一度、狼司に問われた事がある。お前は、蒼龍に恋をしているのかと。
 恋という感情は知らない。意味を問えば、相手を誰にも渡したくないと強く思ってしまったらそれは恋だといわれた。それならば、自分のこの感情は恋などではない。
 彼に対してそんな感情を抱くなど、愚かなことだ。彼が自分一人のものになる日なんて来るわけもなく、そんな事を望む資格さえ持ち合わせていなし、持っていない。
 自分は、皆に愛され皆を愛す彼を尊敬しているのだから。
 尊敬、敬愛、信頼、傾倒、崇拝。彼は一体どの言葉を好むだろうか。
 けれど、彼とはこんな行為は出来ないな、と密かに思い、熱に浮かされながらも苦笑する。傾倒している相手とここまで密接に肌を寄せることなど、許されるわけがない。子どもも出来ないのに、無意味だ。それに、恐らくは自分よりこうした行為を得意とする小姓はいる。自分よりはその小姓を相手にしたほうが彼にとっては良いだろう。
 でも。
 さらりと顔に落ちてきた黒い長い髪の向こうにある嵩森の少し険しい顔に手を伸ばし、その頬に触れる。
 蒼龍の温度に一度くらい触れられるのなら……その日に死んでも構わないかもしれない。
 きっと、一度触れたら欲が出てしまう。もっと触れたい、触れられたいと思った感情はきっとそのまま彼を自分だけのものにしたいという方向に流れてしまうだろう。もしそんな事があったら、彼の前から姿を消してしまおう。それが一番良い。
 これが、恋慕と呼べるのかどうかは、解からないけれど。
 あの日、あの二人が口を寄せたのを見てしまった日、自分の中で湧き上がった感情は間違いなく千草への妬みだった。そしてそれはきっと今でも続いている。
 兄弟という関係を持つのに、更に恋人という関係も持った、彼に。

 恋かどうかは解からない。
 けれど、恋が罪だということは知っている。


「……こっちだ、秀穂」
 嵩森に誘導され、秀穂は一人蒼龍の宮の奥へと足を進めた。小姓見習いだった時は足を踏み入る事は決して許されなかったところだ。それだけでも、胸が高鳴る。
 昨日、とうとう秀穂の処遇が嵩森から伝えられた。小姓への昇格と、使える主が蒼龍に決まったと。
 本来なら他に蒼龍に仕えることに決まった小姓も共にここを歩くはずなのだが、今回蒼龍の小姓に決まったのは秀穂のみだと嵩森に言われた。理由は、今まで多くの小姓が彼の配下になり、増えすぎたからだと言っていたが、他の見習い達が不穏な噂がある蒼龍の元では働きたくないと言い出したからだろう。名家の御曹司を無理に働かせば、どんな竹箆返しが来るか分かったものではない。
 だが、優秀な秀穂を蒼龍の元で働かせるという事にも大分論議が割れたらしい。そこは、嵩森が粘ってくれたおかげだ。礼を言えば、それを言うのはこっちの方だと言われた。
「他の小姓は蒼龍様に近寄ろうとはしない」
 青い廊下を歩いていると今まで静かだったのだが、段々と人の声が聞こえてくるようになった。だが、ただの人の声ではない。何やら騒がしい、浮かれた人間の声だ。それに嵩森も気付いたのか、眉間を寄せ、進路方向を睨み付けた。
「……すまないが、急ぐぞ」
「はい」
 足を速めた嵩森に秀穂も小走りでついてゆく。そして、たどり着いた青い扉を嵩森はすぐに開け放つ。扉を開ける時は一声をかけるようにと習ってきた秀穂には信じられない光景だったが、中の光景もまた信じられないものだった。
 騒がしい人の声はこの部屋からだったのだ。何人もの女性や少年がその部屋で騒ぎ、その中心には真っ白い髪を持つ青年がいる。この宮で白い髪を持つのは彼しかいない。
 蒼龍だ。
 記憶より大分大人になった彼は、青いグラスに入った液体を飲みながら、膝に頭を置く女のその黒髪を愛しげに撫でていた。だが、嵩森の登場に騒がしかった声は止み、蒼龍の顔は厳しいものへと変貌する。記憶にある穏やかな彼とは全く違う、その粗野で荒々しい空気に、ただ目を大きくするしかなかった。
「……蒼龍様、今は仕事の時間ではございませんでしたか」
 嵩森は努めて冷静に彼の行動を諌めるが、それを青年は低い声で笑い飛ばした。
「仕事?俺にどんな仕事があるって言うんだ。そんなもん千草にさっさと回せ。出来が良い弟がいると楽で良い」
 は、と鼻で笑い、彼は犬を追い払うような仕草で手を振るが、それを嵩森は見咎める。
「そういうわけにはまいりません。蒼龍様……このままでは本当に弟君にその地位を奪われてしまいます」
「俺は別に構わんがな。皆それを望んでいるのだろう?」
 くすくすと笑いながら手に持つグラスの中の液体を飲み干し、歪んだ笑みを嵩森へと向ける。それに嵩森が眉間を寄せたのを見て、さらに彼は膝にいた女の着物の中に手を突っ込み、その豊満な胸を揉む。彼女はそれに色めかしい声を上げた。
「おい、嵩森。無粋だぞ、下がれ」
「……蒼龍様!」
「うるさいぞ。煙草も駄目酒も駄目、毎日毎日退屈な生活を我慢している俺の身にもなれ。お前は俺の唯一の楽しみを奪う気か?」
 女を腕に抱きつつ、嵩森を鋭く睨みつける蒼龍には何もいえず、彼は押し黙った。それに勝利の笑みを浮かべた時、蒼龍はようやく嵩森の傍らにいる少年に気付く。野獣のような目を細め、その姿を捉えていた。その目に、秀穂は唇を思わず引き締めていた。
「嵩森、それは?」
 白い着物に蒼い袴は小姓の服装だ。彼を顎で示すと、嵩森は「ああ」と彼を振り返る。
「新しい小姓でございます。今日から貴方様のお世話を」
 新しい小姓が一人しかいないことに蒼龍も目を細める。いつもなら数人紹介されていたのだが、今回は痩せっぽちの子どもが一人だけ。その理由は容易に想像出来る。は、と腹の方から嘲笑った。
「そうか。お前も難儀だな?俺みたいな馬鹿に仕える羽目になるなんて。さてはお前、見習いの中で一番出来が悪かったんだろう」
 低く笑う彼に、秀穂はその場に膝をつき、頭を下げた。
「秀穂にございます。本日から、蒼龍様の身辺のお世話をさせていただきます。よろしくお願い申し上げ」
「ああー、良い良い。堅ッ苦しい挨拶は抜きだ。それでお前は何が出来る?」
 彼は頭を下げていた子どもに近付き、その顔を力任せに上げさせる。突然の近距離に僅かに動揺したが、秀穂は勤めて冷静に返す。
「何、とは」
「そうだな……お前の床での得意技だ。どうせ、嵩森に充分しこまれてきたんだろう?見せてみろ」
「蒼龍様!」
 ちろりと嵩森を見上げた蒼龍に、彼は非難めいた声を上げ、周りはくすくすと笑いを漏らす。だが、そんな二人のやりとりを他所に秀穂は得意技、と小さく呟いた。
 しばし考えてから目を上げると蒼龍と視線が合った。
 何を考えているのか、読めない瞳だ。けれど、今自分は試されているらしいことは分かる。
「……そこの女を借りてもよろしいでしょうか」
 先ほどまで蒼龍の膝にいた女を眼で示すと、嵩森が驚いたように息を呑み、蒼龍は面白げに頷いた。
「いいぞ。優しくしてやれ」
「……優しくできるかどうかは、分かりません」
 立ち上がり、その女の正面まで歩けば、彼女は意味深に微笑み、「眼は瞑っておいた方がいいの?」とからかうように聞いて来た。
 そんな彼女に腕を伸ばし、細く柔らかい手を掴み、そして次に聞こえたのは女の悲鳴だった。一瞬にして床に体を叩きつけられた彼女の引き攣った悲鳴と、そんな彼女の腕を容赦なく捻り上げる少年に部屋の温度が一気に下がる。
「これが私の得意技で御座います、蒼龍様」
 女の背を片足で踏みつけ、蒼龍を一瞥してからさらにその足に力を入れる。折れる、折れると泣き叫ぶ彼女の腰紐の中に隠されていた小刀を抜き、それを床に投げると硬質な音が響いた。それには流石の蒼龍も表情を強張らせる。
「何故、ここにこのような物を持ち込んでいる!」
 本来、宮に武器を持ち込んで良いのは許可をされた者のみだ。嵩森の怒声に女は悔しげに眉間を寄せ、紅い唇を噛む。
 彼女を嵩森に引渡し、秀穂は蒼龍を見上げた。組み伏された女を見た彼の眼は、細められるだけだったが、秀穂と目が合い眉間が寄り、厳しい表情になる。
「これくらいでいい気になるな。主を身を挺して守ることは当然のことだ」
「仰るとおりにございます。ですが、見慣れぬ者をここに入れるのはお止めくださいませ。このようなことがまた無いとも限りませぬ故。女が欲しければこちらでご用意致します」
「……お前が?」
「それも小姓の仕事でございますれば」
 頭を下げた秀穂のすぐ横で、硝子が割れる音が聞こえた。蒼龍がそこに投げつけたのだろう。
「気分が優れん。寝る」
「蒼龍様!」
 嵩森の制止も聞かず、白く長い髪を揺らして彼はさらに向こうにある部屋へと一人入って行った。
 バタン、と大きな音で閉められた扉が開く気配は無く、嵩森は相変わらずの態度にため息を吐く。
「すまないな、秀」
「……いえ」
「昔は、あのような方ではなかったのだが」
 尊敬されていた昔の事を思い出し、嵩森はどこか淋しげに目を細めた。そんな彼に秀穂は片手を伸ばし、軽く微笑む。
「そのような顔をなされますな。皆に慕われた蒼龍様も、今のあの方も同じ方ではございませんか」
「……秀」
「仕事を教えてくださいませ、嵩森様。私は何を致しましょう?」
 彼と会って、幻滅などしなかった。むしろ、久々の対面に心はうち震え、成長したその姿に目を奪われた。変わらない白い髪に、真直ぐな黒い瞳。間違いない、彼は、彼だ。
 自分が全てを捧げると決めた、彼。
 彼を守る為なら何でもすると決めたのだから。
 悔しげにこちらを睨みつける彼女を冷たい眼で見下し、小さく息を吐いた。自分に絡みつく殺気は、彼女からだけではない。
「……嵩森様、後3人程」
「そのようだな」
 大勢の男女の中から感じる殺気に嵩森も気付いていた。蒼龍を退室させたのは大正解だったようだ。
「嵩森様は帯刀されているのですよね」
 まだ刀を持つ事を許されていない秀穂の帯には武器は刺さっていない。だが、嵩森の腰にはいざという時のそれがあった。平和な宮ではそれは飾りのうちになっていたが、今はそれを使って貰おう。
「秀穂、いけるか?」
「はい。修行の成果、お見せいたしましょう」
 まさか初仕事がこんな内容だとは。
 苦笑しながら、秀穂はその殺気に向かって足を踏み出した。

 ……一体、何なんだ。
 薄暗い閨の中、蒼龍は天井をぼんやりと見上げ、新しい小姓と言われた少年の瞳を思い出した。
 この数年、人々が自分を見る眼が徐々に変わっていったことは、知っている。そうなっても仕方ない行動をとっているのだから当たり前だが。小姓たちも自分を疎ましい目で見るようになり、嵩森でさえたまにどこか淋しげな眼で自分を窘める。
 なのに、あの子どもの眼はどこか嬉しげだった。あんな目を向けられたのは久々だ。
 ただの、阿呆か。それ以外有り得ない。
「蒼龍様ぁ……」
 隣りで裸で寝ている少年が甘い声を上げて擦寄ってくる。彼は、あの小姓が自分にあてがってきた人物だ。男と女、どちらがよろしいでしょうかと聞かれ、戯れに男と答えればその夜閨にはこの少年が来た。
 てっきり、あの小姓が来るかと思ったのだが。
 たまにいたのだ、体を使い、取り入ろうとする小姓が。彼もそのタイプかと思ったのだが、予想が外れ蒼龍は内心困惑していた。
少年の滑らかな肌を手の平で楽しみ、蒼龍は彼を自分の下に組み敷く。この少年の何かを期待する瞳はあまり好ましくないが、顔は確かに嫌いではない。むしろ好みの域に入るだろう。これで趣向と違った相手を寄こされた時には彼をどう詰ってやろうかと考えていたのだが。
 あの少年は、出会って数刻しか経っていない自分の趣味をすぐに見破ったとでも言うのか。
 いや、恐らくは嵩森の入れ知恵だろう。
 ふん、と彼らの浅知恵を鼻で笑い、甘く強請ってくる少年の足を抱え上げ、肩に乗せた。そして今すぐにでも交わろうとした、その時。
「蒼龍様、御起床の時間にございます」
 御簾の向こうから聞こえてきた声に蒼龍は度肝を抜かれた。あの小姓の声だ。性交の声が聞こえていただろうに、何故こんな無粋な声がけをしてくるのだ。
「お前……下がれ」
「……お目覚めでございましたか」
 淡々とした声に、何故自分がこんなに焦らなければいけないのかと、いっそ怒りさえ覚える。その怒りに任せて思い切り腰を進めると、思わぬ衝撃に少年が甲高い声を上げた。
「湯浴みの支度が整っております」
 しかし、彼は動揺することも無く言葉を続ける。聞こえないのか?と挿入の力を強めてさらに高い声を上げさせるが、彼の平坦な気配は変わらない。
「ぁんっ!ふか……っ!ふかいぃ!こんな……っ」
「湯浴みが済みましたら、朝餉の準備も整っております」
 どこで学んできたのかと呆れてしまうような喘ぎを上げているのに、まるでそんなもの聞こえないような口ぶりだ。
 それどころか、絶頂の悲鳴を上げた少年の悲鳴に、待ち構えていたように御簾が上げられる。
「……御済みなりましたか」
 顔を覗かせたのは、冷静な眼のあの小姓。確かに行為自体は終わったのだが、あまりの事に唖然とする。
「あ、や……待って。もっと、ねぇ」
 夢見心地に蒼龍が去るのを拒んだ少年の手が、宙を漂ったが、それに蒼龍が答えるより早く秀穂の手がそれを叩き落とした。
「蒼龍様、御支度を整えて下さいませ」
「おい、ちょっと!僕はまだ」
 邪魔をされた少年が身を起こし、怒りの声を小さな背にぶつけたが、それを秀穂は眼の端で睨む。
「お前の下半身事情など知らん。お前の役目は終わり。これ以上は越権行為だ」
 その冷たい声には少年も目を見開き、しかし自分より幼い子どもに厳しい声を浴びせられたのに怒りを覚えたのだろう。
「お前……何様のつもりだ!」
 彼が手を上げた瞬間、蒼龍は子どもがその腕を捻り上げると思った。この間見せられた腕前からして、貧弱な小姓など組み倒すのは簡単だ。
 しかし、秀穂はその平手を交わすことも避ける事もせず、頬に受けた。
 ぴしりという鋭い音が響き、寝屋が静まる。
「……気が済みましたか」
 秀穂は静かな声でそう言い、硬直した彼を置いて、蒼龍を連れ外に出る。新鮮な空気に一つ息を吐くと、背後にいた蒼龍もため息を吐いた。
「人の楽しみを邪魔するのは、越権行為にはならないのか?」
「なりません。時間どおりに貴方を起こすのが私の仕事ですから」
 秀穂は自分の仕事をしただけで、仕事外の時間となってしまったのはあの少年の方。そこは融通を利かせないのかとも思うが、秀穂の言い分も道理が通っているような気がしたので、蒼龍は彼の前を歩き出した。
「まぁ良い。湯屋に行くぞ」
「はい」
 思ったよりあっさりと従ってくれた蒼龍に少し安堵し、彼の後について行った。前を歩く蒼龍の長い髪がさらりと流れる。あの頃は短かったが、これは恐らく地毛だろう。背中の半分までの長さのそれは朝日に銀色に光っていた。
 光の温度で色が変わる髪だ。前に月の下で見たそれは蒼を纏っていた。
「熱い」
 湯屋でその広い背に湯をかけると小さく咎められる。
「申し訳ありません」
「全く……。お前はとことん気が利かないな」
 不機嫌を露わにした舌打ちに頭を下げ、今度は湯を冷ましてから背にかける。今度は何も言われなかった。
 後ろからそっと彼の腕を見ると、いくつかの注射痕が残っていて痛々しい。彼の体に関しては嵩森からいくつも注意を受けた。血を流させてはいけない、寒いのも熱いのも駄目、薬はきちんと時間通りになどなどだ。
「それで」
 そこで唐突に蒼龍が口を開いた。何事かと手を止めれば、彼がくるりと振り返る。
「それで、お前は一体何が望みだ」
「何のことでしょうか?」
「とぼけるな。昨日寄こしてきた相手は何だ」
「お気に召しませんでしたか?」
 きょとんとする秀穂の眼に蒼龍は言葉を詰まらせる。確かに好みの顔ではあったのだ。だが、それを白状するのは少々癪で。
「俺はてっきりお前が足を開いてくるのかと思ったのだが」
「蒼龍様は私を抱きたいと思われたのでしょうか?」
「……そういう意味ではない」
 悔しげに言う彼に秀穂はくすりと笑う。
「分かっております。私は貴方様の御相手をするには少々御好みより幼いでしょう。それに、私はあまり性技に精通しておりませんから」
「ならば、歳を重ねたらその体、使うつもりか?」
「その頃には貴方様にも決まった御相手が見つかりましょう」
 すでに何人か側妃を娶っている彼の正室がその頃には見つかっているはずだ。もしかしたら、子どもも一人二人出来ているかもしれない。
 あまりにも冷静な態度に蒼龍はここまで来ると流石に相手が只者ではないことを察した。今まで蒼龍が何人もの小姓達に手酷い態度を取ってきたことを彼は知っているのだろうか。それで自分の近くに残ったのは嵩森だけだということも。
「……止めないのか、お前は。俺が男や女と遊ぶのを」
 初めのころは嵩森も事あるごとに止めてきて、今でも思い出したように小言のネタにする。けれど、目の前の少年はそれを止めない。
「蒼龍様の御年齢であれば、そうした遊びに耽るのも一種健全かと。特に女性を御相手になさるのは推奨こそすれ止めることなど」
「……お前は、変わっているな」
 今まで相手にしてきた小姓達とは少し違った空気を持つ彼を蒼龍は軽く笑った。特に感心したわけでもない。これはただの感想だ。
「……一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
 そこで、秀穂は手を止めた。他愛もない話を続けていたからか、蒼龍の雰囲気もどこか柔らかくなっている。なんだ、と穏やかな声で返され、続けた。
「昨日の刺客のことですが」
 彼らはすでに昨日のうちに朱雀の武官が始末をつけたと、今朝嵩森から聞いた。結局、誰からの命令だったかは最後まで口を閉ざしたままだったらしい。たとえ彼らの主人を突き止めたとしても、どうせまた別な人間が刺客を送ってくる。だが、それより気になったのは
「貴方は彼らに命を狙われている事、気付かれていたのでは」
 瞬間、蒼龍の背がわずかに揺れた。ほんの少しの動きだったが、それが肯定を指していると分かり、秀穂は目を伏せる。
「……何の事だ」
 だが、彼は言葉では否定をした。
「見当違いならば良いのです。彼らは昨日のうちに処罰を受けたそうです」
「……処遇は」
「皇子の命を狙ったのですから、極刑は免れません」
 極刑と聞き、突然彼は秀穂を振り返った。
「まだ、彼らは生きているのか」
「いえ……先程申した通り、昨日のうちに」
 そう聞いた瞬間の蒼龍の落胆振りに秀穂は驚かされた。そうか、と力ない声で呟き、再び背を向ける。今頃、ゴミのように捨てられている彼らを思い、まさか嘆いているのだろうか。
「貴方様の命を狙ったのですから、当然の処遇かと」
 釘を刺しておくが、彼から返事は無かった。しばらく無言で彼の背を拭いていると、不意に蒼龍が動いた。
「……彼ら、と言ったな。あの女だけではなかったのか」
 蒼龍が確認したのはあの女一人だけだった。あの後、嵩森と二人で対処をしてみれば、3人程自分達に切りかかってきた事を思い出し、秀穂は頷く。
「はい。他に3人程。私と嵩森様で取り押さえました」
「お前と……?」
 蒼龍は再び小さな子どもを視界にいれ、彼の姿を確認した。突然の視線に子どもは驚いたように目を見開くが、そうした隙のある表情を見せると彼もそれなりに年相応だった。普通ならば、小学校にでも通い始め、同年代の友人とはしゃぎまわっている年齢だ。色素の薄い髪の色が彼を年齢より幼く観せるが、袖から覗く細い手にはいくつか細かい傷痕があった。それを思わず見咎めてしまう。
「そのようなもの朱雀の武人共に任せておけば良いではないか。何故お前のような子どもが」
 普通ならば、彼こそが大人から守られるべき立場のはずだ。なのに、彼を危険な場所に立たせる嵩森に蒼龍は苛立ちを覚える。しかし、秀穂の方は蒼龍の怒りが理解出来ず、困惑する。
「それは、私自身武術の嗜みがあるからで」
「だからと言ってお前みたいな子どもが剣を持つのか。俺の盾になるとでも言うのか」
「当然です。貴方様の為ならこの命、惜しくはありま」
 だん。
 突然、蒼龍が木の壁を殴りつけ、秀穂の言葉を止めさせる。思わず息を呑んだ子どもを彼は一瞥し、湯屋から出て行く。
「蒼龍、さま?」
 まだきちんと体も拭いていないのに、適当に着物を着てさっさと出て行く彼に、唖然としつつも慌ててその後を追った。
「お待ち下さい、蒼龍様……!」
 彼の体からぽたぽたと落ちる雫は冷たい。このままでは体を冷やしてしまうと手を伸ばそうにも、早足で歩く彼の後を追うのが精一杯だった。
「蒼龍様……!」
 途方にくれたところで、廊下の向こうを歩く嵩森の姿を見つけ安堵する。彼なら蒼龍を止められる。
 しかし、何故か蒼龍は嵩森を見つけその足を速めた。彼がこちらに気付き、驚きに目を見開いたその時、その顔に蒼龍は平手を打ちつける。
「蒼龍様!?」
 その激しい音に声を上げたのは秀穂で、嵩森は突然の事にただ茫然としているような顔だ。そんな彼を、蒼龍はただ睨みつける。
「嵩森……お前、一体小姓にどういう教育をしている」
 激しい怒りをぶつけられても、流石と言おうか嵩森の眼は平静だった。
「……秀穂が何か失態を?」
「そいつ、俺の為なら命を投げ出せるそうだ」
 彼は一度秀穂へと目をやり、鼻で嘲笑してから、再び嵩森を睨みつける。
「いつから小姓は軍人になった?下らん教育方針だな、嵩森」
「彼は、貴方に忠義を尽くすと口にしただけでございましょう。一体何がそんなにお気に召しませんか」
 淡々とした嵩森の言葉に蒼龍は眉を上げた。幼い子どもの忠義など、大人から強要されたものに過ぎないだろう。それは彼自身の意志によるものではない。そして、秀穂にそんな忠義を叩き込んだのはこの嵩森だ。
「忠義など一番信用ならん。嵩森、俺がお前を側に置いているのも、お前が俺を踏み台にして出世しようと目論んでいるからだ。俺ならいくらでも利用するがいい。だが、こんな子どもの命まで出世の道具にはするな!」
 再び手を上げようとしたその腕を、慌てて秀穂は掴み、止める。それに彼ははっとしたように振り返り、その秀穂を捕らえた眼はどこか悔しげだった。
「お止め下さい、蒼龍様。嵩森様は何も悪く」
「お前、俺の宮から出て行け」
 けれど、彼の口から出たのは冷たい一言だった。
 秀穂は一瞬その言葉の意味を理解出来ず、ただ頭が真っ白になった。何だろうか、この足が震えるまでの恐怖は。息も上手く吸えていない気がし、ただ目の前の厳しい顔を見上げるしか出来なかった。
「もう二度と俺に近寄るな。新しい小姓もいらん!それと、そんなに俺の身辺が心配なら朱雀の奴らを侍らせておけば良い。良いな、嵩森」
 そう言い放ち、彼は自室へと大股で去って行った。残された嵩森は戸惑いがちに返事をしてから、ただ茫然と廊下に立ち竦む秀穂を見やる。
「……秀、すまない」
 茫然と立ち尽くしてる少年の心情は想像し難い。憧れていた蒼龍にたった1日で解雇されてしまったのだ。その衝撃は大きいだろう。だが、蒼龍の命に背く事は出来ず、嵩森はそういうしかなかった。
 だが、どことなく予感はしていた。自分が秀穂を送り込めば、その思惑に気付いた蒼龍の怒りに触れるだろうと。そうなったら、すぐに蒼龍の前から秀穂を離すつもりだった。これ以上彼を使い、主の怒りに触れるのは賢くない。
「……嵩森様、これを少々お借りします」
 次に何を言えば良いかと考え始めた嵩森の腰に手を伸ばし、そこに差してあった守り刀を引き抜いた。あまりの速さに嵩森はそれを理解出来なかったが、秀穂がそれを手に走り出したのにようやく我に返る。
「秀穂!?」
 恐らく彼は唐突な解雇を突きつけられた自分が乱心したと思ったのだろう、自分を呼ぶ声が悲鳴に近かった。
 冗談じゃない。
 本当に、冗談じゃない。
 剣を手に広い廊下を走り、たどり着いたのは彼の閨だった。多分、彼はここに戻ってきたはず。障子を思い切り開け放てば、先程帰らせたはずの少年が座る蒼龍の背に抱き付いているのが見え、さらに苛立ちが募る。
 二人は自分の姿に一瞬驚いたように目を大きくしたが、蒼龍は面倒臭げに、少年は当て付ける様に蒼龍に擦寄っていた。それに、思い切り眉間に皺を寄せてしまう。
「蒼龍様」
「何だ、お前はもうクビだと」
 その時、蒼龍が秀穂の幼い手に握られている剣に目を留め、その目を細め、口元を上げた。
「……俺を、斬りに来たか?」
 面白げに呟いた彼の横にいた少年は、秀穂の手にある剣を見て甲高い悲鳴を上げた。男のくせに、まるで女のような反応だと、秀穂は彼を一瞥し嫌悪を抱く。だが、そんなこと構ってはいられない。
「私の名前は、お前じゃありません。秀穂と申します」
 気にかかっていたのだ。彼は、自分の名を今まで一度も読んでいない。
「私は、貴方に名を付けて頂き、貴方に創られた人間です。お忘れですか」
「……知らんな、そんな事」
 その冷たい答えに唇を噛むしかない。
「では、あの約束も?」
 震える声に蒼龍は目を上げた。けれどすぐに、その眼は伏せられる。
「知らん」
 その返答に衝撃は受けたが、それを堪えるように秀穂は目蓋を強く閉じ、開いた。
「そうですか。しかし、約束は約束。私はそれを完遂するまでここにいます」
「……何?」
 怪訝な視線を向けてきた彼の前に、持ってきた剣を差し出し、頭を下げる。
「嵩森様からは、己が結んだ約束は何があっても破るなと学んで御座います。もし、貴方が私を邪魔だと思うのであれば、これでいつでも殺して下さいませ」
 そこでようやく追いついた嵩森が部屋の様子を知り、息を吐いた。秀穂に限って彼を手にかけることはないだろうとは思っていたが、何か間違いがあっては困る。だが、主に剣を差し出し、己を殺せと告げた子どもには瞠目させられた。この少年は大人の暗い思惑で操るには真直ぐすぎる。
 そこに確かに立ち、顔を上げた少年の背は、真直ぐに伸びていた。
「私は貴方に創られた人間です。生かすも殺すも、どうぞ貴方の御自由に」
 それを突き出すように手を揺らせば、冑金についていた飾り鈴が細く鳴く。
「私を生かしてくださいますのなら、必ずや貴方のお役に立ってみせましょう」


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