「三宅―、いるか?」
 正紀が翔と別れてから向かったのは大志と遠也の部屋だった。その扉をノックすれば、大志がすぐに顔を出す。まずその後ろを見回したが、どうやら中に遠也はいないようだった。これは好機だ。
「篠田じゃん、どうしたんだ?」
 退屈な時間を過ごしていた大志は、何も知らずに思わぬ訪問者を笑顔で迎えてくれた。そんな彼に正紀は軽い謝罪の意味で片手を挙げ、片目を瞑って見せる。
「悪ぃな、ちょっとお前に頼みたいことあるんだよ。天才は?」
「遠也は多分今夜も帰って来ないよ」
「そっか、んじゃお邪魔しまーっす」
 いつものように靴を脱いで入った大志と遠也の部屋は思った以上に綺麗な部屋だった。恐らくあの天才少年が汚い部屋を嫌うのだろう。間取りはほぼ自分の部屋と同じ。両側にベッドと机がある。
「で、篠田。用事って?」
「ちょっとお前のパソコン貸してくんね?」
 自室に戻るのは気まずいので大志の部屋のパソコンを借りる事にした。大志は思ったとおり、「別に良いけど」とパソコンを貸してくれる。それに礼を言い、早速パソコンを立ち上げ、ROMを中に突っ込んだ。
 そんな正紀の様子に大志は何か思いついたように目を上げ、「ちょっと出てくる」と部屋から出て行った。それも正紀にとっては好都合だった。こんな情報を大志にはあまり見られたくない。
 若林中央病院というのは、電車にのってその路線の終点にある大きな病院だ。町外れにあるにしては巨大な建物だったのを正紀はぼんやりと覚えている。会う事を最後まで許してくれなかった諌矢に、一度だけ会いに行ったのだが、家族でも何でもないと言われ彼に会うことは結局出来なかった。
 森の中に隠れるように存在したそれに、どこか奇妙な印象を持ったのは確かだ。何か、嫌な予感がする。
 中にあるファイルを開けば、その病院の設立に至る敬意まで細かく書かれていた。それによると、若林中央病院はあの佐木の病院から派生して出来た研究施設だったらしい。
 研究施設?
 そこに確かに書かれている事実に、思考が止まる。これ以上読むのは恐ろしいが、読まなければならなかった。あの事件の事を全て知るには、必要な情報だ。
 いくつかファイルを開き、画像を眺めていたが、趣味の悪いネットのサイトを眺めているようだった。変形した人間の体の部位が綺麗に撮影されている。事細かなメモの内容も眉間を寄せてしまうようなものだった。トカゲと人間の遺伝子を掛け合わせた、などと正気とは思えない研究もある。
「一体、何を研究していたんだ、ここは……」
 白い壁の向こう側でこんな事が実際に行われていたとはなかなか信じがたいが、しかしこれが真実なのだろう。そしてここに諌矢がいたという事実に更に戦慄を覚える。
 いずるはこの事を知っていたのだろうか。
 彼は兄の見舞いによくこの病院に行っていたはず。聡い彼が、その事に気付かなかったというのは少々疑問が過ぎるが、気付いていたら彼のことだ、兄をすぐに救出していたに違いない。
 しかし、脳裡によぎるのは兄は死んだと、どこか冷たく言い放ったいずるの顔を思い出してしまった。
「ただいまー、何見てんだ?篠田」
 止める間もなく画面を覗き込んだ大志もその画像に声を上げた。彼はきっと何かアダルト系のサイトを見ていると勘違いしていたのだろう。浮ついた声が一瞬にして引き攣った。
「げ。な、何見てんだ?篠田……」
 思わず両目に手を置き、わずかに開けた指の間から覗いた大志の目は困惑している。スプラッターの類は苦手だ。正紀も幽霊の類は苦手だと聞いているが、こんな画像を平然と見れる辺り、こういう系統は平気らしい。普通逆じゃないのか、と思うが、正紀はその画像と大志を見比べ、肩を竦めた。
「俺もよくわかんねぇ、けど……」
「三宅、俺に用って何……」
 その時、部屋の扉が開き、聞きなれた声に正紀は背を硬直させた。相手も言葉を止めてその動揺を露わにする。いずるが、そこにいた。
 顔を合わせた二人の凍った空気に大志が先に動いた。
「あ、あーっと……ほら俺、矢吹に辞書借りっぱだったじゃん!」
 取り繕うように笑う大志に、彼の浅知恵を察した。ここで正紀といずるを引き合わせ、仲直りをさせようという算段だったのだろう。だが、今余計な事を知ってしまった正紀にとっては、余計な引き合わせだった。
「そんなもの、後で良い」
 いずるも大志の気遣いに気付き、疲れたようなため息を吐く。そして背を向けようとしたが、それを大志は慌てて止めようとした。
「矢吹、待っ」
「待てよ、いずる」
 大志の声に被ったのは正紀の声だった。正紀がいずるを制止したことに大志は一瞬表情を輝かせて彼を振り返ったが、そこに待っていたのはどこか殺気だった正紀の顔だった。
「……お前、どこまで知っていたんだ?」
「何?」
 低い正紀の声に流石のいずるも怪訝な表情で振り返る。何を問われているのか解からないというような顔に、CDケースが飛ぶ。顔に当たる寸でのところでいずるはそれを受け止め、そこに書かれていた文字に目を見開いた。
 若林中央病院、それはいずるにとっても忌々しい名前だ。
「諌矢さん、そこに入院していたな?お前、その病院がどんな病院か知っていたのか?」
 正紀の問いに、いずるは目を細める。彼もどうやら知ってしまったらしい。この国のトップシークレットにもなっている一つの事実を。透明なケースに黒いマジックで書かれた文字を眺め、いずるは僅かに目蓋を上げた。
「……これ、どこから持ってきた」
「俺の質問が先だ!」
「いいから、答えろ!」
 あまりのいずるの剣幕に正紀は押され、一歩後退したが
「……川辺教官のところにあったのを持ってきた」
「川辺教官?」
「さぁ、お前の番だ。答えろ」
 正紀はそれ以上のいずるの問いを許さず、その強硬な態度にいずるは質問を渋々飲み込むしかない。ただ、川辺の顔を脳裡に思い浮かべるに止める。
 そして
「……知っていたさ」
 体の奥から捻り出すように低い声で答えると、正紀の眉間に皺が刻まれる。
「知っていた。見舞いに行っていたんだ、普通の病院とは違うことくらいすぐに気付いた」
 兄の諌矢もきっとそれにすぐ気付いた。それでも、見舞いに行った自分には勤めて明るく振舞っていたのだ。その彼の努力を無駄にすることは自分には出来なかった。いや、綺麗事を並べればそうなるが、結局は自分も恐ろしかった、この国の闇を直視するのが。
 けれど正紀ならきっとそれを直視し、真っ向から対抗しようとする。あの頃はそんな希望を胸に一時連絡を途絶えていた正紀を探した。けれど、あの頃の彼はその闇に気付くことなく、違う闇に呑まれかけていた。
 そしてそれに気付いた今、正紀が直視しているのは、いずるの闇だ。
 真直ぐな茶色い瞳が怒りを纏い、それが自分に向けられているのだと察したいずるは奥歯を噛み締める。自分はずっと、その目を自分に向けられるのが恐ろしかった。
「でもしょうがないだろ、兄さんの病気は特殊だった。普通の病院じゃ、到底治せなかった」
「だからって、研究所に引き渡すなんてしなくていいだろ!何考えてんだ!」
「研究所じゃない、病院だ!まだ、あそこには希望があったはずだ!むしろ、引き渡されたのは俺の方だ!」
 ぐ、と眉間に皺を寄せ強く睨み付けてきたいずるに、正紀は口を噤む。それにいずるは小さく息を吐き、彼から目を逸らす。
「……親父は兄さんの病気を治す為に俺を矢吹家に引き渡したんだよ。あの爺さんは、世継ぎが欲しくて、兄さんの病気を治せる病院で入院させる代わりに俺を矢吹に寄こせって言ったんだ。親父たちの離婚もその所為。兄さんの病気を、治す為で……俺の意見なんて最初っから聞いてもらえなかったんだぞ」
 早口でまくし立てながら、すまない、と土下座した自分の父親の姿が脳裡に蘇る。いつだって自分の意見は言わせてもらえなかった。離婚すると言われた時もすでに決められていて、離婚届も役所に届けられた後だった。
 戸惑いながら対面した母の父、つまりは初めて出会った祖父は、お前を矢吹家の当主として恥ずかしくないように育てると言った。そこでも、拒否権はなかった。
「兄さんさえいなければ、こんな事にならなかった。そう、何度思ったか解からない」
 兄が奇妙な病にかからなければ、こんなことにはならなかっただろうに。
 父が自分に向かって土下座した時にもそう思った。兄がいなければ彼は自分にこんな情けない姿を見せずに済んだだろうにと。
 兄さんさえ、いなければ。
 そう思っていたところで、兄も自分に対してそう思っていたことを知り、もう駄目だと思った。
「……兄さんが死んだのは、自業自得だ。死んで、当然だった。父さんも馬鹿だ、あんなヤツの為に身を粉にして働くなんてな」
「ざけんな!」
 いずるの言葉に苛立ちが頂点に達した正紀は堪えきれずに目の前の相手の襟元を掴み上げていた。
「お前、自分の兄弟だろ……!何で、そんな事言うんだ、昔のお前だったらそんなこと言わなかったぞ!」
 僅かに正紀の眼が濡れているのは、一体誰の為なのだろうか。睨んでいる自分の為ではない事は確かか、といずるは小さく息を吐いた。そんないずるの態度を何か勘違いをして苛立ちを覚えた正紀は、掴みあげていた手に力を込める。
「大体、そんなこと言ったらお前の親父さんも黙っちゃいねぇぞ!いくら矢吹に行ったからって」
「死んだよ」
「……は?」
 正紀の驚きの目に、いずるは笑いが込み上げてくるのが解かった。
「だから、父さん。今年の初めに死んだってさ」
「え……?何で?」
「父さんが小さなバーを経営してたのは知ってるだろ?どうやらそこは反政府思想の人間の溜まり場だったらしくってさ。摘発されて、警察に捕まって次の日簡易的な裁判をして極刑になってその日のうちに処罰されたらしい」
 どことなく他人事のような口調で淡々と告げるいずるに正紀はただ驚くしかなかった。彼の態度もだが、その吐き出される言葉の内容もだ。
「……なぁ、いずる……ちょっと待てよ」
 恐る恐る出した自分の声は、震えていた。
「あそこら辺って、お前の家の……土地だよな?」
 その一言でいずるも正紀が何を言いたいのか察した。いずるの家、矢吹家は貿易等で大きくなり、今ではその土地の市政どころか国政にも口を出すことが出来る家だ。矢吹家は格式高い家で、そうした家の言葉を政治家達は大人しく聞くらしい。そんな家だ、その家が口を挟めば、そんな処刑を止めさせる事も出来たはずだ。
「……実の父を見放したのか、お前」
 正紀の言葉は心外と言えば心外だった。自分はまだ矢吹家の当主ではないのだから、いずるの判断でどうこう出来る一件でもなかった。だが、その父が逮捕された夜に祖父にその話を聞かされ、どうしたい?と問われたのは事実だ。そこで、翁殿のお考えの通りに、と告げたのも事実。
 過去、愛娘を無理矢理奪った男を彼がどうするかなど、考えなくとも想像はついたのに。
「先に俺を見捨てたのはあっちの方だ」
 そう言い、冷たい目で見返してきたいずるに、正紀は拳を握る。そんな彼の素直な態度は今のいずるにとっては羨ましいものだった。父親を心から尊敬していた正紀には、いずるのとった行動が理解出来ないのだろう。だが、正紀がそれを理解する必要はどこにもない。
「俺を、殴るのか」
 今にも殴りかからんと顔の前に用意された拳を一瞥し、いずるは静かに問う。静かな声に制され、正紀は僅かに震える拳をゆっくり下した。
「……殴れば良いのに」
 怒りを堪えた正紀に、ぽつりといずるは本音を零していた。
「今の俺を殴れる人間は、お前だけだ。殴れば良い」
「……いずる」
 小さく笑ったいずるの表情は今だかつて見たことがないもので、彼がそんな笑い方をするようになった事を知らなかった自分に正紀は眉間を寄せる。
「解からないねぇけど、解かるぞ、いずる」
「正紀?」
「あの辺りは全部矢吹の土地だ。そこに反政府組織が溜まってるって、軍から警告受けて、それを無視するなら矢吹家は反政府思想を持っていると見なすと脅されたんだろ。あの頃、市はただでさえ例の薬関連で監督不行き届きを政府から指摘されていた。それで、市政への軍の介入を、示唆されたんだろ?」
 淡々と告げた正紀の言葉にいずるはただ驚くしかなかった。確かに彼の言うとおりだが、何故それを彼が知っているのだ。それは、当時新聞にも載せなかった事実だ。正紀の話は更に続く。
「そんな事になったら矢吹の家門に傷がつく。それ以上に、政府を牛耳り始めた軍がうちの市を手に入れることになれば、軍はさらに力を手に入れる。矢吹は文官寄りの名家だ。軍に力を持たせるわけにはいかない。それに軍はすぐに気に入らない事があれば武力行使を行う手段を持っている。どんな人間を殺しても、後で反政府だとか何とか言えば許されるからな。だから矢吹は多くの人を救う為、一部の人間を見放した。スケープゴート、ってやつだろ」
 あの当時、全国で反政府組織への粛清が行われていたことは新聞にも載っていた。各地域に、検挙人数のノルマが課せられていたことも。50人以上その地域から反政府思想の人間を出さなければ、彼らを庇っていると見なして軍の介入を行うと。
「……妙に、詳しいな」
 感心と驚愕の混ざったいずるの声に、正紀は口角を上げた。
「矢吹が見放した人間の中には、俺の父さんも入ってるからな」
「……何?」
 その時のいずるの怪訝な表情に、正紀は正直救われた。自分の父の件を彼は知らなかったらしい。その事には心底安堵する。
「父さん、死んでから書類送検されたよ。反政府思想でさ。“H”が国が仕掛けてきた実験だったなら、それを阻止しようとしてたあの人はそりゃ確かに反政府思想の持ち主だったよ。多分、それが俺がここに来た本当の理由なんだろうな」
 選ばれなかったら自ら志願するつもりだったが、それは杞憂だった。反政府思想を持っていた男の息子は、きっと矯正目的でこの士官学校に入れられた。
 小さく笑った正紀に、いずるは眉間を寄せる。そんな幼馴染の表情に、正紀は軽く笑い肩を竦めて見せた。
「解かるよ。解かるさ。もしかしたら、その決断は正しかったかもしれない。最小限の犠牲に収める。上に立つ人間なら、正しい選択だ。解かるよ。解かるさ、解かる」
 解かるけど。
 心の中でもう一度そう呟き、正紀は目を上げた。目の前にいるのは、幼い頃から共に馬鹿をやってきた、笑い合ってきた、大切な幼馴染で親友。そして、大きなものを背負っている名家の公子だった。
 幼い頃には無かった自分と彼の違いに、一瞬口元が笑みの形に歪んだ理由は自分でもよく解からなかった。理解する前に、その笑いは消え去ってしまった。もしかしたら、最後は弱みを見せたくないという抵抗の笑みだったのかもしれない。
 けれど、こんな事を笑って言えるほど、正紀も強くはなかった。
 息をするのも嫌だった。今吸ったこのエネルギーを使って、自分はこの言葉を音にするのだと思うと、膨らんだ肺が苦しかった。それでも、腹部に力が入り、喉の奥からそれはゆっくりと吐き出される。
「でも、俺は、名門の人間じゃないんだ……!」
 いずるの顔を見るのが怖くて目を開けることが出来なかった。
「俺は、俺の家は、ただの平民で……自分や自分の周りのことを考えるのが精一杯で、国とか世界とか大勢の命とか、そんな事考えることも、考える必要も無い立場だった。ただ……大切な人がいつまでもそこにいれば、最低限喰っていければ、それで良かった。それだけで、良かった。それだけで、充分だったのに……!」
 変な事件に手を出したお前の父が悪い、と世間の人々は冷たく切り捨てた。だが、父が救おうとしていたのは、そんな人々だ。彼の志を理解してくれた人間があまりにも少ない事も、正紀の中で暗い蟠りを作っていた。
「父さんは、犯罪者じゃない!父さんは、間違いなく正義だった!そんな人を犯罪者にした警察を、お前の家を、この国を、俺は理解する事は出来ない。俺だけは、理解するわけにはいかない。だから」
 熱くなりかけた目を上げ、再び幼馴染を視界に入れた。彼は無表情でこちらを見つめている。その目から視線を逸らす事なく、正紀はゆっくりと口を開いた。
「……俺は、もうお前と友達でいられない」
 静かに告げられたその言葉に、乾いた笑いを上げたのは今まで黙っていた大志だった。
「ちょ、何言ってんだ、篠田……冗談だろ?や、矢吹も何か言え!」
 いつものように切れの良いツッコミをいれてやってくれよ、と大志は引き攣った笑みを浮かべるが、そんな彼の努力を気付くことなく、いずるが口を開く。
「……それは少し、利己主義に過ぎるんじゃないのか。軍の介入を防ぐ為には、何人か軍に差し出さなくてはならなかった。そうしなければ、あの地域は軍から何らかの攻撃を受けることになった。そうなれば、死者は100人、いやそれ以上に」
「利己主義」
 いずるが発した言葉を正紀は鼻で笑う。
「無実の人間を数人生け贄に差し出して、それで良かった助かったと笑っているお前らは利他主義だとでも言うのか。御立派な正義だ」
「正紀……!」
 どこか言い聞かせるようないずるの声に、正紀は視線を下げる。彼の考え方は解からないでもないと、言ったはずだった。
「言ったはずだ。解かるけど、解かるわけにはいかない。俺は名門の人間じゃない。ただの、一般市民だ。多くの人間の死を惜しむのが上にいるお前の役目なら、一人の人間の死を惜しむのが下にいる俺達の役目。じゃねぇと、報われねぇだろ。一人の一生が、終わったんだぞ、そこで」
 笑う正紀の表情はいつの間にかいつもの笑みに戻っていた。いずるの目の前にいるのは間違いなく、小さい頃から共に馬鹿をやり、笑い合ってきた幼馴染で、親友。だか、その背にはいつの間にか小さな志と正義が育っていた。
「なぁ、いずる」
 頼むから、もうそれ以上何も言うな。
 そう心の中で叫んだが、声にすることは出来なかった。
「俺は、お前達の前に立ちはだかる存在になってみせる。そういう馬鹿がいても、良いだろ?」
「……街角で雑魚を殴る事ぐらいしかしてこなかった元不良に、何が出来るって言うんだ……」
 正紀の声が妙に凛としているのに対し、いずるの声は僅かに震えていた。その揺れに正紀は苦笑したが、
「周りから罵倒されるのも覚悟している。でも、これが俺の正義だ」
 揺ぎ無い返答に、いずるはもう顔も上げる事が出来なかった。
 正紀はもうその意志を返ることはないだろう。それは間違いなかった。自分は彼の性格を誰よりも理解している。それ故の、この確信が苦しい。
「俺と、敵対するっていうのか」
 嘘でも否定して欲しいと思い、わざと直接的な単語を使ったが、正紀はその問いに目を伏せる。それでは、肯定しているようなものだ。
「ばか、言うな……。これじゃあ、これじゃ……」
 正紀の真摯な目にうろたえ、いずるはその視線から逃れたい一心で首を軽く横に振りながら後退する。表情もどう作れば良いのか解からないほどに混乱していた。口元が上がったり下がったりと、怒れば良いのか笑えば良いのか、嘆けば良いのか解からない。
 答えが欲しくて顔を上げて正紀を縋る思いで見たが、彼の表情は変わらず、目はただ真直ぐで、表情は穏やかだった。答えを見つけた彼は、もう迷う事などないのだろう。
 自分と彼の距離は目測一メートルも満たない。しかし、それが果てしなく遠い距離になってしまった。
「これじゃ……っ」
 目の前の距離を受け入れたくなく、前髪を強く掴み、低く呻くしか抵抗が出来ない自分に、愕然とした。
「これじゃ、何の為に矢吹に入ったのか解からなくなる……!」
 君が矢吹に入れば、兄が助かる。
 最終的にいずるが矢吹に入る事を決めたのは、誰かのそんな一言だった。父の言葉でも母の言葉でも兄の言葉でも、ましてや祖父の一言でもなかった。名も知らない、矢吹の従者の軽い一言だ。何の関係も無い第三者から見ても、そうする事が正しいのだと言われ、暗にそうしない事はただのわがままだと言われた気がした。兄が助かるのならそれでいいと、その時は素直に思った。
 しかし、兄は死んだ。父も、死んだという。
 結局、当初心の支えにしていた目的はどれもあっさりと砕かれ、最後に残ったのは親友の存在だけだった。自由と引き換えに手に入れた権力と財産。それを駆使して、彼の存在だけはどうにか守りきろうと思っていた。思っていたのに。
「なんだよ、これ……なんで、こうなるんだ」
 ポツリと呟き、力いっぱい握ったドアノブに矛先が解からない怒りをぶつけ、開いたドアからふらりといずるは部屋から出て行った。
「篠田……!」
 彼が出て行った瞬間、大志が非難めいた声を上げ、正紀を振り返る。だが、正紀の方は平然とパソコンからCD−Rを取り出していた。カチャン、と勢い良く飛び出してきたCD-Rを手に取ったは良いものの、ケースがいずるの元に行ってしまった事を思い出し、正紀は小さく「あ」と呟いた。
「おい、篠田!」
 そんな背を大志は責めるが、
「良いんだよ、これで」
 正紀は何てこと無いような口調で対応する。そんな彼の真意が見えず、大志は眉を下げ、拳を握っていた。
「何が良いんだよ!全然良くない!良くなんかない!」
声を張り上げ、睨むというより哀しげに懇願するその顔に、お人好しな友人の心情を察して正紀は小さく笑ってみせる。
「お前は復讐とか物騒なこと考えられる人間じゃねぇよなー。お人好しでかっわいーぃ」
「茶化すな!篠田のばかばかばか!」
 半泣きで部屋から飛び出していった大志の背を見送り、正紀は手の中に残ったCDを眺める。この内容をいずるも知っていたようだが、彼が知ったその時の衝撃は恐らく自分の数十倍だったろう。それを一人で耐え忍んできた幼馴染の苦痛は、計り知れない。
「……悪いな、いずる」
 彼はこのままいけば、名家の当主という地位も名誉も富みも思いのままの人生が待っている。生き難いこの国で、その人生を手放させることは出来ない。今まで苦労した彼にこそ、その人生を手に入れる資格があるのだから。
 自分のちっぽけな復讐心を、彼に引き継がせるわけにはいかない。
 自分がやろうとしていることがどれ程虚しいものかは自覚していた。恐らく、あの世の父は今の自分の姿を苦々しい気持ちで見ているだろう。だが、もう引き返せない。むしろ引き返したら今までの努力が無駄になってしまう。止めるわけにはいかないのだ。だが、あの幼馴染を巻き込みたくはない。
 復讐の連鎖は、どこかで断ち切らないといけない。それもそれを始めた自分の役目なのだと、正紀は拳を強く握った。



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