怖いんだ。目を閉じたら二度と光を見れない気がして。
怖いんだ。目を閉じたら誰かに殺されてしまう気がして。
誰か助けて誰か助けて、このままじゃ俺は。
あの人は俺を助けてくれる?
今落ち着くことが出来る場所は、あの人の、腕の、中……?
もう何度も見直した文章を眼で追って、魚住はそのノートを閉じた。
これが最後のページで、これ以上はもう何も書いていないノート。もうこれの持ち主はこの世に居ないのだと暗に示しているのが悲しかった。
薄っぺらいノートに書かれた彼の深い恐怖を自分は一体どれほど理解出来ているのかは解からない。
清浄な朝日に照らされるその歪な文字は、まるでノートを傷つけんばかりの勢いと荒々しさだった。その文字一つだけで、強い怒りと悲しみ、そして恐怖が痛いくらいに伝わってくる。
「……優史」
小さく幼馴染の名を呟き、魚住はそのノートを閉じた。
「徹夜っすか、先輩」
そんな彼に声をかけたのは寝起きの正紀だ。
「ああ、起きたのか、篠田」
彼は眉間の皺を消し、昨晩駆け込むようにして来た後輩を迎える。魚住の柔らかい対応に、正紀は恥ずかしげに笑った。
「昨日はすいませんでした、俺、ちょっと取り乱して」
笑みに細められた正紀の目の端は僅かに赤くなっている。昨晩、正紀は目に涙を滲ませながら、幼馴染との喧嘩内容を魚住に語っていた。それを、彼は時には相槌を打ち、時には正紀を慰めながら聞いてくれた。
「気にしなくて良いよ。誰だって、親しい人間との決別は辛い。自分の意に反したものなら尚更」
そう笑う魚住に正紀もホッとしたように口元を綻ばせ、「ですよね」と自らの悲しみを認めていた。
「それにしても、先輩ってー……」
以前、魚住の部屋に泊まったことがあるが、本棚の相変わらずの内容に正紀は肩を竦めた。
「解かりやすい趣味してますね。オデュッセイアにベオウルフ、アレキサンダー、カエサル……円卓の騎士!懐かしい」
彼の本棚は難しそうな厚い本から、児童書まで様々だったが、内容は一貫していた。解かりやすいそれに、魚住も苦笑する。そんな彼の後ろにある壁には、英雄らしき兵士の絵がかかっていた。
「男なら誰だって英雄に憧れるだろ?」
「そうですね。俺も一時期本棚がシャーロック・ホームズで埋まりましたよ」
幼い頃の自分の憧れと言えば、架空の世界ならばシャーロック・ホームズ、そして現実の世界ならば実の父親だった。父もかなりのホームズフリークだったのを覚えている。
正紀の解かりやすい趣味を魚住は苦笑する。
「ドイルだけか?」
「勿論、他の作家も。ポーにアガサ、国内なら乱歩に金田一……でもホームズが一番ですよ、やっぱ。国内物は何だかおどろおどろしくて」
どこかホラー小説にも通じた恐怖感を帯びた国内推理物は苦手だと、正紀は肩を竦めるが、それに魚住は人の悪い笑みを浮かべた。
「ドイルも降霊術にはまっていたらしいけどな」
「……ホームズは霊と語ったりしません」
むっと眉間を寄せた正紀に、魚住は手に持っていたノートを軽く横に振った。見覚えのあるそれに正紀は目を見開く。その様子に気付いた魚住は「あぁ」と声を上げる。その調子があまりにも軽いことに、正紀は胃が縮んだ。
「これ、見たんだろ?Mr.ホームズ」
以前、魚住の部屋に来た時にそれを見つけていた正紀に、彼は気付いていた。黒い瞳からは何の感情も伺えなかったが、怒りも軽蔑の色も見えないことがいっそ恐ろしかった。
それとも、まさかわざと見せたのか?
警戒の色を見せた正紀の表情に、魚住はノートを開いた。そこにあるのは歪んだ文字と、文章だ。
「……俺の友人の形見なんだ。見て解かる通り、彼は薬物に侵されていた」
「……伊原優史?」
その名をすらりと出した正紀に、魚住は一瞬唇を引いたが、目を伏せて頷いた。
「なぁ、探偵君。これは君が頭を悩ませるような事件ではないよ。君は、君の事件を解決したほうがいい」
そう言いながら正紀の胸に彼はCD-Rを押し付けた。その硬質な感触に、正紀は目の前の魚住を見据える。
「俺の事件?」
何の事を指しているのか魚住の思考が読めず、正紀は僅かに困惑した。しかし、それを悟られまいと魚住を見据え続けていると、彼は柔らかく微笑んだ。
「君に一つの情報をあげよう。きっと、君のためになる」
魚住はそう言い、部屋から出て行った。正紀の手に、銀色のCD-Rを残して。
「……不眠か。分かりやすい症状だな」
魚住の背を見送りながら、正紀も今まで我慢していた欠伸を一つした。正紀の方もまた徹夜だった。魚住の部屋で安眠なんて出来るはずがない。一晩中ベッドに潜り、寝たふりをしていた。これで襲いかかってきてくれれば、色々と楽だったんだけど、と心の中で呟きながら手の中に残された物に視線を落とす。
また、これか。
手渡されたそれを正紀は苦い気分で見下ろした。昨日見た一つの情報といずるの顔が浮かび、唇を軽く噛む。
魚住から貰う情報は、あまり自分と、それといずるのためにはならないものだ。諌矢の死も、今思い返せば彼から聞いた。諌矢の存在を思い出させたのも、彼だ。
彼は一体、何がしたい?
読めない魚住の行動に正紀はCD-Rを彼のパソコンの中に突っ込んだ。あのノートも彼は自分に見つけられる事を望んでいたようだった。こうして家捜しをした自分をこの部屋に一人置くということは、この部屋には正紀に見られて不味い物など何一つも無いという事だろう。このパソコンの中にも。
しかし、それは一種奇妙だ。彼の血も薬物に侵されているのであれば……あるはずだ、彼の分の薬が。
もうばれてしまったから隠す必要も無いというのだろうか。だが、先日探した時そんな薬は見つからなかった。
どこか他の場所か。
他、というと一体どこだろうと考え始めた丁度その時、CDの中身が画面に映し出された。それに正紀は思考を止め、それを瞳に映す。
「これは……」
パソコンの中に映し出されたのは、一つの動画だった。固定カメラらしく、同じ場所だけを映し続けている。それが監視カメラの映像だと、すぐに気付いた。そしてこの場所も。
「メイガス……!」
思わず正紀が呟いたのは、過去、自分が潜入し例の薬の取引が行われていた店の名だった。監視カメラなんて有ったのか、という驚きとそれを魚住が持っていたという驚きに息を呑む。
荒れ果て薄暗い店内と、画像の端に浮かんでいた日付は正しくあの日。正紀が、薬の売人を特定する為にこの店に侵入したと彼らに気付かれ、監禁された日の3日後、つまりは、正紀が助け出された日の映像だった。無謀にも自分を救いに来てくれたのは、昨日別れを告げた幼馴染だったのだが。
店の一部しか映せないカメラの画面の中に登場した人物に、更に心臓が重く鳴る。彼の手に何か黒い物が握られていることにも。遠目からでも解かる、彼……いずるの兄である諌矢は銃を握り、誰かを撃とうとしていた。それが誰かはフレームアウトしていて解からないが、正紀に困惑を与えるのには充分だった。
あの店には何度も出入りしたのだから、間取りは充分把握している。あの日の記憶と、彼の立ち位置から考えるに、その銃口が向けられているのは……。
その時、諌矢の体が何かに弾かれるようにして前のめりになり、倒れた。それには更に目を見開く。背後から撃たれたようなその動きに、思わず口元を手で覆っていた。
背後だ、前方からじゃない。
漏れそうになる嗚咽を必死に堪え、瞬きさえ出来ずにただその画面を見つめることしか出来なかった。この画面がこれ以上変化しない事を心の底から望んだが、それは叶えられない望みだった。
ふらりとフレームの中に入ってきた人物は、だらりと下げた手に銃を持っていた。この学校に入って、相手の生死が確認出来るまでは銃を構えていろと習ったが、この時の彼はまだそんな知識は無かったことを示している。
徐々に血溜りが出来ていく諌矢の側に覚束ない足取りで向かう彼の姿を見ていられず、正紀は画面からようやく目を逸らすことが出来た。監視カメラに集音機能が無くて本当に良かった。
「俺が、忘れていたのは……これか」
口から外した手を自分の額に当て、きちんと機能してくれないそれを殴る。確かにこの時は、一番脳が薬にやられていた時だ。この薬には記憶消失の作用があるとは知っていた。その忘れた記憶に関して、その後にそれに関連したことを知り得ても、時期が経てばまた忘れてしまうことも。
「あぁ、くそ!」
いたたまれない感情にテーブルを殴りつけたが、何の意味もなさなかった。再び画面に目を戻せば、そこで彼はただ茫然と膝をついているように見えた。だが、自分は知っている。もし、このカメラに集音機能があれば、記録されていただろう彼の叫びを。
何度言っても、お前は忘れる。
あの時のいずるの言葉が蘇り、正紀は強く目を閉じた。
「いずる……!」
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