04 肩を抱く腕
「あー、くっそ、頭いてぇ……」
統吾は痛む頭を押さえながら廊下を進んだ。昨日の夜の記憶が全く無いのが気がかりだったが、今日の朝日向翔を捕まえて昨日の事を聞けば
「あー、俺も昨日の夜の記憶無いんだよな」
と、自分と同じく頭を抱えていた。
あー、イタイイタイイタイ。
ゴシゴシと何となく額を擦っていれば、狭い廊下の向こう、海の生徒に囲まれている陸の生徒の姿が見えた。普段なら無視していくのだが、久瀬に怒られたばかりの身では、見過ごす事も出来ず。
「お前ら、何やってんだ」
面倒臭いと思いつつも声をかけると、彼らは自分の顔を見て「佐川じゃん」と気軽な声を上げた。1年生だったらしい。
「見ろよー、こいつ可愛くね?良いのみっけちゃった」
ぐい、と腕を引かれ顔を晒したのは先ほどまで自分の頭の中にいた彼だ。
「日向?」
彼も自分の顔に「佐川君」と呟く。どこか具合が悪そうなのは、多分彼も二日酔いなのだろう。そんな2人のやりとりにさっきまで上機嫌だった生徒達は顔を顰める。
「うぇ。なんだよ、佐川の知り合いかよ」
「まぁ、そういうわけだ。離してやってくれ」
曖昧な笑みを浮かべつつ、統吾は翔を手招き、翔が彼の元へと小走りで向かったのを見て周りががっくりと肩を落とす。
「何だ、佐川のお手付きかよ。お前、女しか興味ねぇって言ってたのは嘘か」
「な……ちげぇよ!女にしか興味ねぇっつーの!」
思わず叫んだ統吾に、彼らは笑いながら去って行く。舌打ちしてそれを見送っていると、翔の大きな目がじっと自分を見つめているのに気付く。
「何?」
「いや……海のやつらってあんなんばっかりかと思って」
「ちげぇよ!少なくとも俺は違う!」
ここ数日散々色んな相手に絡まれていた翔は疲れたようなため息を吐き、それに統吾は慌てた。
しかし、あることを思い出し、思わずその場に座り込んでしまった。今度は翔が慌てる番だ。
「どうした?」
「いや……最近の俺もちょっとやばいかもしれない……海の魔力は恐ろしいな」
二日酔いの頭を押さえながら思い出したのは、昨日の夢だ。何故か自分の上司である久瀬奏に襲い掛かってしまった夢だ。
けれど、気持ち悪いとは思わず、むしろ白い肌に欲情してしまったような……。
いや、これ以上は考えまい。
「……日向、俺と寝てみる?」
彼相手より、まだ女顔の彼を相手にした方が健全かも知れない。祈るような気持ちで翔を見上げたら、蹴られた。
「いって!何すんだ!」
防御する暇もなくその場にごろりと転がってしまった統吾は即座に起き上がる。が、それを迎えた翔の表情は、顔色が悪いながらも険しい。
「変なこと言うからだ。どうせ、女顔の俺ならいけるかとか思ったんだろ。お前の相手なんて冗談じゃねぇぞ」
「顔に似合わず気が強い奴だなー……でも俺結構顔は良いと思うんだけど、俺」
苦笑しつつ自分の顔を撫でてみせたが、翔は顔を背けて否定する。
「顔の話なら、俺の友達の方がずっと格好良い」
「……んん?」
流石に今の翔の言葉は癇に障るものがあり、統吾は笑顔を引き攣らせたが、翔はそれを目の端で捉えるだけだった。その態度を統吾は鼻で笑う。
「ざっと陸の奴ら見たけど、あの程度で格好いいとかって。お前陸に入って美意識ずれたんじゃね?」
「な……!お前こそ視力悪いんじゃねぇの。克己の方がずっと格好良いんだからな。頭も良いし、強さも半端ねぇっくぉ!」
思わず大声を上げてしまった翔は瞬間痛みを感じた頭を抑え、翔の大きな声に統吾も頭痛を感じ、二人ほぼ同時にその場に蹲った。見事な二日酔いだった。
「……なぁ、ひゅ、日向……取り合えず、勝負はお預けにしておこうな」
痛む頭を持ち上げて、統吾は同類の彼に休戦を持ちかける。こんな状況では勝負は勿論、通常業務にも支障が出る。翔も「……そうだな」と同意し、二人ほぼ同時にため息を吐いた。
そんな時、甲板の方からなにやら騒がしい声が聞こえ始め、統吾は嫌な予感を覚えずにはいられない。こんなに賑やかなことは滅多にないのだ。きっと、また陸とひと悶着あったに違いない。
翔もそれに気付いたのか、怪訝な顔で甲板の方を見上げていた。
「何があったんだ?」
統吾が甲板から戻ってきた海の生徒を見つけ、声をかけると彼らは悔しげに眉を寄せ
「志賀が、負けた」
とだけ答えて走って行った。
は?志賀が?
志賀、というと自分の知る志賀だろうか。彼はそれなりに強い人間で、頭もいい。そんな彼が一体誰に負けたというのだろうか。
甲板に上がってくれば、盛大な拍手が海面に浮かぶ二艘の舟に降り注いでいた。
「矢吹すげーっ!あんな的落とすなんて神技だって!」
特に、陸の生徒の盛り上がりが凄い。状況が良く解からないのだが、司令室の方を見上げてみれば何人かの人がやはりその勝負を見守っていたようで、拍手をしているのがここからでも分かる。
そのうち一人が背を向けて司令室から出て行くのも。
あれは、北條……か?
「ま、しょうがねーよな……志賀も惜しかったよ」
海の生徒達の志賀への評価も敗北に関わらず変わっていないことに統吾は少し安堵した。
「……ごめんな」
艦に戻るところで、いずるが小さな声で志賀に謝罪する。敗北感に打ちひしがれていた志賀は目だけ上げてその理由を問う。
「俺の友達が、海の1年に怪我させられたんだ。海の生徒の俺達に対する態度は、少し目に余るものがあったからな」
「それで、周りからそれなりの信頼を得てる俺を負かして、精神的に叩きのめしたってことかよ」
「そうすれば、俺達の処遇も少しは良くなるかな、と思ってさ」
弓の弦をひっぱりつつ、いずるは苦笑した。確かに、こんなものを見せられたら陸に対して一目置くようにはなるだろう。いずるの作戦勝ちだ。
「大丈夫、君の評価も上がるか、そのままか……少なくとも下がりはしない」
志賀も一見無謀ともいえるこの勝負に逃げることなく挑戦したのだ。しかも、もう少しで的を落とすところまではいった。この無謀な試合の理由は、志賀の名誉の為だったと言っても良い。
だけど、いずるに負けたには変わらない。まず、そんな気遣いをされている時点で、力の及ばない相手だった。
「お前、とんでもない人間だったんだな……」
海風が吹く中、ゆらゆらと揺れる足場だったにも関わらずいずるは冷静に矢を放ち、的を落とした。悔しいが、いずるへは賞賛の言葉を贈らないといけないだろう。
その悔しさ交じりの褒め言葉にいずるは笑い、丁度艦内に戻ってきたところだったのでさっさと中へと戻っていく。
「これくらいで済んだ事にも、感謝してくれ」
そう、一言言い残して。
怖い。
悪寒が背筋を駆け上がり、志賀は思わず二の腕を擦り上げていた。
ああ、でも負けてしまった。周りになんと言われるだろう。少なくとも、罵倒はされないだろうが……。
と、そこまで考えて思わず苦笑してしまった。心配なのは、周りの評価ではなく、北條の評価だ。
「幻滅、されっかなー……」
「誰に?」
突然背後から聞こえた声に、志賀はぎょっとする。慌てて振り返ると、丁度今考えていた顔がそこで、呆れ顔で立っていた。
「ゆき」
北條はため息を吐き、じっと責めるように志賀を見やる。その視線の意味が解からず、志賀は笑い、肩を竦めて見せた。
「……負けちゃった」
「知ってる」
「もしかして、見てた?」
「見てた」
簡単な答えだったが、志賀には充分な衝撃を与えていた。負け戦を好きな相手に見られることほど、情けないことはない。
「ごめんな」
「何で謝る?」
「俺、あんたの弟なのにあんたの望みを何一つ叶えてやれない」
先程の一戦を見ていた、ということならば彼は少なからず自分の勝利を願ったはずだ。しかし、そんな志賀の言葉に、北條は怪訝な顔になる。
「……俺だってお前の兄だが、お前の望みを叶えたことはない」
「叶えてるんだよ」
志賀のどこか弱々しい声に、北條も驚いたように眉を上げた。そんな兄の態度を志賀は小さく笑う。
「兄さんは、俺の願いを叶えてくれた。あんたの心の傷になってる艦沈没の時、その知らせを聞いて俺はあんたの生死の連絡が来るまでの67時間、ずっとあんたが生きて帰ってくることを願ってた。知らなかっただろ、あんたの無事が来るまで、生存者無しとか絶望的とかそんな言葉しか聞けなかった67時間、俺は生きた心地がしなかったんだ!」
敗北に打ちひしがれた志賀の口から次々と飛び出す言葉に、北條はただ驚くしかなかった。彼の驚きを見た志賀は自嘲するしかない。
「……俺はずっと、あんたのことしか見てなかったから。今だってそうだ」
「俺は……お前に嫌われてると思ってたが」
北條は喉が急速に渇いていくのを感じていた。弟の思わぬ告白に、心臓が早くなり始め、どうにか細い声でそう言い切った。そんな北條の努力を、志賀は鼻で笑う。
「知ってるよ。あんたはじーさんのお気に入りで、俺はじーさんからは嫌われてた。普通なら、船が沈没したって情報が来たら、あんたの死を望むかもしれないな。あんたが死ねば、北條家は俺のもんだ。でも、俺が欲しいのは北條の家じゃない。俺がずっと欲しかったのは兄さんだけだ」
「治也……お前」
「……兄さんが、行哉が好きだ」
どこか子どものように縋るように抱きついてくる志賀に、北條はただ驚くしかない。けれど、苦しいくらい自分を抱き締めている腕はそれほど不快ではなかった。それどころか、愛しく思えてくる。
僅かに丸くなっているその背をそっと撫でると、彼の腕に更に力が篭る。それに、思わず目を細めていた。
「……俺の願いも、叶ったぞ、治也」
「久瀬さん」
「……佐川?」
早足で歩いていた統吾が思わず足を止めてしまったのは、狭い廊下の向こうから見覚えのある、しかも若干今顔を合わせるのは気まずい相手が向かってきたからだ。
普段ならば、顔をつき合わせれば嫌味の応酬なのだが、今日は何となく二人共沈黙してしまう。微妙な雰囲気になりつつあるのに気付いて、ようやく統吾は口を開いた。
「久瀬さんはどこに?」
「北條さんを探しに。お前は?」
「俺は、志賀を探しに……」
先ほど、志賀の敗北の件を聞き、慰めに行こうと思ったのだ。飄々としている彼だが、ああ見えて結構脆い面がある事を友人である統吾は知っている。しかし、志賀と北條という名が並び、再び二人は沈黙してしまった。今度は気まずい沈黙ではない。二人共同じ予感を覚えた沈黙だ。
「……探さない方が、いいか?」
奏が困惑したような声で問い、それに統吾は頷く。
「多分……」
そして再び気まずい沈黙が始まる。
「さっがわくーん!」
そんな時、その微妙な空気を破るような陽気な声に呼ばれてもいない奏も肩を揺らしていた。振り返ると、白衣を着た青年が立っている。その顔に統吾も奏も心の中で「うわ」と思わず呟いていたが、奏はさっさと「じゃあ俺は仕事に戻る」と行ってしまった。
別に、残念なんて思ってはいないが、そんな彼を統吾は背が見えなくなるまで見送っていた。
「佐川、どうしたんだよ」
「磯貝先輩には関係ないです」
自分の肩を馴れ馴れしく抱いてきた青年に、統吾は思わず素っ気無い態度をとっていた。この磯貝智明という青年は、3年で救急班長を務めているが、あまり良い噂を聞かない。いや、本人は悪い人間ではないのだが、問題はその顔と彼の性癖だった。
「そう言うなよ。何だ、久瀬ちゃんと何かあった?」
にやにやとだらしない笑みを浮かべる彼の顔は、多分美形と言って何の問題も無い容姿だ。まるで女の子の夢の国から飛び出してきたのではないかと思う程の甘いマスクは、女子どころか男子にもその効力を発揮している。
そう、彼に恋情を抱く人間は多く、彼もその気持ちを拒まない。
「何もありません」
べしっと肩に置かれていたその手を叩き、統吾は彼から顔を背けた。磯貝は気の多い男だった。とにかく、誰かを口説くことに人生をかけているような気がする。彼の隣りを二日と同じ人間は歩かないし、彼も一度寝た相手と二度寝ることはあまりないらしい。ただ、彼のお気に入りになれば何度かは彼と共にベッドに入ることが可能だとか。
彼の場合、初対面の人間に名前を聞き握手をする前に、まず共に寝る男で、そういった面では、生徒会でも評判は悪い。だが、彼が有能な人間であることは間違いなく、更に彼が強引に事を進めることは無いので、たまに相良から苦言を貰う程度だ。
「それで、何ですか。昨日は陸の生徒をゲットして熱い夜を過ごしたと聞いていますが」
昨日、さっそく磯貝が陸の見目麗しい生徒を捕まえたという噂は耳にしていた。棘を含んだ口調で、更に冷たい視線を向けたが、彼はそんな攻撃をものともせず、にこりと笑う。
「ああ、楽しめたよ。本上君っていうんだけど、これまた顔が可愛い子でー」
「はいはい、よかったですねー」
はぁ、と統吾は思わずため息を吐いてしまった。
「それで、そろそろ日数も少なくなってきたし、最後の子にしようと思うんだけど」
「まだ別な子口説く気ですか……!」
磯貝が次のターゲットを捜している事を知り、流石の統吾も閉口してしまう。それに磯貝はにこりと笑う。当然、という笑みだった。
「でもねー、目ぼしい子はもう全部チェックしちゃったから、最後はこの子一人になったんだ」
「この子?」
「日向翔君!」
意気揚々と磯貝が答えた言葉に、統吾は口元を思いっきり引き攣らせた。
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