08 本当の気持ち

「で、その騒動は収まったのか」
 相良の少し厳しい表情に久瀬は頷いた。
「後処理は佐川がやると言ってるので、大丈夫かと」
「……なら良いが。船はいわば密室だ。そこで揉め事が起きた時どんな事態が待っていることがあるか、わかっているだろうな?」
「はい。申し訳ございませんでした」
「奏……顔がにやついているぞ」
 申し訳ないと謝っている彼の顔は何故か嬉しげで、全く誠意が感じられない。それを指摘すれば久瀬は慌てたように顔を手で覆うが、もう遅い。
「良い事があったようだな」
「……まぁ、ちょっと」
 きっと佐川関連だ。
 それを察した相良は良い、とそれ以上は言わず久瀬を下がらせた。彼が報われない片想いをしていることは知っている。だから、今日のお説教はこれくらいにしておいてやった。
 久瀬もこれで今日1日の仕事を終えることとなり、このまま寝たらきっと良い夢を見れると足取り軽く自室へと戻ろうとした。が
「あれー……久瀬さん?」
 間延びした声に心臓が跳ね上がった。
「みなかわ?」
「佐川ですってー」
 彼はケラケラと笑い、近寄ってくるがその足取りがあからさまにおかしい。
 彼とは同じ役職についている為に部屋のフロアが一緒で、こうして夜に会うのは珍しくない。だが、そういう時はいつも空気が冷たくなるし、彼がこんな笑いながら名前を訂正してくることもない。
「お前……酒飲んだのか!?」
 彼が近寄り初めて気付いたその香りに唖然とする。訓練中に酒を飲むなんて。今日は最終日でもないのに。それに、第一自分たちはまだ未成年だ。
「そんな硬い事言わないでくださいってー。しょうがないでしょ、勝負挑まれちゃったんだからー」
 フラフラとした足取りで久瀬に近寄り、しなだれかかってきた彼は本当に酒臭い。
「勝負……ってよりによってそんな勝負か!」
 例の勝負は内容は殺し合い以外なら何でも良いとされているが、今回統吾は飲み比べを挑まれた。きっと、自分が勝ったら抱いてくださいとでも言われたのだろう。そういう事を言える相手が久瀬には羨ましく思えたが、今はそんな事を思っている場合ではない。
「馬鹿……!ちょ、お前こっちこい!」
 久瀬は慌てて自分の部屋に統吾を押し入れた。統吾の部屋は確か誰かと同室だったはず。こんな姿を見られては、それこそ相良の雷が落ちる。自分の部屋なら一人部屋だから、充分お説教出来る。
「あれー?ここ、久瀬さんの部屋?」
 アルコールで脳をやられている彼は怒ることなくただ珍しそうに周りを見回し、何故か笑う。
「笑っている場合か!お前な……!航海中飲んで良い時なんて一時も無いんだぞ!」
「えー。何だよ、じゃあ久瀬さんは俺に男抱けっていうのか?」
 狭いベッドに腰掛けながら彼は怒りを露わにする久瀬を見上げ、その微妙に潤んだ目に久瀬は困惑する。
「そうは、言ってないけどな……」
「いーじゃん。俺今日夜勤じゃないし。陸の子にも飲ませちゃったーあははははっ!!」
「あはははっ!じゃない!何やってるんだ、佐川!」
 ああ、絶対相良に怒られる!
 折角さっきは大目に見てもらえたのに、これじゃあ台無しだ、と頭を抱えるしかない。後でその陸の子の名前を聞きだして、謝罪にいかなければ。……仕事が増えた。
 色々と明日の予定を組み立てている時、ようやく統吾のやかましい笑い声が止んでいる事に気付く。寝たのか、と振り返れば、寝てはいなかった。
 ただ、驚いたようにじっと自分を見つめている。
「何だ……俺の、名前覚えてんじゃん……」
「え」
 そういえば、怒りに任せて呼んでしまったかも知れない。慌てて口を押さえたが、もう手遅れだった。
「ねー、久瀬さん」
「……何だ」
「俺の事、嫌い?」
「な……っ」
 突然凄い力で腕を引かれ、視界が反転したと思えば自分の顔の上に統吾の顔があった。
「俺の事、嫌い?」
 再度同じ問いかけをしてきた彼の表情が真剣で、その意味が分からず心臓が跳ね上がる。どうして自分をそんな目で見る?期待してもいいのだろうか。
「……嫌いじゃ、ないけど」
 どうしても好きという言葉は引き出せず、目を閉じてそう答えるのが精一杯だった。
「……ね、久瀬さんは男と寝たことあるんだろ?」
「は……?」
 酔っ払いの思考回路が良く解からない。唐突に身に覚えのない事を言われ、頭の中が真っ白になった。まさか、彼にずっとそう思われていたのか。
「相手は、相良会長?仲良いもんな」
「何言って……!相良と俺はただの友達で」
「だって、友達とするんだろ?こういうの」
 着ていたシャツを捲り上げられ、唐突に肌に外気が触れその冷たさに身を竦める。だが、彼は女好きだ。何もないまっ平らな胸を見てどんな反応をするか。それを考えて目を強く瞑る。気持ち悪いなんていわれたら一生立ち直れない。
「……白」
 けれど、そんな一言では彼がどう思ったのかは分からず、恐る恐る目を開けた。統吾はただ酔っている顔のままでそう呟いていた。
「佐川……」
「こういう時は俺の名前間違わないんだ」
 彼はくすりと笑い、久瀬の耳元で囁く。何とも甘い声だった。
「ね、久瀬さん。俺に教えてよ、男の抱き方」

 ……嘘だろ?

 茫然としているだけでは、彼の言葉の意味を理解出来ない。けれど、文句を言おうとした口は口で塞がれ、酒臭いキスに翻弄されてしまった。
 なれない行為に咳をしていると「なんか久瀬さん可愛い」という呟きが降ってくる。これは夢か。
 あの統吾が自分にキスをし、可愛いとまで言ってきている。
「俺の名前もっと呼んで」
「佐川、おい……これ以上は」
「名字じゃない、名前。名前、呼んでくれたらもっと気持ち良い事してあげる」
 久瀬の額を愛しげに撫で、そっと口を寄せてくる彼囁きは熱く、頭が溶けてしまいそうだった。
「……とぅご」
 今にも消え入りそうな小さい声だったけれど、それを予想して耳を澄ましていた統吾にはしっかりと聞こえた。
「なに?奏」
 うわああああああ。
 酔っ払いの所業だと割り切ろうとしていたところで、名前で呼んでくるのは卑怯だ。
「ああ、名前呼んでくれたんだから何かしてあげないとなー……えーとじゃあ、とりあえず久瀬さん口開けて?」
 こちらが硬直しているのにも構わず、統吾はあくまでマイペースだった。突然の指示に久瀬が訳も分からず口を少し開けると、また口を重ねてきた。舌が酒の臭気と共に口内に入って、わずかな苦味を感じた。
「キスはあんま女と変わんないのな」
 ま、当然か。
 そう彼は呟き再び口を重ねてくる。苦味にも酒の匂いにも慣れ、むしろそれに酔う。
「気持ち良い?久瀬さん」
 聞くのか、そういうこと、女にも。
 体をまさぐりながらのキスに生理的な涙が落ちる。それを統吾の指が拾い、その手が自分の頭を撫でた。
「可愛いなー……なんか、俺……」
「え?」
 ずしりと全身にありえない重みを感じ、久瀬は突然自分の体の上に落ちてきた相手の頭に恐る恐る触れた。
「……おい、佐川?」
 その頭を撫でても叩いても殴っても、反応がない。
 規則正しい寝息まで聞こえてきて、久瀬は思い切り脱力した。
 寝ている。
 安心したような残念なような、複雑な気分だ。
 起こさないようにその体の下から抜け出し、とりあえず頭の切り替えの為に深呼吸をする。
「……よし」
 今は航海中なのだから、気を引き締めていかないと。
 とりあえず、彼が酒宴を開いていただろう食堂に足を運ぶと深夜だから当然だが、もう誰もいなかった。酒瓶等も片付けてあるようで、証拠隠滅も完璧だ。これなら相良にも報告しなくて大丈夫かもしれない。
「……ダメですよ、ちゃんと報告しないと」
 しかし、久瀬の甘い考えを壊してくれたのは会長補佐の北條だった。いつから居たのか、自分の背後に立っていた彼を振り返り、幻聴であることを願ったがやはり本人がそこに立っていた。
「北條さん……見てた、んですか?」
 彼らの酒宴を。
 その問いには答えず、彼は一つため息を吐いた。
「私から報告しておきます。陸へのフォローはお願いしますよ」
 陸、という単語にそういえばあの馬鹿が陸の子にも飲ませたとかなんとか言っていたのを思い出し、項垂れるしかない。
「飲ませたのが一人だけなのは幸いですね。同じ陸の生徒が引き取っていきました。けれど酒臭い生徒を部屋に戻すわけにはいかないでしょう。しばらく甲板で匂いを飛ばすように指示をしておきました」
「はい、甲板ですね……分かりました」
 ここからだと甲板まで少し遠い。さっさと寝てしまいたいところだったのに、一仕事が増えて久瀬はただ走るしかなかった。
 
 



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