「待てって、矢吹!」
 大志は慌てていずるの後を追っていた。どんなに声を張り上げても、彼は立ち止まってくれず、駆け足でその背に追いついた。
「篠田も、本気じゃないんだよ!それは、お前が一番解かってるだろ?」
 必死に話しかけながら大志はいずるの足を止めようとしたが、彼は全然歩みを止めてくれない。それどころか
「……ああ、俺が一番良く解かっている。あいつは本気だ」
「って、おぉい!!」
「丁度良かった」
 しかし、そう呟いたいずるの言葉にはどこか安堵の色が混じっていて、それに大志は目を見開く。
「……え、何が」
「アイツを下らない俺の事情に巻き込むわけにはいかないから」
 少し長めの前髪を掻き上げたいずるの横顔からは先ほど見せたあの怒りは消え去っていた。困惑する大志の表情に、いずるはようやく足を止め、肩を竦める。
「……いつまでもいつ来るか分からないその時に怯えているより、すっぱりけじめをつけた方が良いんだ。どうせいつかは必ず来る瞬間だっただろうしな」
 ただ毎日が楽しくてしょうがなかったあの頃の自分を思い出し、苦笑した。幼い自分は、誰かとの別れなど考えた事もなかった。ましてや一番近くにいた正紀との別れなど、意識する以前に想像もつかなかった。
 それが、最近では常に自分達の背後にあり、生々しさを強調し続けていた。
「俺も最近正紀との別れを意識するようになっていた。昔は、一度もそんな事考えたことなかったんだけどな。それって、もう駄目だったってことだろ」
 どこか清々した気分で、いずるは顔を上げる。しかし、そこにはいつものお人好しの笑みは無かった。茫然としていたその黒い目が一瞬にして濡れたところを、いずるは見てしまう。
「違う」
「……三宅?」
「違うよ、矢吹……!誰かとの別れに、常にそれ意識しておかないといけないくらい心構えが必要ってことは……!」
 ふるり、と大志は首を何度も横に振り、その都度彼の跳ねている黒髪が柔らかく揺れた。その様子をいずるはただ黙って見ていることしか出来ない。
「その人のこと、すっごく大切で」
「……三宅」
「その人と、離れるのがすっごく嫌で」
「三宅、もう良い」
「本当は離れるのが怖いから、嫌だから、辛いから……でも突然その時が来たらもっと辛くなるから、だから意識しておいてるんじゃないのかよ!?」
「三宅!」
 廊下に響くくらいの怒声と共に大志の首元が掴み上げられる。その拍子に大志の黒い瞳から落ちた涙がいずるの手の上で弾けた。
 自分の目から流れ落ちる涙を恥じる事無く、濡れた目で見返してくる大志の度胸に、いずるの方が毒気を抜かれてしまう。
「どうしてお前が泣くんだ」
「……なんで、矢吹は泣かないんだ。辛くないのかよ」
 鼻をすすり上げながら問い返してきた大志から、いずるは手を離す。自然とため息が漏れた。
「辛くない、わけがない」
「………じゃあ、何で」
 どこか責める様に濡れた黒い目がいずるを見上げ、どこか子犬を思わさせるその瞳に肩を竦めた。
「ばっか。俺が泣いたら、正紀が気にするだろ」
 鼻を鳴らしながら袖で涙を拭く大志の胸を軽く叩き、いずるは小さく笑う。その声色は、優しげだった。
「お前も、気にするなよ、三宅。そんなデカイ図体で泣いてんな」
 いずるはぐしゃりと自分よりも少し高い位置にある短い黒髪を撫で、じゃ、と手を振って帰っていった。
 意味が解からず、ぽかんとしてしまう。
 ただ、自分が本当に取り返しのつかない事をしてしまったという自覚だけが残った。
 茫然と立ち尽くし、いずるの背の残像を追っていた目が次に映したのは小さな少年の姿だった。その姿に大志は安堵を覚えると共に、熱いものが込み上げてくるのが解かる。彼も自分に気付いたのだろう。ああ、というような表情に、限界が来た。
「と、遠也ぁぁぁ!」
「ぐっ!」
 突然廊下に突っ立っていた大志が自分よりずっと小さな体に抱きついてきたのだから、堪らない。いきなりの衝撃に遠也は一瞬息が出来なかった。
 しかし、大志のほうはそんな彼の様子に気付かず、ただしゃくり上げている。
「どうしよう、遠也!おれ、おれ……すっげ余計な事して」
「落ち着け、泣くな、離れろ、話はそれからだ!」
 鼻をすすり上げる音構わず遠也は彼の顎を手で押し返した。それでようやく彼もある程度落ち着いたらしい。遠也から離れたが、泣くのは止められないらしく、遠也は嗚咽の混じった話を聞く事になった。
 でかい体がおろおろと全身で動揺を表す様は滑稽だ。それを宥めて話を聞けば、大志が正紀といずると引き合わせて余計な事をしてしまったらしい。お節介が仇となったようだ。
「何か、すっごい険悪で……!」
「……一体貴方は何をやらかしてくれたんですか」
 遠也のため息に、大志は困惑した目を遠也に向ける。
「なんか、若林?病院がどうのこうのって……」
「……若林?」
 おろおろと説明した言葉に遠也は目を見開いた。
「若林、中央……病院?」
「ああ、それそれ……!俺もう、どうすればいいの……」
 大志は自分のしでかした事の重大さに嘆き、遠也は彼らの揉め事の原因となっていたものに眉間を寄せる。やはり、避けては通れない道だったのだろうか。
 正紀が部屋から出てきたのに遠也は目を上げ、視線が合う。その瞬間、正紀の表情が強張った。
 ああ、そうか。
 遠也は何かを納得し、視線を下げた。今の正紀の顔は見覚えがある。あれは“佐木”に良く向けられる顔だった。恐怖と嫌悪と、憎悪に濡れた瞳。
 鬼、悪魔、死神と異名をつけられるほどには、自分達佐木一族は忌み嫌われている。その理由も理解出来る。自分達は嫌われて当然の事をしているのだから。若林中央病院も、そうだ。
「……遠也?」
 “佐木”を嫌うのは、人間として健全なことだと、兄が昔諦め半分で呟いていた。そして、自分達にはその視線を甘んじて受け止める義務があると。
「……大丈夫だ、あの二人ならすぐに仲直り出来る」
 はぁ、と遠也はため息をついていた。



 




 ちりり、ちりり。

 小さな鈴の音に橘は目蓋を上げる。
 視界の上、鼻をひくつかせた小さな毛玉に自然と口元も上がった。小さなハムスターが自分を心配するように顔に擦寄ってくる。
 つい先ほどまで自分の体を弄んでいた男はいつの間にかいなくなっていた。まだ眠気から冷め切れない橘は再び目蓋を閉じようとしたが、その時障子がゆっくりと開いた。
「……ゆず」
 顔を覗かせた幼い少女の名を呼び、橘は気だるい体をゆっくりと起こす。柚、と呼ばれた幼女はにこりと笑い、橘の着替えの服を差し出す。彼女は、橘の付き人だった。
 幼い顔に不釣合いな化粧を施された顔を見ると、いつも胸の奥が苦しくなる。こんな幼い子も、いつかは人間の欲望の犠牲になるのかと思うと。
 肌蹴た着物を着なおし、橘は視線を上げた。窓の向こうの景色はうっすらと明るくなり、朝が近い事を知らせている。

 ちりり、ちりり。

 鈴の音を聞きながら、橘は柚が持ってきた服に手をかける。しかし、そこに布とは思えない硬質な感触を覚え、ゆっくりとシャツを持ち上げその下に隠れていたものに目を見開いた。

 ちりり、ちりり。

「柚、これ……っ!」
 しかし、彼女に問うてみたところで、彼女は幼い目をきょとんとさせるだけだった。きっと彼女は何も知らずに持ってきたのだろう。
 細い鈴の音が、橘の頭を冷やしてくれた。
「……そう、そうなの……今日、なのね……」
 ちりり、ちりり。
 鈴の音を聞きながら橘は再び顔をあげた。手に、その小さく細い手には不釣合いな黒い短銃を持ったまま。



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