雨は嫌いだ。
空気がじめじめして肌にまとわり付く感じが気に食わない。体が重くなったような錯覚にもかられてしまう。
雨が降る音も耳障りだ。土が湿った匂いも嫌い。
それに、天気がいい時は外に出て行く人間がこういう日は特に理解も出来ないくせに図書室に来て本を読む。
人ごみが嫌いな遠也にとって、雨の日の図書室は憂鬱なものだった。
それでも暇つぶしの場所にここを選んでしまうのは、殆ど無意識の領域。
普段より人が多く、話し声も聞こえてくる室内に集中出来ず、本を開いて眼で字を追っているものの、内容がまったく頭に入ってこない。
いい加減帰ろうか。
腹いせに音を立てて本を閉じたけれど、湿気を含んだ本は思ったより大きな音が出なかった。
ガタン、と普段は椅子を引いた音が室内に響き渡るのに、今日は湿気と多い人間に吸収されたのかその場だけの音になる。
本を開くだけ開いて一緒に来た友人との談話を楽しむ人の間を通り抜け、一番奥の本棚へ直行した。
本を返すのと、新しい本を見つけるため。
流石に難しめの本ばかりが並ぶこの奥までは人は来ないらしく、静寂が遠也を迎えてくれた。
ジジ、とレモン色の蛍光灯が湿った空気に反応して虫の羽音のような音をたてる。
とりあえずさっきまで読んでいた本を位置に戻して、次のお目当てを探した。視線を彷徨わせてみたけれど、どれもこれも読んだものばかり。
この列はもう読むべきものはないだろうか。
そう思いながら視線をずっと上に上げると、天井につきそうな一番上の棚に一つだけ覚えの無いタイトルを見つけた。
あれにしよう、と決めたは良いけれど踏み台が無いと届かない。
けれどいつも踏み台が置いてある定位置にそれが無いということは、普段ここを活用しないどこぞの馬鹿が使いっぱなしで戻していないということだろう。
無駄だと思いながらも腕を精一杯伸ばしてみたが、やはり本までは後20センチばかりの距離がある。
駄目か。
はぁ、とため息を吐いて後日にしようと思った、その時。
「これ?」
視界の端から腕が伸びて、遠也が目当てにしていた本をあっさり棚から引き抜いた。
差し出された本をまず視界に入れてから、視線をあげると見覚えの無い顔がにこにこと自分に笑顔を向けている。
茶色くて短い髪に高い身長。
あのいけ好かない知り合いと特徴が似たその相手から本を受け取り、小さな声で礼を言う。
「・・・・・・どうも」
相手のネクタイの色は紅。学年が一つ上であることを示していた。
「難しそうな本読んでるなぁ」
人懐こい笑みで言われるが、遠也は警戒の眼を向けたまま「そうですか?」と短く答えた。
けれど、こっちが警戒していることに気付いていないのか相手はそう気を悪くした様子もなく、笑顔を崩さない。
「ちっこいのに、偉いな」
何が偉いのかわからない上、先の言葉と後の言葉の意味が繋がらない気がする。
「・・・・・・失礼します」
とりあえず見ず知らずの学年上にいつまでも接触しているのは危険だろう。
ぺこりと頭を下げて彼の横を通りすぎようとしたら、二の腕を強く掴まれた。
「待って」
低い声が湿った空気を震わせる。
「俺、君の事が好きなんだ」
雨の日なのに、青天の霹靂。
「遠也が告白されたぁー!?」
友人に報告するつもりはさらさら無かったのだけれど、何となく日常会話的に遠也はぽろっと先日あった出来事を零してしまった。
言ってからしまったと思っても後の祭り。
「うそ、うそうそ!!一体誰に!?」
大志が大きな声で叫んでしまった為に、クラス中にその事が知れ渡ってしまい、視線がこちらに集まる。その中には中学からの友人と、いけ好かない知り合いの好奇の視線も混ざっていた。
「・・・・・・一学年上の上條とかいう男ですよ」
とりあえず、その縋るような眼で見てくるのは止めて欲しい。
癖毛を撫でながら質問に素直に答えると、大志は一学年上というところにビクリと反応していた。
「あっはっはー。ようやく天才君にも春が来たのかーい?」
知られるとウザイことになりそうだ、と予感していた正紀の反応はやっぱりウザかった。
「いいねぇ、恋すると人間変わるっていうし、俺としてはお前にもうちょっと可愛げを」
「断わりましたが、何か?」
そう。好きだと言われてすぐに断わったのだ。
一体何が彼に気に入られたのかはさっぱり解からないけれど、理解する必要もないと考えてすぐにきっぱりお断りさせてもらった。
「えぇー、なんでぇ」
正紀はつまらなさそうに言ってくれるが、こっちとしてはかなりいい迷惑なのだ。
不意に窓を見ると灰色の空と、窓に水滴がいくつもこびりついている。
今日も、雨だ。
「佐木は何でそんなに本ばかり読んでいるんだ?」
「・・・・・・上條先輩」
あれから、雨の日には彼が図書室にやってくる所為かしょっちゅう会うようになった。
早く梅雨が明けないものか。
そう願ってみるものの、まだカレンダーの日付は6月半ば。しかも最近入梅宣言をされたばかり。
わざわざ向かいの席に座って遠也が読んでいる本のタイトルを覗き込んでから、彼はそんな事を聞いてきた。
正直、告白をされて断わった相手と何の感情も持たずに接すのはいくら遠也といえど難しい。と、いうか普通の人間の感情を考えると、振った振られたの関係になってその後告白前のような態度を取れる人間は稀だと思う。
いや、出会いがしらに告白だったから、告白前の態度というものは自分達には無いのだけれど。
「あ、佐木呆れてるだろ。振られたくせにまとわり付くなんてストーカー?とか思ってない?」
「・・・・・・そこまでは思っていませんが、呆れてはいます」
明るい調子でそんなことを聞いてこれるなんて、一体どんな神経をしているんだか。
はぁ、とため息を吐くと上條が苦笑する。
「佐木ってため息多いよな」
「・・・・・・そうですか?」
「幸せ逃げるぞ?」
「余計なお世話です」
さぁぁぁ、と細かい雨の降る音が聞こえる。
まったくやむ気配のない音だ。
「何で、本読んでいるんだ?」
またさっきと同じ質問をされて、遠也は少しだけ目線を上げる。と
「上司命令、ってことで教えてくれる?」
眼が合って彼はにっこり笑いながらそういうが、その内容に遠也は思わず眉を寄せていた。
「・・・・・・そういう聞き方は嫌いです」
「こういう聞き方じゃないと君は俺の質問に答えてくれないと思って」
教えて。
流石2年生であるだけあって、雰囲気が1年とどこか違う。
その大人の気迫に押されながら、遠也は本を閉じた。
「知りたい事があるから、です」
「知りたいことって?」
更に突っ込んだ事を聞いてきた上條にこの先も命令範囲なのかと眼で責めたが、彼は笑顔のままだ。
「・・・・・・貴方が今後俺に近寄らないと約束するのなら、教えても良いですよ」
「あ、んじゃー駄目だ。言わなくていいよ」
あまりにもあっさり引いた彼の態度には少々驚いたけれど、まぁいいだろう。
再び本を開いて字を追い始める遠也の顔を、彼はひたすらじーっと見つめ続けていた。
一体何が楽しいんだか解からない。
はぁ。
と、ため息を吐こうとしたら、突然目の前から伸びてきた手に口を塞がれた。
驚いて顔を上げると、上條の黒い双眸が。
「逃げるよ、幸せ」
まったく、理解不能な人間だ。
「余計なお世話だと言ったはずです」
口から手を離されてすぐにそう言ってやると、彼はただ苦笑していた。
「好きだよ、佐木」
そう言いながら。
「よぉ」
雨の日はジメジメして嫌いだ。
ただでさえ湿気の空気が重くてうざったいというのに、今日は図書室に更にうざったい人間が訪問してきた。
「ここは遊び場じゃないですが、篠田」
仲間内では一番気が合わないだろう元不良が自分に向かって暑苦しい笑顔を向けてきたから、さっさと帰れという意味で冷ややかな視線を送った。それでもそれに慣れてしまっていた彼はまったく動じない。
「いやー、この冷たい天才君に惚れたヤツっていうのに興味があって」
「さっさと帰れ」
「因みに三宅君もこっそりそこに」
本棚の影にデカイ体を隠してこっちの様子を伺っている大志の姿を見つけ、遠也はため息を吐いた。
何なんだ、この知り合いは。
何となく、一緒に居る相手の選択を間違ったような気がしなくもない。
「あ、佐木」
そこでタイミングよく現れた上條には思わず舌打ちをしてしまう。
これが、という正紀の眼と大志の視線に呆れてしまった。
「どうしたんだ?」
上條は何が何だかよく解からない様子で。まぁそうだろうけれど。
「何でもないです。俺は本を探してくるのでこれで」
うざったい友人達からさっさと離れようと遠也はいつもの本棚の方へ向かったが
「あぁ、じゃあ俺も行くよ」
その後ろを上條が付いて来る。
「何で」
「この前みたいに踏み台がなかったら俺が取ってあげるよ」
半ば強引に上條は遠也と共に行く。
その姿を大志と正紀は茫然と見つめ、呆気にとられていた。
「なんつーか・・・・・・マジっぽいな、あの人」
思っていた以上に、彼の眼は優しく遠也を見つめている。
一体あの天才の何処が気に入ったんだろう、とぼんやり考えてみたけれど、自分も彼の友人をやっているのだから、それなりに良いところがあるんだろうなと結論を出す。
眼には見えない、何かが。
今自分がやらなくてはいけないことは、隣りで何やらショックを受けている友人の肩を叩くことくらい。
「ま、頑張れよ三宅」
「・・・・・・何を」
恨めしそうに睨みつけてくる彼に正紀は苦笑するしかなかった。
「肌白いなぁ、佐木」
昨夜から降り続いている雨は午後になっても降り止まない。
雨と共に現れた彼は、今日も遠也の正面に座り、図書室だというのに本を開く事もなくこちらをじっと見つめてきていた。確かに雨の日は外に出れなくて暇かもしれないけど、こんな暇つぶしをされてはこちらが迷惑だ。
「佐木って、運動ってタイプじゃないのにな。頭は良さそうだけど、スタミナ無さそう。訓練大丈夫?」
「大丈夫です」
先輩だから邪険にするわけにもいかず、遠也は本に眼を通しながら適当に返事をした。ただし、会話は続けない。
そんな事を決めていると知ったら彼はどう思うだろう。
ちらりと本から眼を上げて相手の様子を伺おうとしたら、ばっちり目線が合ってしまった。しまったと思うよりも早く相手が笑う。雨の日には不釣合いな、太陽のように眩しい笑み。
「今日初めて俺の顔みてくれたな」
そんな些細な事を心底嬉しげに言うのだから、困る。
「そんな困った顔しないでくれ。俺が悪いことしているみたいじゃないか」
「・・・・・・実際、悪いことしているような気もしますが」
いきなり知らない人間に告白されて、付きまとわれている自分の身になってみて欲しい。こそっと呟いた言葉は相手にも届いたらしく、悪かったと笑いながら彼は言った。絶対心の底から悪かったとは思っていないだろうその言い草に、遠也は再び文章に眼を落とす。
「一目惚れ、って信じる?」
「・・・・・・はい?」
「一目惚れ、だったんだよ。俺、佐木のこと」
突然話し始めた彼の言葉は、遠也が不可解に思っていたことの一片だった。何故彼が自分を好きだと言い始めたのか、ずっと解からなかったから。
「でも、一目惚れっていうのはちょっと語弊があるかなぁ。佐木のことは噂で聞いていたから。一年に、ちっこいのに頭が切れるヤツがいるって」
「ちっこいは余計です」
クールな性格だと周りから思われているが、実は遠也も少し自分の背丈の低さを気にしている。ちょっと不機嫌な声を返すと彼は少し驚いたように眼を大きくし、すぐに笑った。
「ごめんな。それで、雨の日だったんだ。自習にも飽きて、何となく図書室に来てみた。そしたら意外と人が沢山いて、なるべく人気のない本棚の方に行った。そしたら、佐木が寝てた」
丁度あの本棚のところで。
そう上條が指差した先には、初めて会った時に本を取ってもらった棚。あそこは専門書が多く、あまり人は立ち寄らないが遠也にとってはお気に入りの場所だった。
でもまさか、眠っていたところを見られるなんて。
「噂聞いていただけじゃ、ガリ勉タイプだと思ってた。でもよくよく見たら顔綺麗だし、それで一目惚れ」
「つまり、俺の外見が気に入ったという事ですね」
「今は中身も好きだけど」
嘘だ。
上條の軽い口調の言葉を遠也は眼を細めて否定した。
一目惚れなんてあるわけがない。いや、あるかもしれないがそれは外見の話だ。それなら・・・・・・
遠也は無意識のうちに自分の顔に触れる。
「何か、凄い難しそうな本片手に、俺よりずっと年下の顔でスヤスヤ寝てて。そのギャップが面白くってさ」
「・・・・・・それ、一目惚れとは言わないんじゃ」
「言う言う。俺佐木のこと抱き締めたくなったもん」
「ぬいぐるみじゃ、無いんですけど・・・・・・」
遠也はため息を吐きながら本を閉じる。今日はもう帰ろう、彼がいるから落ち着かない。
そんな遠也の心情など上條はお構い無しで、本を持ち上げようとした遠也の手をいきなり掴んでいた。
「っ何ですか!」
突然の事にぎょっとするが、相手は落ち着いた目で自分の手を見つめている。
「佐木、怪我してる」
その指摘に今日の授業の出来事を思い出す。確か、ナイフか何かの授業で怪我をしたのだ。相手だった大志には頭を下げられたが、かすり傷だったからそのまま放っておいた。
「ああ、これくらい大したこと」
ない。
放課後に翔にも心配されたけれど同じ返事をしていたのをぼんやり思い出していたら、手に突然小さな痛みと生暖かい感触が。
はっとしたが遅かった。上條が遠也の手から口を離し、屈んでいた体をゆっくりと持ち上げるのをただ見ていることしか出来ず。
「まだ、血が乾いてないみたいだけど」
血の味がする。
気付いたらそう呟く彼の横っ面を、分厚い本で叩いていた。
ばこんと結構良い音がしたが、そんな事には構っていられない。
「他人の傷は、雑菌が入るから舐めないって習わなかったんですか」
「いや、習ったけど、こういう時ってこういう展開が正しくないか?っていうか佐木もこういう時は顔を赤らめてくれると」
「そういう展開を望みたいのなら、別な人間を探してください」
「じゃあ、望まない」
・・・・・・何なんだ。
あっさりと自分の希望を撤回した相手に遠也は頭痛を感じた。今まで出会わなかったタイプだ。
しかも相手は自分より階級が上の人間。やっぱり邪険にするわけにもいかず、今日も終わる。
不可解だ、不可解すぎる。
「とーやっ!お前告白されてそいつと付き合ってるって!?どこの馬の骨だ、俺は許しませんよ!いってぇ!」
早良の元に行ったら行ったで、不愉快な迎えられ方をされてしまうし。思わず手に持っていた辞書で彼の顔面を殴りつけていたほどには遠也はストレスが溜まっていた。
「付き合ってません。そして例え俺が誰かとそういう事になっても貴方の許しを得る必要もありません」
「うぅ・・・・・・遠也冷たい」
さめざめと泣きまねをする早良を尻目に遠也は端の方においてあるパソコンの電源をつけた。ネット回線を繋いでいないそのパソコンの前に座る彼に早良は首を傾げる。そのパソコンの中に入っているのは佐木大病院の患者データのコピーのみ。それを遠也も知っているはずなのに。
「何で今更実家のデータ探してんだ?」
「何だって良いでしょう」
興味深げに画面を覗いてくる早良は邪魔で、素っ気無く答えながら手で彼を追い払う仕草をした。
まるで猫か何かを追い払おうとするその動作に流石の彼も少しむっとしたらしい。
「良くねーよ。一応それ個人情報なんだぞ。俺は一応佐木の医師の一人だからいいけど、お前はまだ部外者。感心しないねー?」
「そうなんですか?俺は小さい頃から兄に病名を覚えろと見せられていましたが」
「いやそれ駄目だろう・・・・・・」
何やってるんだ、佐木兄弟。
早良が嘆いている間に遠也は白い画面を見つめ続けた。
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