その人達は遠くから観ても独特の色を放っていた。
 2人は名に青の意を持っている。青、という色はこの国では天の色とし、とても高貴な色とされている。
 空、海、川、水、瑠璃。それらが持つ色を彼等は身につけ、自分のものとしていた。

 自分には到底届かぬ色なのだろう、と不意に見上げた空も青かった。


「秀穂、甘いぞ!」
「な……おい狼司お前卑怯だな」
 地に倒し、終了かと思い背を向けた秀穂の武器を蹴り上げ、それを落としたところで彼の喉元に狼司は自分が持っていた棒を突きつけた。
 非難めいた視線を向けられても狼司はしたり顔で胸を張る。
「ばっか、油断しているお前が悪い。戦争じゃ殺されてる」
「王族のお前が戦争になんて駆り出されるわけがないだろ」
 首元に突きつけられていた修練用の棒を手で払い、秀穂はため息を吐いた。そんな少年の態度に狼司は悪戯っぽく笑い、そんな相手に秀穂も怒りを収め茶色い目で笑み返した。
 ここに来てもうすぐ3年目になる。自分の年は8歳、らしい。らしいというのはつい最近までまともな名前さえなかったのだ、年なんて知るわけがない。
 あの日、あの時、彼に拾われるまで彼は独りだった。まともな名前も持たず、大人達の勝手な振る舞いに翻弄され、ゴミのように扱われていた過去を持つ。
 狼司はここに来て初めて出来た友人だ。2つ上の彼は10歳ということになるのだろう。素性のはっきりしない自分を同年代の少年少女達は避けているというのに、彼は何故か自分に構ってくる。理由を聞けば一言、だってお前しか俺の相手にならないんだもん。小姓見習いの少年達は自分の顔に傷がつくのを嫌い、こうした修練は行わない。小姓の仕事内容を考えればそれが普通なのだろうが。
 狼司は王宮の警護等を担当する朱雀宮の人間だから、修練は仕事の一部だ。兄弟も多く、他にも相手が出来る相手はいるだろうとは思うのだが、彼曰く兄には修練というかイジメじゃないかと思うほど手加減抜きで相手をされ、弟は相手にならない。かといって臣下に頼めば王族である秀穂に傷は付けられないと遠回しに断られる、そこで現れたのがあまり王宮の空気に馴染んでいない秀穂だ。お前は仕来りとか気にしないから楽だと豪快に笑うが、それではまるで自分が王宮の決まり事を守らない愚か者のようではないか。違うのかと聞かれたら困るが。
 この国の王室は4つの宮に分かれている。一つは春宮、蒼龍とも呼ばれるこの宮には次期国王となる可能性がある王の息子、もしくは血筋のものが王位継承権第5位までの人間が住み、王になる為の器量や知識をつけている。王位継承権第1位のものはその宮の名をとり蒼龍と呼ばれている。
 もう一つは冬宮、ここには王の兄弟や血縁の家が住んでいる。彼等は王の補佐をし、王を退いた前王もここに住むこととなっていた。そして、秋宮には主に政治的な役割を果たす家が住んでいた。朱雀とも呼ばれる、狼司が住む夏宮は国の軍事的な役割を任されていた。
 昔は王室二十四家と呼ばれる程に大量の家が住んでいたが、今では血筋整理をされ、王室の名を捨て名家となった家や血筋が絶えた家もあり、数は少なくなっている。
 その血筋整理を行う事を強要したのが軍部であり、王室に使う国家予算軽減という名目はあったがあまりにも強行だった為王室から反感を喰らい、王室の中には軍への不信が高まっていた。
 秀穂には関係の無い話だったのもあり、幼かったのもあり、そんな空気などこの時は全く気付かなかったが。
「お前、うちに来いよ。それならいつだって遊べるし、お前に向いてると思うけど。小姓なんて、似合わないって」
 狼司はちらりと秀穂の体にところどころ見受けられる痣や小さな傷を見て苦い表情になる。修練で出来た傷ではないそれは、彼が所属する春宮に仕える小姓達からの嫌がらせで出来た傷だ。この小姓達は主に名家から来た少年少女で、大した血筋を持たない秀穂にいつも辛く当たっていた。大して娯楽のない宮の中ではこうしたイジメが最大の楽しみなのかも知れない。
「でも他に俺に出来る仕事ないしな……」
 秀穂自身、小姓という仕事が自分向きではないことを実感していた。ここ3年、毎日小姓になるための勉強をしていたが、その中には笛や太鼓、舞や歌などの手習いもあり、この笛がどうにも秀穂は苦手だった。音が出ない、出ても甲高い、お世辞にも音楽とは言えない音が耳を劈き、他の小姓達の失笑を買う。狼司の戦闘訓練は一種のストレス解消だった。
 しかし、8歳という幼い年齢で出来る仕事といえば、小姓しかなかった。しかも正確には小姓ではなく小姓見習い。見習いだからこそ、こうして狼司と修練をする時間も取れるのだが、他の宮の王族とこうして共にいるだけでもまた彼等に陰口のネタを提供することになっていた。
「だから、俺のとこにくればいいだろ。お前もそう思うよな、風時雨」
 木陰でまどろんでいたらしい黒豹、実はロボットなのだけれど、狼司に呼びかけられた彼は顔を上げ、少し困ったように首を傾げ、口を開いた。
「しかし、主。他の宮の小姓を入れるというのは難しい」
 秀穂は今、春宮の小姓見習いだ。幼い主をたしなめるように言う彼に、狼司は肩を落とした。幼い彼にはその手続きやら何やらがどれほど面倒かよく解らないのだ。
「何でだよー。秀穂、本気でウチに来たくなったら言えよ。親父殿に頼むから」
 風時雨の腹に寄り添い、眠っている白い子猫を片手で持ち上げ、それを自分の膝に置きながら狼司は再度秀穂に言う。子猫と間違いそうになるそれは白豹の子どもだ。
「ああ、その時は頼む」
 その白豹の毛並みを眺め、秀穂はある人物を思い出していた。自分の宮の主、蒼龍の事。彼は血筋も分からない自分を拾い、名前まで付けてくれた恩人だった。その彼に恩を返す為に春宮で働こうと思ったはいいものの、あまりにも周りの風当たりが強く早々にへこたれそうだった。3年もっただけ、マシかもしれない。
 実際、あれから蒼龍とは会えていない。いや、毎日のように彼は観ているのだか、それは大勢の小姓や臣下と共に、だ。自分はいまだに蒼龍の部屋に行った事はないし、閨の準備なども任されたことはなかった。当然だ、自分はまだ見習いにしか過ぎないのだから。
 いっそ、狼司の言う通り彼の元へと行き、王宮警護の任に付いた方が彼の為になるのではないか。
「そうだ、来い来い。華紬もお前を待ってるぞ」
 狼司が膝にいた子豹を持ち上げ、その小さな手を招き猫のように動かす。それに驚いた華紬が頼りなさげに小さく鳴いたのに、秀穂は思わず笑ってしまった。
 狼司と彼の従者と過ごすこの穏やかな時間が好きだった。夏宮に行けば、いつもこうした時間が流れるのだろうか。そう考えると彼の誘いは本当に魅力的だった。
 しかし、その時だ。
「何をしている」
 厳しい声に反射的に秀穂が背筋を伸ばすと、目の前にいた狼司の表情の笑みが消えた。振り返り、秀穂は慌てて頭を下げる。そこには、小姓頭の青年と数人の小姓、そして蒼龍がいた。
「ここは、蒼龍様の庭。こんなところで遊ぶなんて言語道断です」
「庭って……山ん中じゃねぇか、広いんだし別にいいだろ、龍」
 蒼龍と血の繋がりがある狼司は不満げに、けれどどこか親しげに遠くにいた蒼龍に呼びかけた。そこで蒼龍はどうやら叱られているのが自分が知る人間だと気付いたらしい、こちらに向かってくるのが頭を下げている秀穂にも分かった。
 一歩一歩近付いてくるその足音に、自分の心音が緊張で高鳴るのが分かる。
「何だ、狼か。こんなところで何をしていた」
 穏やかで、節々に優しさがにじむその声がいつもより近くに聞こえ、秀穂は唇を噛み締めていた。
「そんなのいつもの修練に決まってんだろ。龍もやるか?」
 狼司は一度下ろした棒を再び手に取り、腕まくりをしてみせる。それに蒼龍が頷こうとしたのを、小姓頭の青年が見咎める。
「蒼様」
「……わかっている。嵩森は厳しいな。今日は具合が良いと言っているのに、一人で散歩もさせてくれない。逃げ出したらあっさり捕まった」
「当たり前です。狼司殿も蒼様に変な誘いをかけないで下さい」
 叱られた狼司は分かったの分かっていないのか、適当な返事をするだけだ。そのやりとりを蒼龍は笑って眺め、そこでようやく地にいつまでも頭をつけている子どもの背を見つけた。
「狼、お前の友人か」
 そう、声をかければ何故か隣にいた嵩森が首を横に振る。
「いえ、彼は我が宮の小姓見習いです」
「秀穂、と申します」
 そうはっきりと自分の名を口にすると、「あぁ!」と蒼龍が声を上げた。
「秀穂。そうか、あの時の。大きくなったな」
 覚えていてくれた。
 彼は自分が拾い、名付けた子どものことをきちんと記憶していたのだ。どこかでとうに忘れられていると思っていた秀穂は嬉しさに思わず顔を上げそうになったが、それを嵩森の冷たい声が止めた。
「蒼様、触れられますな。いくら宮内の土に毒素は含まれていないと言っても土は土。それにまみれた子どもなどに触れ、病を酷くされたらどうします」
 頭を下げていた秀穂には見えなかったが、どうやら蒼龍は自分に触れようとしたらしい。頭か背か、それとも肩か、場所は分からないが。
「お前も、宮に戻る時はその汚れを落としてから来るように。汚らわしいことこの上ない」
 厳しい声が降り、慌てて秀穂は額を地に打ち付けんばかりに頭を下げた。
「申し訳ございません」
「嵩森……彼は今、我が宮の最年少のはず。こんなに小さいのにそんな厳しい事を。子どもが土にまみれ遊ぶ姿は微笑ましいことじゃないか」
 そこで蒼龍のフォローが入ったが、そんな主人の言葉も彼は一蹴した。
「彼はただの子どもではありません。見習いといえど、宮の小姓の一人なのですから」
 けれど、そんな嵩森の厳しさが秀穂は好きだった。彼は自分を小姓見習いとして認めてくれているし、何より自分にだけ厳しいというわけではない。わけの分からないことで因縁をつけてくる他の小姓よりずっと尊敬出来る相手だった。
 申し訳ありません、と再び頭を下げた秀穂に彼等は背を向け、宮へと帰ってゆく。それを頭を下げたまま見送った秀穂に、狼司は小さくため息を吐いてから声をかける。
「行った」
「……そうか」
「ああー、もう。お前土ついてる」
 顔を上げた秀穂の額と前髪に土がこびりついているのを狼司は軽く手で払った。そこまで力いっぱい頭を下げなくとも良いのに、と笑うが、彼は王族、自分は使用人。この意識の違いにきっと彼は気付いていない。
「俺は水浴びしてから帰る。狼司様はそろそろ夕餉の時間だろう、どうぞお先に」
 小姓頭に見咎められては、このままの姿では宮に戻れない。この時間では使用人用の湯屋はまだ使えないし、使用人の中でも位が低い自分が一番に湯屋を使わせて貰えるわけがない。
 だから、いつも修練の後はあまり人の目につかない川を使っていた。滝もあり、たまに修行僧のように打たれてみたりもする。一時期は何かの儀式に使われていたと誰からか聞いたが、その儀式が無くなってからは今では忘れられた場所だった。
 じゃあ、と狼司達と別れた後、その滝へと向かった。何かの神が祭られているらしいそこに行くには少々山を登らないといけないのだが、もう慣れた。
 この山にも何かの神が宿っているとされ、その滝にも神が祭られていて、どうやって建てたのか、滝の上には色褪せた社がぽつんと建てられている。
 蒼龍は生き神、と一部国民に崇められていた。今日は間近で見る事は叶わなかったが、その白い髪が神聖性を分かりやすく強調している。勿論、知識人ならばそれがアルビノと呼ばれる症状であることくらいは知っているが、彼の姿は病と言ってしまうには惜しいくらい神々しい。
 おかげで蒼龍が生まれてから王室の支持率が上がっているのだ、生まれつき彼は体が弱いが、今彼に死なれては王室的には困る……というわけだ。
 秀穂も、特に彼を神と崇めているわけではないが、その姿を見れば緊張するし、畏怖も感じる。自分に今を与えてくれた彼には憧れている、とでも言おうか。もしかしたら、それ以上の感情を抱いても良いと思っているかも知れない。
 今の自分はただの小姓見習いで、彼の近くにいられるわけではないのだが。けれど、近付いてはいけない気もするし、この距離が自分には丁度良い気もする。権力、名声、地位を望んで彼の側にいる人間はそんな自分を稀有の目で見る。
 土を下ろし、着替えも済ませて仕事場に戻れば同じ小姓見習い達が談笑していた。まだ自分たちの仕事の時間ではなかったらしい。ほっと息を吐いて部屋の端に腰を落ち着けた。
「おい、秀穂。お前庭の掃除してこいよ」
 そこでどこからか見習い仲間の命令が飛んで来て、仕方なく立ち上がる。特に文句も言わずそれに従う秀穂の背を見送り、彼等が忍び笑う声が聞こえてきたが気に止める事は無かった。
 庭、というのはこの使用人達が集まる離れの目の前にある広大な場所だ。今は紅葉の時期も過ぎ、枯れ葉が大量に落ちている。普通は見習い全員の仕事なのだが、最近ここを掃除するのは秀穂の仕事になっていた。
「おい」
 その時、どこからともなく聞こえてきた声に秀穂はぎくりと身を竦めた。
「また仕事押しつけられたんだ?断れといつも言っているのに……」
 どこにいるのかと秀穂が何となく枯れ葉が舞い落ちる天を見上げれば、木の上にその少年は鎮座していた。一目で上等なものだと分かる浅黄色の着物を身につけている彼はそれなりの高さがあるというのにその木の上から飛び降りた。
 彼の小姓達がこんな姿を見たら恐らく卒倒するだろうが、秀穂には見慣れた光景だった。
「千草様こそ、お一人で何をされているのですか」 
 今は彼等王族は夕飯の時間のはず。だが、この時刻にこの場所に立つといつも彼と顔を合わせていた。
 年下の子どもに見咎められた彼は、蒼龍に似た顔で笑った。
「兄上に会いに行くところだ。食後の散歩ならついていっても良いと言われたから」
 千草は腹違いではあるが、蒼龍の3つ下の弟だ。故に、この宮では王位継承者第2位とされていて、それなりに地位がある人間なのだが、皆病弱な蒼龍に構いきりで彼のガードは甘い。だからか、この皇子は一人でフラフラ出来るのだろう。
 蒼龍とは違い、彼は健康体だ。黒髪が秋風に揺れ、血色の良い肌を夕日が赤く照らす。
 彼と個人的に会話を交わすようになったのは、つい最近の事だ。どこかで、今と同じように一人で仕事をしていたらふらりと彼が現れた。宮で最年少ということもあったのか、彼は何かと幼い秀穂に構う。
「共に行くか」
「仕事がありますので」
「そうかい?」
 少し残念そうに彼は笑うが、どことなく安堵しているように見えるのは恐らくは気のせいじゃない。
 そもそも、小姓見習いがこれから小姓の食事を準備しなければならない時間である事は、彼も知っているはずだ。なのに、彼はいつも同じ問いを投げかけてくる。
「そうだ、これをお前に」
 そして、袂から青い油紙を取り出し、秀穂の小さな手に握らせた。この中に何が入っているのか、もうこれを開かなくとも分かる。
「金平糖だ。お前達の口にはなかなか入らないだろう」
 その説明を聞きながら秀穂がその紙包を開くと、香の香りが一瞬鼻をくすぐる。蒼龍の宮では知った香りだ。開かれた紙の上には色とりどりの金平糖が十数個乗せられていた。小さなそれを眺め、その色を数える。
 赤、黄、緑、薄紫、黒、朱、桜、橙。
 いつもと同じ色だった。
「有り難う御座います」
 平坦な秀穂の謝礼に彼は微笑み、どこかへと足早に去っていった。それを目の端で見送ってから再び色とりどりの金平糖に目を落とす。
 この金平糖の意味は恐らく、口止め料。
 いくら口には入らないと言っても、目には入れた事はある。王族の子どもたちがその手に持ち、遊ぶ姿も何度も見た。
 彼等が口に放り込んでいた色は、赤、黄、緑、薄紫、黒、朱、桜、橙。
 そして、蒼と白。
 この2つの色が欠けたこの菓子がどういった意味を持つのかは知らない。知らない振りをし、ここからしばらく立ち去るのが自分の役目なのだろう。
「ああ、秀!」
 途中で足にじゃれついてきたどこぞの猫を片手に拾い上げ、枯れ葉を踏み、行く先も決めずにただ歩いていた自分を呼び止めたのは、小姓頭である嵩森だった。息を切らし、きちんと身だしなみを整えている彼には珍しく襟の合わせが乱れていた。ここから彼が従事する春宮まではそれなりに距離がある。無我夢中で走ってきたということか。
「如何されました、嵩森様」
「蒼龍様を見かけなかったか」
 荒い息を整えながら彼が聞いてきたことには首を横に振った。それを予想していたにもかかわらず嵩森はどこか落胆した様子だ。
「夕餉を済ませた途端、姿を見えなくして……全く、困ったお人だ」
 ため息を吐いた嵩森は、猫を片手に抱きもう片方の手でその口を覆っている秀穂を初めてまともに視界に入れた。
 口を覆われているのに関わらず、彼の腕に抱えられている茶色い猫は嫌がる風でもなく、むしろ喜んでいるようだった。僅かにカリカリと音が彼の手の中で響いていたが、嵩森の耳には届かなかった。
「お前は何をしているのだ」
 手に猫が必死に咀嚼する音を感じつつ、秀穂は茶色い目を上げる。
「……遊んでおりました」
「……一人、でか?」
 少し驚いたような嵩森に秀穂は視線を下げてみせる。そこには、秀穂の幼い手を小さな舌で舐め回す子猫がいる。
 遊び相手を誰か察した彼は、少し呆れたように肩の力を抜いたが、そんな嵩森に構わず秀穂は小さな口を開いた。
 いろはに、金平糖。
 淡々とした子どもの澄んだ歌声は綺麗ではあったが、どこか現実のものとは思えない奇妙な音を含んでいた。それが何の意味もない童唄である所為もあり、その美声はいっそ不気味だ。
 金平糖は甘い、甘いはお砂糖、お砂糖は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、はねるはカエル、カエルは青い。
「青いは、お化け」
 ちりり、と喉元の鈴を鳴らし、彼の唄に色をつけながら子猫が秀穂の手から逃げ出した。それを止める仕草も見せず、ただ唄を止めた子どもの小さな手から、桜色の金平糖が一つ転がり落ちた。
 どこからともなく篠笛の音色が聞こえ始めた。その甘い音色に嵩森がはっとしたように息を呑み、顔を上げた。その音色の先を見つけ、眉間を寄せる。
「蒼龍様……」
 どこか苦しげに主の名を呼ぶ彼も、その音色の意味を知っているのだろう。
 音色の先を見定めた彼はそれに背を向け、何も言わずに戻ってゆく。
 秀穂は彼を見送ることなく、少し先で飛びはね、こちらを振り返り甘く鳴いた子猫を眺めていた。どこかの女官に飼われているのだろうか、首元の大きな銀の鈴が光る。
 綺麗なものは綺麗なほど怪しさを持つ。その妖しさを美しいと思うのか、それとも美しい事が妖しいのか。妖しいと恐れつつもそれに憧れ手を伸ばさずにいられないのは人の性なのかもしれない。
「お化けは、消える」
 僅かに聞こえてきた笛の音は消え、残るは静寂のみだった。

 
「蒼様と千草様が2人で歩いているよ」
 そう、同じ小姓見習達が仕事をする手を止めて色めきだったのに、秀穂も顔を上げた。
 いつも2人でいて、仲が良い。
 周りは彼等兄弟を微笑ましいと賞賛していた。仲良く寄り添い庭を歩く2人はとても綺麗で、2人でいることが当然のように見えた。
 正室の子と側室の子。
 この国の過去にも、こうした兄弟は常に権力闘争の波に呑まれ仲が良いとはほど遠い、むしろ最大の敵だったことは多い。
 けれど、今の王室のこの兄弟は仲が良く、病弱の兄をそっと支えるように弟がいた。
 優しい風がその2人の間を流れてゆくのを遠目で眺め、秀穂は目を細める。
 小姓見習い達は2人に憧憬の眼差しを向けているが、きっと自分が向けているのは羨望の眼差しだ。
 生まれた時から独りだった自分には、親と呼べる者も兄弟と呼べる者もいなかった。ああして、何の警戒もなく笑い合える関係を持てた彼等兄弟がきっと自分は羨ましいのだろう。
 羨ましいと思うと同時に、そんな2人の関係を守りたいとも思う。恐らくこの感情は彼等の付き人の1人としては間違いではない。
 蒼龍は恩人。その恩人の大切な人を守るのも、立派な恩返しの一つになる。
 彼等の、秘められた関係を心の中にしまっておくのも。
 もとより、誰かに言うつもりはなかった。それ以前にその誰かが自分の周りにはいない。言ったところで、そんな戯言を誰が信じるだろう。
 嵩森には個人的に呼び出され、2人の関係について何か知っているかと問われたが秀穂は一言
「ただの見習いである私が、小姓頭である嵩森様が知らぬ事を如何にして知り得ましょう」
 そう答えた秀穂に嵩森は安堵したようだった。口止めをする必要もないと察したのだろう。
「お前は賢く、忠誠心も十二分にあるようだ」と、笑い、小さな子どもの頭を撫でた。嵩森の笑みをその時秀穂は初めて見る事となる。彼は微笑むと目が糸のように細くなるのだと知った。
 そしてもう一つ用があると、彼が口にしたのは「秘術を学ぶ気はないか」という思いがけない言葉だった。
 先日聞いた秀穂の声がその術に非常に向いていると少し熱っぽく彼は語り、影で蒼龍を支える役目を任せたいと言ってきた。思いもよらない誘いだったが、断る理由はどこにもない。
「私でよろしいのでしょうか」
 と、不安をちらつかせた秀穂に嵩森は力強く頷いた。
「お前は成績も良いし体術にも他の小姓見習い達より長けている。それに何より忠誠心がある。お前ほどの逸材はないよ」
 誰かに手放しで褒められたのは初めてで、どう反応すれば良いのか一瞬分からなかったが慌てて頭を下げた。
 お請け致します、と小さな声で言うのが精一杯だった。けれど、そんな秀穂の態度を嵩森は咎めることなく、それどころか小さな手に緑色の懐紙を握らせた。他の者には秘密だ、と言われたその中身は色とりどりの金平糖だった。
 赤、黄、緑、薄紫、黒、朱、桜、橙、そして蒼と白の金平糖が紙の上に転がっている。
「……有り難う御座います」
 何故だろう。
 千草から貰った時はそれほど嬉しくなかったのに、蒼と白が混じっただけのこの金平糖が、何故か宝物のように思えた。
 いつもは自分の口には入れずそこら辺にいた猫や華紬辺りに食べさせていたのだが、肥満になるから3つ程度で止めてくれと狼司に言われてからは、あまりにも溜まった時はいつもの滝の流れが緩やかな浅瀬にそれをばらまき、太陽光にきらきらと反射する様を楽しんでみたり、他の宮の自分より幼い小姓見習い達に配ったりしていた。
 でも、これは何だか誰にもあげたくない。それどころか、食べるのさえ惜しい。
 両足を冷たい川の水に浸しているのに、何故か顔は熱いままだ。この金平糖も貰ったのは一昨日も前の事なのに、誰もいないこのいつもの場所に来ては懐から取り出し、数を数えて眺めるのが最近の習慣になってしまっていた。
 日光に照らされ、きらきらと光るそれはとても綺麗だ。
 嵩森に褒められたのが初めてだったからもあるのだろう。今日の笛の稽古の時も、笛は秀穂にとっては一番不得手なものだったが、嵩森は厳しくも丁寧に教えてくれていた気がする。その後の舞の稽古を教えてくれた女性は何かにつけて扇で生徒の体を叩いていた。叩かれた足の傷が水に触れ、小さく痛む。
 嵩森は、失敗しても自分たちに暴力はふるわない。
 凄い方だ。そう思う。
 けれど、悲しい事に彼に見てもらっている笛は自分にとって一番苦手な科目だった。他の小姓見習い達は秀穂が外れた音を出すたびに忍び笑い、嵩森も少し残念そうな顔をする。
 練習をしないといけない、と笛を持ち歩いてたまにここでも吹いているものの、なかなか上達しなかった。
 今も笛に口を寄せ、恐る恐る音律をなぞるが、やはり上手くは吹けない。音が勝手に飛び跳ねてしまう。
 もう少しでメロディを奏で終わるというところで、また音が跳ねてしまい、思わずため息を吐いてしまった。
「もう少しだったのに」
 そんな時、どこからか自分の心境と同じ声が聞こえ、はっと顔を上げれば思わぬ人物がそこに立っていた。
「千草様」
「笛の音がするから誰だろうと思って来たら、君だったんだ」
 苦笑する彼は、宮廷内でも名高い笛の名手だ。そんな相手に自分の稚拙な音を聞かれてしまったのかと思うと、今すぐこの滝壺に飛び込みたい衝動に駆られたが、彼は自分の隣りに座り、片手を差し出してくる。
「笛、貸してくれ」
 それに従い自分の笛を慌てて彼のその手に置くと、彼はそれを口に寄せ、のびのびとした音を奏で始めた。自分が吹いていた笛とは思えないほどに立派な音色で、唖然としてしまう。
 自分の力不足をまざまざと見せつけられてしまい、少し情けない気分にはなったが彼の音は力強く、安心して耳を任せられる音色で思わず聞き惚れてしまう。
「すごい」
 そう呟いた秀穂に彼は悪戯っぽく目を細め、曲を奏で続けた。秀穂にはまだ難しい曲調だというのに、彼は楽々と吹き続けた。その音色は風に溶け青い空へと吸い込まれてゆく。この音に色を付けるとすれば、間違いなく蒼だ。
 そう思うのは、彼があの人を想って吹いているからなのかもしれない。
「君は、何も言わないんだな」
 曲が途切れ、しばらく無言だった彼がぽつりと言葉を落とし、それに秀穂も顔を上げる。目を上げた千草の黒い瞳と眼が合い、無意識のうちに唇を噛んでいた。
 何か言って欲しいような、何も言って欲しくないような、そんな黒い眼に言える言葉など何もない。
「私は、何も知りません」
 笛を返して貰いながら静かに言えば、千草は苦笑した。
「そうか」
「はい」
「……私には欲しいものがあるんだ。手に入れたらどんな相手にも渡したくない、何をしても手放したくない、そんなものが、君にはある?」
 そう問われ、一瞬先程まで眺めていた金平糖の事を思い出したが、すぐにそれは払拭した。
「でも、他の人はそれを知ったらきっと、悲しむだろう。だから………」
 川の水の中に足を浸した彼の横顔はどこか悲しげで。
「でもこれから、ここで兄上に会うんだ」
 千草の嬉しそうな笑みは何度も見た事がある。けれど、どことなく淋しげなのはきっと見間違いではない。
 立ち去る前に秀穂は先程の緑色の懐紙を取り出し、膝の上に広げた。その子どもの奇妙な行動に千草もその紙の上を覗き込み、首を傾げる。
 赤や黄色、緑など色とりどりの金平糖の中から、蒼と白だけ手に取り、彼の前に差し出した。
「え?」
 戸惑いに瞳を揺らした彼に、秀穂は軽く笑ってみせる。今まで笑みなどそれに似た形さえ見せなかった子供の表情に、千草は少し目を見開く。
「蒼龍様と召し上がって下さい。私は仕事があるので戻ります」
「あ……」
 残りの菓子を再び懐にしまい、立ち上がった秀穂に千草は微笑んだ。今度は、満面の笑みで。
「ありがとう」
「私は、何も」
「今度、お礼に君に笛を教えてあげよう。名人に仕立て上げてあげるから」
「……有り難う御座います」
 そのまま、さっさと立ち去れば良かったのだ。
 けれど、彼の見送りを受け、自分の小さな体が茂みに隠れただろうところで思わず足を止めていた。
 何となく蒼龍を、見たいと思ったのだ。あの綺麗な白い髪を一目見てから帰りたかった。小さな憧れが、その足を止めさせた。
 一目見ればそれで充分だと、一目見たらすぐに帰ろうと心の中で呟き、木の陰に座り込み、その時を待った。見つかったら怒られるのは覚悟の上。
「兄上」
 来た。
 千草の嬉しげな呼びかけが耳に入り、ドキリと心臓が跳ねる。ここからなら、いつも遠巻きに見ていた彼の姿よりずっと近い。きっと顔の造形もはっきりと見えるはず。
 緊張と期待に高鳴る胸を押さえながら、音をたてないようにそろそろを立ち上がり、後ろを振り返る。
 そして、息を呑んだ。
 あの白い髪を愛しげに撫でる千草の手を彼は掴み、自分の頬に寄せて微笑んでいる。くすくすという2人の甘い笑い声がここまで聞こえてきた。白と黒の髪が混じり合い、それを淡い太陽の光が照らす。
 その二つの影が重なったところで、秀穂は踵を返して走り出していた。
 今のは、何だ。
 いや、自分は知っていたはずだ。あの2人の関係は恋仲……というものだと文字と意味だけは理解していた。だが、目の前で見てしまうと。
 心臓が重苦しい鼓動を打ち、眩暈がする。
 蒼龍は神のような存在だと、今まで言い聞かせられてきたのだ。神とまでは思ってはいなかったが、敬うべき相手であり存在だと思っていた。自分が蒼や白に憧れていた一因も、そこにある。いつの間にか絶対的な存在になっていたのかもしれない。だが、そんな彼が。
 確かに綺麗だ。とても、綺麗だった、2人とも。
 ……でも。
 仕事場まで全速力で走ってきたからか、肺が熱い。げほりと咳をすると、障子があき、他の小姓見習達が顔を出し、何故かにやりと嫌な笑みを浮かべた。
「どこ行ってたんだよ、秀穂。お前、掃除残ってんだぞ」
 どこからか飛んできた薄汚れた雑巾が顔に当たり、反射的に手で庇うと、笑い声が飛んできた。
「お前汚いな……掃除してやろうか」
 全速力で走ってきた所為だろう、袴の裾が土で汚れているのを見咎め、1人が手に持っていたバケツの水を秀穂にかける。
 ばしゃりと、抵抗する間もなく頭からびしょ濡れになったのに、秀穂は放心したようにその場に突っ立っているだけだ。それに苛立ちを覚えた1人が、彼の元まで寄り、その襟を思いきり掴み、引っ張った。
「つーかお前、最近生意気……」
 その拍子に、懐に入れていた緑色の懐紙がこぼれ落ち、そこでようやく秀穂の目に光が戻り、それを回避しようと手を伸ばしたが無駄だった。伸ばした指先に一つ跳ね、落ちる。
 懐紙からこぼれ落ちた金平糖は水に濡れた地面にばらまかれ、地肌を鮮やかに飾った。
 あ。
 一つも救う事の出来なかった手を、しばらく動かす事が出来ない。
 金平糖と共に自分が大切にしていた何かも守れなかった、そんな無力感に声が出せなかった。
「なんだこれ、金平糖……?なんで、こんなものお前が持って」
 秀穂の首元を掴んでいた少年は思いがけない状況に少し戸惑い、菓子と秀穂を見比べたが、すべての原因となった彼の顎を反射的に掴み、その手に思いきり力を入れる。相手は一瞬何が起こっているのか分からなかったようだが、骨が軋む音を感じてようやく恐怖の表情を浮かべる。
 しかし、その顔を見ても秀穂は怒りに表情を歪める事もなく、無表情でその手に力を入れ続けた。
「喋るな、二度と話せなくするぞ」
 淡々と威嚇したが、心は一向に晴れない。分かっている、これは八つ当たりだ。ただの。
 そう自覚してすぐに彼から手を離し、力を入れすぎて痺れた手をぶらりと下ろす。相手はその場に崩れ落ちた。その彼の手元には、赤や黄色の金平糖が虚しく散っていた。でも、その中に蒼と白はない。
「……すまない」
 秀穂の小さな謝罪に、相手は片手で口元を押さえたまま顔を上げた。
「ここは、俺が後で掃除するからそのままでいい」
 取り敢えず、着替えるか。
 ふらふらとそこから離れると、嵩森がやってきた。騒ぎを聞きつけたのだろうか。
「秀?どうした、その姿は」
「川で、足を滑らせました。着替えてきます」
 そう答え、彼が何かを言う前に歩き去る。きっと、これから彼は自分のしでかした事を聞くはずだ。今さっき自分が手を出した相手はどこかの名家からやってきた息子だと聞いている。彼が騒げば自分はここには言われなくなるだろう。
 自分は結局、そういう立場の人間だ。
 何を、慢心していたのだろう。
 自室に戻り、替えの仕事着を着て、濡れた髪を適当に拭いた。3年伸ばした長い髪はなかなか乾かない。
 それでもなんとか着替えを済ませ、そこに戻れば自分が片付けると言ったのに、すでに綺麗に片付けられた後で、誰もいなかった。
 嵩森が彼等に何か言ったのだろうか。まぁ、そうなんだろう。
 竹箒で適当に集められ、捨てられていった金平糖を想像すると少し眉間を寄せてしまった。
「秀穂」
 その時、突然背後から声を掛けられ、ぎくりと身を竦めた。人の気配はある程度察知出来るようになっていたのに、まさか気付かないなんて。
 慌てて振り返ると、少し戸惑うような表情を見せた嵩森が、その手にこの間自ら秀穂に渡したあの緑色の懐紙があった。
「もう、食べられないけれど、拾い集めておいたよ」
 そう、彼は優しく言い、それを秀穂の前に差し出してきた。わざわざ、目線の高さになるようにその膝を折って。
 緑色の懐紙の上には、土に汚れ光を失った菓子が転がっていた。記憶より少ないのは、きっと見つけられないものもあったからだろう。
「嵩森様……」
「一つ、聞いてもいいか。どうして、すぐに食べなかった?」
 それに手を伸ばしかけていた秀穂は彼の問いに動きを止める。彼は、甘い菓子は子どもの好物だと思って渡してきた。だから、さっさと食べてしまうと思っていたに違いない。
「嫌いだったか?」
 優しい音で問われ、秀穂はうつむき首を横に振る。
 嫌いじゃない。初めてこれを食べた時は、儚い甘さに感動した。その星に似た形も綺麗で、とても。
 その反応に、更に嵩森は困惑したようだった。
「じゃあ、どうして……まぁ、金平糖は日持ちするから良いけどな」
 日持ちなんて考えた事はなかった。
 彼は、その中に青と白だけがない事に気付いていない。色なんて数えた事がないのかもしれない。
 蒼と白。その中でも、蒼は特に秀穂にとっては微妙な感情を湧き上がらせる色だった。一番憧れる色だけれど、一番嫌いな色。
「綺麗、だったから……」
 初めてだった。あの色を手に取ったのは。太陽光にキラキラと光るその様に、蒼という色を好きになれるかもしれないと何となく思った。けれど、その色を彼に渡してしまい、やはり自分にはこれを手に取る資格はないのだと思い知らされる。
 手に入れてはいけない色だというのに、どうして自分はその色を身につけているんだろう。
 蒼と白が欠けた金平糖を受け取り、何だかとても。
 そう、とても。
 ぐしゃりとそれを手の中に握ると、いくつかの星がこぼれ落ち、乾いた音をたてて地に落ちた。
 それと共に、こぼれ落ちたのは小さな涙の滴だった。
「秀穂?」
 ひくり、と小さくしゃくり上げた子どもに嵩森も流石に驚いた。今まで、彼が周りの小姓見習達に軽い嫌がらせをされていたことも知っている。厳しい修練をしている事も知っている。その中で、彼は涙など一度も見せなかったのに。
 この菓子一つ駄目になっただけで、泣き始めるとは思わなかったから、慌てた。
「秀穂、金平糖ならいつでもまたあげるから」
 小さな両手で目を覆い、手では拭いきれない涙を彼は細い腕で押さえていた。その腕にはいくつも傷や痣が見られる。痕になっているものもあれば、まだ痛々しいものもあった。
 彼は大きな声を上げる事はなかったが、子どもらしい泣き方で鼻を啜り上げていた。ぼろぼろと大粒の涙を流し始めたところでようやく、嵩森は彼に手を伸ばす。子どもたちの面倒をみるのは自分の役目だったから、こうして泣くのを宥めるのも彼にとっては慣れたものだった。
 ただ、秀穂が泣いたというのは少し驚かされたけれど。
 泣き続ける子どもの背を宥めるように撫でた嵩森は、今腕に抱いてる彼もやはり子どもだった事を知り、少し安堵していた。


 目が痛い。
 寸前まで泣いていた所為だ。
 己の失態に秀穂はまた泣きそうになったが、その熱を持った眼に川の冷たい水を浴びせてやり過ごした。
 嵩森に宥められ、その後泣き疲れてしまい寝てしまったらしく、気付いたら自室で寝かせられていた。周りの小姓見習い達も布団を並べて寝ていたから、夜中なのだろうが、あまりの事に慌ててその部屋を抜け出していつもの場所に来た。
 寝汗に濡れた着物を脱いで冷たい水に全身を浸し、ようやく冷静さを取り戻す事が出来て、ほっと息を吐く。
 どうして、自分はあの時泣いてしまったのだろう。
 冷たい水をすくい上げ、それが月の光に揺らめいたのを見てそれを川へと戻した。
 あの金平糖を駄目にしてしまったから……だろうか。それとも、あの2人のあの様子を見てしまったからか。いや、あの2人がああいう関係だというのは前から知っていた事。今更衝撃を受けるのはおかしい。
 目が痛い。
 泣いていた所為だけではないのは分かっている。コンタクトをつけているのに、そのまま眠ってしまった所為だ。
 今は外しているが、特に視力が悪いわけでもないのにそれをつけているのにはちゃんと理由はある。
 水の中に寝転んで、頼りない浮遊感に身を任せ、木々の間から見える蒼い月を見上げた。聞こえる音は水音と木々のざわめき、それだけだった。
 水面に映る蒼い月に何となく手を伸ばすと、それは揺らめき月の姿を崩す。それが妙に物悲しかったが、すぐに気を取り直した。
 部屋を抜け出して夜中にこんなところにいると知られたら恐らく嵩森に怒られる。なるべく早く帰ろう、と身を起こした。
「君は……」
 その時、がさりという茂みを掻き分ける音がし、秀穂はやはり誰かに見付かってしまったかとゆるりと振り返る。そして、息を呑んだ。
 蒼い月が照らしていたのは、白い髪を持った青年。
 白い髪などそう珍しいものではない。だからこそ、あの人は神と崇められているのだから。
 だから、彼以外にありえない。
 薄い青色の着物を着て、茫然と立っていたのは
「蒼龍、様」



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