「この予算は認められません。やり直してください」
久瀬奏は目の前に立つ相手に書類を叩き返し、銀フレームの眼鏡を上げた。そんな仕草も勘に触ったのか、相手の眉がひくりと痙攣するように持ち上がる。
「どうしてだよ」
苛立ちを含んだその言葉に奏は不機嫌そうに眉を上げた。
「先輩に対してその言葉遣いはないんじゃないんですか?ミカワ君」
「佐川だよ!っつーか毎度毎度俺の名前間違えやがってなぁ!こんな記憶力が悪い奴が会計長ってどういうこと……」
「うるさい。とにかくこの予算は認められない」
そんな二人のやりとりは海の生徒会に所属しているものなら見慣れたものだった。ここは海の生徒会室の端。とうとう立ち上がり相手と口論を始めたのは、生徒会会計長である3年生の久瀬奏だ。彼は普段冷静で、かといって冷たいというわけではなく、生徒からの信頼も厚い。もう一人は今年入学したばかりの1年生で、1年の会計代表である佐川統吾だ。何故だかそこの2人は顔を合わせるとケンカばかり。
統吾の方がいつも耐えられなくなり、頭を掻き毟っていた。
「っかー!ったく、何でダメなんだよ!これくらいつかわねぇと陸の奴らに笑われるだろ!」
「そんな見栄を張る必要は無い。とにかくこれは却下だ」
奏はその予算案を放り、これ以上聞く耳を持たないと顔を逸らした。
「……何の予算なんだ?あれ」
近くでそんな様子を見ていた委員会の役員がこそりと隣りにいた友人に問う。と
「ほら、もうすぐ始まる陸との特別演習の予算だよ」
「あぁー……もうそんな時期なのか」
ちらりと見た窓の外はすでに夏の太陽が燦々と輝いている。
「ったく!融通の利かない人だな!そんなんだから彼女の一人もつくれねーんだよ!」
静粛であるべきであるはずの生徒会室でそんな怒声を聞くことになるとは思わなかった。統吾は自他共に認める女好きだった。確かに見目も良い彼はこの学校に入ってくるまでは散々女遊びをしてきたのだろう。だが、この学校に入って事態は変わった。
陸や空ならまだしも、彼が入ってしまったのはよりによって海だったのだ。
海は授業の半分以上を海上、つまりは船で行う。3ヶ月以上そこにいることも多々あるのだ。勿論、船に女性は乗っていない。そういう決まりだった。女生徒はいるのだが、彼女は女だけの船に乗っている。勿論そこに男性は一人も乗っていない。
そんな男だけの船で性欲はどう解消するかというと、勿論男同士で、だった。陸や空ならこんな隔離された状態にはならないので、ヨシワラや、普通に恋人を作っても良い。だが、海だけはそんな状況はなく、結局は男同士に走る。そんな環境、統吾には耐えられたものではなかった。生徒会役員ならば海に出る回数は比較的少ないのだが、それも比較的だ。陸に上がっていても忙しくてそれどころではない。昨日だって折角陸に上がってきたのだが、提出する予算案に徹夜だった。それをあっさりと却下する奏には怒りしか感じない。
「アホらしい事を言ってくるな。そんな無駄口たたいている暇があるなら予算案練り直して来い。今日中だ」
奏はそんな統吾のケンカに乗ることはなく、次の仕事へと取り掛かろうとした。そんな態度が更に勘に触る。
「いつかぜってーぶん殴る!」
そう言い捨てて、青年は生徒会室から出て行く。途端静かになる生徒会室に響くのは、奏のため息だった。
ああ、またやってしまった……。
「奏。今日も賑やかだったな」
「相良……」
後悔しているところで生徒会長から声をかけられる。相良とは幼い頃からの顔なじみで、友達だ。他の生徒会役員は彼の登場に少し恐縮していたが、奏はそんな素振りは見せず、むしろ全身から力を抜いていた。
「さがらぁぁぁ」
「昼でも喰いに」
「いく……」
「午前中の仕事はここまでだ」
生徒会長である相良の言葉に他の役員も身伸びを始めた。相良もそのまま外に行き、奏も後ろについていく。
「それにしても、特別合同演習か……もうそんな時期なんだな」
相良の何てことない一言に奏の表情が曇る。特別合同演習とは、陸の一年生が海の生徒と共に船に乗り、一週間滞在するというものだった。勿論、海の生徒が陸のほうに行き、共に学ぶという特別合同演習もある。それはキャンプ形式のものだったと奏は一年生の頃を思い出した。
だが、今回の特別合同演習は一種異色な演習内容も含まれているのだ。
「……会長、やっぱり例のアレはやらない方向には出来ないんですか?」
奏の言うことを理解出来ないほど相良も愚鈍ではない。少し思案した様子をみせたが、すぐに首を横に振った。
「無理だ。止めようとすると、多分2,3年から文句が来る」
「そりゃ、ただ単にイジメ……」
恐らく、何で自分達が去年やったのに今年の後輩は無しなんだ、という意味の文句だろう。それと、もう一つは
「それに、陸の生徒イジメが楽しみなんだろうな」
情けない。
相良は嘆くが、奏のほうは気が気ではなかった。統吾も1年だ。今回で味をしめたら一体どうなることやら。
「別に強制じゃないから、アイツはノーマルだし大丈夫だろう」
奏の心を見透かしたような相良の言葉に奏はほんのり頬を染めた。
「べ、俺は別に佐川なんて!」
「名前」
「え?」
相良が足を止め、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「覚えているじゃないか、佐川の名前。名前くらい間違えずに呼んでやれ。流石にあれは可哀想だ」
な?と相良の洗練された笑みに、奏は小さくため息をついた。そりゃあ、呼べるものなら呼びたい。だけど
「そんなの、恥ずかしい……」
「は?」
消え入りそうな声での久瀬の告白に、流石の相良も目を点にしたが、すぐにその言葉の意味を知り、ああ、と納得した。
「純情」
「……うるさい」
久瀬奏が佐川統吾に恋をしていることは、一部では有名な話だ。
初めて奏が統吾と出会ったのは、今年の入学式の時だった。役員だった奏が入学式の雑務を終え寮へ続く道を歩いていると、桜の木の下で白い詰襟を着て白い軍帽を被る彼を見かけて……恐らくは一目惚れだった。
だが、生来のあまり素直でない性格が災いしたのか、彼が生徒会に入って、しかも自分の部下になって、嬉しかったのにあんな態度しかとれない。
こんな事は初めてで、どうすればいいか解からない上に、やはり性格がどうにもならない。おかげで彼には嫌われてしまうし散々だ。そんな彼を見かねた相良が一つ提案をする。
「……奏、今度の特別合同演習、俺の艦に乗るか?」
「え?」
相良の言葉の意図が解からず、奏は瞬きをする。奏はいつも相良会長か、瀬野副会長か、どちらかの補佐についていたのだが、こんな直接的に言われたのは初めてのことだ。
「俺の艦に乗れば、佐川がいるぞ」
人の悪い笑みに、奏は眉を下げる。そんな誘い、断われるわけがない。
「……乗ります」
でも、きっと自分が知ると知ったら統吾は嫌がるんだろう。
それが容易に想像出来、切ない痛みが胸に走った。
「克己!すっげぇ!海だ、海だー!!」
目の前に広がった風景に翔は目を輝かせた。白い雲に青い空、青い海、たまにウミネコが鳴くここは港だった。何隻も大きな船があるのは、ここが海士官科の港だから。
特別合同演習、というものの存在を知ったのは今から1週間前のことだった。船に乗り、海での生活を学んでくる事、と教官にも生徒会の人間にも言われた。だが、海の生徒と陸の生徒の仲の悪さは自他共に認めるほど。そんなところで1週間なんて、大丈夫なのだろうか。
さっきから、自分達を見るセーラー服を着た海の生徒の視線が冷たいのだが……大丈夫なのだろうか。
いや、確実に大丈夫ではないだろう。そう克己は判断したが、翔は周りの空気など気にせず青い海を覗き込んだり空を見上げたりと忙しい。
「……そんなに海が珍しいのか」
まるで子どものはしゃぎっぷりだ。いや、確かに年齢は子どもなのだが。
「俺、海見るの初めてなんだ」
翔は自分のはしゃぎようにようやく気付いたのか、少し照れながらも白状する。
テレビや本で見ることはあったが、実際に海を見るのは実はこれが初めて。
「あ。俺も俺もー」
荷物を片手に海を覗きに来た正紀も物珍しそうに青い海を視界に入れる。
「海なんて観に来る機会なかったもんなぁ」
「……じゃあ、お前らもしかして船に乗るのも」
克己は少し嫌な予感がしたが、二人は何の戸惑いもなく声を揃えて
「初めて!」
絶対船酔いするな、この二人。
そんな予感に遠也が荷物から緑色の小袋を取り出した。そこには数個のピルケースが入っており、一つあけて中の錠剤を二人に渡す。
「天才?」
「遠也?コレなんの薬?」
「……酔い止めです。乗船する前に飲んでください」
1週間分もないが、後は海の救護班に頼るしかない。
「お、天才気ィ利くじゃん!さんきゅ!」
正紀はにかりと笑って遠也の頭をぐしゃぐしゃ撫でていた。そんな態度に遠也は怒るかと思ったが、意外にも何も言わずされるがままになっている。多分、あの背中は呆れている。
「1年E組は第8艦浅葱に乗れ!」
そんな声に流されるまま、その第8艦体に荷物を持ってその船のほうに行こうとする。と
「翔」
克己の静かな声に呼び止められた。
「ん?」
「お前、俺から離れるなよ」
その克己の言葉がどういう意味だったのかはよく解からないけれど、とりあえず頷いておいた。
「お。結構可愛い子いるじゃん」
船の上から別な科の様子を覗いていた男が少し楽しげに呟いた言葉に統吾はため息を吐いた。
「可愛いって、志賀お前な……どうせ男だろ?」
ノーマル思考を守り続けている統吾の言葉を友人の志賀治也は苦笑する。
「お前も固いねぇ。そんなんじゃ今回全然楽しめないだろ」
志賀は臨機応変にその時の状況に馴染めるタイプで、それはそれで才能の一つだと統吾も思う。勿論、志賀も元々男を好んでいたわけではないが、海に出るようになって彼は何人かの男と関係を持った。だが、女と遊びつつもどこか堅い考え方を持つ統吾には理解出来なかった。
「楽しめなくて良い。俺が求めるのは柔らかくて胸があって良い匂いがする女だし」
昨日相手にした1年上の女性を思い出し、切ない気分になってきた。長い髪が綺麗な女性で、それを手で梳くのも楽しみだったのだが……男にはそんな長い髪はない。あっても触りたくもない。
「俺は結構久瀬先輩とか綺麗な人だと思うけど。やさしーし」
何を思ったか志賀が口にした言葉に統吾は思わず呻いていた。
「うげぇ。カンベンしてくれよ……」
顔を合わせるたびに口論になる彼の事は成るべくなら思い出したくない。思い出せば記憶の彼が自分を嘲笑うのだ。こんな事も出来ないのか、こんなことも解からないのか。記憶の中の奏はそう鼻で笑ってくる。最悪だ。
せめて艦に乗っている間は彼の事を忘れたい、と思っていたが今回は運が悪いことにこの艦には彼も乗っている。
やれやれ、と肩を竦める志賀の向こうでは同じクラスの藤浪銀と毛利琥太郎がいまだに陸の一年生を眺めている。藤浪の体格は統吾と同じくらいの身長で、ということは彼も180前後はあるのだが、隣りにいる琥太郎がそんなに身長が高くなくむしろ低い方で、そんなに二人が並んでいるとなんだか少し面白い。
しかも藤浪は外国人の血が混じっているようで髪の色が灰色がかった銀色で、琥太郎の髪の色は生粋の日本人だが金に近い茶色。何もかも対称な二人の仲は別に特記するほど仲良くない。
「そんなに珍しいもんでもあったのかよ」
つーか、そうして二人同じ格好で並んでいる姿の方がよっぽど珍しいっての。
そう言ってやると、琥太郎が顔を上げ……なぜかその眼はキラキラと輝いていた。
「シルバーウルフだ……!」
「……は?」
「シルバーウルフの、篠さんがいる!!」
シルバーウルフの篠さん。
統吾は何を言われたのか解からなく、首を傾げるしかなかった。シルバーウルフというと銀の狼。それがどうした、と突っ込まずにはいられなかったが、琥太郎は感激に打ち震えてるようだ。
「うっそ……どうしようおれ……こんなところで篠さんに会えるなんて……!」
「よかったなぁ、琥太郎」
子犬のように喜ぶ琥太郎は、今でこそあれだが中学時代はかなり派手に不良活動を行っていたと聞いている。今でも繰り出す拳は痛い。志賀に頭をぐしゃぐしゃと撫でられているその姿からはとても想像出来ないが……。
「で、銀、お前は何を観てるんだ」
「……綺麗な、子がいる」
は?
ほんのり甘い声での藤浪の答えに統吾は目を丸くする。
どれだ?と目で問うと、彼は指でその人物を指し示す。が、沢山いてどれか解からない。
「茶色い髪の。眼鏡、かけてる」
低い声で特徴を言われたが、茶髪もちらちら見かけるし、眼鏡もちらちら見かける。その中でその両方の特徴を満たすのは……やはり数人いた。
「どれだよ」
「一番綺麗な子」
「わかんねぇっての」
藤浪の綺麗の基準がわからず、統吾はため息を吐いた。まず、綺麗という単語は男相手に使わない。統吾の基準では。さっき、志賀もあの口に出すのもおぞましい自分の天敵が綺麗だと言っていたが、その基準が解からない。彼を綺麗というならこの世の全ての女性は綺麗だと統吾は思う。
それに。
やさしーし、と言った志賀の言葉を嘘だと言ってやりたくなったが、実際それは嘘ではなかった。
確かに奏は優しかった。自分以外には。
ああ、何だかとてもムカムカしてきた。自分は嫌われるようなことをしたのだろうか。いや、自分の記憶が正しければそんなことはしていない。
なのに、どうして。
「おいコラ、1年!さっさと持ち場に戻れ!」
2年生の怒号が飛んできて、5人は慌ててその場から自分の持ち場に散った。
統吾が司令塔に戻ればやはり生徒会役員である奏もそこにいる。瞬時に気分が悪くなるが、そんな統吾の前に会長補佐の北條がやってきて今日のスケジュールの確認を始める。
そうだ、こうしていれば彼と口を利く事なんて一度もない。
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海の日記念で誘惑に負けて……。