03 不器用者の癖

 琥太郎と再び出会ったのは、今年の春、今年度初めて出航した時だった。
 乗船者リストは側近に確認させていたから2日間は彼がいることに気付かず過ごしていたのだが、3日目の深夜、書類整理に使っていたナイフで手を切ってしまった。本来、書類整理にはペーパーナイフを使用することになっていて、北條にも口煩く言われていたのだが、手持ちのナイフの方が切れ味が良く慣れていたからこっそりそれを使っていた。だから、側近にまさか手を切ったから絆創膏が欲しいなんていうわけにもいかず、自分で救護室に取りに行こうと、一番近いそこに向かった。夜勤の誰かがいるだろうし、手当てをしてもらおうと。
 その、夜勤の誰かが、琥太郎だった。
 一人救護室で使用者リストを整理していた彼は相良の顔を見て目を見開き、しばらく硬直していた。こっちも多分同じだったに違いない。まさか彼がこの学校に入学しているとは思わなかった……と、この後北條にぼやいたら、入学者リストのチェックしてなかったのかと冷たい声で言われてしまった。
 成長した彼は昔とあまり変わっていなかったけれど、可愛かった。思わず昔呼んでいた愛称で呼ぶと、少し気まずそうに「ガキ臭い呼び方すんな」と怒られたが、忙しなく目をきょろきょろとさせているのはただ恥ずかしいだけなのだ、と彼の癖を思い出し微笑ましい気分になった。
 取り合えず、傷の手当をしてもらったが、慣れない手付きで絆創膏を貼り、少しよれたガーゼが何とも可愛らしかった。
 それから何度か傷を作って救護室に行ったが、生徒会長をこんな下っ端に手当てさせるわけにはいかないと、2年か3年に手当てをされてしまうという誤算にしばらく頭を悩ませることになる。
「救護室に通うのは止めてください」
 そしてとうとう北條に釘を刺され、今回は合同演習という理由もあり、救護室には行っていない。まず怪我をしていないから行く必要もないのだが。
 もう3日、彼と顔を合わせていない。
 その事に寂しさを感じるのは自分だけなのだろうが。



 
「琥太郎、擦り傷だってさー、見てやって」
「擦り傷?んなもん舐めてりゃいいだろ」
 まったく、軟弱だな。
 そうため息をつきつつも消毒薬と絆創膏を棚から出し、琥太郎はその怪我人の元へと早足で向かった。ここの救護室に控えている人間は琥太郎を入れて4人。その4人とも今日はフル活動中で、ネコの手も借りたいほどの忙しさだ。艦内には救護室が3ヶ所あるが、どこの救護室もきっと同じくらいの忙しさだろう。
 原因は、例の課題だ。あの課題で本気で闘う輩が多く、それで怪我をするらしい。けれど陸の生徒達は自分で包帯やら薬やら持ってきているようで、救護室に来る事はあまりない。今日も怪我ではなく船酔いで薬を貰うだけもらって去って行く人間が何人かいた。
「……相変わらず、下手だな」
 怪我を手当てされているというのに、相手はからかうように琥太郎の腕を評価する。もう入学して何ヶ月か経つのに、琥太郎の腕は上達していなかった。どうしてもテープが綺麗に切れないし、ガーゼも何だかよれてしまう。
 元々不器用なのだ、自分は。
「琥太郎、昼休憩行って良いよ」
「はい」
 先輩に言われ、ようやく身伸びする時間を得られ、ついでに欠伸をしつつ甲板へ向かった。ずっと艦の中にいたからか、外の空気に触れたい。
 海上士官科は陸や空と違い、艦での全体行動が多いため、独自の体制をとっている。勿論、南や北の区別はあるが、陸ほど厳しくはないのは前の生徒会長の努力の賜物だと言われている。艦の中でそうした差別があると、まとまり難いと考えたらしい。その代わり、一人必ず何かの班に入らないといけない。琥太郎は救護班に入り、統吾は戦闘班だがそれでも生徒会に入っているから1年の中でのリーダー的存在だ。藤浪は1年では唯一の航海士として船に乗っている。そうした所属班があるのは海だけだと聞いている。
 琥太郎がこの学校、この班に入ったのは恐らくは偶然だった。母が相良家で住み込みで働いていたのは琥太郎が小学校4年になるまでで、再婚し相良家で働くのを止めた。その後、母親の再婚相手と折り合いが悪かったのもあり、中学になってから荒れて、この学校への召集状が届いた時は正直ほっとしていた。多分母もそうだったに違いない。
 そしてこの学校に来て初めての航海の日だった、相良に再会したのは。
 まさか、生徒会長になんてものになってるなんて。 
 身分というものがこの世界にあるのだと知ったのは小学校に入ってからだった。
 小さい頃は自分の世界も狭くて、常識というものもあまり身についていなくて、けれどそれ故に彼に何か気を使うことはなく、楽しかった。
 けれど世の中が見え始めた小学校1年の時。てっきり彼と同じ学校に行くと思っていたのに、彼は車で登校、自分は歩いて近所の小学校へ登校。その違いを母親に聞いてみたら、彼女は少し困ったように言った。
「貴方と輝紀様じゃ身分が違うのよ」
 身分。
 初めて聞いたその言葉は琥太郎の胸に衝撃を与えた。その当時は何だ、それくらい、となんてことないものだと思っていたが、年を重ね、世の中を知っていくに連れてその身分の壁が分厚くなっていくのを感じていた。
 きっと一生、この壁は付きまとう。
 はぁ、と蒼い海面を覗き込みながら一人ため息を吐いた。彼は、会長。自分は救護班の下っ端。これが身分差というものか、とリアルに壁の厚さを感じてしまう。
 小さい頃は良かった。相良も周りの人達も優しくて、自分が彼に懐いているのも微笑ましい目で見守っていてくれた。相良も彼自身弟がいたけれど、自分を可愛がってくれた。ただ、その弟があまり琥太郎のことをよく思っていないようで、よく嫌味を言われた。いや、言われてる、か。
「何してんの、琥太郎。サボり?」
 刺々しい声にぎくりと身を竦めて振り返れば、そこには少し相良と似た顔を持つ少年がいた。
「晃希……」
「晃希さま、だろ」
 呼び捨てを咎めた彼は不機嫌そうに腕を組んだ。相良の実の弟である相良晃希は学年は琥太郎と一緒で、昔は病弱だったのに今はすっかり丈夫になったようで、こうして海に入学することが出来たらしい。
 それもこれも、晃希が兄である相良輝紀と同じ学校に通いたいと強く希望したから、だそうだ。とどのつまり重度のブラコン。
 幼い頃共に暮らしたから彼がブラコンなのは知っていたが、久々の再会でまさかもっと酷くなっているとは思ってもみなかった。おかげで、毎日顔を合わせるたびに嫌味を言われる日々で胃が痛い。
「今は昼休み……なんです」
「ふーん……兄さん達は休みも無しに働いてるっていうのに、部下がこんな体たらくじゃ兄さんも浮かばれないな」
 そう言うお前は何なんだ、お前は。
 心の中で突っ込みを入れつつ、晃希が気象関係の仕事についている事を思い出し、彼が甲板にいるのは当然のことで文句は言えない。
「……なぁ、お前、まだ兄さんのこと好きなの?」
「は?」
 海面を見つめているところでの突然晃希が聞いて来たことには顔を上げるしかない。
「だってお前、小さい頃いっつも兄さんの側にちょろちょろして……」
 何だか悔しげに眉間を寄せる晃希に、ああ、俺邪魔だったのかと納得する。昔から、晃希は自分が相良の隣りにいるのを嫌がっていたから。
「ダメだよ。兄さんは相良家の跡取りで、しかも海の会長で、琥太郎なんか身分が違いすぎてつり合う訳ないんだからな!」
 晃希のその必死な顔はやっぱりどこか相良に似ている。兄弟だから当然なのだけれど。今、彼の身長は琥太郎と同じか少し高いかくらいだが、後数年もすれば相良と同じくらいの身長になるのだろう。
 こうやっていつも晃希を見るたび相良を向こうに見てしまう。いけない、と思いつつも止められなかった。
「分かってるけど、さー……」
「それに、兄さんにはもう決められた婚約者いるんだからな」
「知ってるけど」
「……琥太郎。俺は一応君のために言ってるんだけど」
 何を言っても動じない彼に晃希はため息を吐いた。けれど、ため息を吐きたいのはこっちだ。いつも彼と同じ船に乗るたびに自分と彼の世界が違うのだと思い知らされて、勝手に傷ついて。
 次の瞬間、海が広がっていたその視界に白い紙が埋める。見覚えのあるこの紙は、確か例のレポート用紙だ。
「晃希?」
「そこ、お前名前書け」
「は?」
「良いから、書け!」
 晃希の勢いに押されて慌てて対戦者欄に自分の名前を書き込んだ。書き終えると奪い取るように晃希はそれを受け取り、何も言わずに走っていく。
「……何なんだ?」
 相変わらず、変なヤツ。
 そう呟いてから、もう一つため息を吐いた。確かに昔から彼がブラコンなのは知っていたが、嫌われてるとは思っていなかった。あの対戦で、公式に自分をタコ殴りにするつもりだろうか。まぁ、一応腕に覚えはあるから、そう簡単に負けるつもりはないが。
「あれ?君は確か……」
 その時声をかけられ、振り返るとそこには陸の服を着た青年が一人立っている。
「篠田さん!」
「毛利だっけ?一人で何やってんだ」
 短い茶色い髪の青年は、荒れていた時代に憧れていた篠田正紀だった。彼の登場に思いっきり緊張してしまうが、相手はそれに気付かず片足で飛びながら隣に来る。
 うわああああ篠田さんだ篠田さんだ篠田さんだぁ!
 心の中で大パニックだったが、正紀は手すりに持たれ一息ついていた。
「篠田さんは、ここで何を……」
「んー、人待ち。ちょっと怪我したから、友達が包帯とか持ってくるの待ってる」
「怪我?」
 そういえば、何だか歩き方がおかしかったのだがもしかして足を怪我したのだろうか。
 ちらりと下を見れば、「大丈夫だ」と正紀が笑う。
「あ、俺……救護班なんで、もし良ければ救護室に」
「良いって。だって君の体格じゃ俺運べないっしょ。それに、俺らには専属医師いるから」
「専属医師?」
 やはり、陸にも救護班のような班があるのだろうか。
 そう話している間にも周りの陸の生徒が彼に「大丈夫か」と声をかけていた。なんというか、仲が良い。というか、正紀相手にそんなに簡単に声をかけられる彼らが羨ましい。
「でも俺、こんなところで篠田さんに会えると思っていませんでした」
 勇気を出して会話を自分から始めると、彼も苦笑しながら答えてくれる。
「俺もまさかこんなところで自分の昔を知る人間に会うとは思わなかった。意外と狭いよな、世界って。てか別に良いよ、敬語とか。タメだろ?」
「でも、俺ずっと篠田さんのこと尊敬してて」
「良いから。俺は別に人に尊敬されるような事してた覚えないし」
 ははは、と笑う顔はあの頃と比べてずっと柔らかいものになっていたが、言葉も横顔も格好良いと感動してしまう。
「かっけーなぁ……篠田さん」
 思わず正直に口に出すと、彼は苦笑する。
「それは否定しないでおくか」
 そこでまたデッキブラシで床を磨いていた生徒が正紀の姿を見て「大丈夫かー?」と声をかけてきた。それに正紀が手を振って答える姿に、琥太郎は少し驚く。陸はもっと人間関係がギスギスしているところだと思っていた。
「意外と仲良いんだ、陸」
「そうか?」
「篠田さんいるなら、俺も陸に行きたかったなぁ」
 陸には相良はいない。それなら、こんな変な身分差を感じる事もなかったのに。
 思わず零してしまうと、正紀が少し驚いたように目を大きくする。
「でも、友達沢山いるんだろ?ここに」
「そうだけど……でも、あんまり一緒にいたくないヤツもいるんだ」
 いや、常に一緒にいるわけじゃない。同じ船に乗っていてもたまにしか顔を合わせられない相手で、廊下で通りすぎてもこっちから声をかけるのが憚れる相手だった。
 自由に声をかけられないこの状況がなんだか苦しい。この船に乗った時だって、凄く緊張して声をかけたのだ。相良は知らないだろうけど。
「篠田さんは、仲良かったヤツといきなり凄い身分違いになったらどうする?」
 この人にこんなことを聞いてもしょうがないのに。
 けれど、篠田正紀は自分の昔の憧れの人間だった。何があっても動じず冷静に対処する彼の噂を聞き、前に本人に会った時は心臓が止まるかと思った。5人に囲まれても冷静に対処をしていたその姿に感動さえ覚えた。
 もし、この人がそんな立場に立ったらどうする?
 そんな単純な興味だった。
 正紀はしばし逡巡し、
「んー……気にしない」
「え?」
「別に身分が変わったからってそいつと自分の関係が変わるわけじゃないしな」
 あっさりとした返事に琥太郎は黙り込むしかない。確かに彼の言うとおりではあるが、それをあっさり言ってしまう彼が凄い。自分はそんな風に思ったことは一度も無かった。
「篠田さんは、すごいなー……」
「凄いのは俺じゃないけどなー……っと、いずる?」
 正紀の視線を倣うとそこには彼と同じ陸のカーキ色のTシャツを着た生徒が肩を上下に揺らし、乱れた長めの髪をかき上げていた。
 彼が正紀の声に気付いたのか、こちらを振り返り、深呼吸をしたのが分かる。
「正紀」
 駆け寄ってきた彼の額には汗が浮かんでいたが、正紀はへらりとした笑顔で迎える。
「お前んとこ今昼食中じゃねぇのか?」
「……なんだ、意外と元気そうだな。怪我したって聞いたのに。足だって?」
「ああ。今、佐木が包帯取りに行ってる」
「佐木か……なら大丈夫だな」
 いずるはため息を吐いて、ようやく正紀の隣りにいた琥太郎の存在に気付いたようだった。
「君は、えーと……」
 小柄な体に金に近い茶色の髪。
 名前は覚えてはいないが、顔やその目立つ髪の見覚えくらいはあった。少し考え込んだいずるに、琥太郎が目を輝かせる。
「貴方は確か篠田ファミリーの!俺は毛利です!」
「ああ、それで思い出した。あの変な子な」
 ファミリーとかおかしい単語を使われたら流石に思い出す。
「俺は矢吹いずる。篠田ファミリーの三男だ」
「ってファミリーってそっち?しかも何で三男」
「誕生日順」
 本当に仲が良い。
 琥太郎は正紀といずるのやり取りを見てなんだか羨ましくなってくる。自分と相良兄弟は一応幼馴染だが、こんな軽口を交わしたことは一度もない。
「で、お前の足は海の奴にやられたのか」
 いずるのどこか呆れたような一言に琥太郎は俯きかけていた顔を上げた。
「篠田さん、そうなんですか?」
 まさかその足の怪我の原因が自分の仲間だとは。正紀も琥太郎を前に頷けず、かといっていずるを前に嘘を吐く事も出来ず、戸惑ったその間が琥太郎にそれが真実なのだと知らせた。
「誰だったんですか?それ、正式な勝負挑まれての怪我じゃないんですよね?生徒会に言って厳重注意を」
「いや。俺はアイツ等の名前は知らない。1年だし……ケンカで怪我したのは俺のミスだけど」
 だが、遠也を襲ったのはいただけない。まぁ、あれだけ酷い目に遭ったのなら再び彼に近寄るような事はしないだろうが……。
 難しい表情になった正紀を眺めて、いずるは目を細める。その表情だけで、正紀がまだ何かを気にしていることは察せた。
「……毛利君、って言ったね」
「は、はい!」
 いずるは隣りにいた琥太郎に笑いかけた。なるべく、温和に見えるように。それでいて尚且つ品があるように。
「海の1年で、周りから信頼されて目立つ人って誰?」
 そして、どこか有無を言わせない笑い方。
 その自分には向けられた事のないいずるの笑顔に正紀は眉を顰めたが、琥太郎はあわあわと答えを口にする。
「え、と……俺が知ってる生徒会役員は佐川……あと、藤浪は結構有能で注目されてて、後は、結構周りから懐かれてるのは志賀かな?」
「志賀?」
 一人聞き覚えのある名前にいずるは反応する。
「ああ。志賀は、生徒会の奴も一目置いてるけど、生徒会に入るのは断わったって」
「志賀……志賀治也?」
 ぽつりとフルネームでいずるが彼の名前を呟くと、琥太郎が首を傾げた。どうしてフルネームで言っていないのに名前を知っているのだろうという不思議そうな顔に、正解だと知る。
 決まりだ、といずるは心の中でほくそ笑んだ。
「じゃ、俺はそろそろ戻るよ。ありがとう、毛利君。正紀も、あんまり馬鹿やるなよ」
「いずる」
 背を向けて立ち去ろうとした彼を正紀は呼び止めた。
「お前、これは俺の喧嘩だぞ」
 いずるが何かやろうとしていることくらいは分かる。だが、この幼馴染は正紀の知る喧嘩というものを知らない。だから、いずるがああいう輩に囲まれたら危険だ。翔と同じく多少は弓道以外の武術も嗜んでいたから、そう簡単に殴られるタイプでもないが、喧嘩は技を競う試合とは違う。
 正紀の牽制にいずるも気付き、肩を落とした。
「俺は喧嘩なんてしない。そーいう荒っぽいのはお前の専門だろ。お前が喧嘩を買おうが売ろうが、俺の知るところじゃない」
「だよな」
「でも、お前に怪我させた時点で俺にも喧嘩売ってんだよ」
 にこりと笑い、いずるは艦内に戻って行った。
 やはり、こうなるかと正紀はがっくりと首を折る。
 喧嘩っ早い正紀をいずるは窘める程度だが、怪我をした時は本気で怒るのだ。喧嘩をすれば怪我の一つや二つするのが普通だが、それでも怒る。過保護だと思いつつも、では逆の立場だったらどうだ、と考えると自分もいずるが怪我をしたら相手に倍返しをしにいくことが予想出来、何も言えなくなった。
「流石……!ファミリーは一心同体ってやつなんですね!」
 変なところで琥太郎は感動しているし。
「いや、それはちょっと違う気が……あ、佐木、こっちこっち」
 正紀が突然大きく手を振ると、きょろきょろと誰かを探していたらしい黒い髪の少年がこっちを振り返った。
 あ。
 その眼鏡を付けた顔に琥太郎は少し身構える。ここで正紀と出会った時に少し口論してしまった相手だ。彼も自分の顔を見て目を細めたが、すぐにこっちに来た。
「そんな歩き回れるなら必要ないんじゃないんですか、手当て」
「な……お前!」
 正紀に対する冷たい物言いに琥太郎が喰って掛かろうとしたのを、隣りにいた正紀が手で制した。
「そう冷たいこと言うなよ、天才」
 彼はそう言いながらその場に座り、靴を脱ぎ足首を晒した。赤く腫れ上がっているその状態は救護班でしばらく仕事をしていた琥太郎の目にも酷い状態だと判断させる。
「骨は折れてないようですね」
 患部に触れ、状態を確かめた遠也の冷静な表情に今度は驚かされた。触っただけでそんな事が分かるのか。自分の先輩だってそこまで分かる人はいない。
「鎮痛剤です」
 持ってきた鞄の中からペットボトルに入った水と錠剤を取り出し、遠也はそれを正紀に渡す。正紀の方もそれを受け取り、すぐに飲み下していた。
「悪いな、天才」
「……お互い様です」
 遠也はそれだけ低い声で返し、テキパキと患部を冷やしたり湿布を張ったり包帯を巻いたりとやる事をこなし、その手際の良さに琥太郎は目を見張る。
 物凄い手馴れている。陸はこんな治療が上手い人間が沢山居るのだろうか。
 けれど、そんな琥太郎の疑問を読んだかのように正紀が手を横に振った。
「違う違う、こいつが特殊なんだよ。こいつ医者の家だから」
 そんな正紀の言葉に遠也は目だけを上げ、何も言わず片づけを始めた。その手付きさえ琥太郎にはプロのように見え、思わず遠也の手を掴んでいた。
 いきなりの事に流石の遠也も驚いたように琥太郎を見上げる。
「なん……っ!」
 文句を言おうとしたが、琥太郎の真剣な眼にそれを飲み込んでいた。
「俺に、手当ての仕方教えて!」


「志賀、治也か……」
 いずるはその名前を口にしながら、その人物を探した。彼はどこかで陸の1年の指導にあたっているかもしれない、と考え、第二甲板の方へと足を進める。
 そして、見つけた。
 数人の海の生徒に囲まれ、談笑しているその姿を。確かに、輪の中心にいるように見える彼は周りからの信頼を得ている人物だと傍目からでも分かる。
 丁度良いのを見つけた。
 ふっと不敵な笑みを浮かべそうになったが、それをどうにか穏やかな笑みへと変え、彼に向かって歩き出そうとしたところで背後から声がかかる。
「あれ、矢吹?」
 日向翔の声だった。
「日向」
 ここの班には彼がいたのか、と振り返ると翔の満面の笑みがそこにあった。微妙に顔色が悪いのを指摘すると、彼は苦笑し「二日酔い」と小声で答えた。
「どうしたんだ、うちの班には篠田はいねーぞ?」
「あー……いや、用があるのは」
「……矢吹?」
 どうやら翔が自分を呼びかけた声が彼の耳まで届いたようで、海の生徒の方から自分の名を訝しげに呟く志賀の声が聞こえた。
 ナイス、日向。
 心の中で友人に感謝をし、振り返れば志賀の茫然とした目と視線がかち合った。
「久し振り、だな。志賀くん」
「矢吹いずる……お前、陸にいたのか」
 志賀の眉間に皺が刻まれ、それにいずるも笑みを消した。
「中2の全国以来だな」
 志賀とは何度か弓道で腕を競い合った仲だった。個人ではいずるが勝利を得ることの方が多かったが、団体戦では志賀の学校と試合をし、負けたことも何度かある。
「丁度良いな。志賀、俺と勝負やらないか?」
 温和な笑顔で例のレポート用紙を取り出すと、相手も一瞬目を見開くが、すぐに不敵な笑みを浮かべ、頷いた。
「面白そうだ。受けて立とう、矢吹家の御曹司」
 志賀は昔から矢吹いずるが好きではなかった。
 あの矢吹家の時期当主であるという辺りもなんだか気に入らなかったし、出る大会でことごとく入賞していく辺りも気に入らなかった。それになにより、自分の試合を見に来た北條行哉がいずるの試合に見とれていたのも気に入らない。
 ここで彼と直接対決をして、北條の前で彼に勝つことが出来れば。
「当然、弓でだよな?」
 いずるが自分にわざわざ声をかけてきたのであれば、勝負方法はそれに違いない。予想通りいずるは頷く。甲板でなら遠的も近的も出来るな、と志賀が考えていた時だった。
「君、生徒会に顔が利くんだろう?」
 いずるの突然の問いに志賀は頷く。きっと、甲板をそれの為に使うには許可がいるとでも考えたのだろう。
 しかし
「遠的も近的も出来るけど、どっちが」
「あ、いや。俺、折角海に来たんだし、やりたい事あるんだけど」
 笑顔のいずるが始めた説明に、志賀は顔を引き攣らせることになる。


「今日も何事もなく終わりそうだな」
 北條の安心したような言葉に頷き、今日も琥太郎に会えずに終わりそうだと心の中で嘆いた。
 舵を取る生徒の様子を見回り終わった帰り、甲板から駆け下りてきた弟の姿を見つけて手を振れば相手もこっちに気が付いた、その瞬間彼の目が釣り上がる。
「晃希」
 彼はそのまま自分に近付き、顔を近づけてきたと思えば
「あんたには絶対負けねぇっ!」
 敵意を剥き出しにし、走り去ってしまった。
「……反抗期か?」
 弟の唐突な態度に呆気にとられて呟くと、北條が隣りで噴出した。
「北條さん?」
 珍しい反応に振り返ったけれど、すでに彼はいつもの表情に戻り、冷たい目で「帰るぞ」と一言。
 一体、何なんだ。
「……相良さん」
 そこで今度は少しテンションが下がった志賀が現れ、また足を止める羽目になる。
「志賀?どうした」
 志賀と北條が兄弟であることを知る相良は自分の名が呼ばれたことに少し驚いた。いつもなら、ここで北條を奪っていくのに。
「実は、俺勝負を挑まれまして……方法は弓なんですけど」
 ぼそぼそと説明を始めた志賀のお願い事は察せた。多分、甲板を使わせて欲しいとかそんなものだろう。
 けれど、弓道で勝負とは面白い。見学に行くかと考えていたところで、
「救命用ボートを二艘ほど貸して欲しいんです」
「ボート?」
 甲板じゃないのか。
 首を傾げると、志賀が盛大なため息を吐く。
「実は、挑んできた相手が矢吹いずるで」
 相良もその名前は知っていた。あの矢吹家の次期当主で、弓道を嗜み、その腕前は全国レベルだとか。益々その勝負に興味を持ち、相良はその先の説明を促した。
「それで?」
「……屋島の戦の扇の的当てをやりたいそうです」
 あの御曹司何考えていやがる……!
 志賀は心の中でいずるに怒りをぶつけていた。しかも、今すぐやりたいというリクエストまで貰っている。理由は、天気がこの先どうなるか解からないから、と。
 屋島の戦の扇の的当てというのは、あの那須与一が屋島の戦の際、平家方が小舟にかかげた扇を射落としたという話だ。敵味方から注目されながら、ゆらゆらと揺れる舟にある的を射抜くのにはかなりの集中力と精神力が必要で、若干その状況と今回の状況は似ている。
 そんなことをやろうと言い出すいずるの気が知れないが、彼は一言「一度、やってみたかったんだ」。
 陸地がないので、弓を射る側も舟に乗らないといけないという、本物の扇の的当てより難しい条件である事くらい、いずるも分かっているはずなのに。
「面白そうだな」
 そして相良も一言そう言ってOKしてくれた。
 あまりやりたくないが、やらないといけない。相良と共に少し面白そうだと思っていそうな北條の表情に、志賀は軽い苛立ちを覚えた。
 



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