共においで、秀穂。
付けられたばかりのその名前は、どこか高貴で温かく、自分には似合わないような気がしてなかなか差し伸べられたその手を取れなかった。
秀穂。
困ったように彼は笑い、彼から自分の手を掴み、引き寄せてくれた。
彼が、秀穂という人間を構成した張本人。秀穂を作った本人で、彼がいなければ秀穂は出来なかった。
名前は、一番短い呪いだとどこかで聞いたことがある。だが、秀穂にとってこの呪いは心地良かった。
「大分、上手くなってきたな。秀」
笛を奏でていた秀穂は突然の賛辞の言葉に思わず顔を上げていた。初めて千草と出会ってからもうそれなりの時間が立つ。それを自覚するには子どもの顔を眺めるのが一番だ。
幼かった秀穂の顔立ちが少年の階段を登り始めているのにも、千草は微笑みを見せる。
「ちぃ様のおかげです。昔はかなり酷かったですから」
彼にここで笛を見てもらうようになってからもうすぐ2年。秀穂の笛の腕は嵩森が驚くほどになっていた。笛だけではない、舞も歌も、勉学そして武術や秘術もだ。
気付けば秀穂はこの2年で小姓見習いの中で最も有能だと知られるようになっていた。人を寄せ付けなかった刺々しいオーラも今では殆どなく、周りの見習達とも仲良く過ごすようになり、嵩森もほっと息を吐いていた。
「俺は秀に少し教えただけだ。それだけでこれだけ出来るようになったのはお前に才能があったのだろう。それに比べて俺はなかなかお前に勝てない」
はぁ、と大袈裟にため息を吐く千草は、先程の一件を指していた。千草も武術を共に学ぶようになり、その相手を秀穂は勤めているのだが、なかなかその小さな体に触ることもままならず地に伏して終わる。
千草もこの2年で成長し、背も兄にもうすぐ届くところまで伸びていた。兄も、まだ成長期だったのか病弱にしてはかなり背が高いが。
千草はこの2年で心身ともに成長し、その秀才振りはあちこちで称えられる様になっていた。小姓たちも彼を慕い、こうして秀穂が笛を個人的に見て貰っていることは周りには秘密だ。知られたらどんな嫌がらせを受けるか分かったものではない。この数年、自分は随分と強かな人間になったと思わず秀穂は苦笑していた。
「4つも下の子どもに勝てないとはなぁ」
大きくなった手の平を眺め、千草は岩の上に寝転ぶ。
「こればかりは年齢ではありませぬな、ちぃ様」
くすくすと笑う秀穂は出会った頃ならば絶対言わない事を口にする。
「秀……!」
それは言い過ぎじゃないのかと身を起こし、思わず千草は息を呑んでいた。
「ちぃ様?」
てっきり怒られると思った秀穂は首を傾げ、初めて会ったころより幾分低くなった声で千草を呼ぶ。その成長した子どもの顔は整い始めてきて、幼さが消えてきた。
秀穂は知っているのだろうか。彼自身が、周りから美童と囁かれている事を。
伸びた薄茶色の髪がふわりと風に流れ、秀穂はその風に冷たさを感じ茶色い瞳を細める。
「秋風は冷えます。そろそろ宮に戻りましょうか、ちぃ様」
「……秀穂」
立ち上がり掛けたその手を取り、千草は彼を引き止める。
「この間の話……考えておいてくれたか?」
そう、真剣な瞳に覗き込まれ、その話に心当たりがあった秀穂は眉を下げた。つい先日、笛を見てもらった後に彼から見習い期間が終わったら、自分の小姓にならないかと誘われたのだ。
「これは俺が決められることではございませんから」
見習い終了後は、どの小姓が蒼龍や千草、他の王候補達の元で働くかは彼等の小姓頭が決める。苦笑混じりに答えた彼に、千草は顔を輝かせた。
「なら、雪之衛に私から頼もう。お前は今や小姓見習いの中で最も有能な人間だからな。雪之衛もこの間お前の歌を褒めてたぞ」
雪之衛というのは千草の小姓頭だ。嵩森はどこか威圧的な空気を持っているが、彼とは違い穏やかで、しかしどこか緊張させる何かを持つ青年の顔を思い出し、秀穂は曖昧な笑みを浮かべた。雪之衛からは歌を習っていた。この間静かに褒められた事を思い出す。
けれど、その秀穂の曖昧な微笑みに千草は怪訝そうに眉を寄せた。
「嫌、か?私の下で働くのは」
「そういう意味では……ただ、私は」
「兄上に拾われたから、兄上の元で恩返しをしたい……か?」
何度か千草にもその話をしたことがある。その時はまだこうして笛を教えて貰うようになった始めの頃だったからか、彼は笑い「精進しろ」と応援してくれていた。
けれど、その応援する声が最近苦い音になったのは何故だろう。
だが、その理由も何となく察せた。
「最近、兄上はおかしくなられたのに、それでもお前はあれに仕えたいと?」
「ちぃ様、兄君をあれ、などと」
「あれはあれだ!」
秀穂の静かな咎めに彼は激昂し、幼さが消え男らしくなった顔を思いきり顰める。そんな彼の気持ちも解らないでもないから、それ以上窘めるような真似は出来なかった。
王権継承第1位である蒼龍は、今や宮では放蕩者とあちこちで罵倒されていた。本人の様子を見たわけではないからあくまで噂だが、昼夜酒にひたり女をはべらせやりたい放題だと。酒は意地でも嵩森が飲ませないだろうから、それは噂の範疇だ。
昔は頭脳明晰で将来を望まれた皇子だったが、今やその名声は地に落ちた。彼をその地位から失脚させ、千草に“蒼龍”の名を継がせるべきだという声も上がっている。彼の名声が地に落ちると共に、第2位である千草にその賞賛の声が集まったのだ。確かに、千草はなかなかの秀才であるし、芸術面の才も飛びぬけていて、人格者でもあるのだ。彼を育てた雪之衛にも賞賛の声が集まりつつある。
蒼龍の小姓頭である嵩森は、陰で罵倒されようが、ただいつものように彼の世話をするだけだった。どんなに周りから責められようとも、彼は淡々としている。
「兄上は変わってしまわれた。病の事があり、周りがちやほやするのをいい気になって……」
昔の優しかった兄が好きだった千草は悔しげに、けれどどこか憎々しげに舌打ちする。
「ちぃ様は、蒼龍様がお嫌いですか?」
「嫌いだ!あんな者もう兄とは思っていない!」
その言葉通りに、ここ数年彼等が共に庭を歩く姿を秀穂は見ていない。千草の真っ直ぐな感情は、彼の良いところでもあるし、弱点でもあるのだろう。
「なぁ、秀穂。あまりこういうことは言いたくないが、あれはもう駄目だ。どうせこのままなら次の帝は私。お前の才覚なら、宮の重臣にもなれるぞ」
そう熱く語る千草ならば、良い国を造れるだろう。そう確信は出来た。けれど、幼き頃からずっと蒼龍の元で働く事を目標としてきた秀穂は複雑だ。もう、自分の主は決めている。だが、優しくしてくれた千草の誘いを無碍に振るのは良心が咎めた。
「駄目だ。秀穂は俺の下で働くんだからな」
その時、秀穂の頭の上から降ってきたのは黒豹と、その黒豹よりはいくらか小さい白豹を連れた少年だった。
「狼司」
長い髪を一纏めにし、宮の服装にしては軽装な姿の彼もここ数年で背が伸びた。徐々に大人の顔になりつつある彼を見上げると、彼はにかりと笑う。そんな狼司を千草は不満げに見上げた。
「狼司殿か」
「や。千草殿。悪いけど秀穂はウチが貰うからな」
筋肉がついた腕で親しげに秀穂の肩を引き寄せたその行動を千草は見咎める。
「馬鹿な事を言うな。秀穂のような者を獣の巣に送り込めるわけがないだろう。第一、朱雀などに置いたら折角の才覚を潰す事になる」
「獣の巣だと?」
「違うのか。朱雀殿は何人もの美童を囲っておられるとか。まだ見習いである小姓にも手を出されているそうではないか。全く、獣臭くてかなわんな」
着物の裾で鼻を覆う仕草をした千草に、狼司は眉間を寄せ、華紬を招き寄せた秀穂は何度か瞬いた。
「ちぃ様、華紬はそんなに臭いません」
獣臭いという彼の言葉にその白い獣の頭に鼻を寄せたが、感じる香りは日の光の軟らかな香りだけ。それがくすぐったかったのか華紬は身震いし、お返しとばかりに秀穂の頬を舐める。
そんな1人と1匹の様子に、仲が悪いと思われた2人はほぼ同時にため息を吐いた。
「いや、そういう意味ではないんだ、秀穂……」
「なんだ、秀穂……お前小姓の癖に」
千草はこんな秀穂をやはり朱雀などへはやらせない、と思い、狼司はただ呆れるだけで終わった。
彼等が言いたかった事を結局察せなかった秀穂と華紬は顔を見合わせ、首を傾げる。その様子は見ていた2人の笑いを誘った。
千草はその後すぐに仕事が残っているからと言って宮へと戻り、滝には狼司と2人きりになる。正確には黒豹と白豹もいたが。
「千草はもう次の帝になるつもりだな」
そんな狼司のため息に、秀穂は華紬の体を撫でる手を止めた。
「……ちぃ様なら立派な帝になられる」
「龍は?」
伺うように問われたが、秀穂は何も言えなかった。今は言えないだろう、彼が納得出来るようなことは何も。
宮の人間はほぼ皆蒼龍を見捨てた。だが、嵩森は黙ってそんな蒼龍の行動を背後で見守っている。嵩森は、恐らく蒼龍を信じているのだ。
名もなかった自分を拾ってくれた蒼龍と、そんな幼い自分を育ててくれた嵩森は秀穂にとっては大切な人間だった。そんな2人を見捨てる事など自分には出来ない。
それに。
白い懐紙に包まれたものは、先程千草から貰ったものだった。
何だそれ、と狼司は覗き込み、秀穂もその包みを開く。そこには色とりどりの金平糖があった。
蒼と白は、矢張り無い。
「ちぃ様は、ああ言われているが俺に蒼龍様を見捨てて欲しくないのだろうな……」
きっと彼がしつこいくらい自分の小姓になれというのは、断られて安心する為なのだ。まだ、蒼龍を信じている人間がいると。
その金平糖を一つ手に取り、華紬の口の中に投げてやる。彼は嬉しげにそれを咀嚼し、その様子に秀穂は微笑んだ。
「狼司、俺もそろそろ行く。嵩森様に呼ばれているからな」
「嵩森殿に……か。じゃあ、そろそろってことか」
もうすぐ秀穂の見習い期間は終わる。周りの仲間は何人かすでに誰に仕えるか決まっていた。育成係の高森に呼ばれるという事は、もしかしたら自分の処遇が決まったのかも知れない。
風の噂だが、嵩森と雪之衛が自分をそれぞれの主の配下につけたいと言い出していると。秀穂が蒼龍に仕えるか、千草に仕えるか、賭けまでされているというのだから宮は平和だ。
10になったばかりの子どもにしては大人びた横顔を盗み見、狼司は困ったように眉を下げる。
「もしくは……」
そう小さく呟いた音は、秀穂の耳には届かなかった。
「秀穂、終わったら湯殿に行こう」
色々と仕事を済ませていたら夜更け近くになってしまい、見習い仲間に入浴を誘われたがそれはやんわり断った。
「嵩森様に呼ばれているから俺は後で行く」
理由を告げると彼等は目を大きくし、そしてどことなく人の悪い笑みを浮かべた。それに眉間を寄せれば、何故か肩を叩かれる。
「そうか、お前の番だったのか」
「秀穂は嵩森様なのか、私は日積哉様だった」
「私は雪之衛様だったな……お優しい方だった」
口々に言う彼等の様子はどこか熱っぽく、その奇妙な空気にただ眉間に力を加える事しか出来なかった。
日積哉様というと、王権継承第4位浅黄の小姓頭の名前で、彼からは勉学を学んだ。なかなかに頭のいい青年だったと記憶しているが、何故彼の名前が出て来るのだろう、その名を口にした彼はまだ処遇が決まっていないのに。
「……何の、話だ」
静かに聞いたが、彼等は悪戯っぽく笑い、答えはくれなかった。ただ、行けば分かるとそれだけ。ただ、湯殿だけは行っておいた方が良いと、彼らに連れられ、何故か全身を満遍なく洗われてしまう。気持ちの悪い笑みで。
彼等の不可思議な態度はいっそ不快で、秀穂は不満な顔のまま彼の部屋へと続く廊下を蝋燭片手に歩いていた。体だけはしっかりと暖まり、今までにないくらい手の先まで磨かれた。
一体、何なんだ。
辺りは暗闇で、人の気配もせず川の流れる音と虫の声だけが秀穂を包む。不意に顔を上げれば、真っ暗な山が目に入る。あの山の中に、いつも自分がいく滝があった。あの日からほぼ毎日、行かない日はない。
もしかしたら、あの方に会えるかも知れない。そんな希望を胸に。
けれど、あの日以降彼と会う事はなかった。見習い代表として朝の儀式に参列した時くらいだ、彼の顔を見るのは。最近はそれにも彼は顔を出す事は少なく、1ヶ月彼を見ないという事もあった。
嵩森に聞けば、彼の事を教えてくれるかも知れない。
そう考え、廊下を歩く足を速めた。きしりと廊下が軋み、そして障子からもれる光が見える。
「嵩森様、秀穂です」
静かに呼びかけると障子に映っていた影が動く。
「ああ、入れ」
それに、はい、と答え障子を開け、中に入る前に頭を下げる。そして素早く中に入り、膝をついて障子を閉め、再び彼に頭を下げた。
習った通りの一連の動作を終え、顔を上げると嵩森が珍しく自分をじっと見つめていた。今まで自分がここに入ってきた時は、大して気にもせず机に向かって仕事をしていた彼が、だ。
その僅かな変化を怪訝に思っていると、彼は小さくため息を吐いた。
「秀、お前ももうすぐ見習い期間が終わるな」
やはりその事か。
開口一番告げられた事に秀穂は頭を下げ、緊張に固めた声で「はい」と答える。が
「今宵の話はお前の処遇のことではない」
即座に否定をされ、思わず顔を上げていた。許しもなく頭を上げる事は失礼な行為だが、それを嵩森はあえて注意しなかった。
「では、どういった御用向きでしょうか」
しかし、嵩森はその問いにはなかなか答えず、彼には珍しく何か戸惑っているようにも見えた。
「秀穂、君は見習達の中では一際目立った存在だった。あの当時君は誰とも仲良くなろうとしていなかったからな。私にさえどこか警戒していた」
けれど、そう話しているうちに彼は小さく口元を上げ、どこか懐かしげに目を細める。少しほっとした、彼のその和やかな空気に。
「お恥ずかしい限りです」
「だが、ただ1人の前ではその空気を緩めた」
蒼龍様の前では。
そう、繋げた彼の言葉が終わったところで部屋を照らす行燈の蝋燭がちりりと鳴いた。
しばし、沈黙が訪れる。嵩森が何かを聞きたがっているのはその空気で察した。それを待っている間、嵩森の濃い陰影が刻まれた顔を見つめる。蒼龍と歳が近い彼はすでに大人の男の顔だった。出会った頃はまだどこか少年の表情が残されていたというのに、今ではその面影もない。
嵩森には、少し前に婚約者があてがわれたと聞く。だが、彼はまだ当分結婚する気はないと彼女に伝えたらしい。すべては、蒼龍の為なのだと秀穂は気付いていた。
「その心は、まだあるか?」
最近の蒼龍の振る舞いが秀穂の耳にも届いているだろう事は嵩森も分かっている。その上での問いだ。しかし、どこか懇願するような色もあり、それに応えるように秀穂は微笑む。
「心身共に私は蒼龍様に捧げております。何があろうとも、それは変わりません」
彼のためなら赤誠を尽くすつもりだった。それは今でも変わりない。その真摯な態度には流石の嵩森も心が熱くなる。
「……有難う、秀穂」
彼自身、蒼龍の変わりように少なからずも困惑していた。けれど、この幼い子どもの真直ぐな態度に溜まっていたわだかまりを払拭する事が出来た。畳の上にきちんと揃えられている小さな手を取り、僅かに冷たいそれを温めるように両手で包む。
「私はお前を誇りに思う」
家族というものを秀穂は知らない。けれど、もしそうした関係を知っていたのなら、嵩森の事を兄という言葉で表現出来ただろう。優しく微笑まれ、ほのかに胸が暖かくなったその感情が親愛からくるものだろう、何となく気恥ずかしい気分になり思わず俯く。
「嵩森様、そんな……畏れ多い」
慌ててその手を引っ込めようとしたが、それを止められ、顔を上げる。
「嵩森様?」
「……お前は他の者より幾分幼いから、どうも良心が咎めるんだ」
唐突に彼は盛大なため息を吐き、がくりと首を垂れ、秀穂の細い肩に額を寄せた。思わぬ接近に驚き、秀穂はどうすれば良いのかわからずただそのままでいた。
「秀穂」
「はい」
「一応、聞こう。私と雪之衛、日積哉と……春日野、誰が良い?」
小姓頭の面々の名前を並べられ、その意味にただ首を傾げる。一つ気になったのは、一人の名前が欠けていることだ。小姓頭の名を並べたのならもう一人、王権継承第三位の小姓頭を勤める雛沙女、彼女の名が足りない。
「何の、お話でしょうか」
どうにも話が読めない。
それが今回呼び出された用向きだとはどうにか察せたが、内容が分からずただそう問うことしか出来なかった。
だが、そう問う彼を嵩森は気まずそうに見、何故そんな目で見られるのか解からない秀穂は自分が何か失態を侵したかと不安気に彼を見やる。
「周りから何も聞いていないのか」
「は……、今日は何やら皆奇妙でございましたが……。湯殿では何故か全身くまなく洗われました」
糸瓜でこすられた所為であちこちがまだヒリヒリしている気がする。あらぬ場所まで洗われそうになったが、それは必死に拒否したのだ。しかし、そんな秀穂の反応を彼らは忍び笑っていて。
その時の事を思い出し、疑問符を飛ばしてはいたものの不満げな顔になった秀穂を他所に、嵩森はそんな部下達の行動に額を押さえた。
「……そこまでするのなら話せばいいものを……」
思わず呟いていたが、それは秀穂の耳にはただの音として届き、言葉までは聞こえなかったらしい。
「何か?」
「いや、何でもない。少し頭痛がな」
「それはいけません。今日は早めにお休みくださいませ。それでは、私はこれで失礼します」
「ちょっと待て、秀穂」
頭を下げて帰ろうとするところを慌てて呼び止め、嵩森は深いため息を吐く。何だか今日はため息が多いな、と彼を見上げ、首を傾げる。と
「お前、子どもの作り方は知っているか」
観念したような嵩森が話し始めたことに、秀穂は目を点にする。その反応を見て嵩森は自分の行動が情けなく思えた。どうして、こんな性教育話から始めないといけないのか。今までは、小姓見習い達は噂でこの事を知る。だから、夜に呼び出された彼らは何が行われるか期待と不安を背負ってやってくるのだ。
だが、今目の前にいる子どもは最年少でそうした話には加わらなかったらしい。それどころか、彼をそうした話から隔離することに彼らは務めていたようだ。それは、秀穂への配慮だったのだろうが、貧乏くじを引かされたのは他でもない嵩森だった。
「それくらいは、狼司から聞いた事があります」
しばらく逡巡していた秀穂の言葉に、思いがけぬ光明がさした。
そうだ、彼には性に関しては奔放な朱雀宮の友人がいた。それに嵩森はほっとしたが
「男と女が二人で月に願うと、鸛鶴が赤子を運んでくるのでしょう」
すぐに狼司を殴りたくなった。
自信満々に答えた秀穂は何の罪はない。むしろ可愛らしい、と言うべきなのだろう。だが……
「鸛鶴が赤子を運んでくるわけではないんだ」
重荷を負う羽目になった嵩森の声は暗い。
「……それは狼司が私に嘘を吐いたという事ですか」
そして、秀穂も声に怒りを滲ませ、適当な事を教えた友人を恨む。だが、狼司の心境もわからなくない嵩森は苦笑交じりにそれを窘める。
「いや、狼司殿は恐らくお前のためを思って嘘を吐かれたのだ。あまり怒るな」
「私の為……ですか?」
「お前は幼いからな……もう一つ問おう、お前、好いた相手はいるか」
聞く必要もないとどこかで嵩森は確信していた。小姓の中には女子もいるが、彼らが接触することはまずない。宮で働く女官もいるが歳が離れすぎている。こんな環境で恋愛感情を抱く相手を見つけるのは難しい。
「いえ。いません」
「……そうか」
簡潔な返事に一つ重石が消えた気分だった。これでいると言われたら流石に心が痛む。
それでも、いまだに状況を把握出来ていない子供の大きな目は背徳感を味あわせるには充分だ。
「秀穂、子を成すには男女が共に床に入り交わらないといけない。小姓もたまに主と共に床に入り、その真似事をする事があるのだよ」
「……男は子を孕めませんが」
「そう、なのだが……お前たち小姓の役目は主の快楽の相手をすることだ。子を成すことではない」
「その、子を成す交わりとは快楽を伴うものなのですか?」
「ああ。特に男はその快楽に貪欲だ。だが、あまりそこらの女子に手を出されては困るだろう。女相手では子が出来てしまうし、場合によっては色々と面倒だ。蒼龍様の御立場は、特にな」
神、と一部で崇められている彼にはその神聖性を保つためにむやみやたらに女を近づけないようにしていた。今の放蕩ぶりはもしかしたらそこに問題があったのかもしれない、と密かに嵩森は後悔していたが。
「お前達の役目は主の相手をすること。だが、お前たちはあくまで小姓。娼妓ではない。主が望む以上のことはするな。自ら誘いをかけるようなことはしないように」
「分かりました」
「それと、主の体に傷をつけるような事はしてはいけない。お前は受け入れる側だ、いいな?蒼龍様の場合は、あの方は血が止まり難い体質だ。よく気をつけるように」
秀穂は神妙に頷くが、その真摯な態度もきっと話の内容をすべて理解していないから出来る態度だ。
「主によっては、そういう趣向を持たない方もいらっしゃる。皆が皆経験することではないが、心構えとして見習い終了前に皆にこうして話をしているのだ」
そこで一度嵩森は言葉を止め、息を吸い、吐く。今まで何度も見習い達をその腕に抱き、手ほどきをしていた、その前に必ず行う儀式のようなものだった。元々そういった趣向がなかったからだろう、いつもこの時になると躊躇うものがある。他の小姓頭には笑われたが、彼らの方が思考が少々外れているのだといつも思う。
「具体的には、どういったことをすればいいのでしょうか」
来た。
交わりという曖昧な言葉では理解出来なかった秀穂が恐る恐るといった感じで聞いてきたので、嵩森は彼のその耳元で大方の内容を説明した。聞き終えた秀穂の目が驚きに見開かれているのには苦笑してしまった。
「それは……痛いと思うのですが」
困惑した顔でもぞりと足をわずかに動かしたのは、それを想像してしまったからだろう。
「慣れればそうでもないと聞く。だから、だな」
気まずげに視線を自分から逸らした嵩森に、そこでようやく秀穂は体をくまなく洗われた事と夜の呼び出しの意味を悟る。
「……申し訳ありません」
小さな声での謝罪に、嵩森は拒否かと思ったが
「私の無知の所為で、余計なお時間を取らせました。今から、なさいますか」
「……いいのか?」
「皆、したことなのでしょう?」
確かにそうだが。
何てことないと言う様に言い放つ秀穂は事の重要性を分かっていないと心の中で嘆いたが、そうした自分の感情に嵩森は待ったをかける。
これは、大して重要なことではないのだ。いつものように、済ませば良い事のはず。ここまで罪悪感を覚えるのは矢張り相手が一番幼い少年だからということと、少なからず嵩森も彼に目を掛けてきた部分もある。そんな相手だから、戸惑ってしまうのだ。
「……その前に、一つお話しておきたいことがあるのですが、お時間よろしいでしょうか」
「ああ、なんだ?」
時間が稼げると思った嵩森は少々ほっとしたが、突然両眼に手をやり、次に目蓋を上げた彼の双眸に驚愕させられた。
「秀穂……?お前その眼は」
じっと嵩森を見据えるその眼は、真っ青だった。この国では滅多に見かけないその色に、ただ驚いてしまう。
「今まで、黙っていて申し訳ありませんでした。親も知らぬ身、何故このような眼なのか私自身、知らないのです。ですが、ここに来る前にこれで嫌な思いをしたので」
眉間を寄せた秀穂の様子に、嵩森は小さく息を吐く。その理由も納得出来るものだった。宮でもこんな眼の子どもを引き取ろうとは流石に思わなかっただろう。
「そうだったのか……」
「嵩森様には、いつかお話しするつもりではありましたが、この機会にと」
叱られるとでも思っていたのだろうか、秀穂の声はどことなく弱々しい。
「その眼は、隠しておいた方がいいだろうな。古臭い翁殿たちはきっと嫌う」
「どうか、お許し下さい。これは貴方様への信頼の証とさせては貰えないでしょうか」
頭を床につくほどに下げ、秀穂はただ必死に謝るしかない。ぎゅ、と目を強く閉じいっそ茶色にならないかと念じてみたが、無駄だという事は知っている。
「……秀穂」
「蒼龍様には心身を捧げます。嵩森様には、私の命運を握っていて貰いたく」
蒼龍の側近である彼にそうして貰えると安心出来る。
「何故、そこまで。何を恐れているんだ、お前は」
嵩森は思わずため息を吐いていた。秀穂より年上の子どもの方がもっと楽観的に生きている。誰よりも年齢が幼い彼は何かを強く恐れているように見えた。
「私は、私のことを何一つ知りませんので」
何故目が青いのか、それが一番秀穂の心の中に引っ掛かっているものだった。普通ならば茶か黒のはず。この国と敵対している国には青い眼の人間が沢山居るという。もし、自分がその血を持っているということならば、これほど恐ろしい事はない。
蒼龍や彼らと、敵となることが一番怖い。
「秀、顔を上げなさい」
嵩森の指示に従い、恐る恐る顔を上げれば、意外なことに穏やかに笑う彼がそこにいた。
「お前はお前だ。私はそれで良い。その眼の色はお前の責任では無い。むしろ、蒼は私達にとっては縁起の良い色ではないか」
「……はい」
この蒼い眼は、蒼龍にも綺麗だと言って貰えた。それだけが心の救いで今まで立ってこれたような気がする。
果たしてこの色は自分が持っていても許されるものなのか……その答えはまだ出ないが。
「少し遅くなってしまったが、始めようか」
「……よろしいのでしょうか」
授業再開の嵩森の言葉に秀穂は戸惑い、彼に初めて晒した青い眼を不安気に揺らす。この稽古を終わらせれば晴れて自分は小姓という地位に立てることになるのだ。こんな目を持っているというのに。
「大丈夫。お前は今期一番優秀な見習いだ。眼の色一つで文句を言うような狭量の言葉は放っておけばいい」
「ですが、嵩森様……」
「何だ?」
髪を撫でる嵩森の手付きは全く性的な意味合いを含まず、子どもをたしなめるような温度だ。
「……閨で優秀でいられるか、正直私には自信がありません」
眉を下げ、目を伏せた秀穂の膝に置かれた小さな手は僅かに震えている。行為を理解しようやく恐怖を感じたようだ。そして、不安も。
少し笑ってしまいそうになったのを嵩森は堪え、茶色い髪を撫で続けた。今まで相手にしていた見習いの中には自分から足を開いてきた子どももいたのに、酷い差だ。その小姓は今では赤い宮で重要な地位についているらしいが。
だが、秀穂はあまり人に触れてこなかったのだろう。両親もいないと言い切っている辺り、他人の体温を知らない可能性もある。
「あまり気に病まない方がいい。私に触られるのは怖いか?」
そっと小さな丸い頬を両手で包むと、不安げな瞳で嵩森を見上げつつも彼は首を僅かに横に振る。
「怖くありません」
「なら、今度は私に触れてみるといい。どうだ?」
小さな手を取り、自分の頬に触れさせた嵩森に見つめられ、思わず「あたたかい」と呟いていた。
「……お前の手は少し冷たいな。湯屋に行ってきたと言っていたが、湯冷めさせてしまったか」
「大丈夫です……嵩森様も、難儀なお役目でしょう。早めに終わらせてしまったほうが良いかと」
「……秀」
何とも淡々としている子どもの言葉には少々呆れたが、それもそうかと彼の体を引き寄せる。その力に秀穂は目を見開く。
「嵩森様」
「早く済ませろと言ったのはお前だ」
くすりと笑った嵩森は自分の膝の上に秀穂を向かい合わせで座らせ、唇を奪う。突然の事に驚いたが、ただ触れ合うだけの温度は悪くなかった。だが、穏やかだったのはその一瞬だけで、口内にゆっくりと侵入してきたものに逃げ出そうとしたところを止められる。未知の感覚に無意識のうちに自分の襟元を強く掴んでいた。
何だ。
何なんだ、これ。
徐々に顔が熱くなっていくのが分かる。顔どころじゃない、全身だ。息も苦しい。
は、と荒い息を吐き出したその反動で、相手の熱い舌に触れてしまいその感覚に背筋がぞわりと総毛立つ。
「……っぅ」
思わず嵩森の肩を押し、彼から離れると少し驚いたような眼と視線が合った。
「……大丈夫か?」
「……平気です」
けほりと小さく咳をして、強がってみせるが秀穂の目尻には涙が浮かんでいた。
「私でなくとも良いんだぞ、相手は。見習い達の話によれば、接吻は雪之衛が一番上手いらしい」
嵩森としては気遣いの言葉だったのだろうが、その台詞に恐怖さえ覚える。
「今の以上のものなんて、私は小姓になる前に死んでしまいます」
口端から零れた唾液を震える手で拭いながらどうにかその恐怖心も消せないかと必死だった。
これから何をされるのか、それを考えると答えも何も見つからず、予想できない恐怖を感じたが、これさえ終われば小姓になれる。
「それに」
小姓になればもしかしたら、あの人に近づけるかもしれない。それだけだった。
「先程から、何回か嵩森様は蒼龍様の名前をお出しになられていましたが、それは私にもあの方の小姓となるべく可能性があるからだと……思っても良いのでしょうか」
嵩森が蒼龍の小姓頭だから、という理由もあるだろうが、僅かな可能性に全てを託したかった。その小さな希望を胸に、今まで誰よりもきちんと整えていた襟元を引き、中の肌を晒し、長い髪を結んでいた結い紐も解いた。髪が背に広がるのが分かる。
「ならば、あの方を一番知る嵩森様が、私にとっては最良の相手」
そっと両手を嵩森に伸ばし、微笑む。
「どうか、蒼龍様のお好み通りにこの体、仕立てて下さいませ」
僅かに震える手で先程のように嵩森の頬に触れ、今度は自ら口を寄せた。
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