後で話す。
 何故、そんなことを言ってしまったのか今となっては解からない。和泉は自分の席に着き、一人頬杖をついていた。まだ翔は教室には戻ってきていないらしい、と彼の姿を探してしまった自分に舌打ちした。
 そんな時、黒い出席簿片手に教室におどおどと入ってきたのは何故か御巫だ。今日はもう英語の授業はないはずだ、とジッと彼を見てしまったのは失敗だった。その視線に気付いた御巫が親しげに自分の方に近寄ってくる。
「何だかわからないけど、次の時間は自習になるから、クラスから誰も出さないよう見張っていろって言われたんだよ」
 聞いても無いのに事情を説明した彼に、和泉は顔を背ける。その時、校内放送が入った。
『生徒諸君に告ぐ。外出禁止命令が出た。これから命令解除放送が出るまで、校舎内から出ないように。ただちに自分の教室へ戻り、鍵をかけて決して一人では行動しないように』
 早口で告げられたことにクラスメイト達は騒然となる。理由も無い突然の指示に困惑し、お互いの顔を眺めていた。昼休み、当然クラスメイトは全員揃っているわけではない。
「えー!つか、遠也たちいないんだけどっ!迎えに行った方がいいの?」
 大志が遠くで騒いでいる中、和泉は席からおもむろに立ち上がり、教室から出ようとしたが、それを木戸が見咎めた。
「おい、和泉。どこに行くんだ」
 学級委員である彼は責任感が強い。彼に呼び止められ、和泉は肩を竦めてみせる。
「寮に戻る。榎木たちがこの放送を聞いていないかもしれないからな」
 珍しく友人を心配しているらしい和泉の態度は嘘くさいものだったが、木戸はそれに納得したらしい。「あぁ」と小さく頷き、そして
「なら俺も一緒に行く」
「は?」
「一人で行動するなと放送で言われただろ」
 思わぬ展開に和泉は眉間を寄せたが、木戸は引くつもりもないらしく、それを説き伏せるほど和泉も話術に長けてはいなかった。
「好きにしろ」
 ち、と舌打ちをして迷惑だときっちり主張し、和泉は教室から出た。木戸はそれにも臆さず、近くのクラスメイトに鍵をかけるよう指示をしていた。その間、和泉はさっさと姿を消すことも出来たが、生徒会の放送が気になり、腰元の武器を確認する時間にしていた。何かが起こったことは間違いない。
 あの放送のおかげで人とすれ違うことは殆どなかった。たまに見回りの生徒会員らしき人物に教室に早く戻れ、と急かされたが、走る二人に強く言わずとも教室に戻るつもりだと思ったのか、それだけだった。
「俺南寮初めてかも」
 寮につくと木戸は物珍しそうに周りを見、それを気にする事無く和泉は彼らの部屋へと足を進めた。まず先に、榎木の部屋へと向かう。ノックをしても返事は無く、木戸は「寝てるんじゃないか」とのん気な意見を口にする。鍵を開けずに閉じこもっているのなら、何の問題も無い。
 だが、和泉の目的は彼らの生存確認ではない。問答無用でドアを蹴り開けた彼とその激しい音に、木戸はぎょっとさせられた。
「い、和泉っ!?」
 木戸の驚愕の声と被り、僅かに怯えたような声が上がり、それに和泉は暗い部屋の中に足を進めた。
「居留守か。良い度胸している」
 ふ、と笑いベッドの上で寛いでいた榎木の前に立ちはだかった。彼は怯えた目で和泉を見上げている。普段とは違う二人の様子に木戸は違和感を覚えた。普段は、和泉が彼らに話しかけることは殆どなく、榎木は彼に媚びへつらっていた。しかし、今は榎木にとって和泉は恐怖の対象らしい。
「その様子じゃ、昨日のことは覚えているようだな」
 片眉を上げた和泉に榎木はぎくりと肩を揺らす。解かりやすい肯定だった。瞬間、和泉は目の前で怯える相手を躊躇せず殴りつけていた。その行動に驚かされたのは背後にいた木戸だ。和泉は、特に怒りや憎しみの表情も出さず、彼を殴ったのだ。そういう前触れがあれば、木戸も対処しようがあったのだが。
「和泉!おい、お前何して……!」
 慌てて彼らの間に割り込んだのは、僅かな光に照らされた榎木の顔が既に青痣だらけの見るに耐えないものになっていたからだ。これ以上殴ったら、一番手軽で暴力的な整形手術になる。
「落ち着け、何があったかは知らないけど、暴力は良くない」
 片手を和泉の前に突き出して説き伏せようとする彼に、和泉はようやく眉間を寄せ、不快げな顔を見せる。それが、いつもは嫌っている木戸の背にこれ幸いと隠れた榎木への侮蔑だということに木戸は気付かなかった。
「一応軍人の癖に、非暴力主義者か。お前、馬鹿だな」
「一体、何があったんだ」
「それは俺がこれから聞くことだ」
 どけ、と木戸の体を力ずくで避け、和泉は榎木の首元を掴み上げる。瞬間、榎木の口から情けない悲鳴が漏れたが、それに同情することなく和泉は冷たく彼を睨んだ。
「で?あれは誰に指示された?」
「お、覚えてないんだ……!本当だ!」
 震えながら訴える榎木の声は木戸には真実に聞こえたが、和泉は片眉を上げ、彼の首から手を放した。その場に倒れこんだ榎木の前に、和泉は詰め寄る。それを固唾を呑んで見守っている木戸の鼻に、不意に奇妙な香りが触れた。香のような香りだ。それに気をとられていたが、すぐに榎木が気を失っているのに気付く。ぐったりとしている彼に目を見開くが、木戸の意識も急激に薄れていくのが解かった。
「……昨日の、17時頃だ。誰とどこで何をしていた?」
 木戸が眠りに落ちたのを気配で感じてから、和泉は催眠状態に入った榎木に語りかける。勿論、和泉も榎木が覚えているとは思っていなかった。最初からこうするつもりだったのだ。
「明石と、いる。歩いていた」
 榎木の半開きの目は床をぼんやりと見ていたが、口は和泉が望んだように動いてくれる。
「どこを?」
「校舎近くだ。寮に帰るつもりだ……その時、男と会った」
 男。
 目的の相手に和泉は心がはやるのを感じたが、それをどうにか押さえ、「誰だ?」と問う。
「……知らない男だ。イライラしてるなら、良い事を教えてやろう、これから来る女は橘の名を出せば君達の言う事は何でも聞くぞ」
 ぼそぼそと榎木が告げた言葉は、その男が言った言葉だろう。そして、それが翔の事を指していることも和泉はすぐに解かった。
「……それで、どうした」
 翔の様子から、特に大事には至らなかったようだが、和泉の声は自然と低くなっていた。
「失敗した。後少しってところで、甲賀に邪魔された」
 そうか、甲賀に助けられたのか。
 和泉は納得しつつ、その先を急かす。これからが、自分にとっては本題だ。
「その後、どうした?」
「その後……あの人が、それなら、君達を苛立たせる本人に仕返しをすればいい、と箱をくれた」
 あの忌々しい注射が入った箱のことか。
 眉間に力が入るのが解かったが、じわじわと腹部を熱くする怒りを堪え、和泉は先を促した。
「その後、どうした」
「その後……お前を襲った」
 催眠状態にしては妙にはっきりとした返答に、和泉は苛立ち紛れに髪を引っ張っていた手を止めた。ハッと榎木に視線をやると、さっきまで虚ろだった眼が和泉をジッと見つめている。その冷たい温度にしまったと思ったが遅かった。普段の榎木からは考えられない速さで、両手で和泉の首を捉え、強く締め上げる。反動で床に転がった痛みと、息苦しさに和泉は目を見開く。
「来ると思ってたよ、秀穂」
 榎木が知るはずのない名を彼の口から告げられ、和泉は敵の策にまんまと嵌ってしまっていたことに気付き、自分の浅はかさを呪った。
「お、前っ……!」
「君はこれから邪魔になる。ここで死んでおいてくれ」
 ぐっと更に首を絞める手に力が加わり、和泉は両目を開けているのも辛くなってきた。それでもどうにか手を伸ばし、相手の首を絞めようとその首に手を巻きつけたが、力が一向に入らない。鼻の奥が妙に重くなり、その重さが段々脳のほうへと上がっていくのが解かる。それが脳の中心に来たら自分は死ぬと、何となく思った。
「君の役目は、すでに終わってるんだ」
 脳に響き始めた高音の向こうで聞こえてきた声に、和泉は黙れ、と言ってやりたかったが酸素が足りなければ声も出ない。
「君に邪魔されたくない」
「お前は、誰、だ……!」
 ようやく声を上げると、彼は感心したと言いたげに眉を上げ、ニコリと笑う。
「苦悶の顔がなかなか可愛い。蒼龍に可愛がられていただけあるな」
 色交じりの侮辱に反射的に動いた手は榎木の首を掴み、残った力を振り絞りその皮膚に爪を立てたが、わずかに傷がついた程度で、相手を怯ませるまでには至らなかった。その抵抗も、長くは続けられずすぐ地に落ちる。
「蒼龍には会わせてやる。安心して死ぬと良い」
「……っな?」
「この表情で死んだ君の首を、彼の元に届けよう。着払いでね」
 悪戯っぽい目で笑う榎木の姿は、異常だった。まるで、可愛らしい悪戯を思いついた子供のような顔だったが、その内容は陰湿すぎる。
 死ぬわけにはいかない、とその瞬間強く思うが、その念が通じる状況ではなかった。相手も和泉の死を悟ったらしく、さらに手に力を加えようとした、その時不意にその力が無くなった。
 急に空気が喉を通り始め、助かったがその膨大な量に肺と脳が痛み、激しく咳き込む。それでもどうにか落ち着いて顔を上げると、非常用の消火器を持った御巫が荒い息を吐いている。
「大丈夫か、和泉君!木戸君も!」
 どうやら、彼は和泉がただ眠らされただけの木戸も榎木が気絶させたと思ったらしく、熟睡している木戸の肩を強く揺さぶっている。
「君達が教室から出て行ったから、後を追ってきたんだ。まさかこんなことになるなんて」
 御巫は茫然としている和泉の体を抱き上げ、赤い手形が残った白い首に手を触れる。鈍い痛みに小さく喘ぐと、彼はすぐにその手を引っ込めた。
「……木戸と一緒に教室に戻れ」
 まだ声を出すと喉に痛みが走ったが、しゃがれた声を出しながら和泉はふらりと立ち上がる。
「どこに、いる」
 榎木が誰かに操られていたとすれば、操っていた人間が近くにいるはずだ。たとえ暗示の類で操っていたとしても、近くで様子を伺っているはず。
「出て来い!」
 しかし声を張り上げても、自分と榎木、そして木戸と御巫の気配以外増える事はなかった。酸素不足からの眩暈に額を押さえ、和泉は必死に頭を使う。榎木を使ったということは、自分に見られて不味い人物か、もしくはただ単に姿を表す気がないかだ。
 昨日の事を考えて、次に狙われるのは恐らく日向、翔。
 ここに来る前の教室に、彼はいなかった。
 しかし、すぐに部屋から飛び出そうとした和泉の腕を、御巫が強く掴む。その強さには驚いて振り返ると、今まで見たことのない位真剣な御巫の顔が正面にあった。
「駄目だ、大人しくしていなさい!」
 その剣幕に思わず肩を揺らしてしまったが、即座に和泉は目を吊り上げ、御巫の腕を振り払う。
「俺に触るな」
 まだ喉が本調子ではないしゃがれた声での威嚇に、それ以上彼に近寄る事は出来なかった。いや、それ以上彼の何かに踏み込んで、自分の事情を悟られる危険性を嗅ぎ取ったのもあった。危険な場へと走り去る和泉の背を止めることも出来ず、御巫は舌打ちするしかない。
「振られたな」
 くすくすと背後で笑う声に御巫は眉間を寄せるしかない。木戸が意識を失えば、彼の出番である事は知っていたが、こんな場面を見られた後となると気まずい事この上ない。
「世良……」
「何故、あいつを助けた」
 振り返ると木戸孝一なら決して見せないような氷のような眼を向けられていた。しかし、そんな彼の視線にも臆する事無く、御巫は肩を竦めて見せる。
「人助けに理由が必要なのか?」
 その答えに世良は眉を上げ、小さく笑う。
「ただの人助けなら良いが、あんたは折角のチャンスを無駄にした」
「チャンス?」
「責任とって、ミスターあんたがアイツを殺せよ?」
「……何だって?」
 世良の言葉に御巫は眉間を寄せる。和泉興は注意人物だとは聞いていたが、殺すまではいかない人物だと思っていた。それに
「彼はまだ子どもだ」
 非難めいた御巫の声に、世良は呆れながらも優しげな笑みを浮かべた。
「安心しろ、軍に入った時点で大人だ。この国ではな」
 



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