「全員乗ったな」
相良と瀬野、他の生徒会役員が確認し、今回のスケジュールと諸注意を確認する。残り組との連絡方法も確認し、もう乗船するだけになったところで相良が瀬野と視線を合わせた。
「今回は陸の生徒を預かっている。気を引き締めていけよ」
いつもこれが一番緊張感が漂う瞬間だった。会長と副会長はライバル関係にあるのが伝統で、この二人もそうだ。
ピリッとした重圧に二人は目を細めるが、すぐにそれは消える。
「てかさぁ、何で日向ちゃんを俺の艦にしてくれなかったんだよ」
瀬野はため息を吐きながら今回の自分の艦の乗船メンバーのリストを捲る。そこには翔の名前は無い。相良も日向翔という人物は知らなかったが、それは陸の生徒会長からの要請だった。
「碓井に1年E組は俺が預かって欲しいと頼まれた」
「碓井がー?」
その名前が出た瞬間に瀬野の眉間に皺が刻まれる。
「くっそー、色々遊べると思ったのに」
「……気を引き締めていけよ」
相良がそう言うと瀬野の側近である達川が一礼をする。先行き不安だが、あの2人の能力は相良もよく知っている。彼らは自分とは友情を築くつもりはないらしいが、こちらは彼らをそれなりに信用していた。でもそれは、あっちも同じだろう。そして、こうして無駄口を言い合える程度の仲ではある。
「瀬野、気をつけてな」
自分の艦へと行こうとする彼の背にそう呼びかけると、彼は一瞬気まずそうに眉間を寄せたが、すぐに自信たっぷりに笑った。
「会長さんもな」
ひらりと振られた手を満足げに見てから、相良も彼に背を向けた。
「我々も気を引き締めて行きますか。相良様」
艦に向かう道すがら、自分の側近の成澤貢が人の良い笑顔で話しかけてくる。彼とは付き合いが長く、こうして何度も船に乗っていたから気心の知れた仲だ。
そうだな、と返して艦内を歩いていれば、何人かすれ違う生徒に頭を下げられた。それに軽く手を挙げて、出航前の艦内の様子を確認する。
いつもの通り。何の違和感もない。こういう直感的なものも大切なのだと先代から教わっていた。
艦の責任者たるもの常に平静な心で。
先代から教わった事を出航前に心の中で復唱するのも習慣だった。そんな相良を艦の人間は羨望の眼差しで追う。そんな状況に成澤は満足気に笑んでいた。その時
「琥太郎、包帯がちょっと足りなくなってる」
「はぁ!?お前ソレもっと早く言えよ!倉庫から持ってくるの大変なんだぞ!」
狭い横道から顔を出した茶色の髪に相良は目を見開いた。彼もこっちに気付いたようで、大きな目を何度か瞬かせる。その腕には赤い十字マークが入った腕章が付けられていた。
「……すみません」
彼は気まずそうに視線を下げて倉庫の方へとすぐに走っていく。
「あ、こっ」
「いけません、相良様!」
相手を呼び止めようとした時、突然後頭部に激痛が走り、相良は廊下に倒れていた。犯人は、相良の後ろを歩いていた成沢だった。手に持っていたボードで思い切り上司の後頭部を殴ったのだ。微妙に曲がったそのボードを胸に抱え、彼は首を横に振った。
「いけません、相良様!これから出航という時にそんな、何をなさるおつもりですか!」
「……貢、ちょっと声が大きいぞ」
「確かに、片恋相手とこんなに早々にお目にかかれたのは嬉しいでしょうが!!」
「だから声が大きい!!」
思わず素早く身を起こし振り向きざまに成澤の顔に右ストレートを叩き込んでいた。
はっと我に返った時には、自分の側近が床の上に倒れていた。
ああ、またやってしまった……。
心を静めるためのこの時間に、こうして側近を沈めてしまうのは初めてのことではなかった。しかし、この時思うことはこの側近の心配ではなく、成澤の言葉が彼の耳に届いていないかどうかの心配で。
「……行くぞ、貢」
少し落ち込みつつ、まだ目を回している彼の襟足を掴み、ずるずると引きずりながら司令塔へ足を進めた。
毛利琥太郎との出会いは、確か6歳の頃じゃなかったかと思い出す。彼は相良の屋敷で働く女中の子どもだった。幼い琥太郎は本当に髪が金色に見え、茶色い目で見上げられた瞬間落ちた。
舌足らずな声で、てるきと名前で呼ばれた時期が懐かしい。
「……相良会長」
その時、ひょいっと倉庫へと行ったと思った琥太郎が顔を覗かせた。
「こた?」
「あんまり俺のところ来るなよ。あんたに使う絆創膏なんてないからなっ」
それだけ言って再び頭を引っ込めた彼の腕には救護班の腕章が付けられている。それは遠回しに怪我には気をつけろと心配されていると考えていいのだろうか。
「こた……」
「相良会長、気を引き締めていきましょうか」
どことなく冷たい声にぎくりと身を竦ませると、もう一人の補佐役である北條が背後に立っていた。彼のにこーっという効果音が付きそうな笑顔に、逃げ出したくなる。北條は学年は同じでも年齢は一つ年上で、年配者に逆らえないように教育されてきた相良にとって唯一頭が上がらない相手だった。そんな相手が今の騒ぎを見ていたのだから、血が下がる思いだ。しかも何だか機嫌が悪そう。
「あっ!ユキちゃん!」
その時気絶していた成澤が目を覚ましたのが止めだった。彼はパァッと表情を輝かせたが、北條の機嫌は一気に下降したのが彼の表情でわかった。
「その女みたいな呼び方は止めろ!俺の名前は行哉だ!!」
「うわーん!ユキちゃんごめん!!」
実はこの一連の騒動も毎度の事だ。みんな元気な証拠であると考えれば良いだろう。
狭い艦内を物凄いスピードで走れるようになっている仲間達を見送り、相良は恒例のため息を吐いた。
「それと、今日からですね。1年の特別合同演習」
その頃、陸上士官科の生徒会会館では朝の打ち合わせが行われていた。副会長補佐である水之江静生が大方の報告を終わらせてから一言付け足す。それに、今まで神妙に聞いていた役員の空気が一瞬途切れた。
その意味が解からず、水之江は大きな目をきょとんとさせていたが、男性陣はお互いの視線を合わせ、気まずい表情を見せた。
「あぁ……あの特演今日だったんだ」
「そっか、今日だったんだ」
何だかよどんだ空気になっていく理由を高遠も知っている。今日の予定を大まかに記入していた手を止め、彼らの囁きに耳を貸す。
「……何か、あるんですか?」
水之江は女子で、ついでに言えばまだ2年生だ。だからこの特別合同演習で男子に課せられる特別授業に特殊なものが含まれていることを知らない。
「静生ちゃんは知らなくていいと思うよー」
どこからともなく聞こえてきた声に、彼女は眉を吊り上げる。
「馬鹿を言わないで下さい!副会長の補佐たるもの、知らないことがあっては副会長の恥になります!」
「ま、流石にこればっかりはウチで教えたくない内容だからなぁ……つぅか教えなくても良いような気がすっけど」
「海がやってくれるっつってんだから、やらせとけばいーんじゃね?つぅか、俺達も散々な目に遭ったんだから、今年の1年にも苦しんで貰わないと」
水之江の台詞を聞き流し、人の悪い笑いをするメンバーの会話をよそに高遠は先日、克己と会ったときの事を思い出す。高遠は今日が特別合同演習であることは知っていた。高遠自身が海と掛け合い、決めた日時だったから。
「何か用か」
一目につかないところで姿を現した高遠に克己は不快気に目を細めた。それに構わず、高遠は口を開いた。
「……三日後、海との特演がありますね」
「それが、どうした」
「俺からの餞別です」
高遠は克己に小さな紙袋を投げ渡し、彼に背を向けた。必ず、役に立つはずだと言い残して。
今日の夜にでもきっと必要になるだろう。
「克己様、頑張って下さい……」
ギャイギャイ騒ぐ部下を背に、青い空を見上げながら、高遠は人知れず呟く。
純粋な厚意だった。
「克己、それ何?」
荷物を置いた部屋で、克己は高遠から貰った紙袋の存在見つけ、低く呻いた。実は、あの後紙袋はあまりにも怪しすぎてすぐゴミ箱に突っ込んだのだが、何故か教室の机の上に置かれていたり靴箱の中に詰め込まれていたり部屋の中に置かれていたりと、何度捨てても手元に帰ってくる。
これを渡してきたのが高遠でなかったら、一種のホラーだ。
昨日の夜も部屋のゴミ箱に突っ込んだはずなのだが、こうして荷物に入っている。
どこまでしつこいんだ、高遠の奴は。
心の中で舌打ちしつつ紙袋を取り出すと翔が不思議そうに首を傾げた。彼も、この一連の光景を見ているから少し怯えている。
「わからん」
中身を見ずに捨てていたから、克己も中身は知らない。
まさかと思うが、爆弾の類ではないだろうな。
海と陸の中の悪さを思い出しつつ、そっと中を見てみる。と
「克己?」
即座にその紙袋を握りつぶした克己の様子に隣りにいた翔はびくりと肩を揺らした。たかが紙袋だというのに、殺気が物凄い。
「何だよ、どうしたんだよ?」
「いや……なんでもない」
傍目淡白そうなのに何考えていやがるあの馬鹿。
翔にはいつも通りの顔を見せたが、心の中では高遠への罵詈雑言を吐き、手の中にある紙袋は握り潰していた。
「翔、悪いが先に甲板に行っててくれないか」
「ああ……遅れるなよ?」
ただ事ではない様子に流石の翔もそれ以上突っ込む事は出来ず、すぐに部屋から出て行った。そんな友人に心の底から感謝をし、克己は握り潰していた紙袋の中身をもう一度開いた。
「アイツ……何考えているんだ」
中身は所謂ゴム、と呼ばれるものと何だか直視したくない軟膏らしきものがある。それの知識が多少ある者ならそれが何だかすぐに気付けるものだ。
そのとんでもない差し入れの下に、メモ紙らしきものがあるのに気付き、それを取り出した。さっきはこの差し入れのインパクトが強すぎて気付かなかった。
皺になったその紙には高遠の筆跡で、今回の特別合同演習の概要が書かれていて、読み進めた克己の眉間にも皺が寄っていた。その内容に、思わず嘆かずにはいられない。
「どいつもこいつも……何を考えているんだ」
「可愛い子発見!」
「ふぉあっ!!」
甲板に上がろうとしたところでいきなり背中に誰かが抱き付いてきて、海に落ちるのではないかと身を竦めてしまう。けれど、そのまま床に下され、翔が視線を上げると見知らぬ海の生徒が満面の笑みで立っていた。
「驚かせたみたいだな。ごめんごめん」
彼は白い海の作業着を着ているから、恐らくは1年生だ。人懐こい笑みに少しほっとしつつ「いや」と首を振る。
茶色がかった髪に少し日に焼けた顔は爽やかで、多分女子にモテるタイプだ。でも克己の方が格好いいな、と思わず自慢の友人と比べてしまう辺り、自分の中にも海への対抗心が育っているのかもしれない。
「俺は、1年の志賀治也。君も、1年だよな?名前聞いて良い?」
「日向翔。陸の1年だ」
「日向くん、ね。ふーん」
彼はじぃっと翔の顔を見た後に上から下まで一通り眺め、「よし。オッケ」と手を叩いた。
「実はさ、俺の友達にな、どうしても女じゃないとダメーって奴がいるんだ。それでも課題は課題だから、女の子みたいな子ならどうにかなるかなって思って」
「はい?」
「な?頼むよ。1日だけでいいんだ!……それとも、もう相手いたりする?」
志賀、と名乗った彼は不安気に形のいい眉を下げたが、話が見えない。
「いや、あの……よく解からないんだけど」
正直に答えれば、相手は首を傾げた。
「あれ?まだ課題について説明貰ってない?」
「今日はとりあえず、これから甲板で海の人達と顔合わせって聞いてるけど」
「そか。なら先に教えちゃってもいいかなー……先に聞いとくけど、日向くん男の恋人とかいないよな?」
「そんなんいるわけないだろ!」
何て変な事を聞いてくるんだ、この人は!
思わず叫んでしまったが、彼は機嫌を損ねることもなく、むしろ嬉しそうに笑った。
「そっかー。あのな、今回の演習には特別演習ってのがあってー」
彼は翔を手招きし、近付いてきた耳にこそりと囁いた。
「男が男を抱く方法、実践で覚えてもらうから」
「……は!?」
「ああ、でも無条件で、ってわけじゃないから安心して。こっちもそうしたいと思った相手には勝負を挑んでるから。嫌だったらその勝負に勝てば良い」
勝負の大方の方法はコレだけど、と彼はファイティングポーズを取った。
「ってなわけで、後で俺の知り合いと勝負して。よろしく〜〜」
何とも軽いノリで彼は手を振り、去っていってしまった。
アレくらいの容姿なら、きっとあの人もハラハラするだろう。
志賀は良い布石が見つかり、ニヤニヤ笑いながら艦内に戻った。するとそれを待ち伏せていたのは、この計画を持ちかけた相手だった。
「あの子なら、多分統吾も勝負するんじゃないかと思いますよ、兄さん」
「……やりすぎじゃないのか」
北條は眉間を寄せて日向という少年の顔を確かめる。見事な女顔だ。しかも華奢で、あの統吾に勝負を挑まれたら絶対に負ける。そこを、いつまでもウジウジしている久瀬に見せてどうにか告白までこぎつけないかと北條は思案して、の行動だった。
「大丈夫。統吾は女の子じゃないとダメだからあの子は襲われたりはしない」
「なら良いが……治也」
突然背を抱きこまれ、北條は疲れたようなため息を吐いた。止めろ、と言う意味で身を捩るが、更に強く抱きこまれる。
「何で?久々の兄さんと一緒の船なんだ。冷たいこと言わないで付き合って」
「誰かに見られたら」
「すぐ終わらせるから。どうせ兄さん、俺以外には誰も触れさせてないんだろ」
北條は一種接触恐怖症のようなものを持っていた。いつからそれが現れたのかは解からない。それは普段の友人同士のふれあいは平気で、性的な意味を持った瞬間症状が出る。相手が女性でもだ。それが、何故か弟である彼は平気だった。恐らく共に過ごしてきた時間が長いからだと思うが。
「……お前、どうして北條の姓を名乗らない」
ボタンを外し、肌を撫で始めた彼を諌めるように問う。北條の実母は彼が生まれてからすぐに死に、その後父が選んだ相手も子持ちの女性で、北條と志賀の間に血の繋がりはないが10年以上共に暮らしてきた時間がある。
「じーさんに怒られるっしょ。俺の体に北條の血は流れてない」
それを理由に、幼い頃から弟は祖父に厳しくされていた。教育とは名ばかりの虐待に近い。寛げたシャツの中にはその当時の傷が見え隠れする。
「でも、じーさんが俺と行哉がこういうことする関係って知ったらどんな顔すっかなぁ」
楽しげに呟く弟がこうして自分を抱くのはそれが目的だと知っている。
北條家には毎日祖父に罵倒され叩かれていた彼を助けるものは誰もいなかった。彼の長年の苦しみの復讐の一つなのだろう。
「治也」
低い声でそれを咎めると、彼は少し淋しげに眉を寄せて唇を寄せてきた。その隙に胸元に手が移動し北條は身を竦めた。
そこには、戦闘で出来た傷がある。
「な、この傷……じーさんは勲章っつってたけど実際どうだったの」
弟の囁きに反応するように傷が軽い痛みを訴えた。これは、北條が1年生の時に海上訓練中、突然現れた敵に攻撃され艦が沈むということがあった、その時の傷だ。結局リハビリやらなんやらで1年遅れで再び入学となった。
「俺知ってるよ。行哉、今でも船乗るの怖いだろ」
「……そんなことはない」
「俺は、怖いよ」
「……はる?」
「……馬鹿だな、ゆき」
何もわかっていない兄を暖かい眼で見て、彼は再び口を寄せてくる。
それを甘んじて受け入れようとした時だった。
「ちょ、さっきのどういう……っってうああああああ!!」
先ほど志賀が声をかけた陸の生徒が詳しい話を聴こうと思ったのだろう、追いかけてきたのだ。普段、ここは人通りが少ない場所なのだが、陸の生徒を預かっている今はその普段ではないことを、彼の顔が真っ赤になっていくのを目の当たりにして思い知った。
「あ……見られちまった」
ハハッと笑う志賀はさり気無く北條の顔を手で覆う。それは地位を持つ彼への配慮だ。
翔はしばし硬直した後、「ごめんなさい」と呟き彼らに背を向け、その場から走り去った。
い、今のは一体なんだったんだ……。
ってか、あの話って本気だったのか!?
ぐるぐると色々な事が頭の中をめぐり、パニックになりかける。
思い出すのは肌蹴た制服、紅潮した顔に何だか色々と生々しい二つの体の重なり具合。
「あ?……翔?」
走りすぎたところはさっき荷物を置いた場所の近くだったようで、甲板へと向かう克己と気付かないうちにすれ違っていたようだ。そんな自分を呼ぶ声に足を止め、振り返れば怪訝な顔をした友人がいた。
「どうした。何か、あったか?」
「克己……!!」
知る顔にほっとして彼の元に駆け寄り、そして
「俺、陸帰る……!」
そう、思いっきり叫んでいた。
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