体の火照りを押さえたかった。その為に外に出た。嵩森に知られたらきっと叱られると思っていたが、すぐには眠れずこっそり外に出た。向かった先は昼間千草と会い、言葉を交わした場所。
 ああして彼と会うたび、自分の中で奇妙な黒い靄が広がってゆくのが分かる。あれは自分の弟なのだから、そのような卑しい思いを抱いてはいけないというのは分かっている。そんな立場でもない。
 誰にも知られてはいけない関係だという事は分かっている。いつかは失うものなのだと。そう思っている、だからこそ、会えば感情は抑えられなかった。
 蒼い月が支配する世界を歩き、茂みを掻き分ければ次第に滝が落ちる音が大きくなる。
 そして、開けた視界を埋めたのは、昼間には有り得ない蒼い世界だった。
 その色に、自分の浅ましい感情が浄化されるような気がする。
 滝の水は蒼い光を吸い、青白く発光しているように見えた。そんな水の中にぽつりと立っていたのは、小さな体だった。千草よりも小さな体で、色素の薄い長い髪は青白く見える。
 妖し?
 一瞬有り得ないものを想像してしまい、蒼龍は眉間を寄せていた。そんなもの、いるわけがないのに。
 気配に気付き、彼がこちらを振り返りその眼を大きくする。そして、その眼に蒼龍は思わず魅入る。
 彼の双眸は、この蒼い世界で一番蒼かった。
「蒼龍、様」
 そう、彼が呟いたのを聞いて、彼が自分の臣下の1人だと知る。滝の精か何かかと一瞬信じかけていたが、少し安堵した。
「水、冷たくないのか」
 冬に近い季節にそんな小さな体を水にひたすなど、何とも痛々しい。
 そう声をかければ、惚けていた彼はハッとした様子で慌てて首を横に振っていた。その幼い仕草がなんとも可愛らしい。力いっぱい首を横に振るたび、水が揺れ波紋が生まれている。
「平気、です」
 緊張に震えた声は、やはり幼く、蒼い双眸は二つ共そっと伏せられた。
 幼いけれど白く細い体に、整った容姿となると、彼はどこかの宮の色小姓だろうかと考えて、蒼龍は川岸まで彼に近寄る。
「上がっておいで。風邪をひいてしまう」
「いえ、その……」
 秀穂は戸惑うしかなかった。何故、彼がこんな時間にこんなところに来るのかよく解らなかった。それに、今自分は何も着ていないのだ。上司に全裸を晒すというのは流石にいけない事。そんなこと、出来るわけがない。
「恥ずかしいか?」
 少年の戸惑いを察し、蒼龍は肩に掛けていた羽織を取り、差し出す。
「これを使えばいい」
 その腕が届くところまで秀穂は歩き、それを受け取った。恐る恐るそれを肩にかけると、彼の香の香りがする。
「名は?」
 岸に上がった秀穂は慌てて頭を下げ、「秀穂と申します」と答える。その名には、蒼龍も聞き覚えがあった。
「秀穂?だが、君は」
「申し訳ありません!」
 彼が何を言いたいのかはすぐに分かった。この目の色の事だろう。自分は今まで、色が付いたコンタクトをつけて自分の目の真の色を隠してきたのだ。狼司にも嵩森にもこの目の事は伝えていない。
「私も自分の目が何故このような色なのか分からないのです。ですが、隠していたことは事実。どのような処罰も、うけます」
「ちょっと待て……。顔を上げろ、秀穂」
 そう言われ、恐る恐る顔を上げると、優しげに笑う蒼龍の顔がすぐそこにあった。そして彼は確認するようにその眼を覗き込み、うん、と頷く。
「綺麗、だな」
 そして彼はそう小さく呟いた……ように聞こえたのは幻聴だろうか。
「君は、うちの小姓見習いだったな」
「はい」
「そう。まぁ、そんなに堅くなるなよ。俺まで緊張してくる」
 くすくすと笑う彼の雰囲気はいつもとどこか違った。彼の一人称も“私”だと思っていたのに“俺”と言い放った彼には驚かされた。
 思わず彼を茫然と見上げていると、彼はそんな視線に気付いて苦笑を浮かべた。
「どうかしたか?」
「いえ……蒼龍様の髪、が……」
 いつも見ていた蒼龍の髪は長いのに、今の彼の髪は短かった。この王宮で、これほど短い人間は今まで見た事がない。それに気付いた蒼龍はああ、と声を上げ、その短い髪を無造作に引っ張った。
「ああ、いつものアレはヅラだよ。カツラ。俺、自分の髪の色そんなに好きじゃないからなるべく視界に入れたくないんだ」
「そんな、あんなに綺麗なのに」
「有り難う。でも、歳を取れば誰だって白髪になる。俺はこんな白より、黒や茶色の方の髪の方が羨ましい」
 思いがけない言葉に、秀穂はただただ唖然とした。まさか彼がそんな風に思っていたなんて。
「……幻滅したか?」
 秀穂の沈黙をそう解釈した蒼龍は小さく笑うが、慌てて首を横に振った。
「まさか、そんな」
「君の蒼い目ときっと同じだ」
 長く白い指を彼は秀穂の目尻に向け、それに秀穂は瞬きを返す。
「君だって、その目あまり好きではないんだろう?俺は綺麗だと思うけど。ほら、同じだ」
 ……確かに。
 思わずその目に手を当てていた秀穂の行動を彼は苦笑してから、蒼い月を見上げた。
 そして再び秀穂の目に視線をやり、その深い色にまた目を奪われる。蒼という色は色々なところで見てきたつもりだったが、ここまで綺麗だと思った色は初めてだ。
 瑠璃玉が二つくっついているようだ。
「秀穂」
 彼に唐突に名を呼ばれ、顔を上げると水に濡れた髪を撫でられた。その手はとても温かい。
「俺はお前が羨ましい」
「……え?」
「俺は、こんな時間にこんなところに居たら嵩森に叱られてしまう。自由に動けるお前が羨ましい」
 嵩森がよく、蒼龍がまた脱走したとため息を吐いているところを秀穂自身何度か見ている。けれど、彼のため息にその真意を悟った。
 自由がきかない人生の辛さはその状況に身を置いてみないとわからないものだ。
「お前が綺麗と言ったこの髪も……母は生まれた俺を見て化け物と叫んで気絶したそうだ」
 その髪を引っ張りながら彼は小さく、どこか淋しげに話す。秀穂は今王の傍らに座り穏やかな笑みを浮かべている皇后を思い出したが、あの品のある女性がそんなことを叫んだなど想像出来ない。
「何だかんだ言って、皆俺を恐れているよ。俺を必要以上に拘束するのもその為だ。父上も母上も、嵩森や千草だって……」
 弟の名を出した彼が少し悔しげに眉を寄せたのに、秀穂は軽い違和感を覚える。彼等は愛を交わす仲なのだと思っていたのだが、蒼龍の中には他の感情もあるのだろうか。
「蒼龍様、あの」
「お前には俺がどう見える?皇子か、人間か、妖怪か、それとも神か?」
 それを聞こうと秀穂が口を開きかけたその時、白い髪が振り返り、どこか哀しげな笑みを月の光が照らす。
 今まで、臣下や周りの人間の前では穏やかに、時には皇子らしく気丈に振る舞っていた彼からは想像も出来ない姿だった。月の魔力とでも言おうか、この蒼は人の全てをさらけ出す。
 この空間に少し恐れを抱きながらも、秀穂はしっかりと相手を見据えた。その青い目で。
「貴方様は貴方様です」
 畏れはしていたが、神と思った事はなかった。かといって妖怪や人間、皇子と特別に思ったこともない。ただ、敬うべき人間であり恩を返す相手との認識だった。
「けれど、私にとっては私に名をくれた貴方は神にも等しい方」
「秀穂……」
「私はまだ見習いですが、いずれ小姓となったその時は、自分の力で貴方様の隣へ参りましょう。その時は」
「その、時は?」
 探るような問いかけに秀穂は目を細め、頭をゆっくりと下げた。白い岩肌も月に照らされ青白く発光している。
「その時は、世界の果てでもどこへでも、貴方様の行きたいところならどこへでも」
「……いいのか、宮にいられなくなるぞ」
「もとより貴方様に拾われなければここには無かった身です。私が仕えているのは、始めからこの宮ではなく貴方様ただお一人」
 この時は何故彼がそんな哀しげな目をしているのかよく解らなかった。だから、どんな返答を彼が望んでいるのかさえ分からず、ただそう言うしかなかった。
 大きく出たこの子どもの言葉を彼がこの時どう思ったかは分からない。けれど、その時蒼龍は確かに笑った。
「タージ・マハル」
「……はい?」
 笑われるか、馬鹿にされるかどちらかかと思っていたが、聞き慣れない単語に秀穂がその蒼い瞳を丸くすると、蒼龍は苦笑する。結構有名どころなのに、秀穂はここを知らないようだ。嵩森達が教えていないだけだろうが。
「ザンクト・ヨハン修道院、ブリッゲン、ストーンヘンジ、アトス山、イエローストーン」
「あの、蒼龍様……?」
「世界遺産。どこにでも連れて行ってくれるんだろう?」
 にやにや笑う蒼龍に、秀穂は目を輝かせる。彼は自分の言葉を信じてくれたのだ。
「はい!」
 力強く頷いた秀穂に、蒼龍は一層笑みを深めた。
「そうか、世界遺産は800以上あるがな」
「…………はっぴゃく……?」
 意地の悪い一言に秀穂は凍り付いた。思った以上に数があったようで、困ったようなその顔に思わず蒼龍は吹き出してしまった。少しいじめすぎただろうか。
「冗談だ。悪いな」
「いえ」
 しかし、秀穂からの返答は妙に力強いもので、それに疑問を持って彼の顔を観れば
「一日に一つ行くと考えれば、3年あれば全部行けます」
 小さな頭で必死に計算したのだろうが、あまりにも無謀で、それでいて妙に夢のある答えだった。
「何だ、そのハードスケジュール。お前、俺が病弱なの忘れてるな?」
「……申し訳ありません」
 そういえば、そうだったと秀穂は自分の頭を掻いた。では一体どういうペースで行けばいいのだろうかと再び考え始めた彼を、蒼龍は微笑ましく思う。
「それでよく俺の小姓になろうと言ったもんだ」
「……大変申し訳ありません」
 二日に1つとすると6年……という計算でいいのだろうか。
 口で謝りつつも秀穂はまだその800以上という数字を諦めてはいなかった。蒼龍自身はもうすでに諦めていたことだというのに。800どころか、1ヵ所もまわれずに死んでしまうだろうと。
「無学で申し訳ありません。勉強して一番効率の良い順を考えておきます」
 しかし、蒼い目は本気だった。
 子どもの戯言、と思うにはあまりにも真摯で、力強い。この場限りの夢語りとは分かっていても、何となく期待してしまう自分に蒼龍は苦笑してしまう。
 秀穂は初めて聞く事に、どう蒼龍に言えばいいのか分からず、ただその想像もつかない800という数字に困惑していた。これはもう、後で調べるしかない。
 無知な自分に呆れられただろうかと思ったが、その時蒼龍が微笑み、小さな声で礼を言ってくれたその声が忘れられない。



 嘘だろ。
 部屋に戻ってきて、ただ茫然と自分の布団の上に座り込んだ。
 さっきまで憧れていた相手と2人きりで話していたなんて、今でも信じられなかった。どっと疲れが押し寄せてきて、思わずため息を吐く。
 あの後すぐに別れ、それきりだ。
 そっと触れた目はまだ蒼い。寝るだけだから外しておいた。明日朝に誰よりも早く起きて入れないといけないけれど。
 暗闇の中そっと布団を探ると、何かかさりと音がする。それと、布ではない乾いた感触も。
 なんだ、とそれを手に取り包みを開けると、そこには綺麗な金平糖が大量にあった。
「これ……」
 小さく呟くと周りの布団がもぞりと動く。よく聞き耳を立てれば、今まで聞こえてきていた寝息がどこか嘘臭い。
 ああ、そうか。
「……ありがとう」
 そう、少し大きな声で言うと、その寝息が一瞬途切れる。
「明日、共に食べよう。こんなに多くは1人じゃ食べきれない」
 少しずつ。
 本当に少しずつだけれど、ここが自分の場所になりつつあるのを感じた。

 しかし、この後再び蒼龍に会う事はなかった。






「師を紹介しよう、秀穂」
 嵩森に例の秘術を習い始めて大分経った頃、そろそろ体術の方も、狼司と戯れに行う程度ではなく本格的にやってはどうかと嵩森がある人物を紹介してくれた。
 蒼龍の地にある修練場で、向かい合った男は顔や体にあちこちに傷を持つ、秀穂の二倍の身長はある大男だった。
「なんだぁ?随分とチビだなぁ、嵩森よ」
 男は自分をまじまじと眺め、鼻で笑う。
「亮斎殿、秀穂はまだ子どもでございます故」
 亮斎。
 嵩森がさり気無く口にしたその名を秀穂は心に留める。そして、無言で大男の顔を見上げた。相手も自分を見下し、そして手に持っていた大剣を何を思ったか突然振り下ろす。ガン、と頭上に激しい痛みを感じ秀穂はその場に崩れた。刃の部分でなかったのが幸いだった。
「亮斎殿!?」
 突然の亮斎の行動に嵩森も驚きの声を上げ、だが当の本人は何てことないように肩を竦めた。
「どうした。さっさとかかって来い、チビ」

 この瞬間、秀穂の中に殺意が芽生えた。

「……修行というより、これは喧嘩だな」
 たまに様子を見に来た嵩森が思わず呟いてしまった言葉は、目の前の彼らの様子を如実に表していた。
「どうした、チビ!これくらいでへばってちゃあ蒼龍を守るなんて威勢の良い事言えねぇぞ?」
「うるさい、黙れ」
 殴ろうとする師と、それを避けて攻撃しようとしている弟子の間には信頼のそれはなく、お互い纏うのは殺気だけだ。
 亮斎は、元々は朱雀宮の出の男だが、今はその腕を磨くために全国をふらふらとしていた変人だった。それが里帰りをしたからと声をかけてみれば、この状態。
 人選を誤ったかも知れない。
 けれど、秀穂はなかなか上手く相手の攻撃を交わしている。数日前よりは格段に動きが違う。スパルタと言えば良いのか。いや、恐らく亮斎はそこまで考えてはいないだろう。彼は肉体は鍛え上げているが、頭の方はそこまで鍛えられていない。
 亮斎の攻撃を受け、地面に倒れた子どもに彼は盛大なため息を吐いた。
「いつも言ってるだろうが。頭で考えるな、心で感じろって。武道家っつーのはな、心で戦うもんだ!」
 そりゃ、お前は頭で考えられないからな……と嵩森は思わず心の中で呟いた。
 亮斎が全国をふらふらする羽目になった理由は、ある御前試合にあった。当時、朱雀宮一の腕だった彼と、当時軍で最強の剣士と噂されていた日向穂高が対決することになり、それに彼はあっさりと負けた。それ以降、彼はその日向を目の敵にして我武者羅に修行の日々らしいが……。
 この分では、まだまだ日向穂高に勝てる日は来ないだろう。力任せの彼の戦い方を眺めてそう思う。
 地に伏していた秀穂がよろめきながらも立ち上がり
「今時、精神論は流行りませんよ、亮斎殿」
 そう、こうした事を冷静に言える彼だから、亮斎を相手に選んだ。全く違う二人であるから、お互い足りない部分を補えるかと思ったのだが……。
「俺が語っているのは精神論ではない、肉体論だ!」
 亮斎の馬鹿っぷりは何の変化もないようだった。
 まぁ、彼は肉体だけは強いから、体術に関しては秀穂を鍛え上げてくれるだろう。
 そう判断して、嵩森はその場から立ち去った。いつもはもう少しいるのだが、最近、蒼龍の様子がおかしくそれどころではなくなってきていた。
 病ではないはず。彼は健康そのものだ。
 だが、何かがおかしいのだ。最近は、公務も投げ出したり、配下に手を上げたりと。周りは、病がとうとう頭部に達したと噂し始めている。
 一体何があったというのだ。
 嵩森は切れた口の端の傷を指で撫でながら、眉間を寄せた。これは昨夜、酒を飲みたいといい始めた彼を窘めた際に、彼に物を投げつけられて出来た傷だ。だが、蒼龍も当てるつもりはなかったのだろう。そこから血が溢れたとき、ハッとしたように目を大きくしてから苦しげに表情を歪めていた。
 どうして、そんな顔をするのにこんなことをするのだろう。
「嵩森さま」
 突然目の前に降ってきた少年の姿に、嵩森は目を見開く。先程まで亮斎と手合わせをしていると思っていた彼が、自分の足元にひれ伏していた。
「秀穂?どうした」
「いえ……亮斎殿が、嵩森さまの御様子がおかしいと言われるものですから。その顔の傷は、一体どうされたのですか?」
 気付かれていた。
 嵩森は思わずその口を手で覆っていたが、それも無駄だとすぐに察した。
「何でもないのだよ、秀。お前が気にすることではない」
 秀穂が蒼龍に憧れを抱いていることは嵩森も充分知っている。それ故に、他の人間よりも彼に対して忠誠心が強いことも。
 こんなまだ幼い彼に、今の彼の現状を知らせるのは残酷だろう。
「……嵩森さま」
 顔を上げた彼の眼はどこか淋しげで、立ち上がり袂から黒い薬入れを出し、それを差し出した。
「傷薬にございます。良しければ……薬草から作っているものですが」
「お前が作ったのか?」
「作り方を教えてくださったのは嵩森さまではございませんか」
 そういえば、そうだった。
 病弱な蒼龍に仕える身としてある程度医術を身につけている嵩森は、小姓見習い達に簡単な薬の作り方を教えていた。まさか、実行している人間がいるとは思わなかったが。
「有難う。使わせてもらう」
 それを受け取れば、幼い彼はほっとしたように表情を緩める。
「良く効きます。私も修練で傷をつけた時はそれで」
「そうか。役立てて貰っているようで私も教え甲斐のあるというものだ」
「……嵩森さま」
 突然秀穂の声が低くなり、何だと彼を見れば、その目を伏せて言いにくそうに口を開いた。
「蒼龍様に、何かございましたか?」
 それにぎくりとしたが、嵩森は穏やかに笑い「何故?」と反対に問い返した。その返答に何もないと察してくれたのか、秀穂の肩から緊張が抜けてゆくのが見られた。
「何もなければ、それで……。ですが、嵩森さま」
 ん?
 それで納得してもらえると思ったが、秀穂は少し気まずそうに視線を逸らしたまま言葉を続けた。
「俺、は……嵩森さまにも恩を感じております。貴方様には様々な事を教えて頂き、今もこうして目をかけていただいています。縁者のいない私にとっては、父や兄にも等しい方だと……ですから、あまり御無理はなされぬように」
 久々だ、と漠然と思ってしまった。
 こんな風に他に何の意図も持たない素直な好意を向けられたのは久々だった。
 宮、という権力の奪い合いが幾度ともなくくり返されたこの呪われた場所で、裏に何も含まない言葉を言える人間はいないとどこかで思っていた。自分自身、気付けば悪質な嘘を簡単に口にすることも出来るようになったし、心にもない賛辞を言える舌になっていた。この耳も、他人から言われる言葉のその裏を聞ける耳になった。幼い小姓見習い達でさえ、処世術を身につけ、随分と上手く生きているというのに。
 この子は。
「嵩森さま?」
 沈黙した彼を不安気に見上げた秀穂に、嵩森は苦笑してみせる。父や兄と慕われるほど綺麗な身ではないが、だからだろうか、彼の声は耳に心地良い。
「有難う、秀穂」
 心から思っている事を素直に口にするのは、とても気分が良かった。
 もしかしたら、蒼龍もこうした人間を側に置く事を望んでいるのかも知れない。欺瞞に満ちたこの宮の世界しか知らない彼は、兄弟さえも疑わなければいけないこの宮に生まれた彼には、必要となる人間に成長するかも知れない、秀穂は。
 確かに、疑いの日々は疲れるものだと、嵩森自身知っている。
「もしお前がこの宮でそれなりの地位に立てる見込みがあれば、我が家の養子に入るといい」
「……嵩森さま?」
「そうすれば、私とお前は晴れて兄弟と呼べる仲になれるな」
 にこりと笑う嵩森に、秀穂も笑う。
「それは夢のようなお話でございますな」
 秀穂は軽い冗談だと受け取ったらしいが、嵩森は本気だった。だが、その事は口にはせず、嵩森は彼に背を向ける。
 もし、アレが本当に蒼龍に気に入られるような存在になったら、自分の義弟にしよう。そうすれば、我が家の名も上がり、宮での存在が大きくなる。
 そんな計算を巡らせ、不意にその算用の数の一つになった少年を振り返る。そこにはもうすでに彼はいなかった。
 彼の純粋な心までも利用しようとする自分の頭の中は恐らく最低なのだろうが、すぐにそう思ってしまった自分を嘲笑した。
 なに、なんの欲も抱かず蒼龍に近付こうとする人間なんて、いるわけがない。彼のとりえなど、その名前と地位くらいしかないのだから。
 この国の人間の忠誠心など、武士が滅んだ明治初期に絶滅してしまったのだ。それ以前は、忠誠心を持たない人間達が蔑まれていたものだが、今では忠誠などと口にすれば、表面では褒め称える人間も裏では馬鹿だと嘲笑う。
 それでも、蒼龍に暴力を振るわれても彼を見捨てない自分にはもしかしたら、忠誠心というものが僅かにあるのかもしれない。
 これは、無計算の忠誠心なのか、それとも計算された忠誠心か。
 もしかしたらあの少年と共にいたらいつか答えが出せるかも知れない。そんな予感がした。




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あの子が世界遺産スキーになったのはこんな理由。

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