「……翔はどうした?」
就寝時刻間際に克己は何となく翔がいるはずの部屋に顔を出した。不穏な噂を耳にしたからだ。3班の陸の生徒が海の生徒と勝負をする、と。まさかとは思うが一応本人に確かめておこうと顔を出せば、何故か3班のメンバーは克己を微妙な表情で迎えた。その空気の意味を問うように克己が周りを見回すと、皆慌てた様子で克己から目を逸らしたり布団に潜り込んだりというあからさまな態度をとる。
「日向?さぁー……そういえば、先に食堂から出てったのにいないなぁ」
ハンモックに寝ていたクラスメイトの言葉に嫌な予感がした。まさかと思うが、誰かに連れ込まれ妙な事になっているのではないか。それを聞いてすぐに克己は出て行き、クラスメイト達はほっと息を吐いた。
当てはないが、とりあえず暗がりを中心に探してみたが、いない。個人の部屋に連れ込まれていたらそれこそ気付けない。就寝時間が近いからかすれ違うのは皆夜勤の海の生徒だけだ。
嫌な予感が確信になりかかっていた時、食堂の方からなんだか騒がしい声が聞こえてくる。
「佐川は男抱いた事ねーから、男を気持ちよく出来るか、下手って言われるのが怖くて男抱けねーんだろ!」
「んだと!てめぇもっかい言ってみろゴラァ!」
……下らない。
怒り交じりの会話に、彼がここにいることは絶対にないと思い、踵を返しかけた、その時だ。
「オラーッ日向、もっと飲めー!」
日向?
聞こえてきた名字は探し人と同じ名字だった。同姓という可能性もあるが、まさかと思い、食堂に足を踏み入れると
「あー!克己だ!」
テンションの高い翔の声に迎えられ、頭痛を感じた。
翔の台詞にそこにいた海の生徒全員がこっちを振り返り、誰?という目で見てくる。それはこっちの台詞だ、と内心毒づいた。どうして翔が一人で海の連中と酒盛りをしているのか、状況が理解出来ない。
そんな克己の苦悩も気付かず、翔は元気に手を振る。
「克己!久し振り!」
「……お前酔ってるな?」
翔が近寄ってきた途端酒の香りがし、思わず眉間を寄せていた。この妙なテンションも酒の所為なのだろう。訓練中にこんな失態、許されるわけがない。
「酔ってない」
そういう彼の顔は紅潮している。ついでに、何だかフラフラしている。酔っ払いの典型的な症状だ。
「お前も飲んでけば?」
海の酔っ払い連中からの誘いを一睨みし、翔の腕を掴んで食堂から出ると、目の前に一人海の生徒が立っていた。
「酒の匂いが飛ぶまで甲板にいるといい」
彼はそう静かに告げ、食堂に入って行った……と思ったらすぐに背中の方で怒号が聞こえた。どうやら今の彼は海の生徒会の人間だったらしい。海の酔っ払いたちは上司の突然の登場に慌てたのか、テーブルや椅子が倒れるような音と瓶が割れるような音も聞こえてきた。
「克己、甲板いくのか?」
部屋の方向ではなく、上へと続く道を選んだ克己に翔がいつもより高い声で問う。
「そうするしかないだろう」
こんな状態で彼らの班に戻すのは不安で、一人にするのも危ない。
疲れたような克己の答えに翔は首を傾げた。
「克己も一緒?」
「ああ」
「そっかー」
何故か、えへへへ、と嬉しげに笑い肩を何度も叩いてくる翔にため息を吐くしかない。
「……酔ってるな」
「酔ってねーって!」
そんな会話を交わしている間に甲板に到着し、ひんやりとした外気に翔は身伸びをする。アルコールで熱くなった体には丁度良かった。
甲板には誰も居ない上、夜の海はとても静かだ。それはさっき統吾と共に来たから知っている。黒い海に、曇っているのか星一つない空は少し不気味だ。甲板も明かりが消えていて、艦内へと続く扉のところにある明かりしかついていない。
「……克己、何か怒ってるか?」
そんな中で、折角会えた友人はなんだか機嫌が悪いようで、さっきまで高かった翔のテンションは一気に下がった。
「怒っていない」
「嘘だ。怒ってる……」
段々と力が抜けていく翔の声に、海へと向けていた視線を彼に戻してみて、克己は驚愕する。こっちをじっと見つめている翔の目からボロボロと涙が落ちていた。
「おい……何で泣いてるんだ」
泣かせるようなことを言った覚えはなく、困惑するしかない。
「だって、克己が怒ってるからー!!」
「怒ってないって言ってるだろ!」
「克己が怒ったー!!」
なんて無駄な会話なんだろう。
酔っ払い相手の会話の不毛さに気付き、克己はため息を吐いた。そういえば、翔と酒を飲んだことは今まで一度もない。つまり、彼の酒癖を自分は知らなかった。
泣き上戸なのか。とりあえずそれは記憶しておこう。
翔は必死に自分の目を擦り、涙を拭いていた。
「つぅか、久々に会ったんだからそんな怒んなくてもいいだろ……俺は、嬉しかったのに」
すん、と鼻を啜りながら翔は悔しげに眉間を寄せた。
酔っ払いの戯言だとしても、そんな事を言われたら毒気を抜かれてしまう。
「……だから、別に怒っていたわけじゃない」
「じゃあなんだよ」
「お前が部屋に居なかったから、探していた。もしかして変な事になってるんじゃないかと心配してた。それだけだ」
「……え」
思いがけない事実に翔が目を大きくしたのを見て、克己は大袈裟に肩を竦めて見せた。
「そしたらお前、なんか酔っ払ってるしな」
「あ……ごめん……」
それは翔に効果絶大だったようで、しょんぼりと項垂れた彼にやりすぎた事を察し、克己はため息を吐いてから暗い空を見上げた。
「思い過ごしで良かったけどな」
「……克己」
「もう部屋に戻るぞ。ここは少し寒い」
冷たい海風に翔の体を気遣い、艦内に戻ろうとしたが、翔の手がそんな克己の服を慌てて掴み、止めた。
「翔?」
あれ?
翔の方も自分の行動に心の中で首を傾げた。何でこんな事しているんだろう。ああ、克己の服伸びちゃうし早く手を離さないと。
そうは思うが、なかなか手から力は抜けず、心音が速くなる。
「もうちょっと、いてもいいだろ?」
「ああ……別に、それは構わないが」
「俺、克己に話ある、んだけど」
どうにか時間稼ぎをしたくて、思わず隠しておこうと思ったことを正直に口にしてしまった。
「実は、その……海の人と勝負、することになって」
「何?」
けれど、選択を間違えた。克己の声が低くなったのに肩を揺らすと慌てた彼が「すまない」と謝ってくる。
「やっぱりお前だったのか……」
当初の目的を思い出し、克己は額を押さえる。まさかとは思っていたが、3班のメンバーを思い出し、誰が一番そうしたケンカを買いやすいかと冷静に考えれば翔しかいなかった。遠也もその噂を耳にした時、心配げな顔になったのは多分同じ事を考えたからだ。
「でも、大丈夫だから。絶対勝つし、その……そういう事はしない、って相手の人も言ってたし」
「どこまで信用できるんだ、それは」
「……ごめんなさい」
呆れたような言葉に萎縮してしまう。やっぱり克己を怒らせてしまった。ああ、もう本当にこれは勝つしか選択が無い。
どうにか違う方向に話を逸らそうと思いついたのは
「あ、そうだ。克己、俺と勝負するか?」
ぱんっと手を叩いて、これは名案とばかりに翔は笑うが、克己は眉間を寄せた。
「……何?」
「俺一度克己と真剣勝負してみたかったんだよな!手加減無しで!なっ?」
なっ?と笑顔で言われても。
翔はすでにその気で気合入れに拳を握っているが、その意味が分かっているのだろうか。
確かに、この課題は顔見知りとこなすのが正しい選択だろう。お互い口裏を合わせれば良いわけだし、変な海相手にするよりは賢い方法だ。
「おい……翔、それは無条件だろうな?」
勿論!という返事が返ってくると期待して克己が言ってきたことに翔は目を丸くする。そういえば、物騒な条件付きだったのをすっかり忘れていたという顔だ。そしてその顔のまましばし硬直する。
「あー……んー……でも克己、無条件だったら手ぇ抜きそうだしな。よし、俺が勝ったら克己に男の抱き方教えてもらう!ってな訳で、早くここに名前書け」
「おい」
持ち歩いていた例のレポート用紙をポケットから取り出し、四つ折りにしたそれを開いた。だが、克己は良い顔をしない。
「……お前まだ酔ってだろう」
ペンまで差し出したのに、彼は一向にそれを受け取ろうとしない。理由もわかるが。
「嫌なら本気で俺を倒せば良いんだ。ま、俺が勝てるわけもないし勝負見えてるんだ、良いだろ?」
「それはそうだが」
「……そこで納得するのか。いいけどさ……納得したなら名前書けよ」
悔しいが、その反応にも文句は言えない。自分と克己ではレベルが違いすぎた。
直筆以外不可と書かれているそこに名前を書かせ、翔は満足気にそれを確かめ、ポケットにしまう。あまり長く外に出していたら風で飛ばされてしまいそうだった。
「よっしゃー。手ぇ抜くなよ、克己」
「おかげ様で抜けない状況です」
流石の克己も男を相手にはしたくないだろう。翔の作戦勝ちだった。
「……でも」
紙をしまったポケットからそれが落ちてないか触れて確かめてから、小さく息を吐く。酒が入っている所為か何となく熱い息だった。
「俺、別に克己相手なら良いけど」
「寝言か」
「違げーっつの。何だろ、一番の友達……だからかなー」
鉄の手すりに顎を乗せると少し熱くなり始めた顔が少し冷やされる。この潮と鉄の香りにはもう慣れた。
「克己相手なら平気かな……多分」
そういう相手に選ぶのは、主に小柄な相手か、それか一番親しい間柄の人間だとどこかで聞いたことがある。授業で、だったのか、友人の小話だったのかは忘れたが。
親しい、というと何人か顔が浮かぶが、他の友人は何となく、ダメだった。
「多分、か」
弱々しく付け足されたそれを克己は笑うが、こっちは段々恥ずかしくなってきたのだからそれ位は許して欲しい。
「……本当に平気かどうかは実際そんな状況になってみないとわかんねーだろ」
「そうだろうな」
「そうだ」
「なら、試してみるか?」
くすりと笑った克己の言葉に今度は翔が呆気に取られる番だった。
「……克己?」
隣りにいる彼に目をやれば、少し楽しげな表情だ。これはからかわれている。
「からかうなよ……」
「からかっているつもりは無いが」
克己の手すりを握っていた手が頬を撫で、一時的に冷えた手の平が熱い頬を冷ますかと思ったが、反対にその手に体温が戻っていくのが分かる。
「じゃあ、克己も酔ってるのか?」
翔の白い頬を撫でていた手が止まり、相手が身を屈めたのが空気で分かった。
「……そうかもな」
前髪を軽く弄られ、心音が最大限に速まる。けれど、嫌な緊張ではなかった。すぐ近くにある克己の黒い目が優しいからだろうか。
あ、キスされるんだ。
そう思い何の抵抗も無く目を伏せた。が、すぐに克己が何かハッとしたように自分から離れ、唐突な行動に翔が目を開けたその瞬間、艦内に続く扉が開け放たれた。
「陸の子、いたー!」
いきなりの他人の登場にがくりと克己の額が翔の肩口に落ち、翔の方もただ茫然と目を瞬かせるしかない。
後1cmも無かったんだが。
そんな克己の呟きを海風が邪魔し、翔の耳までは届かなかった。
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