「お前は少し行動が過激すぎる」
「……申し訳ありません」
 勿論、剣を持ち主の元へと返した秀穂はその後嵩森に叱られた。その後もしばしば釘を刺すようにこのことを言われ、嵩森がどれほど蒼龍を心配しているのかよく分かる。
「まぁ、私もお前が首にされるのは少々困るから良かったがな……」
 結局あの後、蒼龍は「そんなに俺の側がいいならいればいい」と素っ気無く言い捨て、解雇はされずに済んだ。それに安堵していた秀穂にとっては嵩森のため息の意味など正直どうでも良い事だったのだが、一応「すみません」とは謝っておいた。
「蒼龍様のお側にいられるようになり、少し、浮かれておりました」
「……あれがお前の浮かれ方なのか」
 それは何だか少し怖いような気がするが、恐らく秀穂は本心を告げただけだ。だが、その真直ぐさが今の蒼龍には痛いのだろう。困惑しているのが見て取れた。
「全く、本当に殺されたらどうするつもりだったんだ」
 剣を己の腰に差しなおしながら彼は呆れたようにため息を吐く。が、それには軽く首を横に振った。
「蒼龍様は俺を殺したりはしません」
 そこは少し打算的だった、と秀穂は苦笑してしまう。
「あの方は、御自分を襲った人間さえ哀れむ方です。そんな方が俺を殺したりはしません」
「……優しい、方だからな」
 嵩森もそれに同意し、小さくため息を吐く。上に立つには少々彼は優しすぎる。そんな嘆きも含んだ一言だった。
「ところで、嵩森様。先日の蒼龍様への刺客は誰が放った者だったのでしょうか」
 秀穂はここ数日それが気になっていた。嵩森なら、あの不届き者の正体をすでに知っているだろうと思ったのだが、彼は少し困惑したように眉を下げ、肩を落とした。
「秀穂、今はもう蒼龍様には敵しかいない。この宮の外は彼の命を狙うものばかりだ」
 昔は、蒼龍の名声でそれは押さえられていたが、変わってしまった蒼龍を見て今では自分が王になろうと密かに思う人間が数多くいる。いつ、徒党を組んでこの宮に奮起した者達が押し寄せてくるか解からない。王権継承位を持っている人間は特に、この期に王位を我が手中にせんとばかりの勢いだ。
「今では皆、蒼龍様の死を望んでいる。あの弟君でさえ」
 嘆くような嵩森の言葉には、目を見開いてしまう。
「ちぃ様はそのような方ではございません!」
 思わず声を荒げてしまい、秀穂は慌ててその口に手をやり、気まずそうに嵩森から目を逸らす。
「ちぃ様は、頭の良いお方です。それに、蒼龍様を誰よりも慕っておられました」
「……秀穂」
 千草と秀穂が仲が良かったのは嵩森も知っていた。それでも蒼龍の元で仕えたいと言ってくれた秀穂には感謝しているが、もしかしたら酷な事をさせたのかもしれないとこの時思う。
「では、秀穂」
「はい」
「君は、千草様があの方を殺そうとしている人間だと知ったら、どうする?」
 秀穂の忠誠はどこまで続くものなのか、嵩森も興味があった。意地の悪い問いに秀穂は目を揺らがせる事なく口を開く。
「その時は、我が手で千草様の息の根を止めるまで」
「……そうか」
 揺ぎ無い眼だ。
 何となく、その眼にかかっている色素の薄い前髪を指で撫で、嵩森は小さく息を吐く。
「嵩森様、その……養子の、件ですが」
 そこでたどたどしく秀穂が切り出してきた事にはっと目を見開く。
「承諾してくれるか」
 まさかこんなに早く返事をもらえると思わなかった嵩森は思わず声を上げてしまったが、秀穂はそれに眉を下げ首を横に振る。
「申し訳ありません……矢張り、私は」
 けれど、色よい返事ではないことを察した嵩森はすぐに残念そうに肩を落とした。
「どうして。もし、あの方が王位を継がれるとなったらただの小姓ではあまり側にはいられないぞ」
「……それは、その時になった時に考えます。ただ、今の蒼龍様の御様子を見ていると」
 あの粗野で乱暴な振る舞いを見て、流石の秀穂も幻滅したのだろうか。そう思ったが、秀穂はそれを首を振って否定した。
「今の蒼龍様の周りには敵が多い。本当に蒼龍様をお守りする為に誰かを殺めなければいけないような状況になった時は私が」
 その誰か、とは確実に秀穂や嵩森より位が高い相手になるだろう。もし、自分が誰かを殺めてしまった時に嵩森と同じ家の名字を持つのは危険だった。嵩森自身もただでさえ養育者として責任を追及されるだろうに、それでいて養子にまでしたとなっては言い逃れは出来ない。
 だが、反対に言えばそれが無ければ、いつでも彼の為に命を奪う事が出来るということだ。
「まさか……。例えそのような状況に陥ったとしても私はお前をそんな使い方はしない」
 過激な内容に驚いた嵩森はうろたえて秀穂の頭を撫でたが、首を横に振った。
「違います。俺が、多分我慢出来ない」
 この間の刺客だって殺さなかったのが不思議なくらいだ。うっすらと嘲笑を浮かべた秀穂が、彼と出会ってからどれ程の葛藤を抱えてきたか、恐らく嵩森は気付いていないだろう。側にいられればそれで充分だと思っていたのに、解雇を口にされた瞬間地面が無くなったかと思うほどに動揺した。心臓が壊れてしまうのではないかと思うほどに鳴り、窒息するのではないかと思うほどに息苦しかった。
 自分でも初めて知った、自分は本当に彼に生かされていると。
 一時は、激しく憎しみを感じた相手だというのに。
 今ではすっかり薄れ掛けていた記憶が脳裡を過ぎり、再び自嘲を浮かべて目を伏せた。
「あの方に嫌がられても拒絶されても、私は」
 
 恐らく、自分が生まれた理由が理由だからだと、この熱情を冷めた方向へと解釈した。








 おい、昨日のヤツ。反応ねぇぞ。
 ああ、やっぱり駄目だったか……また最初からやり直しか。
 全く、手間のかかる皇子様だな……ま、これで俺達は喰えてるからいーけど。
 次はどうする?

 ゴポリ。
 水中に大きな気泡が生まれ、上昇していく音にぼんやりと目を開けた。薄黄緑色の液体の向こう、白衣を着た男が二人、手術台の上にある何かを観察し、何かに書き込んでいるのが見えた。部屋は薄暗く、そこだけライトが照らされている。
 よくよく目を凝らすと、台の上に投げ出された細く白い足、そして目を見開いて口を大きく開けたまま動かない少年の顔があった。その苦しみに引き攣った顔にハッとして、身動きの取れない液体の中、恐怖に手をかいた。だが、こちらの覚醒に気付いた彼らはこちらを振り返り、歪んだ笑みを浮かべる。
「次はこいつにしよう」
 次の瞬間、ザリ、という不快な音と共に場面が変わった。
 今度は真っ白い空間だった。冷たい白い石で出来た部屋は潔癖すぎていっそ不快だったと秀穂はぼんやり思い出す。部屋の中央には、手術台がある。そこだけは、おびただしい血の痕で汚れていた。
「……っやだぁ!離せ!!」
 甲高い悲鳴にハッとして振り返り、壁が突然割れたと思えば、そこは重い扉だったようだ。二人の男に腕を引かれやってきた幼い子どもはその大人の手から逃げようと必死に体をくねらせている。だが、その腕から逃れるにはあまりにも非力だった。
「大人しくしろ!」
 一人が子どもの頬を張り飛ばし、その反動で彼の体は手術台の上に転がった。硬い台の上で慌てて子どもは身を起こし、大人二人を怯えた目で見上げる。その双眸は、蒼かった。
「や、いやだ……」
 細い子どもの腕には大量の注射痕があり、青黒く皮膚は変色しているのが痛々しい。どうにか二人から逃れようともがく足は殴られたのか赤黒くなっていた。だが、大人二人はそんな彼をまるで物を見るような視線で見てから、別な台に用意されていた薬瓶と注射器の元へと行き、薄いゴム手袋を付け始める。
「やだ、やだ……!お願い、助けて!」
 子どもの悲痛な叫びにも耳を貸さず、何の薬か解からないそれを注射器へと入れ、それを手に男は子どもに近寄る。そして、子どもの細い腕を取り手早くその針を突き刺した。
「この間の薬は成功品だったらしいな……蒼龍様にもお使いしているのか?」
「いや、まだだ。まぁそう簡単には使えんだろう」
 彼らはいつもそんな世間話をしながら仕事をこなしていた。注射器の内容物は順調に少年の体の中へと注入されていき、それに彼は細い悲鳴を上げ、徐々にその声は薄れて行った。
 そうりゅうさま。
 遠くなる意識の中、何度か耳にした名前だった。自分たちがこんな目に遭っているのは彼の所為なのだと、仲間の誰かが言っていた。そう言っていた彼も、怒りを秘めながら次の日命を落とした。
 絶対に忘れない、忘れてなんてやるものか。
 最も恐ろしく、最も憎いその名前。

 蒼龍!

 憎々しげにその名を吐き捨てた音とそれに息を呑んだ声に秀穂は覚醒する。
 薄暗い視界の向こう、そこにあるのは見慣れた木の天井。そして聞こえてくるのは小姓仲間達の寝息だった。
 今のは、夢。
 いや、夢というより過去の記憶だろう。
 左腕の関節が鈍く痛んだような気がし、そこを捲りあげれば何度も針を突き刺され、黒くくすんでしまった肌がある。それが、夢がただの夢ではないのだとまざまざと見せ付けてきた。額に手を乗せると、汗で湿っている。それにゆっくりと息を吸い、吐いた。
 かつて自分は人間であって、人間ではなかった。
 蒼龍の病を治す薬を作る為に科学庁に造られた“人間”の一人だった自分は人の形を取っていてもマウスと呼ばれ、今でも腕に痕が残るほど注射をされ、時には苦しみ、時には死にかけ、泣いて懇願しても周りの大人たちは自分に手を差し伸べる事はしなかった。実験観察中なのだから、彼らにとっては当然のことだ。だが、その冷たい眼が恐ろしくて、更に泣き叫ぶ事しか出来なかった。何故?など考えたことはなかった。自分たちはこうして苦しむ為に造られた命なのだから、こうされるのが当たり前。これが自分たちの存在の理由だ。
 だが、この実験に使用されたのは自分たちのような造られた人間だけではなかった。他国から連れてこられた捕虜や、政治犯などもこの実験に付き合わされた。知恵を持った人間は、知恵を持たされなかった自分たちに、恐らく自分の死期を悟っていたのだろう、己の知恵を出来る限り与えるのに夢中になった。そして、彼らは自分たちに、この現状に何故?と思える知恵をつけてしまった。
 良い意味でも悪い意味でもこの国の象徴である王室への、罵詈雑言も共に。それにはたまに蒼龍の名も混じっていた。マウス達の憎しみの対象となったその名が。
 自分が苦しむのは彼らの所為。そう、ずっと思ってきたのに。
 何の運命の悪戯か、逃げ出した蒼い双眸を持ったマウスを何も知らずに拾い、名を付け飼うことにした蒼龍が、初めてそれを人間と認めてくれた。
 人が人であることを認められるのは簡単な事のようで、難しい。過去を遡れば、体の形、皮膚の色、民族や出身地、病等で人間として認められなかった人間もいたと、一時期言葉を交わした知識人が教えてくれた。君たちが人間と認められる日がいつか来ると良いと、そう呟きながら彼は目を伏せた。その日は限りなく遠い事をきっと彼は予想していたのだろう。
 けれど、蒼龍はあっさりと人と認めてくれた。あの、蒼龍が、だ。
 オスではなく男と表現され、出される食事は餌と言われない。自分は他のマウスと違い、多少の知識が備え付けられていた所為もあるのだろう、動物としての扱われ方は屈辱的で、人として扱われた時、想像していた以上に嬉しかった。その時の気持ちは、恐らく普通に人間として暮らしてきた者には理解出来ない。理解されてたまるかというのが本音だ。
 数字ではない名前を与えられたその瞬間、自分は人間になれた。本当に今の自分を作り出してくれた蒼龍は、自分にとっては神にも等しい。
 これは、あの時共に苦しんだマウス達への裏切りになるのかもしれない。けれど、自分に初めて与えられたこの慈愛は素直に受け入れたかった。今は彼にその恩を返す為だけに存在している。




「蒼龍様、今宵のお相手は如何いたしましょう」
 閨に一人納まった蒼龍に秀穂は頭を下げて今夜の相手は男と女どちらが良いかを聞く。ここ数日、秀穂が用意した相手は男女共に蒼龍の好みではあったが、性交と結びつかないあまりにも平坦な声での問いに蒼龍は少しうんざりとしたような表情を見せた。しかし、すぐに何か思いついたように笑い、秀穂を手招く。
「今日はお前にしよう」
 悪戯っぽい言い方だったが、秀穂はただ珍しいと心の中で呟いて、御簾を上げ、閨に入り頭を下げた。
「では」
「ちょっと待て……」
 嫌がらせのつもりだったのに、秀穂があまりにもあっさりと承諾したのにはいっそ頭痛を感じ、思わず蒼龍は額を押さえた。
「お前、何故そんなにあっさりとしている」
「……は。仰られている意味がよく……」
「嫌がるとか、そういうのは無いのか?」
「……そういうのがお好みでございましたか。察せず申し訳ありません」
 これは失態だと頭を下げれば、蒼龍は呆れたようにため息を吐く。
「お前は……淡白というか、なんというか……今日は良い。俺だって毎日は流石に疲れる」
「さようでございますか。それではお休みなさいませ」
 それでは自分は用済みだと秀穂は頭を下げ、去ろうとしたがそれを再び蒼龍が止めた。
「……お前、何故そこまで俺に従順だ?」
「私は蒼龍様の配下でございますから」
 控えめに微笑み、頭を下げた秀穂の態度には蒼龍はそれ以上何かを言う気を殺がれてしまった。けれど、ここで負けてはならないと小意地になり再び口を開く。
「お前、見習い時代は一番の成績だったらしいな。それなら千草に仕えればいいものをどうして俺のところへ来た?家の者は反対しなかったのか。それとも、これも何かの策か?そう家に命令されたか」
 荒んだ蒼龍を立ち直らせれば小姓としての功績は大きい。それを狙っての挑戦なのかと蒼龍は問うが、秀穂は首を傾げるしかない。
「私は名字を持ちませんが……」
「はぁ?」
 名字を持たないという事は、どこの家にも属していないということになる。それは王室では不利なことだ。不利、というよりも王室で生活していく事自体が難しい。いや、まず身元が無い時点で門前払いだろう。元々秀穂が身元を持たないのは嵩森から聞いていたが、どこぞの養子になったと思っていた。しかし、秀穂は後見人を持たずに自分の前に座っている。その意味が何を示すのか解からず、蒼龍は思わず声を上げていた。
「お前、よく小姓になれたな……」
 呆れるより感心してしまう。それに秀穂も小さく笑った。
「今のままではそれ以上になるのは難しいと嵩森様には言われています」
「なら、そのうちどこか養子に入るのか」
「私は現状に満足しておりますので、そのような事は考えておりません」
「小姓など、一番面倒な立場だろうが」
 王族達の身の回りの世話を任された小姓は休む暇などあまり無い。そんな日々を我慢出来るのは、小姓の仕事を終えたその後に高い地位を約束されているからだろうに。
「しかし、小姓が一番昼夜蒼様のお側に居られます故」
 さらりと秀穂が言った言葉には流石に蒼龍は硬直した。少年は今、自分が何を言ったのか解かっているのだろうか。秀穂は幼い。……いや、幼いからこそ、言葉が素直過ぎて困る。立場上、媚びられることは日常茶飯事だったおかげで、好意の言葉を告げられてもその裏を疑い、素直にその言葉を受け取る事が出来なかった。けれど、秀穂の言葉は裏が探れず、困る。が、それが本心ならば久々の純粋な好意だ。
「お前は……」
 思わず口元を上げそうになったが、この段階で心を許しては嵩森の思う壺だろう。己の姦計に堕ちた蒼龍を見てほくそ笑む嵩森を想像すると、癪だった。
「……お前と話していても面白くない。寝る」
「はい、お休みなさいませ」
 秀穂は頭を下げ、御簾の外へと出て行った。
 軽い暴言も聞き流せるスキルを持っている彼には流石の蒼龍も驚いた。だが、いつまで持つか。
 げほりと腹から湧き上がるようにして咳が出る。早くこれが自分の命を奪えば良いと思い続けて数年、未だ自分の命の炎は消えない。風前の灯であることは確かだが。
 自分が死んで哀しむ人間はいないが、自分が死んで喜ぶ人間は恐らく多い。これが、蒼龍の現実だった。
 けれど、もしかしたら今さっきまでそこにいたあの小さな小姓は泣いてくれるかもしれない。そんな予感はどこか嬉しく、哀しかった。





「……雪之衛、新しい小姓の一番有能な者が、秘色についたというのは本当か?」
 紅い炎を燻らせる蝋燭が怪しげに揺れる中、炎より紅い唇が静かな声を転がした。真っ黒い熊の毛皮で作った寝台に白い肢体を投げ出している美女は、雪之衛の上司である千草の実母、帝の側室である篝姫だった。篝はまだ30代半ばの美しい体を惜しげもなく晒し、白い肌に妖しい影を作っている。
「あの子に有能な小姓をつけよと、前々からお前には頼んでいたはずだ」
 どこか拗ねたような声色と共に手を指し伸ばされ、雪之衛はそれを黙って受けた。
「……申し訳御座いません」
 するりとまるで象牙のような肌を持つ指に頬を撫で上げられ、ぞわりと背筋があわ立つのがわかる。
「駄目だ、許さん」
 くすくすと彼女は笑い、本気で怒っていないことは明白だった。余裕の笑みだ、と雪之衛は思う。例えどんな小姓が側につこうと、あの蒼龍が帝になる日は恐らく来ない。そう彼女は確信しているのだ。
 いざとなれば、殺せば良いと。
「ああ、早く秘色など死ねばよいのに!」
 そう言いながら彼女は両腕を伸ばし、雪之衛の体を絡めとった。


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