「大丈夫か、遠也」
 どこまで走るのかと少し不安になっていたところで中庭まで来てようやく翔がくるりと遠也を振り返った。
「はい、まあ。別に、良かったのに」
 苦笑する彼の片頬は真っ赤だ。笑ったとき痛んだのか、久々に眼鏡無しで見た彼の笑顔が少し引き攣った。
「遠也……」
「嘘です。有難うございます」
 眼鏡を再び着用する彼の眼は相変わらず冷静だった。
 こんな時くらい怒れば良いのに、と翔は思う。遠也は普段あまり怒りを露わにしないタイプだ。棘棘とした言葉はよく発するが、心の底から怒る彼を翔は今まで見たことがない。
 今も、遠也は平然としていて、そんな彼の態度を諌めるように翔は眉間を寄せて見せた。
「遠也、何であんな事言ったんだ」
「あんな事とは?」
「……篠田が、怒るようなことをだ」
 頭の良い彼ならすぐに正紀が何を言われれば怒るか解かっただろうに、わざと怒らせたようにしか見えなかった。
 翔の問いに遠也は目を伏せ、息を吐く。
「……責める相手を、間違っているようだったので」
「責める相手、って」
「矢吹は本当に何も知らなかったんだと思うんです。なのに彼を責め、仲違いの切っ掛けになるのは如何なものかと。怒りの矛先を正しい方向に矯正しただけで」
「……よく、わかんねぇけど」
 正紀達が仲違いをした直接的な理由を知らない翔は首をかしげ、それも考慮済みだったのか遠也は小さく口元を上げた。そんな友人の諦めきった仕草に、思わず眉間を寄せてしまう。
「でも、遠也を責めるのも間違っている。そうだろ?」
「日向」
「確かに遠也は佐木だけど、遠也は……君は君じゃないか」
 どことなく哀しげに言う翔に、遠也は目を伏せる。彼の言葉には何も返すことが出来なかった。しかし、自分を理解してくれている翔のどことなく淋しそうな口調に、何故か安堵していた。この目の前にいる友人さえ理解してくれていればそれでいい。嘆息し、遠也は軽く目を細めた。
「さっきの」
「うん?」
「さっきの、格好良かったですよ。自分の信念を云々」
 先ほど翔が正紀に言った台詞を省略して言った遠也に、翔は苦笑を返した。
「あれは俺が穂高さんに昔言われたことだ。だから……」
 その先の言葉を言うか言うまいか翔は少々考えたが、遠也はそれを目で促し、軽い笑みと共にその先を告げた。
「俺、篠田の気持ちちょっと解かるんだ。遠也だって、本当は――」
 翔の次の言葉を遠也は片手を上げて制止させた。その話になると長くなると、察したからだ。
「……良いんですか、日向。昼休みが終わりますよ」
 遠也はさっきの出来事なんて忘れたかのような態度で、むしろそんな振る舞いは翔に戸惑いを与えた。無理をしているのではないか。そう思ったけれど、遠也は安心しろというように口元を上げる。
「俺のことは気にしてくれなくて構わないので、どうぞ行って下さい」
「でも」
「橘の、為なんでしょう?」
 橘、という名前に翔がはっとしたような顔を見せる。
 目覚めてくれた彼女に……いや、もう二度と目覚めることの無い彼の姉の為なのかも知れないが。
 だが、克己の話を聞いてからでは、彼女と彼と会わせるのは危険なことだ。それでも、遠也は翔を見送ろうと決意していた。
 翔も遠也の言葉に困惑したように瞳を揺らし、それを伏せる。
「……遠也は」
「はい?」
「遠也は、俺のやっている事は、間違いだと思うか?」
 気弱な声は、今回のことでは初めて見せた翔の不安を示していた。
「最近、姉さんの夢を良く観る。俺を、ただじっと見つめてくる夢。橘さんと姉さんを重ねてる俺をあの人は責めてる」
 あの眼は自分の無駄な罪ほろぼしを軽蔑しているのかも知れない。そんな事をしても意味が無いと。そんな事で救われると思ったら大間違いだと。
「でも、彼女がもし死ぬような事があったら俺はきっと」
「……日向」
 強い力を持った声でその先の台詞を止められ、翔は顔を上げる。
「貴方がどう行動しても、それを止める権限は俺には無いですが、一つだけ覚えておいて下さい」
 窘められるのだろうか、それとも怒られるのだろうか。
 少し顔を強張らせた翔に遠也はふっと表情を柔らげた。
「貴方が死んだら、俺は泣きます」
 静かだけれどはっきりと言われたその言葉に、翔は眼を大きくする。
「とぉや」
 熱くなりかけた眼をどうにか笑いの形に作り、遠也はそれを静かに見ていた。遠也とは付き合いが長いけれど、いつも感情を強く外に出すことは無く、けれどさり気無く自分をフォローしてくれていた。
 今ここに彼がいてくれて良かった。
 遠也の為なら、きっと自分も彼と同じ台詞を言える。
「……ありがとう」
 けれど今はそれだけ言うのが精一杯だった。心の中で「俺もだ」とやっと付け足したが、それを遠也は察してくれたらしい。友人の穏やかに細められた眼に、安堵感を覚えた。
 ぐっと込み上げてくる熱いものを堪え、それを誤魔化すように笑みを浮かべて顔を上げた。
「あ、あー……そういえば、腕時計取ってこなかったな」
「腕時計?」
 遠也は一瞬不思議そうに目を上げたが、すぐに何も巻かれていない翔の手首に目をやり、何の事か解かったらしい。
「俺の、貸しますよ」
「そんな、悪いから良いって」
「俺は教室に戻るだけなんで。授業に遅刻したら大変ですよ」
 腕時計を外し、翔の手においた遠也には心から感謝する。
「悪いな。俺の、机の上に多分あると思うから、返すまでそっち遠也持っといてくれよ」
「そうします」
 翔が装着するのを見ながら遠也は頷いた。
「……気をつけて」
「大袈裟だな。ちょっと行ってくるだけだぞ」
 それとも、そんな短時間でも一騒ぎを起すような人間だと思われているのだろうか。肩を竦めて見せると、遠也は至極真面目な顔で「注意をすることに越した事はないです」と言う。それに軽く手を振り、翔は彼に背を向けかけたところで、もう一度振り返った。
「そうだ、遠也。今回の事、ある程度何とかなったら皆でどっか遊びに行こうな」
「皆?」
 翔の示す皆とはどこまでの範囲だろう、と遠也は思わず声を出すが、それに翔はにんまりと笑った。
「皆、だよ」
 瞬間、遠也の脳裡に過ぎったのは正紀の顔だった。彼も含めて“皆”なのだと知らされ、遠也は少し微妙な表情を見せた。そんな友人の珍しい顔に翔は満足気に笑い、走っていく。
 翔が足早に去るのを見送り、遠也は正紀に殴られた頬を軽く撫でた。もう殆ど痛みは無いが、口の中には血の味が残っている。
 正紀の持つ真っ直ぐさは嫌いではなかった。嫌悪すべきものを素直に嫌悪出来る正義感は刑事をしていたという父親譲りだろうか。きっと彼の行動を親に話したら潔癖だと嘲笑うだろうが、自分は彼の行動はむしろ好感を持てる。と、同時に羨ましかった。
 だから怒りは全く覚えない。ただ、悔しさだけは残る。
 そっと背に隠していた硬い物に触れ、遠也は眉間を寄せた。
「すみません、日向」
 小さく口の中で友人に謝り、隠していた銃の中の実弾を確認する。普段はペイント弾しか入れないここに実弾を装着したのは初めてだ。思った以上の重さに、遠也は手首を軽く持ち上げる。
 今の自分のやるべきことは、ただ一つだった。




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