿が整っている。そんな人物を見てしまうと、何となく克己の顔を思い出してしまった。彼は今頃何をしているんだろう、と。
「浮かない顔だね、どうしたの」
 そんな翔のどこか淋しげな顔に気付いたのか、目の前に座っていた磯貝が優しげに目を細めた。それに翔はお茶を持っていた手を膝の上に置き、目を伏せる。
「ここ数日、陸ではいっつも一緒にいた顔ぶれとずっと離れてるから……ちょっと寂しくて」
「そうだろうね。ここはある意味敵陣だ。そんな中、親しい子と離れるのは心細いだろう」
 磯貝の言葉は適格だった。確かに、周りに警戒すべき相手が多いこの艦で、近くに頼れる相手がいないのは心細い。
「頼れる友人がいるのは、良い事だ」
 磯貝はそう言ってくれるが、翔は小さく微笑んだ。
「でも、良い機会なのかもしれません。俺はいつもアイツに頼りっぱなしだから」
「アイツ?」
「ああ……えと、甲賀克己ってヤツなんです。俺の、その……」
「親友?」
 翔が言うのを躊躇った言葉を磯貝はさらりと口にし、その助け舟には笑うしかなかった。
「そうだったらいいな、と思ってます」
「……君がそう思っているなら、彼もそう思っているよ」
「だと良いんですけど。アイツ、凄いヤツ過ぎて、たまに俺が友達で良いのかなって」
「どうして?」
「アイツは頭も良いし、戦闘能力だってずば抜けてるし、俺なんて全然足元にも及ばない。むしろ、足引っ張ってるなって思う時も……って俺何言ってんだろ、すいません」
 慌てて口から流れてしまいそうだった言葉をせき止め、首を軽く横に振る。見ず知らずの人に言うようなことでもない。誘導されるがままに話してしまっていたが、そんな翔の頭を撫で、彼は軽く笑んだ。
「良いよ。俺は生徒の愚痴も聞く役目を担っていてね。俺で良ければいつでも話を聞くよ。俺はいつでもここにいるから、遊びにおいで」
 その、くしゃりと髪を撫でられる感触が妙に懐かしく、彼の笑顔をぽかんと見上げてしまう。
「あ、ありがとう……ございます」
「頭痛はもう平気かな?」
「あ、あ、そういえば……!」
 気付けば先ほどまで頭が割れそうなほど痛んでいたのに、その痛みはすっかり取り払われていた。両手で頭を押さえ、その変化に驚いた翔に、磯貝は小さく噴出した。
「んじゃ、またね。日向くん」
「はい、ありがとうございました」
 ぺこりと律儀に頭を下げた翔の様子に、陸は案外礼儀正しいと感心しながら磯貝はその背を見送った。
「……何が「俺は生徒の愚痴を聞く役目を担っていて」、ですか」
 そう、地を這うような統吾の声が聞こえるまで。
 どこに居たのか、突然現れた彼の言葉は刺々しい。確かに、磯貝はあまり生徒の話を聞いたことはなかった。しかし、彼の指摘にも磯貝は堂々と胸を張る。
「いつもやっているじゃないか、ボディ・トーク」
「最低だ……あんた最低だ……!」
「最低なのは佐川の方だろう。立ち聞きなんて趣味が悪い」
「俺には陸の生徒を管理する仕事があるんです!ここであんたが変なことしたら俺が久瀬さんに怒られ」
「へぇ?変なことってどんなことかなー?」
 統吾の言葉を捕らえ、彼はニヤニヤと笑う。その顔を殴ってやりたいと密かに思いつつも、それは叶わぬ願いだった。どうあがいても彼と自分の階級差は埋められない。
「とにかく、日向が自分からは来ないでしょうから、連れ込むような真似は絶対に」
「ふっふっふ。しゃきーん」
 奇妙な効果音を口にして、磯貝がその手にあるものを統吾に見せ付けた。それは、先ほどまでここに居た日向翔の身分証明IDカードだ。
 その存在に、統吾は戦慄する。
「ちょ……!あんた、いつの間に……!」
「俺を見くびらないで欲しいな。次の出会いの切っ掛けくらい自分で作るさ。さーて、甲賀克己君ってのはどんな子かなぁ」
 一台ある備え付けのパソコンの前に座り、磯貝は軽快にキーボードを叩き始めた。もう統吾は見守るしかない。きっとこの人は、今まで学んできた技術や知識を国や軍のために役立ているのではなく、自分の欲求を満たす為だけに使っているんだ、とこの時思った。
「おぉ、確かに美形だな。日向君が褒めるだけある。佐川も観てみろよ」
「……お断りします」
 見たら最後、共犯になる気がする。統吾は磯貝にひたすら背を向けていると、正面にあった救護室の扉がそっと開いた。
「磯貝先輩」
 弾んだ少年の声が聞こえた、と思ってすぐに統吾は表情を引き攣らせた。そこに居たのは、1年でも可愛いと評判の岩山敦也だった。彼の登場に統吾は不快げに眉間を寄せる。岩山は以前艦内で売春行為を行い、生徒会で尋問したことがある。その時は厳重注意で終わらせたが、その後も彼の行動は止まっていない。そして、彼は磯貝の今一番のお気に入りだと聞いている。
「あ、よく来たな、敦也」
 可愛い恋人……というよりも彼にとっては所謂セフレに近いのだろう。そんな彼をにこやかに迎えた磯貝に、岩山は表情を輝かせ、茶色い髪を軽く弾ませながら飛びついた。
「せんぱーい、聞いてよ、僕陸の奴等に苛められたんだよ」
「そうか、それは可哀想に。俺の可愛い敦也を苛めるなんて」
 ……俺、帰って良いかなぁ。
 男同士のイチャイチャを目の前で見せられ始めた統吾は、一刻も早くここから立ち去りたかった。まだ、二人が見目麗しいだけ見れるが。
「で、敦也。この子に興味は無いか?」
「誰?陸の奴?結構格好良いけど……」
「甲賀克己君だ。敦也もこういうタイプ好きだろ」
 何だか嫌な算段が聞こえ初めてきたぞ。
 パソコンを覗き込んだ岩山と、そんな彼を膝に乗せている磯貝は、昔見た映画の中の悪女とそんな彼女と笑う国王の姿に似ていた。
 統吾は今すぐここから立ち去りたかったが、どうしても生徒会の仕事が脳裡を過ぎり、そこから足を動かせなかった。もし、とんでもない話を始めたら、自分は彼らを牽制しなければいけないのだ。
 ああ、でも今すぐ逃げ出したいよ、久瀬さん……!
 自分の上司に向かって心の中で叫ぶが、彼は今ここにいない。
「敦也に、この甲賀くんを誘惑して欲しいんだけどなぁ。ほら、例の勝負にかこつけて、さ」
「えー?でも……」
「お礼はするよ、たっぷりね」
 にっこりと磯貝に微笑まれた岩山も、元々それほど嫌でもなかったのだろう。その言葉に、あっさりと頷いた。
「いいよ。そんなの簡単だし。何、もしかして3Pとか?」
 それどころかどこかうきうきとした眼で磯貝を見上げている辺り、岩山も相当スキモノだ。そんな彼に、磯貝はにんまりと笑う。
「上手く行ったら4……かな?」
 瞬間、岩山の表情が一層輝きを増した。
「うっそマジでー!それすっごい楽しみなんだけど!」
「だろ?ああ、佐川も混じって5Pとか……」
 そこで唐突に磯貝は統吾の存在を思い出し、にこやかな笑顔で振り返ってきた。その笑顔にここまで悪寒を覚えたのは初めてだ。
「マジ遠慮します」
 そう言うのが精一杯だった。








「ふー、あー、疲れたー」
 正紀は思い切り背伸びをし、肩の痛みを紛らわした。今日も一日、なかなかにハードな訓練だった。隣りに居る遠也はすでに舟をこいでいる。
「おい天才、まだ寝るな」
 今は休憩時間で、皆この大部屋で思い思いの時間を過ごしていたが、遠也はさっきまで読んでいた本を手から滑り落としている。
 克己は何をしているのかと思えば、彼も何か本を読んでいるところだった。遠也とは違って意識ははっきりとしているようだが。
 そんな時だ。
「……ここに、甲賀克己って人、いる?」
 少年のはっきりとした声に班の仲間達が皆顔を上げ、突然の来訪者を視界に入れた。
 海の制服であるセーラーに身を包んだ、美少年だった。キラキラとした眩しいオーラは幻覚だろうが、大きな目はガラス玉のようで、小さな唇はつんと上を向いている。彼の彷徨っていた視線は克己を見つけ、にこりと微笑んだ。
「ちょ、おい……甲賀あれ誰だよ」
 正紀は彼から視線を外す事無く、隣りにいた克己の背をバシバシと叩く。美形は見慣れていると思ったが、久々に迫力のある美形を見て、正紀の心は浮き足立っていた。そんな友人に克己は「知るか」と素っ気無く返す。こんな美形を見て動じない辺りが彼らしい。
 そんな彼が一向に動き出さないのを見て、突然現れた美少年はズカズカと部屋の中に入ってきて克己の前に立つ。
「僕の名前は岩山敦也。君と例の勝負、したいんだけど」
 その言葉で、ようやく克己の目が再び彼を捉えた。
「……勝負?」
 彼の放った言葉で、部屋の中には驚愕の波第二波が押し寄せてきていた。何しろ、甲賀克己なのだ。このクラスの者だったら、約一名以外彼だけは絶対に遠慮したいと誰もが思う程の実力者だ。そんな彼に、見た目も華奢な美少年が戦いを挑んだとなれば、この美少年は相当の手練れか、単なる馬鹿だ。
 どっちだ。
 友人達の予想と推測の視線が飛び交う中、克己は小さくため息を吐く。
「解かった」
 引き受けた克己の背には、一斉に非難の視線が刺さった。お前こんな小さい子殴る気かという視線だが、克己は挑まれたのだから、逃げるわけにはいかない。
「で、条件は」
 先に負けたときのペナルティを聞いてきた克己に、美少年は少し恥ずかしげに目元を染める。
「僕が勝ったら、君の体を好きにさせてもらう。僕が負けたら……」
 彼はきゅっと唇を引き結び、巻いていたスカーフをするりと解き、上目遣いで克己を見上げた。この上目遣いで落ちなかった男は岩山の周りには一人も居ない。そして、甘い声でこう囁けば良いのだ。
「僕の体……好きにして、いいよ?」
「断る」
 瞬間、部屋の空気が、というよりも、岩山が纏っていたピンク色に輝いていたオーラが凍りついた。
 彼が硬直している間に、事態を見守っていたクラスメイトも、美少年は単なる馬鹿だったと予想に決着がつき、瞬殺された彼に対して同情の視線を送り始めていた。
 当の克己は眉間に皺を刻んでいる。
「何だ、その条件は。俺に全く利点が無い」
「全く!?」
 その追い討ちに岩山はさらにダメージを受けていたが、それを尻目に克己はため息を吐き、重い腰を上げた。
「勝負はしてやる。課題だからな。だが、お前の体云々は必要ない。俺が勝ったらそれまでだ」
 淡々と言い放ち、克己は先に部屋を出て甲板に向かった。殴り合いの勝負なら、一番広いところでやるのが安全だ。そんな彼の背を、岩山は茫然として見ていた。今まで、こうやって自分に落ちなかった男はいなかったのだ。なのに、目の前の男は自分の体に価値は無いと言い放った。
 プライドを粉々にされたが、悔しさ以上に、絶対にこの男を自分に傅かせてやる、という思いに拳を強く握り足を踏み出した。




「……あれ?あれっ?」
「どうしたの?日向」
 シャワーを浴びた後に、寝泊りをしていた大部屋で荷物の整理をしていたら、いつも見につけていたIDカードが無くなっていることに気付いた。克己に服を返しに行こうと、気分が弾んでいたところでのミスに、血の気が下がる。
「身分証がない……」
 引き攣った笑みを浮かべた翔に、田中も目を大きくする。この艦は大きい。今日の行動範囲もなかなか広かったのだ。探すのはきっと一苦労だろう。
「とりあえず、心当たり探してくる」
「僕も手伝うおうか?」
「良いよ、田中も疲れてるだろ。きっとすぐ見つかる」
 今日の昼までは確かにポケットに入っていたのだ、と思い出し、その後行ったところといえば大分絞れてくる。
 甲板と、食堂、それと救護室。
 歩きながらその場所を思い出し、探す順番を考えた。食堂はここから近いが、甲板は時間が来ると消灯してしまう為、甲板に一番初めに行くのが良いだろう。



 甲板に出ると殆ど人気が無かった。誰もいないのは岩山にとって好都合でもあり、克己にとってはどうでもいいことだった。
 珍しく正紀や遠也がついてこなかったのは、恐らく克己によってタコ殴りにされるだろう美少年の姿を見るのは忍びないと思ったからに違いない。
 暗い空に星がいくつか浮かんでいるのを見上げていると、冷たい海風が肌を撫でる。そういえば、上着は翔のところに置きっぱなしだと今思いだした。
「さぁ、始めようよ」
 昨日は翔とここに立っていたのに、今日はこの見ず知らずの少年に勝負を挑まれて立っている。その違いに何となくため息を吐いてしまうと、岩山が不快気に眉間を寄せた。
「何そのため息」
「気にするな、始めろ」
 克己はそう言いつつも、目の前の対戦相手を観察した。翔より低い背に、可愛らしい系統に入る顔と華奢な体。自分で言うのも何だか、彼に勝ち目はない。翔曰く、自分より強い相手に何の策も無く戦いを挑むのは愚か者のすることだと。とすると、彼が馬鹿でなければ、何かしらの策を案じてきているに違いない。そんな予感に克己は気を引き締めた。
「いくよ!」
 少年の高い声と共に彼が克己の懐に飛び込んできた。スピードは翔よりずっと遅い。取り合えず、こちらから攻撃をしかけておくか、と思い、目の前に迫ってくる岩山の顔へ向かって拳を突き出した。翔ならば、あっさりと避け、上下左右どちらかから自分に攻撃を仕掛けてくる。当然、一発目は様子見の一発だ。次の攻撃を予測し、克己はそれに供えようとしたが、宙を切るはずの拳はあっさりと敵の顔にヒットした。
「は?」
 克己の驚きの声は少年の悲鳴にかき消され、彼はあっさりと甲板の床に倒れる。これは何かの余興か、それとも何かの策か?と克己が疑うほどにはあっさり過ぎた。
「い……いったぁ……」
 しかし、よろよろと身を起こした彼の様子に、それが演技ではなかったことを悟り、克己は脱力感に襲われる。なるほど、彼は単なる馬鹿だったのだ。
「信じらんない……殴る?普通、僕の、しかも顔を殴る!?何考えてんの!?これだから陸は野蛮なんだ!」
 勝負を持ちかけてきたのは彼の方だというのに、ぎゃんぎゃん喚きたて始めた相手に頭痛さえ感じた。しかも、殴られた片頬を両手で押さえて。見れば口端を切るほどのダメージは受けていないのに。
 普段、翔との一戦となると、彼も克己が手加減するのは嫌うのでそれなりに本気で相手をしている。克己の100戦100勝で、翔は毎回それなりの傷を負うが、口から血を流しても勝負を中断したり、騒いだりすることはない。むしろ、こっちが心配してしまうくらいだ。そんな自分に、翔は笑うだけで。
 こういう人間を相手にするたび、翔の存在を思い知らされる。ああ、あいつは良い、と。
「……もう良いだろう、俺は帰る」
「ちょっと待ってよ、約束!」
 さっさと立ち去ろうとした克己の腕を岩山は掴み、それを止める。約束とは例のあれか、と思い出し、その腕を振り払おうとした。が
「損はさせないけど?」
 気付けばすぐ目の前に岩山の妖艶に笑む顔があった。

「う……さむい」
 翔が甲板へ顔を出すと、まず強く冷たい海風に迎えられた。ちゃんと足を踏ん張っていないと飛ばされそうだ。
 もし、ここに身分証を落としていたら、きっと今頃海の底だろうなぁ、と思いつつも足を進める。自分達がさっきまでいたのはこの前方甲板だ。後方のほうに飛ばされて落ちていないかと、不意に少し低いところにある後方甲板へと視線を落とすと、人が見える。こんな時間に、見張りだろうか。
 あれ?
 一人は見覚えの無い顔だったが、もう一人は間違いなく克己だ。薄暗いが、彼に間違いないと確信し、久々に気分が高揚したのが解かった。
 階段を下りればすぐに彼のところへ行ける!と足を動かそうとしたその時だった。見覚えの無い少年が、突然彼に飛びつき、キスをしたのだ。勿論、口に。
 ―――-はい?
 笑みのままの自分の顔が引き攣ったのが解かる。自分の知る親友は、確か昔彼女がいたから、そういう方面の趣味はないはずだ。恐らくは。
 なんで、どうして。
 驚愕の後にじわじわと胸の中に広がるのは、奇妙な冷たさだった。その正体を探ると、単純な単語が過ぎる。
嫌だ。
 何だか解からないが、物凄く、嫌だ。
自分は、同性愛に理解がなかったのだろうか?と自分の倫理観に疑問を持ったが、目の前の光景はとにかく、嫌だとしか言いようがない。
 どうしよう。
 激しい嫌悪感と、そんな感情を抱いてしまうことへの罪悪感にいたたまれなくなり、身分証のことはすっかり忘れ、その場から逃げ去ることしか出来なかった。

「どう?結構巧いでしょ?」
 ようやく離れ、濡れた唇を笑みに歪めた相手には、いい加減疲れてきた。
「……はいはい。上手上手、じゃあ俺は戻る」
「って、ちょっと待ってよ!しないのか!?」
 自分のレベルの高さをキスで示したのに、それでも一向に自分に興味を示さない相手に、岩山は焦り始めていた。こんなことは今まで一度も無かった。勿論、誰かから殴られたことも初めてだ。
「僕とするなら、僕を守らせてやってもいいのに!」
 そう叫ぶ岩山がどういう人物か、ようやく克己も掴み始めてきていた。その可愛い顔と体で、男達を虜にして、自分を守らせている女王……は性別は違うが、それに似たようなものだろう。
 誰かを守ろうとすることで自分の存在意義を見出そうとする翔とは、正反対のタイプだ。思わず、じっと岩山を見つめると、その視線に全く色めいたものがないことを察した彼は一歩引いていた。
「な、何?」
「いや……少しお前を見習って欲しい奴がいてな」
 今頃本当にどうしているのだろう。聞いた話では、海の生徒と一戦する事を約束したとか。自分や遠也が近くにいれば、そんな面倒なことにはならなかっただろうに。近くにいないと本当に落ち着かない、色んな意味で。
「悪いが、俺には他に守りたい相手がいる。下僕探しなら他をあたれ」
「はぁ?何、そいつとヤりまくってるわけ?でも絶対僕の方が巧いよ」
 どうしてもそっちの方向に持って行ってしまう岩山の思考には流石の克己も呆れてしまう。
「何でそっちに思考が直結するんだ。海は腐りきってるな」
 先程、陸は野蛮だと詰られたが、海も相当腐敗している。そんな克己に、岩山はうろたえ始めた。
「一晩くらいいいじゃん。絶対気持ちいいのに」
 ここまで言い寄って自分に手を出そうとしない男は初めてだ。例え恋人がいる相手でも、落とせなかった事はなかった。相手がそれなりに顔の良い男だということが、さらに岩山のプライドを傷つける。平凡並みの顔の男なら、岩山とは不釣合いだからと身を引かれたことは何回かあった。だが、克己の容姿はどちらかといえば岩山の好みのタイプだ。
「ねー、しようよ。絶対損はさせないよ」
 ぎゅっと腕にしがみ付き、もう一度上目遣いで相手の仏頂面を見上げた。こういう一見ストイックなタイプは、ベッドに入ると激しいんだよね、と心の中で分析していると、その腕はあっさりと振り解かれてしまう。その反動で、岩山はその場に膝をついていた。
「ちょ……ちょっと!」
 こんな乱暴な扱いをされるのは初めてだ。それに噛み付こうとしたところで、克己の冷たい声が落ちてきた。
「……厳しい事を言うようだが、お前が姫扱いされるのは海上だけだろう。陸には、女がいるからな」
「……え?」
「お前は所詮女の代わりだ。自覚して、身の振り方を改めろ」
 そう言い放ち、克己は甲板から去っていった。後に残された岩山はただ唖然としてそれを見送る。最後まで拒否され、ついでに説教までされ、もう岩山のプライドはズタズタだった。
「……決めた」
 強い海風にかき消されそうな声で、岩山は呟き、顔を上げた。その眼は、今まで媚びていたものとは違い、強い意志を秘めている。

 あの男、絶対落としてやる。



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