ばさりと制服が入った袋を目の前に投げ出されても、川辺はたじろぐ事無くその見覚えのある袋を眺めていた。そんな平静な相手の態度には、こちらが逆に苛立ちを感じる。
「もう翔にこんな茶番はやらせるな」
克己の厳しい声に川辺はため息を吐いた。
「……そう言って、日向自身が納得するか?」
「だからお前から止めさせろと言っている」
上司に対する態度とは思えない程横柄で有無を言わせない声だったが、それを咎める理由は川辺にはなかった。ただ、無言で投げられた紙袋を受け取り、その中身を確認する。間違いなく、自分が翔に渡した女装一式だった。
「御陰様で翔は奴等のターゲットになったようだ」
克己は手の中の紙切れを川辺に投げつける。それは例のツナギだった。翔の知らないうちにそのスカートのポケットに入っていたのを克己が見つけたらしい。それを見つけた瞬間、川辺の眉根が寄る。
「……いつの間に」
思わず、書類などで乱雑になっていた机の上にあるノートパソコンを見ていた。
ずっと翔を見張っていたが、それらしき人間は翔と接触していないはずだ。見張っていたと言っても、ずっと翔に張り付いていたわけではない。制服やカツラにとり付けた小型カメラからパソコンに届く画像でずっと見張っていたのだ。自分が見れない部分は録画をしていた。しかし、この世界最小というカメラとの間にたまに電波障害を起していた。その時に入れられたのだろうか。
なかなか思惑通りには行かない現状に川辺はため息を吐いた。
「もう、翔に近寄るな」
克己は自分の耳から小さなピアスを外し、それを手に取り金具を数回回す。そして、何が始まるのかと思った瞬間、その小さなものから声が流れ始めた。
『おはよう、川辺君。驚いたかな?まぁ、私も感心した。随分と大胆なことをする。感心したから、この盗聴のことは彼らに黙っておいてあげよう。私は彼らの仲間ではないから、言う必要もないんだけれどね。罠ではないから安心して良いよ。信じる信じないは君の自由だが。でも、彼女は間違いなく日向君を殺しに行く。私と彼女が誰か、だって?残念ながらそれは秘密だ。秘密は多い方が面白いだろう?では……』
ぷつん、と小さな音を立てて途切れたその言葉の内容に川辺は目を見開く。相手が川辺を名指ししてきた事も、そして盗聴なんて事を克己がしていたことにもだ。
しかし、翔が自分が放った囮だという事にも気付かれてしまっている。
「……お前の話が正しければ、男の方は分からないが、女は橘だな」
克己がそれを知っていることは川辺も承知済みだ。何より、自分が彼にその事を教えたのだから。
「だろう、な……」
だがこれで、ようやく真相をはっきりさせる事ができる。川辺は無意識のうちにそのツナギの紙を握っていた。
「また、失敗か……」
彼の僅かな怒りを感じた克己はそれを冷めた目で見ていた。
「……お前が何を目的としているかはどうでもいい。だが、橘と翔を接触させるな、絶対に。翔に何かあったら俺はお前を許さない」
「随分と心が狭いな」
「馬鹿言うな、俺は寛容だ。ここまで、見て見ぬ振りをしてきたんだからな」
「ま、それは確かに。感謝しているよ。すまなかったね、日向を使って。確かにこれ以上は危険だな」
もう少しだと思ったのだが。
しかし、翔を使っていたおかげで、自分が生徒会に目をつけられていることが分かったのは収穫だった。これ以上動いていたら危険なのは、翔だけではない。自分もだ。
額を押さえて思案する川辺に、克己は彼の話を思い出し、思考をめぐらせる。彼の話を全て信じたわけではないが、恐らくそれが真実。翔が危惧するように橘が元凶であれば、まだ楽だっただろうに。
「それと、橘は死なせるな。彼女が死んだら」
「日向が、泣くか?」
「泣くだけで済むなら俺がさっさとあの女を始末している」
軽く舌打ちをして克己は顔を背ける。橘さえ出てこなければこんなことに巻き込まれずに済んだはずだ。まったく一連の事に関係していない克己にとっては、一番腹ただしいのは橘の存在だった。今の一言には軽い殺気すら感じ、川辺は苦笑するしかない。
「何だかんだで、日向より彼女の方が危険な立場に立っているからな。彼女は死なせないさ。故人への敬意を払う意味でな」
川辺は机の中から克己に見せた報告書よりもいくらか厚い量の書類を取り出し、それを眺めた。完成されていない報告書の内容が恐らくこの事件の真実の一部。克己に渡したのはこの報告書の要点だけを書いたものだった。
「伊原優史」
克己はその報告書の表紙に手書きで書かれている文字を読み、その人物の正体を川辺に問うが、彼は何も言わなかった。
「だが、不可解だ」
しばし無言だった川辺は低い声でそう切り出した。この報告書は恐らく間違っていないのだが、真実だと考えると不可解な点が多い。何か、彼らの目的が見えてこないのだ。この薬を撒く事で彼らが得ることの出来る物が解からない。
「……もしかしたら、彼らの目的は違うところにあるのかも知れないな」
「本来の目的が、薬物投与による強化人間作成の実験では無いと?」
「そんな事をやったところで、何の利点がある。いや、それも目的の一部かも知れないが、本来の目的は違うのかも知れない。第一、その実験は去年終わらせているはずだ。それとも戦場で試してみたかったのか……」
「……去年?」
克己の怪訝な問いに川辺はハッとした様に顔を上げ、複雑そうな顔を一瞬見せた。
「とにかくその本来の目的には、橘が関わっているんじゃないか。彼らにとって邪魔になった橘をすぐ殺さないのには、何か理由があるはずだ」
橘。
再び提示された橘という存在に克己は眉間を寄せる。脳裏に浮かぶのは彼女のために奔走する翔の姿だった。例え橘という存在があっても、今回の事がなければ彼らが会うことは無かったはずだ。翔は過去の傷もあり、ヨシワラなどのような場所には行くことはなかっただろう。翔が橘を知る直接的な切っ掛けは魚住だった。彼が余計なことを言わなければ。あの雨の日、橘が学校に姿を見せなければ。遠也が彼女のデータを調べ、彼女が彼の姉のクローンだと発覚することも無かっただろうに。そしてそこに書かれた彼の父の名を目撃する事も無かった。
彼の父親に対する恐怖はまだ充分に取り払われていない。そんな時に。
そんな、時だ。
奇妙な引っ掛かりを覚え、克己はそこで思考の流れを止める。
いや、でもまさか。
「有馬蒼一郎……?」
近頃、自分達の近辺でその影をちらつかせる存在に克己は眉を寄せた。
小さくぽそりと呟いたつもりだったが、川辺の耳にも音として届いてしまっていたらしい。
「何か言ったか?」
「いや、何でもない」
それには素っ気無く答えたが、内心焦りを感じ始めた。
翔は何故、碓井和臣の名を出してきたのだろう。誰かが彼に何かを吹き込んだとしか思えないが、彼の視線は普段と変わらなかったので、吹き込んだ人間は克己のことは知らないようだった。だが、こんな環境では知られるのも恐らく時間の問題だ。
どうする。
とりあえず、やる事をやってから悩んでも遅くは無い。
克己には当てがあった。川辺も誰も知らない人物の顔を思い出し、立ち上がる。
「用はそれだけだ俺は帰る」
「ああ、あー……甲賀」
「何だ」
「その、篠田と矢吹、よろしくな」
どことなく気まずそうに言った川辺には呆れてしまった。
「あいつらとよろしくしたいのは、教官殿だろう?」
ふっと笑い、部屋から出て行った彼に川辺は悔しげに唇を軽く引き締める。甲賀克己はどうも子どもらしさに欠けていて、話していても面白くない。会話をしても常に何かを見透かされているような気がし、常に警戒していないと不安な相手だった。
腹立ち紛れにソファに音を立てて座ると、胸にちょっとした感触を覚える。
「俺がよろしく出来ていたら、とっくにしているんだがな……」
その胸ポケットから先日拾った写真を取り出し、川辺は小さくため息を吐いた。
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