御巫は自室に戻り、ようやく奇妙な緊張感から抜け出す事が出来た。しかし、ベッドに寝転んだところで、僅かに聞こえる電子音に寝返りを打つ。自室でも警戒は続けないといけない。教員用の寮にも、生徒用の寮にも、監視カメラが設置されているからだ。かといって、その監視カメラが効力を発揮するのは稀だろう。膨大な数のそれを活用しきれているわけがない。恐らく、生徒会が危険と判断した人間にのみその監視は行われているはずだ。自分はまだ、その対象になってはいない。
まだ、か。
自分でそう表現して、苦笑してしまう。見上げた暗い天井に、先ほどの真壁との会話を思い出した。
「……それは、確かに不味いな」
御巫の過ちに彼は眉間を寄せ、しかし興味深そうに腕を組んだ。
「このままだと、貴方はこの地で死ぬことになる。もう二度と故郷の地は踏めない」
「……君はやる気を失くすような事をズバズバと」
しかし、真壁の言うとおりだった。もしかしたら組織の力で返してくれないかと少し期待していた面もあったのだが、その組織が使わした真壁がそう言うのだから、彼らはその気はないようだ。
僅かに落胆した御巫に、真壁は意味ありげな笑みを浮かべた。
「なるほど、<塔>が俺と貴方を引き合わせた理由が今ようやく解かった」
「何?」
小さく呟いた声が聞こえ、御巫が顔を上げるとそこで待っていたのは真壁の一言だった。
「貴方は、クロフォード家を御存知ですか?」
「クロフォード?貴族の中でその名を知らない人間なんていないが」
クロフォード家といえば、王家の血を引く名門中の名門だ。彼らの家門であるグリフォンの紋章を思い出し、御巫は近くの机に腰掛けた。それに真壁も壁に背をもたれる。どうやら、長い話になりそうだ。
「先程言った通り、私の祖父は外交官だったのですが……ローヴェ山事件は御存知ですよね?」
「ああ。勿論」
その事件に御巫は軽く眉を寄せていた。
今現在出版されている歴史書や歴史の教科書にはこう書かれているはずだ。ローヴェ山事件、この悲惨な事件がかの国と長く続く戦争の発端となった、と。
元々、彼ら外交官は当時のこの国の皇帝に命じられて国交復興の為に派遣され、平和使節団とも呼ばれていた。それを、連合王国――御巫の祖国もこころよく迎え、この外交は成功するかと思った矢先の事件だった。最も今回の外交に奮闘していた人物、高嶺春海が単身帰国中の飛行機が何者かにジャックされ、犯行声明後飛行機は遭難。次の日、ローヴェ山にわずかに火の残る飛行機の残骸が発見された。
それに怒りの声を上げたのは高嶺春海の祖国で、犯行声明のビデオに映っている人間が西洋系でその国の言語を話していることから彼は連合王国の姦計にて殺されたとし、軍がいち早く動き出し、国境へと進軍した。
しかし、連合王国側は、この事件は相手側の自作自演だと考え、反発した。そうして再び国交は断絶。お互いを敵国として時に戦い、時に様子を伺う日々が続いている。
「あの当時、そちらに派遣された外交官に、俺の祖父もいました。その事件で死んだ高嶺春海は俺の祖父の同僚でした。その彼が、クロフォードの御令嬢と夫婦であったことは御存知でしょうか?」
「ああ、それくらいは」
もちろん、連合王国側がこころよく迎えたと言っても、そう簡単に国交を復活出来るわけがない。数年の時を有したのだが、その間に高嶺氏は生涯の伴侶を向こうで見つけていた。それがクロフォード伯の御令嬢で、伯爵も必ず国交を復興出来ると断言できるなら娘を嫁にやっても良いと結婚を許したようだった。
「御令嬢と高嶺氏の間にはすでに長男が誕生し、彼が死んだ時にも彼女は妊娠していた。彼女は出産のために身動きがとれず、父親も多忙なために長男は我が国の親類に預けられていたのです。高嶺氏があの事件の時にこちらの国に帰ろうとしていたのは、長男を母親の元へと連れて帰ってくるためでしたが、そこで高嶺氏は死に、その事件の所為で貴方の国と俺の国は一触即発の状態に。一人この国に残された若干2歳の長男の行方は、当時そちらの国にいた祖父も事件から30年後に帰国してから追ったらしいのですが、結局見つけることが出来なかったそうです。俺は今もその人物を探し続けています。彼が貴方の国に行き、家族の元へと戻る事。それが、自国も同僚を救うことの出来なかった祖父の自ら科した仕事だったから」
そこまで聞いて、御巫もようやく彼の言いたい事を理解してきた。
「……生きているのか?その息子は」
40年位前の話だ、その間混戦状態だった歴史を思えば生存さえ怪しいものがあるが、真壁はゆっくりと顎を引いた。
「一昨年亡くなったクロフォードのリア様を御存知でしょうか?彼女が、その行方不明の長男の妹君に当たります」
その名は御巫にも当然聴き覚えがあった。社交界の華とまで呼ばれたほどの容姿を持っていたリアという御令嬢は、40歳近くになってもその美しさを保っていたと聞く。それでいて、かなり聡明な女性だったようだ。御巫自身、遠目から何度か見かけたことがあるが、確かに噂どおりの綺麗な女性だった。
「20年程前、そのリア様が帝国の捕虜になったことがあります。その時、兄君に会ったと彼女が言っています。そして……実は貴方にとっての本題はここからなのですが」
「本題?」
リアの甘い髪の色を思い出していた御巫を咎めるように、真壁が口調を荒げる。しかし、すぐにその声は潜められた。
「リア様は、彼女は、帝国の軍人との間に子どもを孕み、生まれた子をその軍人に渡して帰ってきたらしいのです」
「なんだって!捕虜への暴行は国際法で禁じられているぞ……!」
美しい令嬢の思いがけない過去に御巫は思わず声を上げる。確かに、見目麗しい彼女なら、軍人達の視線を引いて仕方ないだろうとは思う。
しかし、それには真壁は首を横に振った。
「いや、どうやら違うようなのです。リア様とその軍人が恋愛関係になった結果です……残してきてしまった子どもを、捜して欲しいと。クロフォード伯からも、リア様のお子を探して欲しいと頼まれています」
その本題に御巫は思わずため息を吐いていた。兄と子どもと離れ離れになってしまったリアの心情を思えば、その願いを叶えたいと思うのは当然だ。
しかし、敵国の軍人と恋愛関係になるとは。
「……クロフォード家もつくづく運が無いな。しかし……」
その赤ん坊が生きている可能性がどれほど高いのか、と真壁に目で問えば、彼はどこか確信を持った視線を返してきた。
「リア様の産んだ子は女の子だったようです。まだ20年前の話。生きている可能性もあります。少なくとも、貴方自身は生きていると考えていた方が好都合でしょうが」
「確かに。あのクロフォードの隠し子だ。それを手土産にすれば、もう一度故郷の地を踏めるな」
クロフォードは国の有力貴族だ。彼の口添えもあれば、国に再び戻ることも可能だろう。かなりの難題を押し付けられた気がしないでも無いが。クロフォードは組織立ち上げに最も尽力した一族だ。組織もクロフォードの為なら力を惜しまない。
ようやく帰れる可能性を示された御巫が口元を歪めたのに、真壁も満足げに肩を竦めた。
「流石は騎士殿。手も早ければ察すのもお早い」
褒め言葉の中に潜められた嫌味に御巫は眉を上げる。だがここは大人のプライドで怒りを静めた。
「引き取った男は軍人か。他に情報は無いのか」
「その男は当時中佐だったようです」
「中佐……か。他には?名前とかは言わなかったのか?」
「……何分、病床での告白だったので……。それまで誰にも言わなかったようで」
「普通は言えないだろうな、敵軍の子どもを孕んだなんて」
だから、産んだ子どもも相手に任せたのだろう。その相手も、恋愛関係で生まれた命だとしても、敵国の女性との子どもだ。生かしておいているのか怪しいものがある。
「しかし、リア様の遺言なのです。もし、この国で自分の娘が惨めな生活を送っているようなら、クロフォードで引き取って欲しいと。戦争などに巻き込まれない、安全な生活を送って欲しいと」
「クロフォード伯は何と?」
「……可愛い従兄妹の頼みなら、と」
今のクロフォード家の当主はリアの二人きりの従兄弟だ。兄妹のように育ち、リアを可愛がっていたと聞く。切れ者と評判の彼も、流石に可愛い妹分の死に際のお願いが無理難題でも頷かずにはいられなかったのだろう。
「しかし、その娘の名前らしきものは何度も呟いていたそうです」
「名前が分かるのか!」
それは有力情報だと御巫は声を上げたが、真壁は首を横に振る。彼の言うとおり有力情報ならば、こんなに苦労はしていないのだ。
「当時中佐だった軍人の家族を調べてみましたが、その名前の娘はいませんでした。それどころか、20年前に生まれた子どもを見ても、それらしき人物は見当たりません」
「……死んだ可能性が高いと?」
「そうかもしれません。その場合は、死んだという証拠を持って帰れとのことです」
生きている本人を連れて帰るよりも面倒な条件に、御巫は思わず自分の額を押さえていた。だが、御巫もクロフォード伯と面識がないわけではない。あのどこか硬質な印象を持たせる顔と口調を思い出し、彼らしいと密かに思った。
「クロフォード伯も諦めが悪いな。それで、その娘の名前は?」
母親でさえ見た事も無い成長後の姿を探さなければならないという難題に、御巫はため息を吐く。そんな彼を尻目に、真壁はある女性のその言葉を思い出していた。
「りく」
「何だって?」
覚悟していた名前より短かった所為だろう、御巫は聞き取れず、もう一度くり返すようにと声を上げる。そんな彼に真壁はため息を吐いた。そして再び口を開く。
――りくです。“りく”
「―――っ!」
翔が目を見開くと、目の前には僅かに闇が薄らいだ天井がある。
ああ、また夢だったのか。
納得したが、なかなか動悸はおさまらず、息苦しかった。身を起こし、荒い息を整えながら夢の内容を思い出し、目を強く閉じる。
姉さん。
夢の中で、姉は一人で泣いていた。苦しみ嘆き、誰かに助けを求めている。その背に手を伸ばす事は出来なかった。
自分は彼女の笑顔をどうしても思い出せない。自分が手を伸ばしてみたところで、彼女は絶対に笑ってくれない。そんな予感と確信がいつもその手を止める。
ようやく心臓が落ち着いたところで、小さくため息をついた。
さっきよりも部屋が明るくなっていることに気付き、顔を上げると窓を覆っていたカーテンが薄蒼く光っている。
ああ、そうか。
「朝、か」
絶望の夜の後は必ず希望の朝がやってくる。昔誰かがそんな事を言っていたような、そんな言葉を思い出し眉間を寄せる。
希望の光にしては、妙に虚しい光源だった。
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