「翔?」
穂高は僅かな物音に反応し、部屋に入ってきた人物の名前を呼ぶ。この空気は翔だ。学校から帰ってきたのだ。けれど、何故か雰囲気がおかしい。
「どうした、翔」
「穂高さん・・・・・・っ!」
切羽詰った声で呼び、広い胸に飛び込んでくる翔の行動に穂高は驚かずにはいられなかった。
こんな事、今まで一度も無かったのだ。ただの一度も。
初めて会った時、彼は自分に甘えようとはしなかったし、例の事件があった後は自分達に心配をかけまいと健気な笑顔を絶やさなかった。笑顔、というのは見えているわけではないけれど。
そんな翔が、自分に震える腕で抱きついてきている。
「何か、あったのか?」
この怯え振りはただ事じゃない。
手探りで彼の頭をみつけ、そっと撫でると彼の腕に力が入る。
「怖いんだ・・・・・・どうしよう、穂高さん、怖い、怖い・・・・・・」
怖い、と何度も繰り返す彼に穂高は眉を寄せた。
「・・・・・・蒼一郎に、会ったのか」
昨日の今日だ。そう判断するのが正しいだろう。
穂高の低い声に翔は弱々しい声で「ごめんなさい」と謝る。
「でも、俺知らない、あの人誰?俺、俺が、刺したのはあの人じゃない」
「翔、落ち着いてくれ」
「俺が、殺したかったのはあの人じゃない!」
脳裡に蘇るのは、自分や姉を容赦なく殴り、犯し、罵倒しせせら笑ったあの獣のような男。けれど今日見たのはそんな男ではなかった。
わけの解からない恐怖に悲痛な声を吐き出した翔の細い肩に穂高はただ手を置くしかない。
「翔・・・・・・」
「あの人、誰なんだ!なぁ、穂高さん!!嫌だ、怖い、俺が刺したのは誰だ!俺が殺したかったのは、誰!?」
解からなくなってきた。
ぐるぐると過去の映像が頭の中に回るけれど、さっき病院で見てきた人物の姿はどこにも出てこない。
確かに彼は自分の血縁者。それは解かる。自分に顔が似ていた。
「俺、何も知らない・・・・・・怖いよ、穂高さん・・・・・・」
漠然とした恐怖に怯える翔をただ抱き締めるしかなく、それでも震えが止まらない小さな体に自分の無力さを穂高は思い知らされる。
「もう、会いに行くなよ。大丈夫、何があっても俺がついてるから」
こんな言葉、効果が無いのは解かっている。それでも
「穂高さん・・・・・・でも、俺は」
「あ、何?それとも、こんな眼の見えない奴の力なんて信用出来ない?」
「違・・・・・・穂高さんは強いよ、すごく」
「俺の力を認めてくれるんなら、俺自身のことも信用してくれる?」
「穂高さん?」
「俺はお前が好きだよ。可愛いし、いつも一生懸命で、養子にして良かったと心の底から思ってる。俺は、お前が俺の側で幸せになるのを見守っていたい」
だから。
そんな接続詞を残して翔の肩を抱いていた手に力が入る。
「昔の事だ。もう、忘れてしまえ」
それは、ずっと言ってしまいたかったけれど言えなかった言葉。
忘れてしまえ。
びくりと腕の中の翔の身体が揺れたのを感じたが、それでも穂高は腕の力を緩めなかった。
過去に縛られていても、過去に縋って生きている翔には酷な言葉だということは解かっている。
「もう、充分だろ?お前は充分梨紅を守って、蒼一郎を憎んだ」
「穂高、さん」
「お前は、俺より眼が見えていない。このままじゃ駄目だ」
黒いコートのポケットの中に入っているナイフがことりと床に落ちる音がした。視覚を失い聴覚が過敏になっている穂高の耳ならきっとそれがどんな音でどういう意味を持つのかすぐに察したはずだ。
けれど、穂高はただ黙って翔の頭を撫でている。
その優しさに翔はただ眼を閉じ、心の中に渦巻く恐怖を押し殺す事しか出来なかった。
「お前は、幸せになることだけを考えてくれ」
唇を噛み締めた時、穂高がぽつりと落とした懇願に、無理だとこっそり呟いて。
だって、姉さんが手に入れられなかったものを俺が手に入れるわけにはいかないじゃないか。
「なぁ、柊。幸せってなんだと思う?」
「へ?」
放課後、図書室の掃除中ほうき片手に翔が聞いて来た質問に柊は驚いたように声を上げた。同時に、図書室の住人になっていた遠也も翔の突然の問いに本から顔を上げる。
「な、何だよ、日向。いきなり哲学的だな」
「んー、いや、何かよくわかんなくて。なぁ、幸せってなんだと思う?つーか、柊はどういう時に幸せだなーって思う?」
「んな事、いきなり言われてもな・・・・・・あ、昨日の夕飯のカレーが美味かった、幸せだった」
「なんだそれ、安い幸せだなぁ」
「庶民っぽくていいだろ?後、部活でいいタイム出せた時は幸せかも」
「・・・・・・それ、幸せとは違うんじゃ」
「あ、後、す・・・・・・好きな子抱き締められたら・・・・・・幸せかも」
遠也は黙ってクラスメイトの話を聞いていたが、突然の柊の口篭った言葉に思わずオイオイ、と心の中で突っ込みを入れていた。まさか、こんなところで翔に告白する気なのか、この馬鹿は。
翔は好きな子?と小首を傾げる。その動作を見る限り、それが自分である自覚はないらしい。まったく、呆れてしまう。
「柊、日向、図書室ではあまり騒がないで下さい」
柊の頭を冷やすつもりで冷たい声で水をさしてやると、ぎくりと柊の背が引き攣ったのが解かった。随分と面白い反応をしてくれる。
「お、俺ッほうき片付けてくるから!」
翔が持っていたほうきもひったくって図書室から出て行く彼を見送り、遠也は本を閉じ、翔は苦笑する。
「日向、あいつのいう事はあまり」
「遠也は、幸せ?」
突然の問いに遠也は口を噤む羽目になる。
「・・・・・・何を馬鹿な事を聞いてくるんです」
「それは、わざわざ言わなくてもいいくらい幸せだからそう言ってるのか?」
「・・・・・・さぁ、どうでしょう」
夕日を背に聞いて来た翔の笑みは怖いほどに透明で、遠也はただ言葉を濁して逃げるしか術が無かった。
気まずい気分で視線を下げたら、何を思ったのか翔の腕が遠也の身体を包み、これでもかというくらいに力任せに抱き締められる。
「日向!?」
「んー・・・・・・なんも感じない」
そう呟いた翔はすぐに遠也の身体を離し、わけが解からないと言いたげな遠也に向かって笑った。
「柊が、好きな子抱き締めたら幸せだっていうから。俺、遠也のこと結構好きなんだけどな?とくに何も思わなかった」
「俺に対する好きが恋愛の好きじゃないからでしょうが」
「・・・・・・なるほど」
「日向」
まったく貴方という人は、と遠也が小言を口にしようとした時翔はくるりと後ろを振り返る。
「さっきの、柊の言ってたの、聞いてた?」
「ええ、まぁ、大方聞いてはいましたが」
「昨日の夕飯のカレーが美味かった、って。何か、柊がうらやましかったかな」
「はい?」
「安心して帰れる家と、一緒にご飯食べれる家族がいるから美味いんだよなきっと。そう思ったらこいつ、本当に幸せなんだって」
「日向・・・・・・」
「俺は、昨日の夕飯のカレーが美味かったなんて思ったこと一度もないし」
「何か、ありましたか」
翔がこんな風に感情を吐露するのは珍しいことだった。初めて会ったときから自分のことはあまり話さなかった彼が、こんな事を自分に言うなんて。
「何も、ない」
それは嘘だ。
そう思ったが、遠也は何も言わずに窓の外を眺める翔の横顔を無言で見つめた。
「あ、でも大丈夫だから。俺今は幸せだよ?穂高さんもいるし遠也もいるしー、大切な友達沢山いるし」
「日向」
「ありがとう、遠也。心配してくれて。俺、もう帰るわ」
ひらっと手を振って翔は遠也に背を向けた。
遠い。
遠也は何となくその背を見てそう思った。この3年、常に彼と共にいたが、結局翔はどこまで自分の存在を受け入れてくれたのか。翔は肝心なところで厚い壁を作り、干渉を拒絶する。
本当に、遠い。
「あれ、日向は?」
ホウキを片付けてきた柊の間抜けな問いに軽い苛立ちを感じたが、八つ当たりは大人げがなさすぎるだろうと、ため息を吐くだけにした。
「帰りましたよ」
「えー。マジで。一緒に帰ろうと思ったのに。何かアイツ最近付き合い悪いのな」
確かに、翔は最近授業が終わるとさっさと帰っている。遠也もそれには疑問を持っていたが、彼の言葉に同意はしなかった。
「塾でも行ってるんじゃないですか」
「えぇ!マジで?もしかしてレベル高いところ受けるのかな……」
「……」
恋する男は無駄にハイテンションだ。
こんな男にあの翔の相手が務まるとも思えず、遠也は彼の失恋をどこかで確信していた。まぁ、男という辺りで決まりきったオチだろうが。
「毎日ずっとあそこに座っているんですよ、昼間から暗くなるまで。誰かを待っているんでしょうかねぇ」
看護士の説明を聞きながら、翔は遠くからベンチに座りどこかを眺めている頼りない背を見つめた。
ここのところほぼ毎日、放課後になるとこの病院に来て父の背を見つめていた。彼には気付かれないように、暗くなり彼が病室へと帰るまで。
本当は、毎日彼を殺そうと決意をして病院まで足を運んでいた。けれど、彼の姿を見ると何故かその気が失せてしまう。彼の色素の薄い髪に白い肌は全体的に儚げな印象を与え、今にも冬の冷気に溶け込んでしまうのではないかと思うほどで、そんな背に刃物を突き立てる勇気はなかった。
ただ、その背を見つめるだけ。
「……迷っているのか」
「え?」
夕飯後に穂高との手合わせを終えたところで、突然彼がそんな事を言ってきた。何のことだか解からなかったが、無意識にぎくりと体が震えた。
「最近、お前の空気が揺らいでいる」
「……思春期ですから」
「毎日消毒薬の匂いを漂わせて帰って来ているのと関係があるのか。微かだから、お前が怪我をしたというわけではないんだろう」
穂高の淡々とした分析に思わず眼を見開いた。全て見抜かれているのだ、彼には。
「……翔、会いに行くなって言ったよな?」
呆れたようなため息に、持っていたタオルを強く握り締めてしまう。彼には心配をかけているというのに、黙って父親のところに通っていた自分の行動は責められても仕方ない。
「ごめん、穂高さん……でも、俺」
「まぁ、好きにするといい。俺は止めないよ、翔」
「穂高さん」
「お前は自覚が無いかもしれないけど、お前は確実に強くなっている。ちゃんと成長出来てるから、その事は自信持っとけ?」
何て言ったってこの俺が師事したんだし?
穂高はそう言って笑い、道場を後にする。
広い空間に一人になり、深呼吸をした。自分が今後どうするか、それが最近の悩みであった。
どう身を置こうが、4月になれば例の学校へと進み、軍隊へと身を投じる事は決まっている。この平凡な生活からは別れを告げて。
だからこそ、悩んでいるのだ。
もし、この学校へと進まない未来があるのなら、翔は間違いなく父親の元へ行こうなどとは考えなかった。ここでの穂高との生活はようやく手に入れた平穏。手放したくない。
けれど、この生活も手放さなくてはいけなくなり……それなら、いっそ、と考えてしまったのだが、あの父親を殺す気はもうほとんど無かった。
あの頃より大きな拳を握れるようになった手を見つめ、守り損ねた彼女の顔を思い出す。
姉だったら、どうしただろうか。彼女だったら、優しかったから何の迷いも無く父を許していたかもしれない。けれど、自分は無理だ。姉を死に追いやり自分に恐怖を植え付けた彼を許すことは、まだ出来ない。どちらにしろ、時間が必要だ。
しかし、その時間がない。
「あー」
参った。
木の床に寝そべり、同じく木で出来た天井を眺めた。
「ねぇ、さん」
ああ、やっぱりあの時貴方の後を追えていたら、こんなに悩む事は無かったのに。
本当に、全てを忘れられるものなら忘れてしまいたい。
けれど、全てを忘れるというのは彼女のことも忘れてしまうという事で。自分が覚えている彼女が流した涙、血、苦痛の声全てが無かった事にされるのは、彼女が生きていたことそのものを無かった事にするのと同義だ。
あの時は世間がマスコミに踊らされるように自分達の事件を興味津々に聞いていたが、今ではこの事件を覚えている人間などほぼいないだろう。だから、せめて自分だけはこれを記憶し、思い出すことで彼女の存在をこの世に留めておきたい。
それが自分がまだ生き繋いでいる理由。
遠也には何かあったかと聞かれたが、本当の事を言うつもりは無かった。彼は自分の過去を多少知っていて、その上での質問だったのだろうが……彼に全てを話し、巻き込むのは躊躇われた。
巻き込むべき人間は、別にいる。
「助けてあげないの」
穂高が一人部屋に戻ってきたところで、まほろの声が聞こえた。
気配を感じないのは流石特殊部隊というべきか。突然の来訪者に穂高は息を吐く。
まほろは老若男女自由自在に変装が出来、この家には女性の姿で出入りをしている。その所為で翔は“彼”を“彼女”だと思っているようだった。今聞こえてきた声も女性の声。七色の声を持つと賞賛されているその技は今日も健在ということだ。
「来てたのか、まほろ」
「翔くん、助けてやんねーの?」
次に聞こえたのは彼の本当の声。どこか非難めいた口調だ。
「あの子が助けを求めてきたら、助けるさ」
「翔くんが俺らにそんなこと言ってくるわけねーだろ。大体、あの学校入りもそうだ。お前、あの学校にあの子を取られて平気なのかよ。あの戦場にあの子を行かせるつもりか?」
あの戦場。
脳裡に浮かんだ情景に穂高は思わず眉を寄せていた。最後に見たのは戦場で、それは鮮明に記憶に残っている。忘れようにも忘れられない、最後にこの眼で見た光景としては最悪の映像だ。
「……俺、碓井将軍閣下に話してみようと思う」
「……っまほろ!」
突然出された名前に穂高は思わず声を上げていた。特殊部隊と元陸軍所属であった穂高の共通の上司であった碓井は当時は准将だったが、今では将軍だ。
「いいだろ、あの人だって無関係者ってわけじゃない。お前の目の事もある、拒否出来るわけがないだろうしな」
「しかし……俺は、もうあの人と関わり合いたくない」
苦い思い出が色々と脳裡を駆け巡り、穂高は頭を振る。
「それに、蒼の事も、ある」
「それが、最大の切り札になるだろ」
「馬鹿を言うな!……もう帰れ、まほろ」
頭が痛くなってきた。とぼやきながら額を押さえると、
「これしか、無いぞ」
そんな声と共にまほろの気配が消えた。
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