何だろう、この空気。
学校全体の空気が少しおかしいような気がし、翔は妙な胸騒ぎを感じていた。
周りが緊張しているからだろうか。不意に顔を上げてそこにいる友人達に視線をやるが、そこにいるはずの友人達はここにいない。そんな珍しい彼らの様子もまた不安要素の一つだ。
変と言えば、榎木と明石が今日は休んでいることもだった。昨日の話を聞きたかったのだが、彼らの姿は教室にない。
と、なれば探す人物はただ一人。
「和泉!」
木の上で寝ているらしい彼に声を掛けたが、返事はなかった。しかし、そこにいるのは確かだ。
彼の性格からして、素直に返事をするような人間ではない。ため息一つついて、翔は木の幹に手を置いた。
木を登れば、彼の色素の薄い髪が葉の影から見える。気をつけないと見つけられないほどだったが、間違いない。
ただ声をかけるだけでは至近距離でも無視をされるかもしれない。そう思い、彼がいる枝より上の枝に手をかけた。
「いーずみ!」
上から声を掛けられ、夢の中をうろついていた和泉は思わず目を開けていた。その彼が一瞬見せた驚きのような表情に翔は満足気に笑む。しかし、相手はその表情にすぐ不快気に眉を寄せた。
「あ、悪い……」
流石にやりすぎたかと顔を引っ込めると、和泉はまた目を閉じようとする。それに上手く声をかけることが出来ず、戸惑っていると
「……何か用か」
和泉の方から珍しく声をかけてくれたが、言葉は辛辣だった。
「用がないなら声をかけるな」
「……う」
素っ気無い和泉に、そこで思わず言葉を詰まらせてしまう。昨日の事を話したところで、彼が興味を持ってくれるとは到底思えない。しかし、彼以外に聞ける人物はいないことを思い、思い切って口を開いた。
「今日、榎木と明石いないんだな」
瞬間、和泉の目が開き、すぐに身を起こした。まさかそんなに食いついてくるとは思わず、翔は思わず身を引いたが、和泉がそれを許さない。強く掴まれた肩が僅かに痛んだ。
「……どうして、アイツらを気にする?」
「いや、昨日ちょっと……」
茶色い目に覗き込まれ、翔は言いよどんだ。昨日の出来事を説明するには心構えが必要だ。どうにかそれをかわせないかと視線を下げたが、和泉は逃がしてくれなかった。
「昨日、アイツらに会ったのか?いつ」
彼が自分の話題に食いついてきたのは初めてで、翔は戸惑いつつも少々嬉しかった。彼の問いに真剣に答えようと、昨日の事を正確に思い返し、慎重に口を開いた。
「……放課後だ。5時くらいだったかな」
5時、と和泉は反芻し、眉間を寄せる。
「……何か、変わったことはなかったか」
5時と言えば、和泉が彼らと接触する前のことだ。彼はさらに身を乗り出すが、それを知らない翔はただ困惑するしかない。
「特に何も……お前、あいつらと何かあったのか?」
理由は解からないが、和泉のこの態度は異常だった。和泉が周りに寄ってくる彼らと友好的な関係を築こうとしていなかった事は遠目から見ても解かるほどで、この反応は心配をしているというわけでもないだろう。
そこを見抜かれ、和泉はぴたりと動きを止める。あまりにも解かりやすい行動をとっていた自分を恥じたのだろうか、少し悔しげに眉間を寄せ、翔から視線を逸らしていた。しかし、すぐに諦めたように再び翔を視界に入れ、そして
「……俺は、昨日お前があいつらに会った後に、あいつらに襲われた」
ため息混じりに昨夜あった事を和泉は告げ、その内容に翔は目を見開く。
「襲われた……?だって、お前榎木達とは」
「少なくとも友人ではなかった。俺にとっても、あいつらにとってもな。あいつらにとって俺は単なる防護壁だった。だが、その防護壁が崩れてしまった八つ当たり、だ。あの時俺がお前に負けたからな」
あの時というのは、先日の一戦の事だろう。それに翔はただ驚くしかなかった。それでは、自分に負けた所為で和泉は彼らに襲われたという事なのか。
その思いも寄らない事実に、翔は激しく動揺した。
「それだけで?つーか、あれ和泉それほど本気じゃなかったろ……そんなの、普段のお前見てれば解かる。和泉は強いよ、俺よりも。それに、敗北を恥じるほど酷い一戦じゃなかった!」
「それはあいつらよりお前が俺を見ていて、あいつらよりもお前が賢かったということだな。それに、あいつらにとっては、内容がどんなものだろうが結果が命だ。でも、俺は別に恥じてない。あの一戦は個人的にも久々に楽しめた」
飄々とした和泉の態度は救いだったが、彼の実力を認めなかったあの二人には怒りを覚える。彼らがクラスでは一番和泉の近くにいて、その力の恩恵を預かっていたはずなのだ。なのに、たった一度の敗北で手の平を返すというのはあまりにも酷すぎる。
「……一発殴っておけば良かったな」
昨日今握っている拳を叩き込めなかったことを翔が後悔していると、和泉が不思議そうに見上げてきた。
「何でお前が怒るんだ」
「俺が認めた相手を否定されるのは俺の力量を否定されるのと同じ事だ」
「別に俺はお前に認められなくても良いが」
「あんな技量見せられて認めないって方がおかしいだろ!てか、襲われたって、和泉なら撃退したんだろ?それならもう変な手は出してこないな」
彼ら二人の力で和泉に到底勝てるとは思えない。今日二人がいないのは、和泉が叩きのめしたからなのだと考えれば合点がいく。翔は当然和泉が返り討ちしたものと思って聞くが、彼は眉間を寄せた。
「……それをあいつらが覚えているかどうかは謎だがな」
「ん?」
「様子がおかしかった。お前が会った時は、どうだった?」
「……いや、至って普通のあの二人だったけど……でも何か変なこと言ってたな」
普通に会話もしたのだが、その内容を思い出して翔も眉間を寄せていた。それに和泉も話せというように眉を上げる。
「……橘さん……の話しを出せば俺は逆らえないって話を聞いてた、らしくて。まるで俺の弱点を誰かから聞いていたような」
「……何?」
翔がぼそぼそと説明したことに和泉は思わず声を上げていた。昨晩、誰にも知られていないはずの弱点を彼らに突きつけられたのは和泉も同じだった。その事にじわりと胸元が冷える。これが赤の他人の話であればまだこんな感情に襲われなかっただろう。だが、和泉と翔には本人達もまだ知らない因縁が潜められている。そんな予感を覚えていた和泉に湧き上がったものは、冷たい恐怖だった。
「和泉?」
唐突に黙り込んだ和泉に翔が怪訝な顔をしたが、それに彼は首を横に振った。
「……なんでもない」
「何でも無くないだろ。お前少し顔色悪いぞ?」
それは本当だった。青白くなっている和泉の顔色に翔は眉を下げる。それが、昨日開いた傷の出血によるものということまでは気付けなかったが、鋭い翔の指摘に和泉は顔を背けた。
「元々こういう顔だ」
「それは流石にねーぞ……」
「それより、お前……」
確認しておきたいことを思い出し、和泉は口を開いたが、少し戸惑ったらしく言葉を止める。だが、それを促したのは翔だった。
「なんだ?」
「……世良、という名前に聞き覚えは?」
お前も、有馬蒼一郎の息子ともども、殺してやる。勿論、蒼龍もな。
呪いの言葉を残していった彼は翔の存在も知っているようだった。まさか彼らはどこかで会った事があるのだろうかとも思ったが、翔の怪訝な表情に杞憂だと知る。
「いや、知らねぇな……男?女?誰だ?」
「……知らないなら、いい、が……会ったら殺せ」
「はい!?」
唐突に過激な言葉が飛び出したことに翔は思わず声を上げていた。人を殺めたことのない翔には、理由も無く相手を死なせることは更に難しい事だ。
「何で……てか、誰だよ世良って」
「……知る必要のない人間だ」
思わず文句を飲み込んでしまったのは、眉根を寄せた和泉の表情がどこか痛みを堪えるようなものだったからだ。今まで、無表情とまではいかないものの、和泉の表情のバリエーションは数えるほどしか見たことがなかったことをこの時気付かされる。
「その人、和泉にとって大切な人……なのか?」
思わず問えば、和泉の目が驚いたように見開かれた。まるでそんなことは考えた事もないというような反応だったが、すぐに彼は目を伏せる。
「……苦痛を共有した仲間の一人だ」
「それって……」
「この間、話しただろう。世良も投薬テストに使われていた人間だ。どうやら、俺が一人逃げ出してのうのうと暮らしていることが気に入らないらしい。裏切り者と言われた」
「それだけで、か?」
翔の問いに和泉は答えることが出来なかった。詳しい説明が出来ないが、本来和泉は言い訳も許されないほど分が悪い。言い訳をしようにも、言い訳にならない言葉を並べ立てるしか出来ないが。
「アイツらは科学者も毛嫌いしているから、有名な学者を父に持つお前も狙われる可能性がある。気をつけるんだな」
「なっ!」
さり気無く自分がその名前を聞いた理由を言い、和泉はそこでその話題を終わらせる。翔は思わぬ怨恨にただあわてるしかなく、和泉はその様子を目の端で眺めてから、空を見上げた。
憎らしいほどに真っ青な空は、自分に彼を忘れさせる隙を与えてくれない。自分が彼を忘れない限り、彼らと和解する日は来ないのだろう。
「……裏切ったわけじゃ、ないが」
ぽつりと呟けば、それが真実かどうか問いかけるようにさわりと風が木の葉を揺らした。
「和泉?」
翔が小さな音に気付き、問いかけた瞬間、和泉が素早く身を起こす。
「静かに」
和泉に口を手で塞がれ、衝撃に首が揺れた。突然の事に驚いたが、木の下に人の気配を感じ、彼の指示に納得する。
「……した?」
「……から……」
途切れ途切れに聞こえてくる声に翔が下を覗きこむと、葉の間から見覚えのある顔が見えた。クラスメイトの辻と田中ではないだろうか。
「どうした、圭」
恋人からの呼び出しに辻は柔らかい態度で対応する。その手には相変わらずスケッチブックが握られているが、田中は気にしていないようだ。
「あ、あのね……最近、忙しかったから僕、辻君とちゃんと話する時間が欲しくて」
顔を真っ赤にして途切れ途切れに言葉を繋ぎ、ようやく言い終わった瞬間に彼はまた顔を赤らめた。確かに、最近色々とバタバタしていて、二人でゆっくりする時間はなかったように思う。
「……確か、次の時間は学科だな」
学科の授業であれば授業に出なくとも怒られない。元々辻もサボるつもりでスケッチブックを持ってきたのだが、田中は真面目な人間だ。けれど
「圭が良ければ、次の時間、一緒にいようか」
手を差し伸べれば、恋人は表情を明るくする。可愛らしい彼を抱き締め、スケッチブックをそっと地に落とした。
「……え、あれ?」
二人の影が重なり、その唇が合わされるところも観てしまった翔は首を傾げるしかなかった。救いを求めるように和泉を見たが、彼は無表情で下を見下ろしていた。動じていない。
「ど、どうしよう和泉……」
「どうしようも何も、軍じゃ珍しくない」
「そういう問題かよ」
小声で話していると、下のほうからなにやら濃厚な音と吐息が聞こえ始めた。それに翔が顔を紅くすると同時に和泉の眉も寄る。
下の状況を見ると、木の幹に押し付けられた田中が白い上半身を晒し、そこに辻が吸い付いているところだった。身近な友人の知らない一面を垣間見てしまった気分だ。
ぎゃあ。
そんな翔の心の叫びを呼んだのか、和泉は小さく息を吐き、一言。
「降りるぞ」
「……へ?ちょ、待、うわ……!」
動揺した翔も足を滑らせ、耳元でガサガサと葉を掻き分ける音が聞こえ、自分が落ちているのだと気付く。反射的に木を掴んだが遅かった。
はぁ、と安堵の息を吐いて目を上げると、カップルの驚きの目が自分を射抜いている。どうやら、一番低い枝にギリギリ捕まる事が出来たらしい。地面への激突は防いだが、カップルの時間への激突は避けられなかった。
「……ひ、日向?」
「あ、あははははははは」
もう笑うしかない。その翔の笑いで硬直していた二人がささっと乱れた服を直していたが、気まずい沈黙が降りる。
そんな翔の横で華麗に降りてきた和泉は無言でその場から去ろうとする。フォローもないのか、と思いつつも翔はその背を追おうとした、が
「あ、和泉!」
そこを止めたのは辻だった。和泉も彼を振り返り、怪訝な顔を見せたが、それにも怯まず辻は口を開いた。それに隣りに居た田中が、驚いたように俯いていた顔を上げたが、辻は気付かずに和泉に駆け寄った。
「怪我、大丈夫か」
怪我、と聞き翔が息を呑んだのを背後に感じ、和泉は心の内で密かに舌打ちをしていた。
「お前程度に心配されるまでもない」
「いや、でも……あれから、狼司様に色々話を聞いたんだ。和泉、王族の血を引く名家で、宮にも出入りしてたんだってな」
「……狼司に?」
そこでようやく和泉も目を上げ、聞く体勢になった。狼司の名前を出されては無下には出来ない。
位の高い狼司を親しげに呼んだ和泉に辻の方も何故かホッとしたような顔をした。それに田中が不安げな顔を見せたのに気付いたのは翔だけだった。
「良かった。やっぱり本当だったのか。俺も昔宮に出入りしてて」
「……前置きは良い。さっさと用件を言え」
「秀穂様はお元気か」
その名に和泉の目蓋が揺れたことを辻も見逃さなかった。
「秀穂様の事を知っているんだな、良かった。メディアには出ない方だから、御健勝でいられるかも分からなくて。狼司様に聞いたら、和泉に聞けといわれたから」
「……あの野郎」
和泉は低く舌打ちをし、狼司の余計な一言を呪った。彼なりの昨日の報復なのかもしれないが、性質が悪すぎる。
「辻君、秀穂様、って……?」
その時、辻の隣りにいた田中が細い声で問いかけた。どこか弱々しく不安を漂わせた声だったが、それに気付かず辻もこころよく説明を始める。
「秀穂様は、蒼龍様の小姓だ。笛も歌も上手で誰よりも強かった。それでいてとてもお綺麗で……蒼龍様と並ばれるとこの世のものとは思えない程の画面になっていた!色彩的に!」
拳を握り、力説する辻の姿は普段寡黙なだけに珍しい。何だろう、彼の顔がとても活き活きしている。
「いつか俺が、このお二人の姿を絵に描けるものだと、ずっと信じていたんだけどな」
「絵?辻、絵を描くのか?」
翔が問えば、辻は苦笑しながらも頷く。
「俺はアマチュアだけど……父さんが昔宮廷画家やってて宮にも何度か行った事がある」
「へぇ、すげーな」
翔の単純な感想を遮るように、和泉はため息を吐く。
「……あほか」
軽い嘲笑と共に吐き出されたその言葉に、辻は顔を上げる。そこでは、あまり口を聞いたことも無いクラスメイトが、自分を冷たい目で見ていた。
「小姓と皇子を共に描くことは許されていない。皇子と並べるのは彼の家族に限られている。それくらい、専属画家の血筋だったら知っているだろう」
その、宮にいた人間ぐらいしか知りえない常識を口にされ、辻は瞠目する。疑っていたわけではないが、彼は本当に宮にいたことがあるらしいと、この時確信した。
「知っているが……でも、俺は蒼龍様と秀穂様に並んでいただきたかった。蒼龍様は、秀穂様と共にいる時が一番お幸せそうだったしな。俺はモデルが一番幸せそうな顔をしている絵を描きたい」
珍しく饒舌な辻の姿に驚いたのは彼の性格を知る翔と田中だけで、当の和泉はそんな彼を冷めた目で見ていた。
「現実になりもしない夢想など抱いている暇があるなら、真面目に授業に出るんだな。それにその秀穂という小姓、皇子の隣りに並べるほどの人物ではない。ただの蒼龍の色小姓だろうが」
「な……」
和泉の言葉に辻は目を見開き、すぐに眉間を寄せ秀穂への侮辱に拳を握る。そんな彼の態度に、田中はこそりと翔に問う。本当はもっと色々と質問をしたいのだが、それを押さえて彼は問いを一つだけに絞った。
「日向、いろこしょう……って何だ?」
問われた翔もよく解からず、肩を竦めてみせる。小姓というものの意味も良く解からない二人は、彼らの口論に口を挟むことも出来ず、ただ見守る事しか出来ない。翔は怪訝な顔で、田中は不安に瞳を揺らしながら。
「お前に、秀穂殿の何が解かる」
静かに、しかし怒りを滲ませながら辻は低い声で和泉を睨んだ。しかし、そんな彼を和泉も睨み返す。
「……お前こそ、あの男の何を知っていると言う?」
「それは」
「その男は昨年宮から追放された。もう宮にはいない。二度と、宮には戻らない。二度と蒼龍の隣りに並ぶことも無い」
「え……」
思わぬ情報に驚く辻に、和泉はため息をついた。
「現実になりもしない夢想だ、お前のそれは」
「ちょ、待て、待ってくれ、和泉……!」
さっさと立ち去ろうとする和泉の背を辻は必死に引きとめようとしたが、その背が止まる事はなかった。どこか逃げ出しているようにも見えたその背に、辻は足を止める。その辻を追い越して和泉を追ったのは翔だった。その躊躇いのない歩調が辻にとっては眩しい。
「辻君」
いつまでも二人が去っていた方向を見ていた辻に、田中がそっと声をかける。その声に辻もようやくそこから視線を剥すことが出来た。
「ごめんな、圭吾」
「別に僕は大丈夫だけど……」
田中は視線を下げ、ずっと心に燻ぶっていたものを吐き出す。
「秀穂さま、って……誰?」
あまり口を開かない辻の口から出た初めての田中の知らない人物に、彼はとてつもない不安に襲われていた。元々、告白をしたのは田中からで、辻はただ頷いただけ。その差にずっと不安は感じていたが、今初めてそれがしっかりとした形になっていた。和泉の事もだ。あの、教室で一人で近寄りがたいオーラを放っている彼を辻が気にしていたことは、多少なりともショックだった。
しかし、そんな田中の心情にも気付かず、辻はまた視線を二人が去った方向へと戻し、その目を逸らす。思い出すのは、眩しい笑顔を浮かべていた白い髪の青年とその側にひっそりと付き従っていた少年。
「……憧れの人、だな」
頭も良く笛や踊り、歌も上手かった彼の、公の場では絶対に見せなかった無邪気な笑顔と、それを見て嬉しげに微笑む皇太子の姿は、こんなにも鮮明に覚えているというのに、和泉はもうその二人が並ぶことはないと言う。
目を細めた辻の横顔に、田中もそっと目を伏せた。
辻の視線が感じなくなったところで、和泉はその場に座り込んだ。体のあちこちが痛い。昨日、あの例の薬に耐えるために自ら体を切りつけていたのだが、矢張り少しやりすぎたようだ。熱も少しあるようで、頭の動きも若干鈍い。
「和泉!」
ため息を吐き、目を閉じようとしたところで、翔の声が聞こえ、正直うんざりしていた。
「何か用か……」
かったるい動作で目を上げると、そこにはどこか心配そうな翔の姿があった。
「大丈夫か?」
「何が」
「さっき、辻が、お前怪我したって」
「お前に心配される筋合いは」
「ある、だろ」
先に台詞を奪った翔に和泉は眉間を一瞬寄せたが、すぐにその眉を上げ、首を軽く横に倒した。
「なら聞かせてもらおうか。その理由を」
「それは、……和泉は、俺の……」
翔は目の前にいる人物をじっと見つめ、次の言葉を口にするかどうか迷っていた。和泉の色素の薄い髪、茶色い瞳の下に隠れている蒼い目、どことなく黄色人種よりも白い肌。自分と似通っている面と、全く違う面を眺め、翔は目を伏せる。
「……俺の、友達だから」
「……友達?」
翔の口から出た単語は和泉にとって嘲笑を誘う予想外だった。
「一度お前を殺そうとした俺が、友達か。随分と平和ボケした頭だな」
「じゃあ、逆に聞くけど和泉は俺をどう思っている?殺したい相手か、殺さないといけない相手か、それとも――――」
そこで一度言葉を止めて逡巡し、翔は再び和泉を見上げた。
「何かを、共有すべき相手なのか」
「何か?」
「何で、和泉は俺にお前自身の過去を話した?……さっきの辻の話は少し妙だ。お前が、宮の人間?この前聞いた話が真実なら、矛盾している。でも身分を偽っているにしても、宮の内部事情に関してお前は詳しすぎる。でも、この間の話も嘘じゃないと思う」
この間の話というのは、和泉があの蒼龍の為の投薬テスト用に作られた人間という話だ。それを思い出したのか、和泉は無意識のうちに左腕の関節に手を当てていた。そんな仕草も計算してやっているのであれば、和泉はなかなかの詐欺師になれる。
「……有り得る話だと思った。根拠は言えないけど、有り得る話だと思ったんだ。それに俺はやろうと思えば、いつでも真偽を確かめられる位置にいる。それを和泉が忘れているはずはない」
翔の近くにはあの佐木遠也が、そして彼の後ろには科学科の一匹狼である早良がいる。彼らはそういう裏事情に精通しているので、彼らに聞けば和泉の話の真偽を簡単に確認出来るのだ。そんな事を失念するような和泉では無いだろう。
「……だから、和泉の話は真実だと思った方が無難だ」
伺うように理由を示した翔に、和泉は目を細めた。
「……成程な」
「狼司って、風紀の夏乃宮狼司の事か?」
翔の問いに和泉は何も答えない。それはつまり肯定ということだ。
その夏乃宮狼司が王室の血を引く人間であることは有名で、1年でも皆が知っている事実だ。
「そんな人と繋がりがあるってことは、やっぱり宮にいた……って事だよな。どうして?何の為に?」
「……意外と頭の回転が速いのは、流石有馬蒼一郎の息子だと言うべきか」
ふぅ、とため息をついた和泉に、翔は父親の名を出されたことに唇を引き結んだ。
「お前の見解はどうだ?俺は何故宮にいたと思う?」
今日の和泉は自分に問いかけるだけで、自ら話すことをしない。それは翔の憶測ですべてを誤魔化そうとしているのか、それとも自分の憶測が本当に当たっているのか。どちらなのかは解からなかったが、翔は問われるままに答えようとしたが、内容が内容だ。どうにか柔らかな表現がないかと逡巡し、乾きかけていた唇を舐めた。
「あー……リベンジ?」
しかし、その表現では和泉の方には伝わらなかったようだ。眉を上げる仕草を見せた彼に、翔は遠回しな表現を諦めた。
「蒼龍を殺す気だった?」
下手をすれば身の危険が及ぶかも知れないこの大それた憶測に、和泉は特に驚くような素振りも見せず、僅かに目を伏せるだけだった。
「ああ」
そして彼は、頷いた。
逆にうろたえたのは翔の方だ。こんな話、誰かに聞かれていたら和泉の身が危うい。きょろりと周りを見回してから、小声で彼を諌めた。
「お前の、怒りは……解かる。でも」
「まだ、続いている」
「え?」
「蒼龍を生かす為の実験は、まだ続いてる。まだ、毎日蒼龍の為に、人は死んでる。彼が死ねば、無駄に苦しむ人間は減ると、思っていた」
「……過去形?」
その、翔のどこか困惑したような疑問を和泉は小さく笑う。
「人間一人殺したところで、何も変わらないからな。それに元々、彼の意志で行われていたことでもなかった。だから、復讐なんて決意した1週間で止めた。賢明だろう?」
その笑みは、どこか自嘲に歪んでいたが、翔は力強く頷いた。
「ああ、賢明だな」
「お前に肯定される程心強いことはないな」
皮肉めいた呟きを落とし、和泉は立ち上がる。どうやら教室に戻るつもりのようだ。
「全く、今日はやかましい一日だ」
こんなことになるなら、大人しく教室で寝ていれば良かったと今更ながら和泉は後悔した。そんな彼に、翔は眉を下げた。
「和泉、怪我は」
「お前に心配されるほど酷くない」
ひらりと振られた手に制され、翔は肩を竦めた。
「……ならいいんだ」
安堵したように微笑んだ翔に、和泉は目を細める。あの甲賀克己が懐柔されたのはこれか、と心の中で思わず呟いていた。何故、ここまで自分に心を許し始めたのか、理由は何となく察したが、それでいいのか、と警告をしたくなる。
「お前は、俺の話を全部信じるのか」
「なんだ、傷やっぱり痛いのか?」
遠回しの警告に翔はきょとんとしたが、彼の言葉に和泉は首を横に振った。
「違う。もういい」
「……信じるよ」
翔に背を向けようとしたところで、力強い言葉が和泉の行動を止めた。
「だって、俺がまず信じないと、和泉も俺を信じてくれないだろ」
振り返るとそこにあったのは意志の強い榛色の瞳だった。その目の強さには見覚えがあり、過去に見たその目を思い出して和泉は思わず唇を強く噛む。ここでもし、お前はお前の父にそっくりだと言ったら、翔はどんな顔になるのだろうか。
何て言えばいいのか解からなくなった和泉の視線に、翔は強気に笑う。
「賢明だろ!」
先程の和泉の言葉をそのまま使った彼に、ため息を吐くしかない。
「……日向、翔」
「翔でいいぞ」
「お前は馬鹿だ」
翔のキラキラした目に手を横に振り、和泉は素っ気無く告げた。
だが、俺の頭も相当平和ボケしていたらしい。
馬鹿、と言われ眉を下げた翔に、そう自覚せざるを得ない。翔はそれなりに頭も回る。そんな相手に、ベラベラとよくもまあ喋ってしまったものだ。今更、自分の身などどうなってもいいと思っている面はあるが、一度殺そうと決意した相手にここまで会話を重ねることになるとは。
「和泉?」
きょとんと自分を見上げる茶色い瞳に、首を軽く横に振って見せる。漠然と、敵わないと思う。
「………後で、話す」
ぽつりとそう落とし、和泉は翔に背を向ける。その反動で、隠し持っていた刀の鈴が小さく鳴ったような気がした。
和泉デレ期突入
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