翔は暗い廊下をぼんやりと歩いていた。一応足は自室へと向かっているのだが、自分の意思を持って歩いている感覚があまりなかった。まるで、そう、例えるならば、立ち止まる事も許されず、走り出すのも許されない夢の中のようだ。
 自分の父親が、生きているかもしれない。
 そんな可能性を突きつけられ、瞬時に「どっちの?」という疑問が過ぎったことにも戸惑いを覚えた。
 今まで誰かに話したことは無かったが、翔の中には二人の父親が存在した。一人は、幼い頃自分や姉を殴り苦しめた父と、昏睡状態から目を覚ました後の父だった。数年ぶりに目を覚ました父に翔も会いに行ったのだが、あれほどに乱暴的だった空気はすっかり取り払われ、どこか生気さえも失っていた彼の姿は別人過ぎた。そして、その父の眼の色ははっきり覚えている。青かった。
 和泉が言っていたように、何故自分が知る父と他人が知る父が違いすぎるのかは気になっていた。だが、気にしないようにしていた。もう父は死に、全て終わった事だと自分を納得させようとしていたところだったのだ。だが、彼は終わっていないと言う。
 彼は父が生きているという。生きているならば、どっちの父が生きている?
 解からない。
 だが、橘の製造者の欄に書かれた父の名前は、彼の説を強く押していた。もし、彼女が父によって造られたクローンであるのなら、自分は彼女ともう関わらない方がいいのかも知れない。でも
「……もう、考えるの止めよう」
 寮の部屋の前まで来て、翔は持っていた本を軽く額に打ちつけた。この中には克己がいる。彼との時間は確かにここにある現実。夢の中の住人である父など現実にはいないのだと、きっと思わせてくれるはずだ。
 現実逃避だと言われるだろうか。だが、自分にはまだ真の現実が見えない。
「あ。日向」
 扉を開けようとしたその時、正紀に呼び止められ、翔は早速現実世界の住人と出会えてホッとした。
「篠田か」
 しかし
「そうだ、甲賀、今夜出掛けて帰って来ないって言ってたぞ」
 突然伝言を言った正紀に翔は瞬時に笑顔を消してしまう。
「……克己、いねぇの?何で?」
 自分が思っていた以上に衝撃を受けている事実に戸惑いながらも、それを誤魔化しながら問う。すると
「野暮なこと聞くなよー。夜に出かけるって言ったら理由なんて一つしかねぇだろ?」
 ニヤニヤと笑う正紀に罪は無いが、彼の笑みに激しい苛立ちを覚える。克己は、どうやら女性のところへ行ってしまったらしい。その気持ちは同じ男なのだから、多少は理解出来る。理解出来るが。
 一瞬眉間を寄せてしまったのを、正紀には気付かれていないはずだ。
「そか。ありがとな、篠田」
「おお、じゃーな。おやすみー」
 正紀はひらりと手を振り、廊下の向こうへと行ってしまう。自分の部屋の前を通り過ぎた辺り、今日も自室へ帰る気はないらしい。
 それを見送ってから翔は自室の扉を見上げる。彼の言うとおり、中にルームメイトはいないようで、人の気配を感じなかった。きっと、中に入り電気をつければ、一人であることを突きつけられてしまうだろう。ぞわりと背筋に悪寒が走ると同時、唇を噛んでいた。
 何を期待していたんだろう、自分は。
 自分は、今あった出来事を克己に言って、優しい言葉でもかけてもらうつもりだったのだろうか。そんな甘い期待を打ち砕かれて、ここまで衝撃を受けているのか。
「……何やってんだ俺」
 千宮路の問いには答えられず、翔はただ逃げ帰ってきた。今思えば、一言そんな事は有り得ないと叫んで来れば良かったのだ。例え、礼儀がなっていないと注意されようが、その主張だけはしておくべきだった。まるで、父は生きていると認めてしまったようなものではないか、これでは。
 彼が生きていたら自分などとうの昔に殺されている。自分が生きていること、それが何よりの証拠だ。
 大丈夫。
 そう自分に言い聞かせ、心の中に広がる恐怖をどうにか止めようとした。強くなると決めたのだから、この程度で怖がっていてはいけない。
 強くなると決めたんだ、俺は。
 心の中に広がる恐怖を払拭するように自分を叱咤し、ノブから手を離す。今はただ、自分が信じたことをやるしかないのだ。立ち止まる事は許されない。
「……あれ?日向?」
 その時、聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにはクラスメイトの木戸孝一が立っている。彼とは中学が一緒でクラスの中でも比較的気軽に話せる仲だった。だが、二人きりで向かい合うのは久し振りだ。
 茶色い瞳を人懐こく細めた彼に、翔は自然と声を弾ませていた。
「木戸か。どうしたんだ、こんな時間に」
「さっきまで談話室でテレビ観てたんだ。そろそろ部屋に帰ろうかと思って」
 木戸が茶色い髪を揺らしながら指し示した談話室の方向からは、かすかにクラスメイト達の賑やかな声が聞こえてくる。
「日向は?てか、一人?珍しいな」
 普段なら遠也かあの甲賀克己が隣りにいるのに、珍しいことに翔は一人だった。珍しいものを見る目で見られ、翔は苦笑する。
「別に俺だって四六時中誰かと一緒にいるわけじゃねぇよ」
「それはそうだろうけど……な」
 じっと翔を見つめる木戸の視線に首をかしげると、何故か彼は手を叩き、翔の腕を掴んだ。それほど唐突ではなかったが、彼のその動作に驚かされる。
「木戸?」
「ちょっとおにーさんに付き合ってくれね。俺、飲みたいジュースあんだけど、それ1階のロビーの自販機にしか置いてないんだよな」
「お、おい……」
 戸惑いながらもエレベーターに乗り込み、1階まで連れてこられると、すでにほぼ人気のないそこは自販機の低い電子音しか響いていなかった。いくつか置かれた観葉樹の脇にある自販機に木戸はすぐ向かい、翔はそれを見送る。ふぅ、とため息を吐きかけたところで、木戸がこちらを振り返った。
「日向は何飲む?」
「え。俺金持ってきてねぇよ」
「気にすんな、おごってやるから」
 ぴぴ、と適当にボタンを押し、落ちてきた商品を取り上げた彼の手には二つの缶が握られていた。一つは翔もよく見るメーカーの人気商品。青地にレモンが描かれているそれは翔も飲んだことがある。確かにそれは談話室には置かれていない商品だった。もう一方の手に握られているものに目をやり、翔は硬直する。まさか、と思うが
「ほら日向、お前の」
 良い笑顔で渡されたそれは「おしるこ」とデカデカと印字されている缶だった。恐る恐る受け取れば、冷たい。どうやら夏に向かう季節に合わせたらしいが……。
「これ、美味いのか……?」
 おごりだといわれているので何も言えずに翔はただ手の中の缶を見つめた。そんな翔に木戸は笑う。
「知らん。俺も飲んだことないな。寮内七不思議、1階ロビー自販機のおしるこドリンク。誰も買ったところを見たことがないのに、何故か商品交換はされない。案外美味いかもしれないぞ」
「ホントかよ」
 近くのベンチに座り、プルタブを開け一気に飲めば、喉にしみる位の甘さに襲われる。甘いのは嫌いではないが、度が過ぎると人も殺せる気がした。
「どうだ、美味いか?」
 木戸は興味津々に顔を覗きこんできたが、
「……あずき」
 感想はどう頑張ってもその程度のものしかひねり出せなかった。甘すぎて痺れた舌を出していると隣りに座った木戸が笑う声が聞こえる。
「何か懐かしいな。同じクラスなのにあんまり喋ってねぇからかな。中学時代思い出す」
「……そいや、そうだな」
 遠也とは中学時代からの友人だが、木戸とは何の縁か小学校からの付き合いだ。それでいてこの学校まで同じクラスになったのだから、一番長い付き合いがある相手と言える。初めて出会った時より茶色くなった木戸の髪を見上げ、何となく薄茶色くなっているその毛先に手を伸ばした。
「日向?」
「……あぁ、いや……長い間付き合ってんのに、そういえば木戸が髪染めたりしたタイミングとか知らねぇなーと思って。気付いたら茶色くなってたもんな」
「それどころか耳にはピアス穴が合計3個開いてますよ、実は」
 にん、と悪戯っぽく笑い、木戸は髪をかき上げて2つ銀色のピアスが差し込まれた穴がある耳を自分で引っ張ってみせる。ということは、右耳には1つ穴が開いているということか。遠也が見れば「不衛生」とばっさり切り捨てそうだ。
 思いも寄らぬ昔馴染みの変貌振りに翔はただ言葉を失う。思い出すのは、街中で髪を染め、顔も黒く日焼けした妙に陽気な男達の集団の姿だ。
「木戸がチャラ男になった……!」
「……っておい。そこまで頭悪くないぞ、俺は」
 べしっと翔の額を小突き、木戸は少し眉間を寄せた。確かに木戸は小学中学時代、いわゆる優等生だったのだ。勉強もスポーツもそれなりで、さらに学級委員長のような仕事も常に任せられ、人の中心に立つ事が多い友人だった。今もそうだ。
「髪染めてピアスなんて今時どこにでもいるだろ?」
「まぁ、そうだけどさ……ちくしょー一人だけ大人ぶりやがってこのー」
 遠也も自分も髪を染めていないし、ピアスも付けていない。何となく一人だけ大人の階段を上った木戸が恨めしかった。それだけが大人のステータスではないことは解かってはいるのだが、解かりやすい変身を遂げた友人は何となく大人っぽくなったような気がする。
「木戸と……日向?」
 その時、ロビーにふらりと顔を出した人物に木戸は軽く手を挙げ、翔は一歩動作が遅れる。見覚えのあるその顔はクラスメイトの真壁だ。彼は翔と木戸を見比べ、眼を細めて笑う。
「珍しい組み合わせだな。お前ら仲良かったんだっけ?」
「ああ、地元一緒なんだよ。実は小学校からの付き合いで。な、日向」
「あ、ああ、うん」
 木戸に笑顔で振られて頷きながら、翔は少し驚いた。真壁は確か南寮の人間だ。だが、すぐに納得する。寮と北寮では多少なりとも確執はあるが、それは南寮の一部妙にプライドが高い人間と、北寮の一部妙に卑屈な人間が作る確執だ。中には気の良い南寮の住人もいる。だから木戸と真壁が会話をしているところをクラス内でも何度か観たことがある。
「そうなのか。んじゃあな」
 真壁はあっさりと南寮の方へと向かい、それを木戸も軽く手を振って見送った。仲が良さそうな空気に、思わず木戸を見上げていた。
「木戸、真壁と仲良いのか?」
「ああ、比較的話すよ。南の奴らの中でも話しやすい奴だからな。基本、うちのクラスは気の良い奴が揃ってると思うぞ、俺も苦手な奴は苦手だけどな」
 沢村とか加藤とかそこら辺。
 彼が上げた名前は翔も一線を置いている人物だったが、その他のクラスメイトとは大方仲良くやっているそうだ。
「……相変わらずだな、何か」
 木戸は昔から友人が多かった。その大らかで明るい性格のおかげだろう。リーダーシップを取る事も多く、どんな相手にも平等な態度で接するところが皆に好かれている。彼は養護施設で育ったこともあり、面倒見が良いのだ。いつも人に囲まれている彼の姿を思い出し、翔は苦笑した。
「……日向、何かあったか?」
 そんな時、木戸が声のトーンを落としてそう聞き、それに翔は笑みを止め、木戸を振り返った。
「え?」
「ああ。いや……気のせいなら良いんだ。でもお前、前色々あっただろ?親父さんのこととか……なんか、気になって」
 肩を竦め、言い難そうに自分を気遣ってくれる木戸は昔から変わらない。そんな彼の様子に、どこか安らぎさえ覚えた。懐かしい空気に、翔は表情を緩めていた。
「木戸は優しいな。でも、大丈夫だから。全部終わった事だ」
 全部終わった。
 自分で言っていても違和感のある言葉だったが、そう言う事しか出来なかった。だが、脳裡に様々なものが過ぎり、それを誤魔化すように缶に口を付ける。さっきは甘いと思ったが、今はそれほど味を感じなかった。
「でも、日向……お前、あの時」
「ん?」
「あの時、父さんと仲直りが出来そうだって言ってたから、俺は心配で。そんな時に、死なれたんだろ?親父さんに。お前、本当にちゃんと終われたのか?」
 ぴくりと翔の眉が動いたのを木戸は見逃してくれなかった。
「日向……」
 まさか、そんな事を覚えていてくれているとは思いもよらなかった。昨年、父親が目を覚ました時にそんな事を木戸に話していたこと自体、翔は忘れていたというのに。思った以上に、木戸は自分のことを気にかけていてくれていた、ということか。
 父親が一度目を覚ましたあの時、何度か彼に会いに行き、言葉を交わした。そこで父は、本心だったのかどうかは今となっては確かめようがないのだが、翔に一生かかっても罪を償うと頭を下げたのだ。そこには幼い頃自分や姉を苦しめた姿は無く、長期間寝たきりですっかり体力を失った男しかいなかった。
 そんな彼を疑うしか出来なかったが、しかし小さな希望も生まれた。もしかしたら、自分はもう過去に囚われずに生きていくことが出来るのでは無いかと。その後、その希望は粉々に砕け散ったが。
 心配そうな目で自分を見つめる木戸に、翔は小さく息を吐いた。
「……わかんねぇ。でも、終わらせなきゃ、って思ってる」
「うん」
「強くなんねぇとな、って思ってるんだ」
「そっか」
「でも、なかなか、思うようにはいかないもんだよ、な」
 自嘲気味に口元を歪め、後ろの壁に身を投げる。そんなどこか投げやりな態度に木戸は小さく笑った。
「俺は、日向は充分強いと思うけど」
「そうか?」
「そうだよ。だって、お前中学の時街中の不良共叩きのめして伝説作ってたし。えーと、確かエンドウとかいう3年生と、イトウってのは高校生だっけ?それに他校の確か……」
 指折り数え始めた木戸に翔は顔が熱くなるのを感じる。あまり触れて欲しくない自分の過去を知るのは、遠也とそしてこの木戸だけだ。
「止めろ、若気の至りなんだってば、それ!」
 思わず耳を塞いでしまったのは、彼らを殴り飛ばした記憶と共に、それを咎めた穂高の顔を思い出してしまうからだ。素人には手を出してはいけない、とこっ酷く叱られてからは、無茶はしていない。
「後、この間の和泉との一戦は、すげーって思ったよ」
 木戸はカウントを止め、うんと頷いてみせる。
「初めて会った時は、女の子かと思うくらいちっこかったし、可愛かったのに。いつの間にか、俺なんか敵わないくらい強くなってたんだな、って」
「ちっこかったって、あの時は小学生だぞ……お前だって小さかっただろ」
 まるで自分ひとり小さかったような言い方に反論すると、木戸は小さく笑った。
「確かに。違いない」
 笑いながら缶ジュースを飲み、木戸は目を伏せる。
「それと、俺は日向ほど頑張れないなって。日向ほど、優しくなれないなーって思うよ。俺なら、そんな親父死んで清々したって思うけど。日向は、何か違うみたいだからさ」
「あー……」
 茶色い瞳に見返され、翔は思わず間延びした声を出していた。
 木戸の言うとおり、清々した部分もあるといえばあるのだ。だが、それ以上に絶望感を覚えたのもまた事実で。
「誰かを、心の底から憎むってのは……凄い疲れることなんだよな」
 ぽつりと呟くように吐き出せば、木戸は何も言わなかった。
「多分、出来るなら許したかったんだ。勿論、すぐに許すつもりはなかったけどさ。何年かかっても良いから、許させて欲しかった。俺の体の中には、あの人の血が流れている。どんなに拒絶してもそれは変えられない事実だったし。嫌悪する相手の血が俺の中にある限り、俺は俺自身も否定していかないといけないし。そうやって生きるの、いい加減疲れてきてたからな」
 銀色に光るプルタブに触れると妙に冷たく、翔の指先を濡らした。
「だから、あの人が一度目を覚ました時は、チャンスだと思ったんだけど……」
 結局、許す許さないの前に、死んでしまった。あの瞬間、久々の絶望を覚えた。その時の事を思い出し、翔は目を伏せる。
「もう、二度とチャンスは来ない。俺は一生あの人を憎み続けていかないといけない。俺は自分自身一生好きになれない。そう思うだけで、本当疲れるんだよな。それに、あの人の所為で死んだ姉さんへの裏切りにもなる事が解かっていて許そうとした俺は、優しいとか強いとかそんなんじゃなくて」
 単なる馬鹿だ。
 そう続けようとした時、頭を木戸の手に捕らえられ、そのまま彼の肩に強制的に乗せられた。
「木戸?」
「日向お前、頑張りすぎ」
「は?」
「もうちょい適当にやれば良いんだよ。俺も俺捨てた両親恨んで、ちょっと他人にバレない程度にグレてそれなりの事やってたけど」
「な、それマジで!?何やったんだよ、お前」
「髪染めてピアス開けて、後ちょっと煙草」
「……それだけかよ」
 木戸の上げた“それなりの事”には少々脱力してしまう。が、木戸にとっては“それなりの事”だったようだ。心外とも言いたげに眉を上げていた。
「これだけやりゃ充分だろ。つーか、下手に街中で暴れたら俺お前にぶっ飛ばされていただろう時期だぞ?」
 負けるのを解かっていて喧嘩なんてしない。
 そう笑う木戸に翔は目を上げるが、そこには彼の穴の開いた耳がある。はめられた銀色の球体が蛍光灯に白く光っていた。
「辛くなるほど、頑張るなよ、日向」
「……木戸」
「前に進めなくなる程の過去なら、忘れることも一つの手だぞ」
「忘れる?」
「全部、無かった事にすんだよ。昔の事、全部な。俺ならそうする」
 木戸の声は優しかった。そしてその言葉も。
 彼は昔から優しかった。同い年のはずなのに、たまに彼が年上のように思える。それはきっと、彼が幼い頃から施設で過ごし、年下の子供達の面倒を見てきたという事情があるからだろう。恐らく、何かに悩む子ども達をこうして慰めていたに違いない。
 忘れるという単語は昔から良く聞かされた単語だ。医者なり、見ず知らずの人なり、そんな過去はさっさと忘れてしまうのが君の為だと皆口を揃えて言っていた。どうやら、自分の過去は一般的に見て忘れた方が良いものだったらしい。
「……日向」
「有馬」
「え?」
「俺は、有馬翔で、日向翔だ」
 木戸の肩から離れながらそう呟き、彼を見上げた。彼は自分の近くにいる人達の中で唯一有馬翔を知る友人だ。唐突に二つの姓を口にした自分を彼は戸惑いがちに見るが、それには何も答えずただ目を伏せる。
 有馬翔と名乗っていた時を忘れたいと思った時期も確かにあり、その所為か彼の言う忘却が正しい道だとは思えなかった。自然な時の流れと記憶の風化により、忘れたことも多々ある。その中には忘れたくないものも、含まれていた。
「翔」
 その時、自分の名を呼ぶ声にはっと翔は顔を上げる。それと同時にどこか緊張を孕んでいた空気が途切れた。オレンジ色の光の向こう、見慣れた長身がこちらを見ている。
「あれ?克己?お前、今日帰って来ないんじゃなかったのか」
 思わぬ克己の登場に翔はすぐに駆け寄ると、彼はため息を吐いた。
「篠田から聞いたのか。ちょっと予定が狂ったんだ」
「何だ、振られたのか。珍しい」
「……篠田に何て言われたんだ?」
 そこまで会話をこなして、ようやく克己は木戸を視界に入れた。怪訝そうな不機嫌な眼は何故お前がここに居るとでも言いたげだ。それにニコリと笑ってみせる。
「仲良いなぁ、お前ら」
 クラスでも仲が良いのは知っていたが、授業でもこの二人の姿を見たことがある木戸は正直な感想を述べる。それに翔は「まぁな!」と元気に答え、克己は無言だった。どことなく彼の威嚇の視線が鋭くなったような気がするのは気の所為か。
 克己のそんな態度に木戸は目を細め、苦笑する。
「でも、ホント良かったな。佐木もだけど、甲賀みたいな友達が出来て。日向はちょっと一線引くところがあったから、心配してたんだ」
「そうだったか?」
 中学時代の自分を振り返り、翔は怪訝な表情を見せた。そんな態度を取っていた覚えは無いが、色々あったから意識しない間にそんな行動を取っていたのかも知れない。難しい表情になりかけたところを、気にするなと言うように木戸が翔の頭に手を置いた。
「だから良かったって言ってんだよ。甲賀も、日向のことよろしくな」
 昔のように撫でようとした手の動きは、途中でその対象を失い、宙を泳いだ。木戸が目を上げると、そこには突然克己に肩を引かれ驚く翔の大きな眼と、冷たく自分を見つめる黒い克己の瞳があった。その目に、ぞわりとしたものが背筋に広がるのが解かる。
「それはお前の台詞じゃない」
 お前にそんなことを言われる筋合いは無い、と冷たい克己の言葉に木戸は悪寒が体中に飛散するのがわかった。そんな彼の様子などどうでも良いと言いたげに克己は視線を翔へと戻す。
「帰るぞ、翔」 
「あ、あぁ。んじゃな、木戸!また明日!」
 笑顔で手を振ってくれた木戸に手を振り返し、翔は克己の後をついていった。
「……木戸と仲が良かったのか」
「ん?ああ、木戸とは小中同じ学校だったんだ」
「それだけか?」
「それだけー……って、他に何かあるか?」
 首を傾げて問うが、克己からの返事は無かった。



「あれが、日向翔」
 木戸の声は、普段とても爽やかな印象を持たせるものだ。だが、今彼の口から発せられた声は爽やかなどお世辞にも言えないほど低く、愉悦に歪んでいた。同じ人間の肉体から発せられた声とは思えないな、と御巫は彼の隣りに立ちながら密かに思う。真壁との話の後、何の偶然か仲間の一人と出くわしたのだ。なるべくなら会いたくはなかったが。
「……何度見てもその変わりようは慣れないな」
 彼の二つの顔を知る身としては、こちらの性格の時には昼間の爽やかな顔を思い出して戦慄し、昼間の爽やかな顔を観た時は夜の悪意に満ちた顔を思い出し、怖気立つ。
 特異な性格を持つ仲間に御巫は戸惑うが、それを彼は鼻で笑った。世良、と名乗る木戸の別人格は、昼間の木戸であれば絶対にしないような表情で嗤う。
「勘違いするな。本来の姿は、この俺だ」
 彼の話によれば、複数、そして大量の薬物投与と催眠術により、性格が二分されたという。あまり科学に通じていない御巫にとっては眉唾ものの話だったが、催眠術というものは自分が思っている以上の効果、そして多様性があるらしい。それを専門に研究している学者も多い辺り、皆この分野に何かの期待をかけているのだろう。
 そしてその実験台にされた彼は、研究者達の思惑通り、彼自身の事を何も知らない人格を自身の中に飼うことになったのだが、それを彼は有効活用している。
「それに、そのうち上辺は消す」
「ほぅ。それは消せるのか」
 御巫はてっきりまた何か催眠術やら薬品やらを駆使して彼の中に今は眠る木戸孝一を消すのだと思ったのだが、世良は不意に顔を上げ、随分と前に翔と克己が去ったほの暗い廊下の先を見据えた。
「……友人だ」
 そうぽつりと呟いた世良の横顔は木戸のようで、一瞬御巫は彼が現れたのかと思ってしまい、気弱な御巫教諭の表情を作りかけた。
「日向と佐木とは中学時代よく遊んだ。友達が多いと言っても、矢張り長い年月を共に歩んだ相手はそれなりに特別な相手だ」
 木戸孝一と同じ肉体を共有する世良には、彼の感情が良く伝わってくる。日向翔と久々に二人で話せて心を弾ませていた事も、甲賀克己に対してあまり良い感情を持っていない事も。
 彼が何に喜び、何に哀しむかなど手に取るように解かるのだ。何しろ、自分は彼であり彼は自分なのだから。
「……その二人を上辺に殺させたら、どうなると思う?」
 その瞬間を思い、世良は口元を歪めて御巫を振り返る。そこで迎えるのは、潔癖なところがある御巫の不快に満ちた表情だった。
「悪趣味だ」
「……最高の褒め言葉だな。そうだ、世界はもっと俺を憎めば良い。そうでないと割に合わん」
 ニィと半月型になった口を御巫が目に入れたその瞬間、周りの電気が消えた。消灯の時間になると、ロビーは非常灯以外の電気が消されることになっている。その暗闇にまぎれて自室に戻るのが、御巫の策だったが、暗闇の中に佇む世良から目が離せなかった。
「お前、何者だ」
 仲間と言っても、一時的に集められた仲でしかなく、御巫は世良の事を知らないし、世良も御巫の身の上は知らない。知らずにいることが、暗黙のルールだった。そうすることで、もし誰かが敵に捕まったとしても、他の仲間にまで害が及ばないようにしている。そんな希薄な関係が、御巫には好都合だったのだが、それは世良にとってもそうだったのだろう。
「俺はこの国に最も不要な人間だ。お前と、同じでな」
 その言葉を残し、闇から彼の気配が消えた。




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