くろがね篤史の家は皆一度は聞いたことのあるくらい名前のある家だ。その上、容姿端麗成績優秀スポーツ万能で、ちやほやされない日は無かった。そんな相手にも明るく振舞っていたのだから、勿論人柄もよしという評価も得られた。
 一年の頃はクラスでは3本指に入るくらいの成績。二年の頃は入った厚生委員会の副会長を務めた。厚生委員会は、主に校内や学校内施設の管理をしている。男が多い校内を清潔に管理するのが主な仕事だ。軍生活や戦中は不潔になりがちで、そのおかげで感染症や病気で死ぬ兵士が多い。そんな時どうやって清潔に保つかと指導するのも彼らの仕事。また、日々生徒達の口に入る食物の管理も彼らの仕事だった。健康を維持、または増進し、生活を豊かにすること。厚生の意味どおりの委員会で、鉄はこの委員会にいることに誇りを持っていたし、三年になれば当然委員長になれるものだと思っていた。勿論、仕事でミスしたことも一度だってない。それどころか、完璧すぎる働きぶりを賞賛されたものだった。
 完璧なのは働き振りじゃない。俺自身が完璧なのだ。そう思っていた。 
新年度になり、生徒会からきた辞令を手に取った時は中身を見る必要はないと思った。どうせ、そこにはこう書いてあるのだから。
 ―――三年B組十四番鉄篤史 今年度の厚生委員会委員長に任ずる。
 それに生徒会長の名と判が押してあるのだ。昨年も同じようなものを貰ったから容易に想像が出来る。
 だが、一応見ておこうと思い、白い封筒の封を開け、中の紙を取り出し、その文面に小さく笑う。
 ―――三年B組十四番鉄篤史 今年度の厚生委員会副委員長に任ずる。
 ほら、同じ……。
 と、思いかけて鉄は文字を滑らせていた視線を止めた。気の所為か、余計な文字が多いような気がする。
 もう一度文字をなぞり、背筋に悪寒が駆け上った。今まで味わった事のない位の寒気だった。順風満帆に生きてきた鉄は、今まで不安や恐怖の類の感情を味わった事がなかったのだ。それ故に、この衝撃は大きい。
「……副?」
 それは、去年貰った辞令とほぼ同じ文章だった。



厚生委員会副委員長の日常


 その辞令を貰ったのが、今から2ヶ月前のことだ。
 初めて挫折を味わったのが、2ヶ月前のことだった。
 あの後、恐らくその辞令を書いただろう高遠静に殴り込みに行ったが、冷たくあしらわれてしまった。鉄としては、間違いだったという答えを貰えると思っていただけにその対応は心に突き刺さった。
 さらに、委員会仲間も皆、鉄が委員長になるものだと思っていたのだから公式役員発表の場の視線が痛かった。初めて味わう屈辱だった。
 そして、自分の名の次に呼ばれたその人物の名を心に刻む。三年C組織屋一進、聞いたこともない名前だった。
 名を呼ばれて「はい」と低い声で答えた彼の姿には驚かされる。容姿は悪くは無いが、軍人には向いていない顔をしている。身長も鉄よりずっと低い。
 どうしてこんな奴が、と思わずまじまじと自分の隣りに立った彼を見つめていれば、彼も鉄に気付き、会釈をすることもなく笑顔も作らずただ一言、「よろしく」とだけ。
 性格も難ありと見た。
 一瞬にして自分の上司となった織屋一進の人柄を見抜いた鉄は、その日も高遠の元へと走ったが、やはり冷たくあしらわれてしまった。
 ついでに、当時付き合っていた女には「委員長になりそうだから付き合ってたのに、こんなんじゃ意味無いわ」と振られてしまった。屈辱だった。
 それから2ヶ月。
「……織屋委員長」
「何だ、鉄」
「……俺はこの状況がいまいち理解出来ないのですが」
 鉄の苦難の日々は続いていた。
 思わず口元を引き攣らせてしまった鉄の膝には、織屋が鎮座し重要書類を眺めている。織屋の仕事ぶりは良くも悪くも真面目だった。そこは鉄も認めた点だったが、突然厚生委員長となった織屋は委員会の仕事を理解しきれていない場面もあり、その都度鉄はため息を吐く。それでも根気良く仕事を教えてはいるが、自分が委員長となっていたらこんな無駄な時間は使わなかったと思わずにはいられない。他の委員会のメンバーも、唐突に委員長に任命された織屋を良く思っていない者が多かった。噂では、織屋は元王室、つまりは例の血筋整理の時に王室一族から除名された家の人間で、どうにか息子に地位を築いて欲しいと親が金を積んで委員長任命を嘆願したと。
 まさかあの碓井が金で動くとは思えないが、彼の腹の底を完全に読めた人間などいない。彼ならやりかねない、と鉄も思っている。だが、ただ金につられて動いたのではなく、その奥に彼なりの何かの策があるような気がしてならない。そして、自分達は彼の手の上で踊っている、と。
 忍耐は美徳だ。苦労は買ってでもしろと先人は言っている。
 どうあがいてもこの状況が変わることはないのだと解かってからは、鉄はとにかく厚生委員会の名に恥じない委員長を作り上げようと懸命だった。時には厳しく時には優しく、そして根気良く。この2ケ月、必死に頑張ったのだ。織屋をどうにか立派な委員長に仕立てようと。
 それがどうにか形になり始めた、最近唐突に織屋が二人きりのときに口を開いた。
「鉄が好きだ」
 無口な織屋は修飾語や他の言葉でその気持ちを飾り立てることはなく、ただその言葉だけをはっきりと音にした。無表情で。
 勿論、容姿端麗成績優秀スポーツ万能の鉄篤史は女子にも不可抗力だが男子にも告白された経験が山ほどある。勿論、断わった経験も山ほどある。相手が傷つかずに断る術も心得ていた。
 この時も当然のように断るつもりだった。一種、これは復讐にもなると悪心も疼いた。恐らく彼は、鉄に優しくされたことに恋心を抱いたのだろう。別に彼のために優しくしていたのではない。「自分が委員長になれなかったのにも構わず、厚生委員会のために尽力を尽くしている健気で愛国心溢れる鉄篤史」という像を造る為だ。ついでに、「委員長になったのにも関わらず副委員長に頼りっきりで、役不足な織屋一進」という像も出来てしまったのも正直胸がすいた。
 はっきり嫌いだと言えるような人間に告白されたのだ。さぁ、どんな言葉で断わってやろう。出来るなら、完膚なきまでに叩きのめしてやりたい。
 と、思ったのだが、その時初めて今までの告白シーンとは違う点に気付く。
 そういえば、織屋は自分の上司なのだ。
 この学校は、元は軍から派生しているものだ。当然、上下関係は厳しい。いや、厳しいなんてものではなかった。上の命令は絶対で、それに逆らえば下手をすれば銃殺。
 さて、今の自分の状況をもう一度考えてみよう。
 自分は部下、彼は上司。その上司が自分を今もこうして少し下から黒い目で見上げている。無表情で。彼は自分を好きだと言った。上司に、抱かせろと言われれば部下は拒否出来ない……そんな世界だ。
 これは人生に一度あるか無いかの大チャンスだと思ったが、実は人生に一度あるか無いかの大ピンチだったのだ。
「……鉄?」
 不安気に首を傾げた織屋の手に銃が握られているように見え、鉄は戦慄した。まさか、彼は前から自分のことが好きで、自分に関係を強要する為に委員長になったのではないかと邪推してしまう。そう考えると更に織屋の存在が疎ましく、恨めしかった。
 しかし、自分に選択は残されていない。
「……善処、します」
 くっと喉の奥で嗚咽が漏れたような気がしたが、それが精一杯だった。日本語の曖昧なニュアンスにここまで助けられたと思った日は無い。
 それから、YESと答えたわけではないが織屋の無言の接触は多くなった。今もこうして、自分の膝に何故か鎮座して書類を読む。最初の頃は文句を言うのも恐ろしかったが、遠回しに注意をすると、織屋も無言で膝から降りてくれることが解かったので、最近は迷わず拒否することにしている。
「鉄の膝にいると、仕事がはかどる」
「俺の仕事ははかどりません」
 どいてください。
 ため息混じりにそう言えば、今日も無言で織屋は膝から降り、自分の席へと戻って行った。どことなく無表情の下に落胆があるように見えたが、それは見なかったことにした。
「……鉄、今日の放課後、時間は」
「放課後は保健委員長との会議です」
「その後は」
「その後は寮長会議があります」
「その、後は」
「生徒会への提出書類を作成しなければいけませんが……これは俺がやっておきますので、委員長はどうぞお休み下さい。会議用の書類の作成は明日までにお願いします」
 織屋に用事を言わせるつもりは無かった。言わせたら終わりだ。自分は彼より下の人間。彼の言葉には従わなくてはならない。多忙は幸いだった。
 そうか、と呟くように答えた織屋を目の端で見、鉄はため息を吐いた。
「では、俺は別件で用事があるので失礼します。会議の時、また」
「ああ」
 その返事を聞いて、ようやく委員会室から出ることが出来た。またため息を吐いて、何事も無かった事に安堵する。
 まぁ、色々と不安があるが、今まで膝に乗る以上の接触を強要されたことは一度もないのが救いだ。ああ、でもそのうち自分に乗りかかってきたらどうしよう。その場合は自分が下なのか、それとも上になるのか……どちらも勘弁してもらいたいところだ。
「あ、鉄先輩、おつかれさまです!」
 早足で歩いていると一人の生徒が尊敬と敬愛の眼差しで自分に声をかけてきた。名前は思い出せないが、彼が自分の部下であることは態度でわかる。
「ああ、お疲れ」
 にこりと笑って答えると、彼は恐縮しきった様子で視線を落とした。
「あ、あの……鉄先輩、お忙しいところ本当にすいませんが」
 頬を染めた彼の態度にこの先の展開が読め、ああ、と自然とそれ仕様の優しい笑みに切り替える。
「僕、鉄先輩のことが、その……好きで、なんていうか、憧れてて……あの、付き合って欲しいとかそういうんじゃないんです!無理だって、解かってるし。あの……」
 段々と泣きそうになる彼の表情が何だかとても微笑ましかった。しかも、謙虚で健気だ。あの織屋には無い面に思わず癒されてしまう。
「あまり、無理しないで下さい。俺、いや、俺達は皆、鉄先輩の味方ですから!」
「……ありがとう」
 激務で乾いた心にすっと浸透する言葉だった。自分は確かに副委員長におさまったが、自分を応援し慕ってくれる部下は多いのだ。それには素直に感謝出来る。
 その一言に彼はパァッと表情を輝かせ、一礼し走っていった。後輩というのは、こういう風に可愛らしくあってこそだろう。出来るなら彼の気持ちに答えてやりたかったが、何分彼は男だ。アブノーマル思考の無い鉄にはその選択は無いが、気持ちは本当に有り難かった。
 いや、だが今なら織屋以外の人間なら抱ける気がする。これは凄い織屋効果だ。
 ハハハ、と乾いた笑いを漏らしながら鉄は足を進めた。
 

「厚生委員としては、保健委員との連携体制をもっと強化して――」
 自分が作った原稿を読み上げる会議中の織屋は、他の委員長とも引けをとらないくらいにまで成長したと思う。それは我ながら満足出来るほどに。初めはたどたどしい空気を他の委員長に一蹴され、気合負けしていたが、最近は堂々としてくれるようになった。しゃんと伸ばされた背筋に、思わず口角を上げていた。周りの委員長は、正直この織屋厚生委員長の成長振りに驚いていることだろう。そして、ここまで急激に成長させた鉄に恨みがましい視線を投げてくるのだ。それを、鉄は足を組み、椅子の背もたれに体を預けながら受ける。この瞬間は意外と好きだった。
「質疑応答を受け付けます。何かありますか」
 織屋がそう問えば、当たり障りの無い疑問がいくつか飛び、それに彼は逐一丁寧に対応する。反対意見など言ったところで、すぐに正論で一蹴されるだろうと予想できるほどにきびきびとした応対だった。
「他に何かありますか」
 抑揚の無い織屋の問いかけに、会議室は静まり返る。それに追い討ちをかけるのが、鉄の役目だ。
「何も、無いようです。委員長」
 それを待っていたかのように織屋は、手に持っていた資料を机に伏せる。
「厚生委員会の報告は以上で終わります」
 どこよりも完璧な委員長に、自分がなれないのなら自分が作ってやる。そう決意したのは、1ヶ月と3週間前だった。


「織屋はほんっと良くやっているよな」
 そう力説したのは、他の委員会の委員長である一登瀬虎太郎だった。突然手放しで織屋を褒められたので、鉄は不快感を露わにし眉を上げた。どう見てもよくやっているのは自分のはずなのに、他の、しかも地位のある人間が織屋を褒めるのは気に入らない。しかし、そんな鉄の態度に、ほらと言いたげに一登瀬は茶色い目を細めた。
「お前は本当に扱いにくい性格しているよ。他の奴らはころっとだまされているし、不満は全部織屋行きだ。頭良いな、鉄は。お前みたいなのが出世するんだよな」
 褒めてはいないその言葉を聞いて、周りにいた八月朔日や高遠、他の顔なじみの友人達が頷く。だが、実際自分は出世出来なかったのだが……。
「織屋には正直同情するな。どんなに頑張って仕事しても、賞賛は全部お前のところに来るんだから」
「俺が賞賛に値することをやっているからだろうが。黙れチビ」
 缶ビールをちびちび飲みながらそう吐き捨てると、一登瀬が拳を振り上げて鉄の背後に立つが、それを八月朔日が必死に止めていたので構わなかった。
 今は、一日の仕事が終わり生徒会室で比較的気の置けないメンバーと打ち上げをしているところだった。勿論、織屋はここにいない。いるのは、会長派の一部のメンバーだけだ。皆、中学時代からの悪友であることもあり、このメンバーで軽い打ち上げをすることが良くある。この士官学校に入学すると有る程度の特権が得られ、飲酒もその特権の一つだった。軍人になった瞬間、“子ども”の枠から外され大人とほぼ同等の扱いをされる。入学してすぐに飲んだビールは苦かったが、今ではそれが美味いと感じるのだから不思議だ。それでも、その苦味にまだ慣れていない一登瀬などは日本酒専門のようだが。一人一升瓶を横に置き、小さな猪口で酒をあおる姿は何だかその容姿と不釣合い過ぎた。
「にしても、本当に何で鉄じゃなくて、織屋だったんですか?」
 皆が疑問に思っている事をあっさりと口にしたのは、執行部の遊井名田陽壱だった。彼もツマミの裂きイカを噛みながら、隣で日本酒を飲む高遠に目をやる。彼は目を細め、ちらりと鉄の方を見てから、その目を伏せる。
「さぁ?」
 それは絶対に理由を知っている答えだ。とぼける高遠には苛立ちを覚えたが、それをどうにか鉄は堪える。が
「では、碓井が金を積まれて任命したというのは噂に過ぎませんか?」
 鼻で笑いながら言うと高遠の黒い目が上がり、少々アルコールが入った鉄を見据える。
「……鉄、あまり失望させるような事を言うな。会長がその程度の人間だと、見くびっているわけでもないだろう?」
「見くびっているのは、お前だ!」
 鉄が、カンッと音を立てて空になったビール瓶をガラステーブルに叩き付けた瞬間、ほろ酔いだった空気が一瞬にして引き締まる。
「……お前らに何が解かるんだ、ええ?委員会の仕事もままならない、パソコンの使い方も解からない、しかも何を話しかけても無表情でニコリともしない!気付けば何故か膝に座っている!着替えも自分一人では出来ないとかお前は18年生きてきて何を学んできたんだ!!俺にネクタイを結ばせるな、俺はてめぇの小姓じゃねぇんだぞ、この王室育ちがぁぁぁ!!」
 思わず手に力が入ってしまい、缶がメキョッと音を立てて潰れ、中から噴出したビールが鉄の手を濡らした。
「……鉄……」
「……お前、結構不憫な2ケ月送ってきたんだな」
 酒が入っていると言っても滅多に取り乱さない鉄の姿に、旧友達は目尻を思わず拭っていた。しかし、高遠一人はそれを目の端で一瞥するだけだ。
「でも、この間織屋に頼んだ資料はきちんと作られてたぞ」
「は?」
 その時、一登瀬が首をかしげながら言ったことに鉄は顔を上げる。資料など、聞いた覚えがない。何のことだと目で問えば、一登瀬は眉間を寄せる。
「この間、織屋に会議用に資料作成頼んだんだが……それはちゃんと出来ていた。アレもお前作成ってわけじゃなさそうだが?」
「当たり前だろう。この俺が書類作成方法を教えたんだ、完璧で当然」
 パソコンの基礎から叩き込むのにどれだけ自分が苦労したと思っているのだ。
 そう言いたげに鉄は胸を張るが、それを高遠は鼻で笑う。
「……なんだ、高遠」
「いや?」
 しかし、ニヤニヤと笑うその高遠の顔に、激しい苛立ちを覚えた。それに追い討ちをかけるように、高遠は目を細めた。
「結局は、お前が一番織屋を認めているわけだな、鉄」


 昔から、どんなに頑張っても追いつかない人間はいた。碓井一族の人間達は皆どこにいても背筋を伸ばし、堂々と立ち振る舞っている印象が強い。その遠い親戚にあたる高遠静もそんな一人だった。あの空気は自分には持てないものだと思って、彼らの才を認め、彼らの下につく事を認めた。
 広いようで狭い世界、この国の所謂上流階級の人間など数はいてもたかが知れている。減る事はあっても増える事はなかなか無い名家や軍閥の数。自分より才覚のある人間の数も、そう変わらないと思っていた。碓井や高遠、海の相良や瀬野、そうした名前は記憶しているし、その存在も認めてはいる。しかし、唐突に自分の上に立った織屋だけは、なかなか認められなかった。
 大して有能でもないくせに、この俺を顎で使う人間なんて認められるわけがないだろう?
 人望があるわけでもない、突出した能力があるわけでもない、家も……元は宮廷に住んでいたというだけで、王族から除名された彼の家には殆ど価値など無いのだ。
 そんなヤツをまだ自分は認めてはいない。認めてはいないはずだ。
「……すまない、鉄。どうも洋服はまだ慣れないんだ」
「いえ、お気になさらず。委員長の身だしなみを整えるのも部下の役目ですから」
 なのに何でそんな奴のネクタイを結んでやっているんだ。
 結局は権力に抗えない自分の体が憎らしかった。爽やかな笑顔を浮かべ、ちゃちゃっとネクタイを結び、ついでに掛け間違えているボタンを直してやる。宮廷では着物が普通だと聞いているから、彼は洋服など身につけたことがこの学校に来るまで殆どなかったのだろう。だが、今年でもう3年目になるのだろうから、いい加減慣れて欲しいところだ。
「ところで、昨日言っていた書類は」
「あ……すまない、もう少しで終わる」
 まだ終わっていないのか。
 思わずため息を吐くと、織屋が少し眉を下げたのが解かった。
「すまない」
「いえ、良いです。今日の会議までに間に合えば良いので」
「……会議まで、後5時間だな」
 ふぅ、とため息を吐いた織屋は額を抑え、目を閉じる。疲れたようなその様子に、最近の激務を思い返した。しかし、彼より自分の方が仕事をこなしているのだ。甘えを許すつもりは無かった。
「4時間半です」
「……そうだな」
 鉄の厳しい態度にはすっかり慣れてしまっていた織屋は未完成の書類の作成に取り掛かった。その様子に鉄も安堵し、自分の仕事に手をつける。以前は彼に指導しながらの仕事だったが、最近は織屋も慣れてきて、こちらが口を挟まなくとも充分やってくれるようになっていた。
 確かに、織屋の成長を一番知っているのは鉄自身だった。
 以前はパソコンのキーボードも叩けなかった彼が、たった二ヶ月で見事なブラインドタッチで書類を作成している。全ては自分の教育の賜物だ。
 ああ、良くやった俺。と密かに心の中で呟いた。
「失礼します」
 その時、ノックと共に一人の生徒が入ってくる。この間、鉄に好意を伝えてきた委員だった。彼は織屋を視界に入れてから誰かを探すようにくるりと首を動かし、そして鉄を見つけ、表情を輝かせた。
「副委員長、2年生会議の報告書です」
 そうして彼が差し出したのは、彼の学年の委員会議の報告書だった。彼は2年の責任者では無いはずだが、と鉄が怪訝な顔を見せると、「井上は今合同会議に出ているので」と、説明をされた。どうやら代わりに届けに来てくれたようだ。
 手を差し出しかけた、その時だ。
「報告書は、委員長が不在で無い限り委員長に提出するのが決まりのはずだ」
 部屋に響いた厳しい声に、思わず鉄も息を呑んでいた。
 はっと振り返ると、キーを叩くのを中断し、こちらを黒い目で見咎めている織屋がいた。その冷たい温度には驚かされる。彼は無表情だが、今までそんな温度の低い視線を向けられたことはなかった。普段、どこか自分を頼っていた目が、強い意志を持った眼で自分を見据えている。
「委員長は俺だ。俺に提出しろ、高梨」
正論を突きつけられた彼は悔しげに眉間を寄せ、そして渋々織屋の元に報告書を提出し、足早に出て行く。どことなく怒気を孕んだ足音が去っていくのを聞き終えてから、織屋が息を吐いた音が鉄の耳に届いた。
「……すまない」
 そんな呟きと共に。
「織屋委員長」
 何を謝る事があるのだろう。今回ばかりは、織屋の言葉が正論だった。自分は副委員長なのだから、身の程を弁えなければならない。それを失念していた自分の方が、謝らなければならないだろう。
 そして自分も覚えていなかった、役のない委員の名前を彼が記憶してことにも驚かされた。
「……いえ、今回は」
 ガシャッ。
 珍しく素直に鉄が謝ろうとしたところを、奇妙な音が止める。あまりにも大きな音で、奇怪なものだったので振り返れば織屋の姿がなかった。一瞬消えたのかと思ったが、消えてはいなかった。パソコンのディスプレイの向こう、彼はキーボードに顔を突っ込んでいた。何の遊びだと彼の肩に触れ、その違和感に思わず手を離した。
 ……熱い。
「織屋!?」
 すぐにその体を起こし、ぶつけて紅くなった額に手を乗せるとやはり熱かった。
「熱があるのか?」
「……すまない」
 どうやら、彼の謝罪はこのことだったらしい。ぐったりとしながらそれをもう一度口にした織屋に、むしろこっちがぐったりした。
「書類は……」
「それなら俺がやっておきますから」
「いや、書類は出来ているから……」
 ふるふると震えた指の先、ディスプレイの中では確かに書類は完成し、後は印刷するだけだった。
 はぁ、とため息を吐いて織屋の体を抱き上げる。
「……鉄?」
 唐突な浮遊感に不安気に織屋が伏せていた目を開けた。熱を孕んだ視線は、病人の証しだ。
「寮まで送ります。今日は大人しくしていてください」
 抱き上げた体は軽く、彼が自分達と違う人種なのだと知らされた。生徒会で一番小さい一登瀬よりも軽いのではないかと思ってしまう。アレは小さくとも筋肉の塊だ。
 一瞬織屋は眉間を寄せたが、すぐに諦めたように目を閉じ、鉄の胸に頭を任せた。
「……すまない、鉄」
「貴方は元々宮の方ですから」
 基礎体力が軍人である自分達より無いのは当然だろう。
 そう言うと、織屋は目を開け、再び目蓋を閉じるが、その眉間には皺が寄っていた。
 特に故意はなかったが、今のは失言だったのだろうと鉄は察した。軍と宮は仲が悪く、宮の人間は軍人を毛嫌いし、軍人は宮の人間を疎ましく思っている。彼はすでに王室と関係のある人間ではないが、あの一部の人間しか入れない宮廷に一時期でもいた彼を周りは矢張り敬遠していた。
 もっと敬遠されているのは、宮の四家の血を引く夏乃宮狼司風紀委員長だが。
 もう何度も通った織屋の自室の扉を蹴り開け、その体をベッドに下した。テキパキと制服を脱がせ、額に濡れタオルを置く。後で保健委員長の一登瀬に薬を貰おうと思いながら、熱を測った体温計を見れば38度越え。立派な高熱だった。
「よくもまぁ……この2年もったな」
 確かに委員会は激務だが、この程度で倒れるくらいでよくこの2年間、この学校で暮らせたと思わず呟いた。確か、委員会に入るには頭脳は勿論、運動能力も問われるはず。この程度でへばっている彼が、どこまで戦闘で役に立てるのか。
 まさか、本当に碓井が金で動いたのだろうか。
「……呆れたか」
 眠っていると思った織屋のくぐもった声にぎくりと背を固めた。聞かれてしまっていたらしい。振り返ると、毛布で顔半分隠していた彼がじっとこちらを見ている。
「委員長」
「……俺はいつも鉄に迷惑をかけているな」
 何だ、自覚はあったのか。
 どことなくしょんぼりしている彼の姿は、具合の悪さも手伝って普段より小さく見えた。いや、普段も小さいのだけれど。
「会議には出る。3時間経ったら起こしてくれ」
「……その体で、ですか」
 どう見ても2時間を超える会議に出られるような体調ではない。なのに無理をしようとするのは愚かな事だ。棘のある声で応対すれば、彼は熱い息を吐き出した。
「……3時間で下がる」
「そんなわけ無いでしょうが」
「下がるったら、下がるんだ」
 珍しくしつこいのは、矢張り熱の所為なのだろうか。
「委員長は、弱みを見せてはいけないんだろう?」
 しかし、自分が過去に教えた委員長の心得を彼は呟き、それを言われては鉄も何も言えない。
「俺は出るぞ、鉄」
「……解かりました」
 上司の言葉には逆らわない。それは、副委員長の心得だった。


 無駄かと思ったが、解熱剤を飲ませれば本当に3時間で彼は熱を下げた。それでも、その後の2時間どころか3時間にまで及んだ会議を彼は平然とやりこなし……いや、平然とではなかった。途中、熱がまた上がってきたのかたまに眉間を寄せ、俯く姿を見せたが、それは他の委員長が注目されている隙を狙っての行動だったので、きっと誰もそんな様子に気付いていないはずだ。
 ようやく会議が終わると、ふらりと彼は立ち上がり、会議室から出て行く。それを追おうとしたとき、小さな手が自分の二の腕をしっかりと掴んだ。
「鉄」
「……一登瀬?」
 会議から解放され、賑やかな会議室の中で一登瀬の声は小さかった。彼はちらりと織屋の方を見、その仕草で彼が気付いている事を察した。
「後で薬取りに来い。用意しておく」
「……悪いな」
「あんまり厳しくするなよ。俺達と違ってか弱いんだからな」
「あいつが自分で出るって言った」
 一登瀬はもしや自分が出席を強制したのではないかと思っているのだろうか。しかし、一登瀬はため息を吐き、首を横に振る。
「そこをセーブさせるのも、副委員長の仕事だろう?」
 ……それを言われると、辛い。
 鉄は今まで軍の息がかかっている血筋の人間としか付き合ってこなかった。一登瀬や高遠を始め、ちょっとしたことでは折れない倒れない友人知人が多い。前に自分が補佐をしていた厚生委員長も漏れなく軍属一族の人間で、今は立派に陸軍幹部になっているらしい。少なくとも、頭が足りないと思う人間はいても、体力が足りない知り合いは今までにいなかった。自分達にとって、ちょっとの無理は無理では無い。
 だから、織屋にとってどこからが無理なのか、未だよく解からないのだ。
 戸惑っているのは、もしや自分の方なのだろうか。
 眠る織屋の額に冷やしたタオルを乗せながら、一人項垂れる。彼を立派な委員長にするため、奔走してきたつもりだったが、自分は果たして立派な副委員長になれていたのだろうか。織屋は自分より小さい。つまりは、自分より体力が少ないのだ。一登瀬のような人間もいるために忘れがちだったが。
「……あにうえ?」
 ふっと目を開けた織屋の眼はどこかぼんやりとしていたが、すぐにその目がはっきりとしたものになる。その前に呟かれた言葉に、鉄は初めて織屋に兄弟がいたことを知った。
「鉄か」
「大丈夫ですか」
「ああ、大分良い。一登瀬殿には後で礼を言わないと」
 グラスに水をついで差し出すと、織屋は自分で身を起こしそれを受け取る。大分体力は回復してきたみたいだ。
「御兄弟がいらっしゃるのですね」
 彼がその水を飲んだところで、特に意図も無くそう言えば、織屋の手が僅かに硬直した。
「……ああ、まぁ……な。鉄はいるのか?」
「一応、下に」
「弟か?それとも」
「両方です」
 そういえば、こうして仕事以外の話をするのも初めてのような気がした。織屋も同じような事を考えたのか、表情が普段より柔らかい。
「確かに、鉄は長男っぽいな」
「褒め言葉として受け取っておきますよ」
 肩を竦めて見せると織屋は目を細め、その視線を窓の外へと向けた。暗い空には月が浮かんでいる。少し紅い色をした月はお世辞にも綺麗とは言えない色だ。
「月はどこで観ても変わらないものだな……」
 ぽつりと感慨深げに呟く織屋に、彼が宮を思い出していることは容易に察せた。
「宮は綺麗なところだと聞いていますが」
 鉄は決して踏み入る事が出来ない場所に、彼はいた。自分が知らない事を知っている彼への単なる好奇心だったが、織屋は目を細める。
「綺麗は、綺麗だったな、確かに」
 その視線は出窓に置かれていた木製の笛へと向かっている。それが篠笛と呼ばれるものであることを鉄は知らないが、鉄にとっては馴染みのないその楽器が彼にとって特別なものだとは察せた。
「あれは?」
 二本、それ専用の棚に入れられて飾られている楽器は軍では見ることの無い一品だ。
「兄の笛と俺の笛だ……俺の家は楽師だったから」
「楽師?」
「宮廷で音楽を奏でる仕事を代々やっていた。俺も兄も幼い頃から叩き込まれていたんだ。……雅なものだと嗤うだろうな。だが、お前達が思っているほど優雅なものではないぞ」
 苦笑しつつ織屋は自分の手を擦る。
「楽師一族も俺の家だけじゃない。結局俺の家は宮廷から追い出された。……俺も兄も、宮で奏でることしか考えてこなかったから。兄は才がある人で、プライドも高かったからな」
 自殺したんだ。
 ぽつりと呟くように織屋が落とした言葉に鉄は目を見開いた。彼の思わぬ過去に正直驚かされる。どうせのうのうと暮らしてきたのだろう、という目で見られ続けていた彼の、誰も知らない過去だ。
 とすると、あの笛は彼の兄弟の形見か。
「……軍人が憎くありませんか」
 ああして大切に保管しているということは、彼にとって兄は大切な相手だったはずだ。その問いに織屋は一瞬言葉を詰まらせ、目を伏せた。
「両親は嫌っている。でも、俺をここに送るんだから、情けない話だ」
 王宮から追い出された家のその後はかなり苦しい生活だと鉄も耳にしている。だが、それは軍の目線で、どこか嬉しげに語られた内容だった。良い気味だ、と嗤っていた人間を沢山知っている。
 しかし、それで人が死んでいるのか。
 その初めて聞いた事実に鉄は思わず眉間を寄せていた。そんな彼に、織屋はゆるりと視線を動かした。
「……鉄は少し兄に似ている」
「は?」
「この学校に来て俺に話しかけてきた人は少ない。それこそ、腫れ物に触るような態度で……ここに来て俺の目を正面から見たのは鉄が初めてだった。俺を叱り飛ばしたのも、鉄が初めてだったぞ」
 どことなく楽しげに言う織屋が、自分と出会ったのは2ヶ月前だ。しかし、それまでの2年間、彼は孤独の中に生きてきたことになる。
 2年間も、好奇と嫌悪の目に晒されて。
「……だから、鉄と友人になりたいと思った」
 ……ん?
 その時、何か鉄は彼の一言に引っ掛かりを感じた。友人?お前がなりたいのは恋人では無いのかと思ったが
「もしかして、あの“好き”というのは……」
「俺は元々こういう性格で、宮でも友人らしい友人などいなかったから、どうすればいまいち良く解からなかった。取り合えず、好意を伝えれば良いと思ったんだが」
 あの“好き”は友人としての“好き”だったのか。
 そう知らされ、変な誤解をしていた自分が恥ずかしくなり思わず顔を伏せた。恥ずかしすぎる。彼の好意をそんな曲解していたなんて。
「俺は、鉄が好きだぞ。鉄に認めてもらいたいから、俺は頑張ろうと思った」
 この正直に何も飾り立てない言葉をあっさりと言いこなせるのは、宮の出だからなのだろうか。
 はぁ、とため息を吐きかけたがそれをどうにか堪えた。彼の下につくには、どうしても彼自身の情報が足りないと今気付いた。余計なところまでは足を踏み入れたくは無いと思っていたが、彼が委員長で、自分がその下についている副委員長である限りそれは避けられない。
「織屋委員長……」
 それに、まさかあんなに誰よりも厳しく接していた相手にここまで純粋な好意を寄せられるとは思わなかった。今まで自分に好意を示してきたのは、完璧に作り上げた自分の像を見ている人間か、自分の背後にあるものを狙った相手だ。胸と態度が大きいだけの昔の恋人を思い出し、そんな相手に満足していた自分が今では情けない。
 とりあえず
「……会議の後、俺達たまに集まって飲んでるんですけど」
 がしりと頭を掻いてから、視線を紅い月に投げた。電気をつけていなくて良かった。もしかしたら、自分の顔は今、あの月より紅くなっているかも知れない。
「今度、委員長もどうですか」
 織屋の息を呑んだ音に、すぐに厳しい声を出してみせた。
「でも、体調が回復してからですよ。俺に認めてもらいたいなら、立派な委員長になりたいなら、まずは健康管理をしっかりしてください。だから明日は一日、休んで下さい」
 膝に置いた手の平にじんわりと汗が滲むのが解かる。まさかこんな一言を言うのにここまで緊張する羽目になるとは思わなかった。
「俺も貴方に、立派な委員長になって欲しいんで」
 この後に織屋の顔を見るのには少し勇気が必要だったが、勇気を出して良かったと思う。
 その時、出会って初めて織屋の笑顔を見ることが出来、不覚にも見惚れてしまっていた。


「厚生委員会の報告書です」
 高遠は無表情でそれを差し出した織屋と、その後ろに控える鉄を見ながら差し出された書類を受け取った。
「相変わらず仕事が速いな、織屋厚生委員長」
「厚生委員会は副委員長が有能なので」
 手放しに褒められるとは思わなかったのか、鉄が少し驚いたように織屋の背を見たのを目撃出来たのは高遠だけだ。さらに、どこか恥ずかしげに目を逸らす傲慢男の珍しい姿を見られたのも高遠だけだろう。
 ふ、と笑うとその笑いを見た鉄が不快気に眉間を寄せる。
「行きますよ、委員長。生徒会長補佐殿はお忙しいのだから、邪魔をしてはいけません」
「そうだな。それでは、失礼します」
 ビシッと綺麗な敬礼をやり、織屋は敬礼もせずに去ろうとしていた鉄を追う。
「待て、篤史。今日は共に昼食を食べる約束だ」
「それは我らが委員長の健康管理の為です。食が細いから簡単に熱を出すんだ。自覚してください」
 そんな会話をこなしながら出て行ったのを見送ると、彼らと入れ違いに遊井名田陽壱が顔を覗かせたが、彼は訝しげに今部屋から出て行った二人をしばらく見て、ようやく中に入ってくる。
 しかし、その後も不思議そうに、もう見えない廊下の向こうを見るように扉を振り返り、たまに首を傾げ、眉間を寄せて高遠に視線を戻した。
「……いつの間にアイツら仲良くなったんですか?」
「さぁな」
 どうでもいいと言いたげに高遠は陽壱から書類を受け取り、素早くサインを済ませた。

「しかし、俺の膝に乗るのは駄目ですよ、委員長」
「何故だ」
「何故って……友人でもそんなことはしませんよ」
 第一、矢張り仕事が進まない。
 そう言えば、織屋はそうか、と少し残念そうに呟く。
「俺は篤史が好きだからくっつきたくなるのだろうが、篤史がそう言うのなら我慢するぞ」
「はいはい、そうしてくださ……」
 って、あれ?
 今さり気無く変な事を聞いたような気がし、思わず鉄は足を止めた。しかし、そんな自分を織屋は不思議そうに見上げてくる。
「どうした、篤史」
「あ、いえ。何でもないです」
 あまりにも織屋が普通だったので気にしない気にしないと心の中で何度も良い、足を再び進める。多分、自分の感じた違和感は気の所為だ。
 しかし、そうして歩いているところで今度は突然手に違和感を覚え、視線を下げると織屋が手を繋いでいる。
「……委員長?」
 この状況は一体なんだろう。訳が解からなさすぎて、自然と口角が上がっていた。それに、織屋は、あの鉄が見惚れた笑顔を見せる。そして
「俺は篤史が好きだから手を繋ぐぞ!」
「……ってアンタやっぱりそういう意味で俺が好きなんじゃねーか!!」





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