「正紀、待てよ!」
「あー、あれ諌矢兄ちゃんじゃね?」
 いつも通り小学校からいずると二人、走って帰る途中だった。公園の木の下で学生服に身を包んだ彼と、その彼の前で恥ずかしげに立っているセーラー服の女子を見つけ、いずると二人公園の茂みに笑いながら隠れ、二人の様子を伺っていたことがある。
「あれ、諌矢兄ちゃんの彼女かな?」
「兄さんにそんなのいねーよ、あれは告白現場ってやつだよ!」
 色恋沙汰に疎いながらも興味はある。いずるとこそこそ話をしながら二人を観察していた。けれど、諌矢の表情はどこか優れない。いずるもそれに気付いたのか「ありゃ、駄目だな」と呟いていた。
 その瞬間、見知らぬ女子は走り出し、諌矢が困った顔でそれを見送った。
「あーあ。兄さんまた振ったんだ」
 こそりといずるが呟いた言葉に正紀は驚いた。また、ということは前にも同じことがあったという事。確かに穏やかで人辺りの良い彼なら、女性に人気が出てもおかしくはないが、何度も女性の告白を断るということは
「じゃあ、諌矢兄ちゃんもしかして好きな人が――」
「あれ、諌矢君?」
 正紀の疑問を遮ったのは、聞き覚えのある大人の声だった。茂みの影から見れば、思ったとおり、正紀の父親、鷹紀が何故か猫を片手に諌矢に手を振っている。
 父さんだ!
 これ以上隠れている必要は無いと正紀は茂みから飛び出そうとしたが、それをいずるが止めた。何だよ、と文句を言いかけた正紀の口をいずるの小さな手が塞ぐ。ついでにシーっと人差し指を立てられては、それに従うしかない。
「鷹紀さん!」
 突然弾けたような諌矢の声には確かに正紀も小さな違和感を覚えた。
「こんなところで、どうしたんだ?」
「鷹紀さんこそ……その猫は」
 諌矢は鷹紀の手で尻尾を揺らしている茶色い猫に目をやり、首を傾げた。鷹紀の家では猫を飼っていなかったはず。そんな疑問に鷹紀は苦笑で答えた。
「ああ、これね、依頼だよ。迷子猫を探して欲しいって……普段は引き受けないんだけど、流石に小さなお嬢さんに目を涙を溜められてお願いされちゃあ、断われなくって」
 報酬は五百円、彼女の一か月分のお小遣いだそうだ。
 安い報酬に不釣合いな程に大変な依頼だったらしい。彼の頭はぼさぼさで、肘まで捲り上げた袖も土に汚れている。一体どこを探索してきたのだか。
「腕に傷出来ていますよ、引っ掛かれたんですか」
 そんな彼の腕に細い傷を見つけ、諌矢はそっとそこに指を這わせた。
「ああ、それくらいすぐに治るさ!じゃ、俺は依頼主が泣き出さないうちにこの子を連れて行くよ。ああ、今日も諫実ちゃん借りてごめんな!」
 諫実というのは諌矢の父のことだ。鷹紀と彼は親友で、たまに鷹紀の仕事を手助けしているらしい話は聞いている。
 じゃあ、と手を振って去っていった彼を見送り、諌矢は小さく息を吐いた。
「……鷹紀、さん」
 さっき彼に触れた指が妙に熱かった。
 諌矢がそこにそっと唇を落としたのを、正紀は見てしまった。

 直感的に、忘れないといけないと思った場面だったが、どうしても忘れられなかった。


「……あれ、甲賀?」
 正紀が川辺のところへ行こうとした道で、川辺の元から戻ってきた克己とばったり遭遇してしまった。川辺が寝泊りしている教員棟の入り口で出会ってしまい、お互い誤魔化しようがない状況に一瞬沈黙が落ちる。克己も正紀の顔を認め、何故か面倒臭そうにため息を吐く。その態度は失礼なのでは無いかと思いつつ、正紀は肩をすくめて見せた。
「お前、どこに行ってた。もしかして川辺教官?」
「お前には関係……」
 お前には関係ない。
 克己のそんな一言は正紀も予想していたが、言おうとしてそこで言葉を止めたことは予想出来なかった。克己はレモン色の街灯に照らされた正紀の顔を見つめ、興味深そうに自分の顎に手をやり、笑った。何か企むような、そんな顔で。
「お前は教官に用か」
「あ、ああ……ちょっと」
 何故自分の行動を読まれていたのか正紀には分からなかったが、克己は更にその気の置けない笑みを深めた。
「まぁ、ゆっくりしていけ。ついでに、矢吹の話でも、矢吹の兄貴の話でもしていけばいい」
「は!?」
「じゃあな」
「ちょ、お前今の一体どういう……」
 何故かいずるといずるの兄、諌矢の事を克己に言われ、正紀は困惑する。いずるに兄がいることを何故克己が知っているのだろう。いずるが言ったのか、それとも自分が言ったのか。
 しかし、克己は足は止めたが正紀の動揺は気にも留めず、それどころか無視をする。
「ああ、翔に会うなら伝えておいてくれ。俺は今日夜帰らないと」
「帰らない?どこ行くんだ」
「詳しく言う必要があるのか」
 伝言を頼んだくせに横柄な態度をとる克己だが、正紀はその一言で察した。
 夜、男女共に帰らないといえば、理由は一つだろう。正紀は「あぁ」と声を上げ、物珍しそうに克己を眺めた。
「珍しいな」
 そう率直な感想を口にすると克己は眉を顰め、どことなくバツの悪い表情になったように見えた。克己の性生活など正紀も知りたくもないし気に止める事もなかったが、何となく珍しいと率直に思っただけだった。まぁ、金と性欲が溜まったから行く気になっただけかも知れないが。
「そういえば、佐木がお前を探していたぞ」
 今思い出したような克己の言葉に、正紀は驚いた。
「天才が?」
 あの遠也が自分を探すなんて珍しい。翔にも注意されたので川辺のところに行った後、彼の元へと行こうかとまで思ったが、次の克己の一言で凍りついた。
「何か、渡したいものがあるらしい。薬みたいだったが」
「……くすり」
 その単語に正紀は眉を寄せたが、克己はそれを気にする事無く通り過ぎて行った。彼も急いでいたのか、どことなくその歩調は早く見えた。
 薬。
 遠也の顔の次に松長の顔が浮かぶ。翔に言われたとおり、遠也とは話をしようと思ってはいたが、胸の中に疑念が広がるのは止められなかった。
 普段なら、こういうことはいずるに相談して、彼から厳しい助言を貰っているのだ。その厳しさは逆上せ上がっていた正紀の頭を丁度良く冷ましてくれる。けれど、今隣りにいずるはいない。
 いずるは、何かを自分に隠しているような気がする。それに気付けないほど彼との付き合いは短くない。でも、一体何を。
 兄さんをお前は殺していない、と淋しげに笑ったあの顔が、何だか気にかかる。自分の為についた嘘なのではないか、と思い、記憶の中の諌矢の笑みを思い出し胸が痛む。もしそうなら、自分は本格的にいずるの隣りにいる資格はない。
「諌矢、さん……か」
 冷静で大人びていたいずると違い、記憶の中の諌矢は温かく優しい人だった。年が結構離れていたのもあり、正紀にとっては父の次に憧れた人でもあった。凛とした横顔と、いずるとは違って真っ黒だった髪の色、あれは彼の父親似だった。正紀も本来の髪の色は黒なのだけれど、彼の髪の色と自分の髪の色はまた違う気がした。兄弟が姉しかいなかった自分にとっては良い兄だったと思う。
 憧れていた。好きだった。
 実は、不良頭となってからいずるが自分と連絡を取ってきた時、人伝に渡された二つの携帯番号、いずると諌矢のものだったのだけれど、自分が迷わず諌矢の方に電話をかけていた事はいずるには言えない事実だ。理由は一応ある。自分の情けない姿をいずるには見られたくなかった。それでも、あの時のギリギリの状況を誰かに救ってもらいたかった、という事もあり選んだのは年上で甘えられると判断した諌矢の方。久々に聞いた彼の声は、妙に甘かった。
 好き、だったのかも知れない。もしかしたら自分は、彼を。でもそれは恐らく単純で幼い好意だった。それでも、もしかしたら憧れ程度の好意ではなかったのかも知れないけれど、抱きたい抱かれたいという意味のものでは無かった。そうした行為を知る以前に抱いた気持ちだからかもしれないが。
 でも、諌矢は違った。
 そういう好意で、あの人を見ていた。今なら、解かる。
 始めは、憧れの視線だと思っていた。でもそれは年々変わっていった。幼い頃は彼のその視線の正体が解からず、尊敬の眼差しだと思っていたけれど、中学に入って、そう、あの時唐突に理解した。
――鷹紀さん。
 正紀の顔を見て、正紀の父の名を嬉しげに呼び、幸せそうに笑んだ諌矢の最期の顔。
 そう、最期の顔。
 この間、唐突に思い出した。自分は、彼の最期に立ち会っているのだ。この断片的な記憶が戻ったからこそ、いずるのあの答えを正紀は疑っていた。恐らく、諌矢も自分と同じ事を考えていたのだろう。自分が好意を抱いている人間が殺され、病床でもいても立ってもいられず、自分の身を犠牲にする覚悟で立ち向かった。そして、彼もまたあの薬の餌食となり、死んだ。断片的な記憶の中の諌矢の死に顔はどこか穏やかだった。
「好きだったんだな……諌矢さん、親父のこと」
 ぽつりと呟きながら窓の外を見れば、真っ黒い空に1つ2つ星の小さな光が見えた。
 同性愛というものは、国や文化、時代によってその解釈や評価は変わるが、偏見の眼で見られることが多い。彼もその視線を恐れ、葛藤していたに違いない。その苦しみは正紀には計り知れなかった。
 知っていたことだった、昔から。気付いていたことだった、幼い頃から。そんな彼だから、何の遠慮もなく共に父の死を嘆けると思ってあの時彼に電話をしたのに。
彼も、死んでしまった。
 いずるから言われた時はショックが大きすぎて涙も出てこなかったけれど、急に物悲しい気分になってくる。今更だが、随分とこの数年で大切なものを失ってしまった気がした。自分も、父親に顔向け出来ない状況に陥ってしまった。こんな自分を見たら、父はなんと言うだろう。
 目の前にある木製の扉の向こうにいる彼の気配に、息を呑んだ。
 恐る恐るノックをすれば、「どうぞ」というぶっきらぼうな返事が聞こえ、その声に心臓が跳ね上がる。
「失礼、します」
「……篠田?」
 扉を開けて顔を出した正紀に、川辺は驚いたように顔を上げた。部屋の中は本棚とソファと机、そして簡易ベッドという必要なものしか置いていない空間だったが、衣類に本や書類が投げ出されている辺り生活感が溢れている。
「どうした、俺に何か用か」
「えーと……」
 ソファに座ってなにやら書類を眺めていたらしい川辺の問いに正紀は口篭る。まさか、唐突に貴方は俺の父ですか?なんて聞けるわけがなかった。間違っている確率の方が高いのだから、笑われる場合を考えるとなかなかに聞き辛い。
 他に何かないかと何となく視線を辺りに巡らせて、机の上のあるCD-ROMに目が留まる。『若林中央病院』と書かれたそれに正紀は自然と眉間を寄せていた。
「若林……?」
 それは確か、諌矢が入院していた病院ではなかっただろうか。
 テーブルの上には他にも何枚かのROMと、書類、そして川辺が飲んでいるらしい白いマグカップに入ったコーヒーが置かれていた。
「篠田?」
「あ……いやその……っと!」
 うろたえながら前に進んだ正紀の足がそこにあったガラステーブルにぶつかり大きく揺れた。テーブルの上に置いてあったコーヒー入りのマグカップが揺れ、近くにあった川辺の膝に向かって落ちていく。
 一瞬で大惨事だ。
「うぉ!」
「わ、す、すいません……!」
 テーブルの下の床はコーヒーの水溜りが出来、かろうじて周りの書類を汚さなかったのが幸いだった。足の痛みに堪えながらもオロオロとする正紀を、川辺は手で制した。コーヒーも存在を忘れるくらい前に淹れたものだったので、すっかり冷めていた。おかげで火傷の被害はなかった。
 コーヒーが飛んで汚れた袖を捲り、川辺は立ち上がる。ズボンは膝から下、コーヒーでぐっしょりと濡れていた。
「私は着替えてくるから、ちょっと待っていなさい」
「はい、はい!すんませんでしたーっ!」
 必要ないというのに、何故か敬礼をして隣の部屋へ行く川辺を送り、正紀は深いため息を吐く。ぶつけた足が痛い。明日には青痣になっているだろう。が
「まさかここまで上手くいくとは……」
 わざとらしくなかったよな?と確認するように先ほどの自分の行動を思い返す。
 川辺がいなくなった部屋で、先ほど見つけた『若林中央病院』と書かれたROMを書類の下から探し当て、手に取った。緑色のROMを服の下に隠し、同じ緑色の何も書いていないROMを見つけ、そこにマジックで同じように『若林中央病院』と書き込む。他人の字を真似る方法は、元詐欺師だった母親から伝授されていた。あっさりと偽物は完成し、その完璧すぎる出来栄えにも心踊る事は無く、正紀は無造作にそれをガラステーブルの上に放つ。透明なケースに入ったそれはテーブルの上を滑り、書類とぶつかり適当な位置で止まった。
 丁度その時だ、隣の部屋から川辺が服を着替えて戻ってきたのは。
「お待たせ。で、俺に何か用か?」
 にこやかに聞いてくれる彼には悪いが、正紀は準備していた問いと笑みを口に乗せた。
「……すいません、俺ちょっと甲賀に用があるんですけど、甲賀ここ来ませんでしたか?」
 これは嘘だった。克己にはさっき会ったのだが、それは言わずに川辺の分かりきった返事を待った。
「甲賀?ああ、さっきまで居たぞ。会わなかったのか?」
「あ、じゃあ、今から追いかければ追いつきますよね」
 早々に立ち去ろうとした正紀の態度に川辺は疑念を持つ。来た時はどこか戸惑いの表情だったというのに、突然その空気が変わった。
「待て、篠田。お前、今例の薬の事件を追っているな?」
 背を向けた相手に肩を捕まれ、正紀は彼の言葉にすぐ振り返った。
「それが、何か?」
 川辺が何か言ってくれるかも知れない。何を期待しているのか、具体的な内容は自分でも分からなかったが、川辺の返答を希望を胸に待つ。しかし
「悪いことは言わない。この一件には関わるな。深入りすれば君もただではすまなくなるぞ」
 たしなめるような彼の言葉に、少し落胆してしまう。彼が口にしたのはあまりにも当たり障りの無い内容だった。
「それは、出来ません」
「篠田……」
「俺は、篠田鷹紀の息子です」
 更に引きとめようとする彼の言葉を遮って、正紀はそう自分に言い聞かせるように強く言う。
正紀にも逃げ出したくなる時くらいはあった。しかし、そんな時はいつも自分の父を想うことにしている。彼の無念を思えば、自分の進むべき道が見えた。例えそれが自分を歓迎していない道であっても。
「どうせ、知っているんでしょう、俺達のこと」
 伺うように川辺を眼だけで見上げれば、彼はゆっくりとその眉間に皺を寄せる。正紀の確信めいた一言に、誤魔化せないことを悟ったのだろう。
「……父さんがやり遂げられなかった事を俺が終わらせることが、一番の親孝行だと」
 もし、自分がこの件を解決させたらきっと父は褒めてくれる。自慢の息子だと言ってくれる。そんな予想だけが、今の正紀の原動力だった。それに、諌矢の事もある。彼も、きっと一連の事件の解決を望んでいるはずだ。
「父の信念を息子の俺が継がないで、誰が継ぐんだ。このままじゃ、父さんの死は無駄になる」
 強い意志を持った正紀の目には流石の川辺も何も言えなくなる。ゆっくりと肩から離れて行ったその右腕残る火傷痕に正紀は一瞬何か記憶が揺らいだような気がしたが、この時は気に止めなかった。
「気になる奴がいるんだ。彼らを問い詰めれば、もしかしたら全てが解かるかも知れない」
 魚住と橘の顔を思い浮かべ、正紀は川辺を見返した。
「命に換えても俺はこの件を解決してみせる。他の誰でもない、この俺が、この手で!」
 傷痕の残る手を強く握り、手の平に爪が食い込む痛みに自分の怒りを強く感じる。それは川辺にも伝わっていた。父を失い自らが身を置く国に裏切られた彼の正道な憎悪と憤怒を止める術は誰も持ち合わせていない。いるとすれば、今は亡き彼の父だけだろう。
 若い瞳に怒りの炎を露わにする正紀に、川辺はそっと目を伏せた。その炎を見続けていたら自分の身も焼き尽されてしまいそうだ。
「君が死んだら、残された者はどうなる?」
「何……」
「残された者の悲しみを、君は誰よりも知っているんじゃないのか、篠田」
 静かな言葉に正紀は悔しげに眉間を寄せる。彼自身、それは戸惑いの種だった。
「……覚悟の、上です」
「君の親友は、君が死ねば恐らく君の仇を討とうとするぞ。君の復讐に彼を巻き込むつもりか」
「あいつは、そんな馬鹿じゃない。復讐なんて……」
「馬鹿だと解かっていても、それをやろうとする人間はいる。逆に問うが、君は矢吹いずるが誰かに殺されたら、どうする?」
 その問いは、卑怯だ。
 正紀は心の中でそう呟き、川辺を睨みあげるしかない。答えなど決まっている。
「……失礼しました、川辺教官」
 そう言い、正紀は川辺の部屋から出て行くことしか出来なかった。その対応で川辺は正紀の答えを察したが、眉間に皺を刻み、小さく息を吐く。
 その時、机の上にあった電話が鳴った。ここに電話をかけてくる人間などそう多くは無い。受話器を取り、向こうから聞こえてきた共犯者の声に肩から力が抜ける。彼の話に耳を傾けつつ、川辺は壁に額を寄せ、目蓋を強く閉じる。こちらの異変に気付いたのか、受話器の中から怪訝な声が耳を刺す。
 限界だった。
「……頼む、あの子達を助けてくれ、早良博士……」




Next

top