「・・・・・・納得出来ない」
大志は本棚の間から上條と遠也のツーショットを睨みつけるように見て、その背を正紀が呆れた眼で見ていた。
「っつーか諦めたら?あの2人結構仲よさげじゃん」
「俺が嫌なの!遠也には遠也よりちっこくて可愛くてほわほわ〜ってした感じの意地悪言われても子犬みたいに付いてく女の子がお似合いなのに!何で先輩!?何で男!?」
どうやら大志は遠也に対して何か夢を持っていたらしい。静かにしないといけない図書室で思わず大声で主張していた。その気持ちは確かに解からなくもないが。
「つまりは、日向タイプの女の子、ってわけか」
「そう!日向タイプの女の子!」
正紀の見識に大志も大きく頷いた。遠也が心を許して気にかけているのはあの日向翔しか見たことが無い。彼は保護欲をそそるタイプで、確かに彼のような女の子だったら、遠也が気を許すのも何となく解かる。が、相手はそんなタイプからかけ離れた性格。しかも男。
「ま、日向が女だったら真っ先に甲賀がどうこうしている気もするけどな・・・・・・」
「なのに、あの人どっちかというと遠也が一番嫌いな篠田タイプじゃないか!納得出来ない!!」
「っておいコラ。お前それ暴言」
大志の人を気遣わない言葉は、否定は出来ないが咎める事は出来る。
それにしても、あまり付き合いのない正紀でも遠也の上條に対する態度は珍しいと思えるものだった。一番付き合いの長い翔は「良い傾向だな」とにこにこ笑顔で言っていた。因みにその隣りにいる克己も少し笑いながら「そうだな」と同意していた。あの顔は、遠也が上條と付き合うようになり、自分に対する風当たりも弱くなることを期待した顔だった。
「友人想いだねー、大志君は。ま、でも佐木がいいならいいんじゃないか?俺はいっちぬっけた」
正紀は手を振りながら大志に背を向け図書室から出て行く。他人の恋愛に首を突っ込み色々と口を出すのは面白いが、あの天才相手にそんな事をしたら目で殺される。
大志の縋るような視線を感じたが、そのまま図書室の外に出た。窓から見える風景は曇りがかった灰色。
「今日も雨か・・・・・・」
「なぁ、上條のヤツ今日もアイツと一緒なのか」
通りがかった二年生の会話に、正紀ははっと彼らを振り返った。彼らは上條の知り合いか、それともまた別の上条さんの話かは解からないが。
「らしいな。アイツも、あきらめないな」
他愛ない会話に、正紀は窓の外に視線を戻しながら歩き始める。いずるが寮の部屋で自分を待っているだろうから。
「それだけ怨み持ってるってことだろ。佐木家に」
通り過ぎていく彼らの背に思わず視線を向けて、立ち止まる。
怨み、とは一体どういうことだ。
しかも佐木家と言ったから、間違いなく上條とあの小さな天才のことだろう。
怨みとは何とも平穏では無い言葉だ。
思わず図書室に足を戻してしまった辺り、正紀も友人想いだった。



「俺さ、イマイチパソコンって使いこなせなくってさ。佐木、ちょっと使い方教えてくれね?俺の部屋のなんだけど、何か使いにくくて」
大志のところまで聞こえてきた上條のその声に、思わず声を上げそうになった。
あからさまなお部屋のお誘いだ。
けれど遠也も変なところで鈍感で「別にいいですが」とあっさりと答える。
駄目だ、遠也!
と、足を一歩踏み出そうとした、その時。
「生憎と、天才君は今夜俺に数学教えてくれる事になってるんだよ」
大志は思いがけない光景に顔を本棚にぶつけてしまう。
何故か、さっき冷たい言葉を吐いて出て行った正紀が遠也の腕を取り、にっこりと上條に笑顔を向けていたのだ。しかも何とも元不良という言葉に似合わない眩しい笑顔を。
え、え、何で?
大志が状況を把握しないうちに、彼らの間で話は進んでいく。
「篠田?俺はそんな約束した覚え・・・・・・」
遠也にとっても思いがけない事だった。さっきからずっとこちらにじとじとした視線を送ってきていた大志かと思えば、あまり仲が良くないけれど交流は多いクラスメイトが自分の腕を掴んでいたから。
多少うろたえていた遠也に、正紀はその背を叩いて笑う。
「やっだなぁ〜、天才ってば。頭良すぎてボケた?忘れてんなよ、ひっでぇなぁ」
「な、俺はそんな約束した覚えは」
「ってーわけで、先輩、天才君返してもらいますんで。あ、それと、コイツ天才だから俺達の面倒見るのでいっぱいいっぱいなんですよねー。コイツに何か頼む時は、俺かあっちの本棚にへばりついてるヤツに断わってからよろしくお願いします。じゃ、行こうぜ天才。おい、三宅も行くぞ」
遠也の腕を引っ張り、大志に声をかけて正紀はさっさと図書室から出て行く。
上條はぽかんとその様子を見ていたが、彼らの姿が見えなくなってから苦笑する。仲がいい友人がいると噂では聞いていたが、本当だった。
元不良とお人好しを具現化したような彼は自分を鋭く睨みつけてきた。
「持ってかれたな」

「何なんですか、まったく」
図書室の外まで連れてこられた遠也は不満げではなかったが、自分の意思を全く無視した正紀の態度に文句は言った。
「遠也、でも篠田がやらなかったら俺がやってた!」
「出来んのかよ、ヘタレ」
大志の主張には思わず正紀も突っ込みを入れたが、すぐに大志に「出来る!」と物凄い目で睨まれた。
さっきの仕返しのつもりだったが、効果はなかったらしい。
二人のやりとりに遠也の周りの雲行きが怪しくなる。お気に入りの図書室から無理矢理連れ出されたのだ。今日読もうと思った本は置いてきた。借りようと考えていた本をまだ手に取っていなかった。
「あ、遠也、いたー!やっぱり図書室だったんだ」
遠也のイライラの雷が落ちようとしていた時、廊下の向こうから天の助けがやってきた。
「日向」
佐木遠也が唯一優しくする相手が日向翔だ。彼らは中学の時からの友人らしく、翔のほうも遠也には大分気を許しているようだ。
「あれ?篠田達も一緒だったんだ。遠也、探してたんだ。ちょっといい?」
「はい」
翔の誘いに遠也はあっさりと頷いて、足を進める。もし自分が翔と同じ言葉を言ってもこの天才は足を進めないだろうなぁと大志と正紀はそれぞれ思いながら、ため息を吐いた。
「じゃな、三宅」
「じゃな・・・・・・ってどこ行くんだよ」
「ん、ちょっと野暮用な」
大志に話すと面倒くさいことになりそうだ。
そう判断して正紀はさっき気になった話をしていた人物を探しに足を踏み出した。
あの天才なら警告するだけで上手く立ち回るだろうが、今回ばかりは少しデリケートな問題。事を荒立てない方が、彼のためだ。



「今日も雨だなぁ」
遠也と共に歩きながら翔は曇硝子の向こうを見る。
「自然現象なのはわかるけど、外の演習の時辛いんだよなぁ、雨って」
「熱帯地域はほぼ毎日雨ですよ」
「うっわぁ、ちょっとカンベンしてもらいたいな・・・・・・」
と、その時翔は遠也がどこかの方向を見てその台詞を言った事を知る。その視線をなぞると、掲示板と人だかり。眼があまり悪くない翔はそこに貼られているポスターの字を読むことが出来た。
「「志願兵募集、特別報酬一人当たり20万。熱帯雨林で君の愛国心を見せつけろ」・・・・・・って、またどっかで戦争かよ」
「募集、という形をとっているということはそんなに切迫した状況じゃないんでしょう。それでも熱帯なんてなれない場所に行ったら病気で死ぬかもしれませんね。たった20万で」
嘆かわしい。
ぼそりと遠也が呟き、翔は一端足を止めてそのポスターをしばらく眺めた。
「でもさ、遠也」
「はい?」
「たった20万でも、そのお金が必要で自分の命と対価にしちゃう人も結構いるんだよ」


しとしとと雨が降る。
陰気な雨だ。


「珍しいこともあるもんだなぁ」
コーヒーを飲みながら早良が物珍しいものを見る眼で遠也を見、その眼を優しげに細めた。
「瑛と連絡取ったんだって?アイツ喜んでたぞ」
腹違いの兄の名前を出され、遠也は今までつけていたパソコンの電源を切る。ここ4日ほどずっとこのパソコンの前に座っていたが、もうここには用は無い。
「そうですか」
画面が黒くなったのを確認して遠也は立ち上がり、ドアの方へと歩く。それで早良は彼が帰るのだと察して、片手を上げた。
「もう行くのか?じゃあな」
「はい。図書室、行かないといけないんで」


今日も雨。これでもう5日続いた。
「佐木」
そして彼とこうして会ったのは7日目。
「佐木は、雨が好き?」
ひたすら降り続ける雨に眼をやっていたら彼は唐突に聞いて来た。
「・・・・・・嫌いです」
図書室に人が増えるから。
理由も付け足すと彼は「佐木らしい」と笑い、その優しげな眼を灰色の窓に移した。
「俺は、最近結構好きなんだ、雨」
昔はあまり好きじゃなかったけど。
そう呟いてから、再び視線をこちらへと向けて
「何てったって、雨のおかげで佐木に会えたわけだし。俺は、雨が降るたび君を思い出す。君も、雨が降ったら俺を思い出すようになって欲しいって思うわけで」
上條は笑い、遠也は眉を寄せる。
いつものように、不快気に「嫌です」とかそこら辺の言葉が返されるのだと上條は予想した。
けれど、遠也はすぐに視線を下げる。一見首肯したとも取れる動作に、上條は思わず身を乗り出していた。
「佐木、俺は佐木が好きだよ」
「・・・・・・そうですか」
そっけない、雨のように冷たい静かな返事。
雨なのに今日は珍しく図書室に人が少なく、ただでさえ人が立ち寄らない遠也お気に入りの本棚は静まり返っていて、雨の音しか聞こえてこなかった。
「俺が好きで、何をしたいんですか」
しばらく黙っていた遠也がぽつりと呟くように聞く。野暮とも取れるその質問に上條は視線を彷徨わせた。
「何って、そりゃ・・・・・・」
「それは本当に貴方がしたい事なんですか」
「・・・・・・どういう意味?」
厳しい声での問いに上條は笑みを消す。それを遠也は目の端で捕らえて視線を逸らし、ため息を吐く。
「すみませんが、俺は貴方ともう二度と会うつもりは無いです」
「・・・・・・え?」
「ここにもしばらく来ません。本なら他にも手に入れる方法はいくらでもあるので」
それでは。
あっさりとした別れに上條は呆気に取られたが、慌てて横を通り過ぎようとする遠也の腕を掴んだ。
「何で!俺何かしたか?」
「離して下さい」
でも遠也の眼は冷たく、これ以上聞き耳を持たない。焦燥にかられた上條は表情を歪ませ、遠也の腕を掴んだ手に力を込める。
「それじゃ、困るんだよ!」
「な・・・・・・っ」
関節が抜けるかと思うほど強く引かれ、抵抗する力もタイミングも無く、本棚に背中と強く打ち付ける。
そう来きたか。
一緒に後頭部もぶつけた遠也は相手の予想しなかった行動に額を押さえた。元々自分は他の仲間達より体力が無い。そこは頭脳でどうにかカバーしてきたが、限界があることは知っていた。
だから、早々に彼の前から立ち去ろうとしたのに。
ずきん、と痛んだ後頭部に遠也は強く眼を閉じた。ぐらりと眩暈を感じる。
殴られるのか、それとも他に何かされるのか暗闇では解からないが、その眼を開ける勇気はない。
暗い視界の中で聞こえてきた音は、何かが倒れる音。この狭い本棚で聞こえるはずのない音だった。
「何やってんだよ、天才!」
それと、聞こえるはずのない声だった。
「篠田・・・・・・?」
眼を開けると彼が上條を殴り伏せたらしく、本棚に寄り掛かる上條と、その首元を掴んでいる正紀がそこにいた。
驚く遠也の眼にちょっと苛立ちを感じたようだったが、正紀は上條を鋭く睨みつける。
「お前、俺のダチに手ぇ出すなんていい度胸してるよな!」
「2年生に手を出す貴方の方がいい度胸していますよ・・・・・・」
遠也の呆れた声は助けられた側ものだとは思えないが。
「てか、何で貴方はここに?」
後頭部の痛みもおさまってきたが、まだ眩暈が納まらず、本棚に寄りかかったまま闘気を漂わせる正紀を落ち着かせるために質問を投げる。行動が早いのはいいが、少し正紀は直感で突っ走るきらいがある。そこをどうにかすればなかなかいい人材なのに、と冷静に分析しながら。
「あぁ?コイツの友人から聞き出したんだよ。コイツ、お前利用する為にお前に告白したって」
「違う!」
正紀の怒りを滲ませた言葉を遮ったのは上條だった。上げた顔は正紀に殴られた所為で片頬が紅く腫れ、口元には血を滲ませていたが、遠也のほうを真摯な眼で見つめる。
「違う、佐木。違うんだ」
「お前、コイツにだまされていたんだぞ」
「違う、俺は本当に・・・・・・そりゃ、最初はそうだった。でも俺は本当に佐木が」
首元を掴んでいた正紀の手に力が加えられたのか上條の言葉が途中で止まる。
苦しげに歪められたその顔に、遠也は眼を伏せた。
「篠田、離してあげて下さい」
「良いのか」
「良いですよ、もう。貴方も上官に手を上げるなんて無鉄砲すぎます」
「お前、助けてやったのにその言い草」
「先輩」
正紀を無視して上條へ視線を向けた。どこか苦しげなその眼は遠也に何かを訴えている。けれど、きっと自分はその願いをかなえることは出来ないのだと思うと少しだけ心苦しいものがあった。
「佐木、俺は」
「上條みつき。彼女は貴方の妹で、間違いないですか」
大きく見開かれた上條の目に、間違いないのだと悟る。
ここ数日早良のところで自分の病院のカルテを眺めていた。そこで見つけた上條姓は沢山あったが、遠也の仮説に当てはまっていたのは彼女だけ。
「彼女なら、うちの病院に移転させました。恐らく、もう大丈夫でしょう。一時は、申し訳ありませんでした」
遠也がへこりと頭を下げ、その様子に正紀が眉を寄せる。
「何でお前が頭下げてるんだよ」
どうやら正紀は彼の目的までは知らなかったようだ。説明を求める彼に遠也は口を開く。
「・・・・・・彼の妹が、うちの病院に急患として運ばれてきた時に、金が無いからと追い出され、処置が遅れて視力と左半身の自由を失った。それを取り戻すのにはうちの病院の設備が必要。けれどそんな費用はない。だから佐木家の人間である俺に近付き、恋人になれば上手く立ち回り妹の事をどうにか出来ると思ったんですよね」
遠也の視線に上條は顔を逸らし、その行動が肯定を示す。素直な反応に、遠也は肩から力を抜いた。
大当たりだったようだ。
佐木大病院は金の無い患者は見ない。遠也自身、幼い頃から玄関口で医師と泣きながら言い争う人の姿を何度も見ていた。大方、涙を流す人の手には血まみれで意識を失っている誰かがいた。
彼らは冷たく追い出され、中には雨の中放り出されていた人も。
窓からその様子を観ていた遠也を振り返ったその眼は憎しみと絶望に染まっていた。
「でももう、その必要も無くなったわけですし」
「君は最初から知っていたのか、その事を」
あまりにも早い遠也の処置に上條は信じられないという眼で遠也を見上げた。絶対に知られる事はないと彼は考えていたのだろう。けれど相手が悪かった。
相手はあの天才と噂される佐木遠也。そして、冷酷と言われる佐木家の一員。
「俺は貴方の願いを叶えました。もういいでしょう、俺に二度と近付かないで下さい」
「佐木・・・・・・」
「妹さんの治療費は気にしなくても結構です。どうせうちの病院はぼろ儲けしているんで」
聞く耳を持たない遠也に正紀は戸惑いの眼を向ける。確かに正紀も話を聞いて遠也のところに急いで来た。案の定、襲われかかっていた彼を助ける為に拳を振り上げた。その事を後悔はしていない。
でも、今はとても上條が哀れに見える。
「おい、天才」
立ち去ろうとする遠也の背を睨みつけ、放っといたらそのまま帰ってしまいそうだった足を止めさせる。
「何ですか」
「お前、少し冷たすぎないか」
「冷たい?優しすぎる程だと思いますが?彼の真意を知った後も彼の茶番に付き合い、そして願いも叶えてやった。もう彼は俺に近寄る理由もない。だから二度と近付くなと言ったところで彼には何の損害もない。良い事ばかりでしょうが」
確かにそうだけれど。
正紀はちらりと上條の様子を伺い、彼の顔が喜びどころか青ざめているのに、解からなくなった。彼は本当に遠也のことが好きなのかもしれない。この様子を見れば、聡い遠也だってそれにもう気付いているはず。
けれど遠也は彼に背を向けた。
「それに、結構いるんですよ、そう言って俺に近付いてくる人間は。佐木家の恩恵を預かりたいと思う人間は多い。怨みを持つ人間も」
「・・・・・・君は、最初から俺の言葉を信じてはくれていなかったのか」
口に出すのがやっと、というような震えたその声に遠也は軽く頷く。
信じていたら彼の素性なんて調べていないし、自分の病院の情報など見ようとも思わなかった。
何も知らずに上條と共にいると思っていた正紀にとっても意外な返事で。
「それで正解でした」
上條にとっては、別れの言葉だった。
「・・・・・・利用してやろうと、確かに思ったよ」
ぽつりと呟くように言葉を吐き出した上條を正紀は振り返り、眉を下げる。
「その目的で君に確かに近付いた。上手く行けば、佐木家自体に復讐出来るとも思った」
震える声にも遠也は同情することなくただ冷たい眼で彼を見つめた。
「しばらくここに来て、君の様子を伺ってた。佐木家の人間だ、きっと金にがめつい嫌な男だと思っていた。でも、実際は全然違った」
遠也の頭が良いのは、彼が放課後ずっと図書室にいて誰も読まないような本を読んでいるから。
時々本の整理をする姿を見て、何だと思えば司書官の手伝いをしているようだった。小さい身体で高い本棚と苦戦している姿は微笑ましく思わず苦笑してしまった。
誰かにこの本がどこにあるかと聞かれたら的確に教えてあげていた。自分のイメージする佐木家の人間なら、きっと相手を失笑し冷たい態度をとっていただろう。けれど遠也は違った。
「時々、少し淋しそうに窓の外を見る顔見たら、何か、たまんなくて」
好きに、なってた。
消え入りそうな声でそう言い、彼は茶色い頭をぐしゃりと掻き回す。
「ほんと、ごめん、佐木、ごめんな」
何度もそうくり返す彼を遠也は一瞥し、背を向けた。今度は正紀も止めなかった。


雨が降る。
しとしとしとしと陰気な雨。
憂鬱な雨。


「日向ってさぁ、何で天才と仲良くなったんだ」
例の一件があってから正紀は今まで付き合い難かった遠也と更に一線を置くようになった。遠也のほうも正紀の事を苦手と感じているようで、話しかけもしてこない。正紀から話しかけないとすると、必然的に遠也と彼の会話はなくなる。
それで良い様な気もするし、それでは駄目な気もする。
だから、遠也と一番仲が良い翔にそんな質問をぶつけることになった。性格が反対な彼らが何故。
翔のほうも突然の問いに少し驚いたようで、ちょっと眼を大きくしてから笑う。
「遠也がイイヤツだったから」
「・・・・・・そうか?」
思わず呟いてしまったら、翔の表情が少し険しくなる。
「遠也は、イイヤツだよ。そりゃあ、ちょっと解かりにくいところあるけど」
ちょっとっていうかかなり解かりにくいと思うんですけど。
けれどそれは口には出さず、心の中で呟くに留めておいた。
遠也は冷たすぎる。
この間の上條との一件でそう思った。
翔と違い、誰かを信じる事は絶対にしない。そして、他人を冷たく切り捨てることに躊躇いを持たない。
友達だと自分は思っているが、多分あっちはそうは思っていない。だから何かあれば自分も彼のように切り捨てられるのだろう。
それが簡単に想像できて、遠也に近寄るのが少しだけ怖くなった。
らしくない、そう思う。
イライラするこの気持ちを逆撫でするように今日も雨。いっそザーッと思いっきり降ってくれた方がいいのに、今日もしとしとしとしとしつこい雨。
「・・・・・・・篠田、正紀?」
廊下をぼんやりと歩いている正紀を呼び止めたのはあまり記憶にない声。





今日も雨で図書室は大賑わい。大賑わいで良いのか悪いのか解からないけれど、今日も遠也は一人で誰も手に取らない難しい本を読んでいた。難しいというのは他人の判断で、遠也からしてみれば大して難しい本ではない。
上條はもう姿を見せない。
無意識のうちに遠也はため息を吐いていた。それでも幸せが逃げると笑う彼はもういない。
話し声も聞こえてくる室内に集中出来ず、本を開いて眼で字を追っているものの、内容がまったく頭に入ってこない。
いい加減帰ろうか。
ガタン、と普段は椅子を引いた音が室内に響き渡るのに、今日は湿気と多い人間に吸収されたのかその場だけの音になる。
本を開くだけ開いて一緒に来た友人との談話を楽しむ人の間を通り抜け、一番奥の本棚へ直行した。
本を返すのと、新しい本を見つけるため。
流石に難しめの本ばかりが並ぶこの奥までは人は来ないらしく、静寂が遠也を迎えてくれた。
とりあえずさっきまで読んでいた本を位置に戻して、次のお目当てを探す。視線を彷徨わせてみたけれど、どれもこれも読んだものばかり。
この列はもう読むべきものはないだろうか。
そう思いながら視線をずっと上に上げると、天井につきそうな一番上の棚に一つだけ覚えの無いタイトルを見つけた。
あれにしよう、と決めたは良いけれど踏み台が無いと届かない。
けれどいつも踏み台が置いてある定位置にそれが無いということは、普段ここを活用しないどこぞの馬鹿が使いっぱなしで戻していないということだろう。
無駄だと思いながらも腕を精一杯伸ばしてみたが、やはり本までは後20センチばかりの距離がある。
駄目か。
はぁ、とため息を吐いて後日にしようと思った、その時。
「これ?」
視界の端から腕が伸びて、遠也が目当てにしていた本をあっさり棚から引き抜いた。

思わず、はっとしていた。

顔を上げると茶色くて短い髪に高い身長。でも、胸元にあるのは緑色のネクタイ。
怪訝に首をかしげながらも本を差し出してくる彼は、正紀だった。
「篠田・・・・・・ですか」
「はい、俺ですよー」
本を受け取りながら遠也は小さく息を吐く。その意味なんて気付きたくもない。
落胆なんてしていないはずだから。
本を強く握り自分を保とうと、遠也は友人に話しかけた。
「珍しいですね、篠田が図書室に来るなんて」
「そうでもない。意外と俺は読書家だぞ」
「・・・・・・漫画や雑誌は読書には入らないと思いますが」
「佐木」
珍しく正紀に名字で呼ばれ、遠也は本を開こうとしていた手を止めた。
自分の軽い嫌味に怒りを感じたのか、それともこの間の事を咎めに来たのか、一番気の合わない相手の考えは解からなかった。

「佐木、上條が死んだ」
雨音が大きくなった気がした。
「・・・・・・は?」
雨の音が大きくてきっと何か聞き間違いをしたのだ。そう、思った。けれど正紀は真摯な眼を細め、ぐっと口元を引き締める。
「・・・・・・ほら、志願兵募集してだろ。20万のやつ。お前に会う前に志願してたらしいけどあの後すぐ行って、戦死したって」
これ。
正紀は手に持っていた茶封筒を遠也の前に差し出し、遠也もそれを受け取る。中を見るのが少しだけ怖かった。
「元々、妹の治療費に使うつもりだったらしいけど、コレお前に渡して、自分の気持ちを信じて貰おうとしてたって・・・・・・振られるだろうけど、信じてもらいたいって言ってたらしい」
なんと言うか、予想通りだった。
正紀の説明を聞きながら封をあけると、中には茶色い紙が数十枚・・・・・・おそらく、20枚あるはずだ。
「廊下歩いていたら、上條の友達に呼び止められて。俺、そいつに前に上條がお前に怨み持ってるって聞き出してたから、顔覚えていたみたいでさ」
「そう、ですか」
正紀の説明も頭に入ってこなく、そう返すのが精一杯だった。
雨が降る音が聞こえる。
彼と初めて会った日も、雨が降る音が聞こえてきた。
しとしとしとしと。
静かで冷たくて光を奪う雨。
彼が死ぬその時もきっと雨は降っていただろう。
「雨・・・・・・」
「ん?」
視線を上げた先には曇硝子。まだ日が高い時間だというのに外は暗い。


「雨が降らなければ、良かったのに」


ぽとりと生暖かい雨粒が落ち、じわりと茶色い封筒を濡らした。

「佐木?」

正紀の声が遠くに聞こえるほど、雨音が強くなり耳を塞ぐ。
やっぱり、雨は嫌いだ。
憂鬱な気分だけ残して、もうすぐ梅雨が明ける。

季節はもうすぐ、夏。




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