ぴしゃり。
 そんな水音に顔を上げたのは、辻真人だった。彼は人よりも聴覚が優れていて、健康診断のときも驚かれたくらいだ。特に、日常生活に有利になったりはしないのだが。
 顔を上げた先にあった窓に目をやると、暗いガラスに水滴がいくつもついていた。どうやら、夜の雨が音を立てていたらしい。
 この南寮にも北寮同じく談話室なるものがあり、自販機が数台設置されていたり、テレビも置かれているのだが、個人の部屋にそれぞれ巨大なテレビがあるからか、皆ここでテレビを見るようなことはあまりしていない。辻の場合は、部屋にテレビがないのでこの談話室で見ていた。かといって別に彼が取り立てて貧乏というわけではない。テレビというものに興味を持てないから、置いていないだけだ。ゲームもしないテレビも観ない、という彼を人は稀有の目で見るが、そんなことをしているより辻は絵を描く方が好きだった。巨大なテレビはないが、巨大なキャンパスが彼の部屋にはある。昔、宮の専属画家だった父の形見だった。今となっては過去の栄光で、どうにか名前だけで上流名家には食い込んでいるものの、資財面から見れば下流階級と大差はない生活をしていた。家の暮らしを良くする為に、次男である真人がこの軍に入ることになった。それに関しては不満はない。絵を描く時間も、こうして確保出来ている。
 テレビを見る時はいつもこの談話室にいた。すでに、この部屋のテレビは辻の専用となっていたが、そんな事に不平を言うものはいなかった。談話室に座る大きな背中は南寮の風物詩だ。毎日ニュースの時間に辻はここに座り、スケッチブック片手にニュースを聞く。それはすでに日課だった。
 今日も、ニュースを聞き流しながらスケッチブックに鉛筆を滑らせていた。一日で一番のんびり出来る時間だ。たまにそこの自販機で買ったコーヒーを飲み、また鉛筆を滑らせる。
 それでも、今日は少し気分が高揚している。今日は久々に彼がテレビ画面で映されていた。幼い頃に父に連れられて宮に行き、その姿を初めて見た時は感動さえ覚えた白い髪の皇子。
 将来は彼が王になった姿をお前が描くんだぞ、と父は笑っていたが、恐らくもう自分は宮に行く事はない。それでも、幼い頃は彼の絵を描くのが夢だった。
 白い髪を硬い鉛筆で描き、隣りにいる女性を描こうとして、手を止める。今日の映像には彼の隣りには見知らぬ女性がいたのだが、自分の記憶では彼の隣りには常に小さな少年が立っていた。もう5年以上前の話だから彼も“少年”ではなくなっているだろうが。
 今も彼は皇子の隣りに付き添っているのだろうか。恐らくは、そうだろう。
 そんな想像に鉛筆を滑らせようとして、手を止めた。
 ぴちゃん。
 また、水音。
 確かに窓へ目をやれば雨が降っているが、その音は室内から聞こえる。どこか雨漏りでもしているのかと、鉛筆を止めて振り返り、眉を上げた。そこには人が立っていた。しかもずぶ濡れで。そして、髪がその顔に張り付いているが、見覚えのある人物だ。
「……和泉?」
 虚ろな表情をしたクラスメイトは何やら一点を見つめ、凝視と言っても良い。談話室の入り口に寄りかかり、じっと何かを見つめていた。
 廊下が暗くてよく見えなかったが、その姿は雨だけでなく血にまみれているのが分かる。
「お前、どうした、その血……」
 見れば彼の足元には雨水だけではなく、血だまりも僅かに出来ていた。慌ててスケッチブックを投げ出し、彼の元へと寄るが彼は何の反応も示さなかった。やはり、ただ一点だけを見ている。
 それが一体何か、彼の視線をなぞり始めてそれを知る。自分が付けっぱなしにしていた、テレビだ。そこでは何てこと無いバラエティ番組が賑やかに流れていた。辻自身、番組が変わっていたことに今気がついた。絵を描くのに集中しすぎていた所為だろう。
 和泉はこういう番組が好きなんだろうか。じっと画面に集中している彼は、内容が芸人しか出ていないバラエティ番組だというのに笑うこともない。ただぼんやりと画面を見ているだけ。
「……いま」
「何だ?」
「今、何時だ」
 少々擦れたような頼りない声で問われ、慌てて辻は自分の腕時計を見る。不意に疑問に思ったのが、和泉も腕時計をつけているのではないかということだった。自分達は訓練中に必ず必要になるため、皆腕時計はしているはずだ。耐水性の、象が踏んでも壊れないらしい腕時計を。ちらりと和泉の腕を見れば、あるはずの時計が無かった。
「もうすぐ9時だな」
 文字盤は8時54分を指している。
 疑問を持ちつつも辻が答えると、和泉は小さく「そうか」と呟き、目を細めた。いつもの彼と違う空気に辻は戸惑いを感じる。普段の和泉は、他人を寄せ付けない空気を放ち、孤高な拒絶さえ感じていたというのに。それは南の人間の特色ではあったが、和泉はまた少し違っていた。
 そんな彼を辻と、丁度自販機に飲み物を買いに来ていたクラスメイト達が茫然と見守っていたが、そんな視線に構わず彼はふらりと腕をついていた壁から離れ、そのまま自室へと行ってしまった。
「……和泉」
「止めとけって、辻」
 思わず手を伸ばして止めようとした辻を、堺と吉田が止めた。二人共クラスメイトで友人でもあり、止められたとこを怪訝に思い振り返れば、吉田は肩を竦める。
「和泉ってなんかちょっと、なぁ?」
 何と言えば良いか分からない様子だったが、辻も彼が良いたいことは何となく分かる。和泉は加藤や沢村とは違うが、似たような危機感を感じさせるのだ。
 でも、今は違った。
「……一応クラスメイトだ」
 がちゃがちゃと画材道具を筆箱に収める時間も惜しく、辻はスケッチブックも引っ掴んで和泉の後を追った。友人達はそんなお人好しな友人の背を、ため息を吐きながら見送る。
「辻って変なヤツだよなぁ……」
「いつもの事だろ」
 そんな評価を受けているとも知らず、辻は和泉の後を追ったが、途中で見失ってしまう。多分ここらへんの部屋なのだろうが、似たような扉が4つ並んでいた。この中のどれかが和泉の部屋だと、取り合えず手当たり次第に扉を叩いてみようと拳を握ったその時だ。
 がちゃり、と、叩こうとしていた扉が開いた。
 危うく扉ではなくその人物の顔面を思い切りノックしてしまいそうだった辻はその拳を硬直させ、突然目の前に拳を突き出された相手も目を見開いていた。
「辻?」
「真壁か」
 どうやらそこの扉は和泉ではなく、クラスメイトの真壁の部屋だったらしい。
「何だ、俺に何か用か?」
 友人である真壁でよかったと内心思いつつも、辻は首を横に振る。
「いや、すまない。部屋を間違えた。和泉の部屋は?」
「……和泉?そこだけど」
 指を差して部屋を教えてくれる友人にも怪訝な顔をされ、辻はもう苦笑するしかなかった。
「少しな」
 その示された扉をノックしようとした、その時。
「何だ、浮気か?朴念仁だと思っていたが、やるな」
 真壁のからかい混じりの言葉に背を固めてしまう。ギギギ、と油の足りないブリキ人形のような動きでこちらを振り返った辻に、真壁は面白げに眉を上げた。それがスイッチになってしまう。
「ば……っお前」
 顔を紅くして睨むその顔を真壁は適当に手を振ってあしらった。
「はいはい。大丈夫田中には言わないから安心して、さぁどぉぞ」
 両手で和泉の部屋の扉を指し示す真壁の人の悪さに、辻は頭を抱えそうになった。
「浮気じゃない」
 田中圭吾は最近付き合い始めた辻の恋人兼クラスメイトだ。佐木遠也の次にクラスで身長が低い彼はおっとりとした優しい少年で、そんな彼から告白を受けて恋人に成り立ての二人に早速修羅場かと真壁は笑う。田中は北寮の生徒だから身分差もあるのだが、彼らには大した問題ではないようで。
 そんな二人を真壁は微笑ましい目で見ていたのだが、浮気じゃないという一言に目を見開いた。
「浮気じゃない……ということは本気か!」
「アホか。言っとくけどな、俺は元々ノーマル。圭だから好きになっただけだ」
 淡々と言う辻には真壁もため息で返した。
「惚気どうも有難う。俺は男って時点でどんなヤツでもアウトだけどな。そんな俺はこんなむさ苦しい場所にいるとどうも息苦しいんで、良い匂いの女んとこ行ってくるわ」
 ひらりと振られた手が何だか嫌味に見え、辻は真壁の黒い頭が廊下の角を曲がるまでひたすら睨んでいた。
 いや、いけないいけない。今は和泉だ。
「和泉」
 コンコン、とノックをしても予想通り返事はない。ノブを捻ってもどうせ鍵がかかっているだろう……と捻ってみれば、何の抵抗も無く扉は開き、その瞬間自分の心臓が持ち上がったのが分かる。
 開いてしまった。
 どうしよう、と思いつつも、好奇心に負けた。そっと中を覗いてみれば、自分と同じ部屋の間取りの、全然違う雰囲気の部屋が目の前にあった。
 明りがつけられていない部屋の中に目的の人物の姿は無く、バスルームから光が漏れているのを発見した。自分達南寮には個人部屋に1つずつバスルームがある。北はシャワールームだけで、共同風呂らしいが。
 さっきずぶ濡れだったのだから、バスルームに直行したのだと知り何となくほっとしていた。
「いず」
「あまり感心しないな?不法侵入っていうんじゃないか、こういうの」
 バスルームの方に足を向けようとした瞬間、突然背後から声を掛けられ、心臓が飛び上がった。振り返るとそこには満面の笑みの生徒が一人立っている。その制服のネクタイの色は、青。
 三年生だ。
 そう察した瞬間血の気が下がるのが分かった。
「……すみません」
「でもオトモダチを心配するってのは良い事だから、そんなに気にするな」
 狼司は笑顔のままでその1年生を部屋の外に追い出し、部屋に鍵をかけた。そこで一息吐き、バスルームを厳しい表情で振り返った。
「鈍感、ってのは得だな……」
 この気持ちが悪くなるほどの殺気に気付かないなんて。
 このまま彼がバスルームに足を向けていたら間違いなく死んでいただろう。恐らく、何があったのか解からないまま、絶命した。
 足元でその殺気に怯える華紬を風時雨が鼻先で宥めている。
「風、華連れて部屋戻ってろ」
「……しかし、主」
 このただならぬ殺気に風時雨は眉間を寄せていた。彼の本気を相手にすれば、流石の狼司も危うい。
 しかし、狼司は笑顔で肩を竦めた。
「大丈夫。お綺麗な宮廷武術しか使えない秀穂に、殺人術を習った俺が負けるわけがない」
「ご無事で」
 そう一言残し、風時雨は窓の外へと飛び出し、華紬もその後をついてゆく。
 別に、そこまで緊張せねばいけないことではないのだ。そう心の中で呟きながら、狼司はその殺気の中へと入って行った。バスルームの扉を開けると、シャワーの音と湯気がこもっており、白いシャワーカーテンが引かれていた。そこから人の気配を感じ、小さく息を吐き、一歩近寄ろうとしたその時、シャワーカーテンを刃が突き破り、狼司の心臓を真直ぐに狙ってきた。
 それを避ければ、気配で察したのかカーテンを横に切り裂き、中から予想通りの相手が飛び出してくる。その両目は閉じられているが、両手に刃を持った彼は確実に敵の急所を狙っていた。
 その手首を掴み、壁に叩きつけると痛みに反応した手が反射的に手を開き、ナイフを落とす。もう片方の手の武器もそうしようとしたが、その小刀を見て、止めた。
「……秀穂、俺だ」
 そう小さく声をかければ、自分に向けられていた切っ先も下がる。
「狼司、様?」
 パッと開かれた目は思ったとおり、蒼い。シャワーを浴びていてコンタクトを外していたのだろう。だから、自分の最大の秘密であるそれを隠しつつ戦いに挑んだのだ。
「何故、ここに」
 手近にあったバスタオルを腰に巻きながら、和泉は少し気まずそうに顔を背けた。それでも咎めるような音は忘れない。自分と狼司が繋がりがあると誰かに知られるのは正直厄介だった。
 しかし、狼司は大袈裟にため息を吐いてみせる。
「何故?お前が呼んだんだろうが。華紬が血相変えて飛んできたんだぞ。何があった」
 目の前の和泉の体はつい先程作ったばかりのような傷が大量にある。顔も殴られたような痕があり、それに眉をしかめたが、和泉は目を伏せる。
「……何も」
「本当に?」
「狼司様に報告するようなことは、何も」
「俺には言えないって事か」
「どう解釈されるかは貴方にお任せいたします」
「……随分と狡いことを言うな。では、俺も卑怯な手を使わせて貰おうか。報告するような事が無かったというのに、お前は俺に刃を向けたか」
 瞬間、和泉の目が見開かれた。
 予想済みの反応ではあったが、それに更に畳み掛けるように狼司は続けた。
「不敬罪も良いところと思わないか」
「申し訳ありません……!」
 慌てて頭を下げた和泉に狼司は眉を顰めた。そんな反応が欲しかったわけではない。
「俺は謝罪して欲しいんじゃない。殺気も隠せず、俺の気配にも気付けなかったくらい冷静さを欠いた理由を知りたいだけだ」
 ん?と優しく言葉を促し、膝をついてその下げられた頭を軽く撫でても、手に冷たい水が触れるだけだった。
「……俺の心配は迷惑か」
 狼司のため息に和泉はようやく顔を上げる。
「狼司」
「心配して欲しくないなら、他の人間に気付かれる程弱さを見せるな。震えた手で刃を握るな!」
 そう怒鳴られ、初めて自分の手が震えているのだと知った。
 震えるなんて何年ぶりだろうか。床についた両手が小刻みに揺れているのを茫然と見つめつつも、それが自分の腕だとはなかなか思えなかった。
 バスルームのオレンジ色の淡い光に浮かび上がる白い腕。
「秀穂……お前、どうしたいんだ……本当に」
 どこか縋るように名を呼ばれ、その音に身を任せたくなる。従兄弟だかなんだか忘れたが、狼司の声は彼に似過ぎていた。
 その声でその名を呼ばないでくれ、なんて。
 それは恐らく彼が嫌う自分の弱さの一面を見せることになるだろうから絶対に言わないけれど。
「取り合えず怪我の手当てがしたい」
「……ですよねー」
 あまりにも冷静な返答に狼司は思わず両手を挙げて降伏の意思を示した。しかし、和泉の方は何の降伏か分からず、一瞥するだけだった。
「で、何があった?」
「何もないと言っている。しつこいぞ」
 タオルで濡れた髪を拭きながらバスルームから出ると、狼司もそれについてくる。
 彼からは疑わしいというような目を向けられるが、本当に何も無かったのだ。全てを諦めかけた時、急に自分に圧し掛かっていた重みが消え、代わりに視界の端に入ったのは、暗闇でも分かる金色の髪。次の瞬間に気を失ってしまい、気がついた時は雨を凌げる木の下にいた。体も傷はあるがあの忌まわしい感覚は消え去っていた。腕を確かめると、誰かが気を失った自分にあの解毒剤なるものを打ってくれたのか、小さな傷があった。あれが本当に中和剤だったことの方が驚きだが。
「……狼司」
「何だ」
「この学校に、金色の髪の生徒……いや……教師はいるのか?」
 生徒とは少し違った空気を持っていたような気がし、そう聞いてみるが狼司は首を傾げた。
「いや、そんな人間はいない。生徒なら、海に金髪がいるらしいがな」
「……そうか。ああ、気にするな」
 怪訝な顔をする相手に軽く手を振り、和泉は項垂れる。何だか今日は妙に疲れた。
 敗北したボクサーのような和泉の姿に狼司は眉を下げる。
「お前、もしかして今日のテレビ……見れてないのか?」
「ああ、見ていない。だが、特に重要な事は何もないんだろう?」
「……そう、なんだが……」
 先程から何故かそわそわとしている狼司に和泉は目を上げる。言いたいことがあるのならさっさと言え。そう目で急かせば、彼はすぐに口火を切った。
「婚約発表の日取りと、結婚パレードの日程も決まったって、さっき、連絡が入った」
「……そうか」
 意外と驚かない和泉に狼司は瞬きをしたが、さらに続けた。
「婚約発表は、今週中だ」
「そうか」
「結婚パレードも、今月中だ」
「……そうか」
 聞き流す振りをしつつ和泉は眉を寄せていた。妙に段取りが急すぎる気がしてならない。根拠の無い違和感に何故か胸騒ぎを覚えたが、次の狼司の一言に一瞬思考を切断された。
「お前、蒼龍に会いたくないか」
「……何?」
 質問の意図が読めず、眉を寄せてみせると彼は肩を竦めた。
「実は、その結婚パレードの警備に軍部も出ることになった。俺も……まぁ、王室出身者だから身辺警護で駆り出されることが決定してる。それで、お前も連れて行きたい。蒼龍の警護なら、お前以上の適任者はいないからな」
 蒼龍の性格や宮の内部にも詳しい彼以上の適任者はいない。それに、蒼龍のお気に入りの彼をこうして引き合わせれば、軍と宮との面倒な諍いもおきにくいだろう。いわば、蒼龍の機嫌取りだ。
 だが、和泉の機嫌取りは出来なかったようだ。
「冗談。そんな事をしたら生徒会に俺の出身が知られるだろう」
 何をふざけた事を、と彼はきつく狼司を睨みつける。だが、それに関しては狼司は自分の腕を信用して欲しかった。一応監視付きといっても、自分は風紀委員長にまで乗り上げた腕があるのだ。その地位につけたのは、王室出身ということもあるが、それ以上の実力がある。
「知られないように工作はするから大丈夫だ。どうだ、久々に蒼龍に」
「寝言は寝て言え」
 あっさり頷くかと思った和泉は、頭を拭いていたタオルを狼司に投げつけた。その分かりやすい拒絶に狼司はただ驚くしかない。
「何でだよ」
「俺は、“蒼龍様から寵愛を受けていた小姓”だぞ。宮が折角追い出した人間が舞い戻ってきた、しかも結婚式当日に……そんな心臓に悪いことを受け入れるものか」
「別に、それは周りが言ってるだけでお前たちはそういう関係じゃなかったんだろう?気にする事」
「俺達が気にしなくとも、女は……蒼龍様の、お相手が気にする」
 間を置いてから丁寧に言い直した彼の心情を察し、狼司は肩を竦めた。何故か、彼は徹底した女嫌いだ。しかし、彼の今まで出会った女性を考えれば納得がゆく。
 蒼龍の母親は白い髪を持つ蒼龍を毛嫌いしたまま病で死に、蒼龍の弟である千草を産んだ側妃は千草を王位につかせるために蒼龍を殺そうとした。その刺客をことごとく打ち倒した優秀な護衛が、この和泉興もとい秀穂だった。あの側妃は更にその秀穂を蒼龍から引き剥がそうと、まず秀穂を殺しにかかったと聞くから、彼にとっては苦い記憶しかないはずだ。それを見かねた蒼龍がとうとう「これは私が寵愛する小姓だ」と公に口にしてようやく騒ぎが収まったが、真実は肉体的寵愛はなかった。だが、公に口にしてしまった以上、それが有ったと暗に言っていることとなる。その意味を秀穂が知るのは公言から何年か経ってからだったようだが、そんな汚点を蒼龍に残してしまった事を彼は気にしていた。
「お前が気にする程気にしていない。第一稚児の一人や二人、宮では抱えてて当然だろうが」
「……狼司」
「そんな不安より、お前の腕の方が俺にとっては重要だ」
 軍内では自分とこの和泉だけが宮廷出身だ。そんな人間が警護をするのならば、宮も安心するだろうし、狼司自身も心強い。それが解からないでもないだろうに、和泉は眉間を寄せた。
「駄目だ、俺は行けない」
「だから、どうして。お前、一生蒼龍に仕えると」
「俺は行けない。もう帰れ」
 手当てを終わらせ、ベッドから立ち上がった和泉は狼司の背を押し部屋からしめ出そうとする。しかし、流石風紀委員長の座を射止めただけあって、狼司の抵抗する力はなかなかだった。
「おい、秀……何で!見捨てるのか、あいつを!」
 扉を閉めようとする和泉に抵抗した。が
「ここに来た時に、俺はもうあの方には会わないと決めたんだ!」
 珍しく声を荒げた和泉の言葉に、狼司は眉間を寄せる。その怪訝そうな表情を前に、和泉は奥歯を噛み締める。狼司は付き合いの長い友人だが、彼は自分の身元を知らない。
 世良の憎悪の笑みを思い出し、ノブを握る手に更に力を込めた。
「会わない……って、どういうことだ」
 思いがけない告白に狼司はただ唖然とするしかない。恐らく、蒼龍は彼との再会を心待ちにしている。和泉もそうだと思っていた。彼の行動はいつだって蒼龍の為で、和泉も蒼龍との再会を望んでいるとばかり思っていたのだが。
「和泉?」
 和泉が強く扉を閉めようとしたその時、見覚えのある顔が唖然とした顔でそこに立っていた。確か、同じクラスの辻、と言ったか。狼司と話しているところを部外者に見られたのは失態だが、今は好都合だ。
「助けてくれ!この男が、権力を振りかざして俺に……っ」
 眉を下げ、縋るような顔で和泉は辻を見上げた。しかし、最後の言葉だけは言い辛そうにするのを忘れずに。
 突然の訴えに一番驚いたのは恐らくは狼司だろう。ぽかんと辻を見ていた目を見開き、信じられないものを見るように狼に襲われかかっている羊のような態度の和泉を見た。
 もう10年以上の付き合いになるというのに、こんな思わぬ才能を見たのは初めてだ。
「おま……!いつの間にそんなスキル……!」
「何だって?大丈夫か!」
 そしてその1年生はあっさりとだまされた。
 ガタイは良い辻は狼司をあっさりと扉から剥がし、和泉との間に割り込んで上級生相手だというのに強く相手を睨み付けた。
 思わぬ怪力を持つ1年生に狼司はなすすべもなく、よろけつつ扉から離される。と、そこで辻の目が大きく見開かれる。どうやら3年生相手だと今頃気付いたらしい。その1年生は怯んだが、和泉の方が早かった。
「こらっ!」
 扉が閉められるのを止めようと、思わず子どもを叱るような声を出していたが、無意味だった。音を立てて閉められた扉を苛立ち紛れに思わず殴る。
「この、馬鹿!」
「……あのー」
「あぁ!?」
 先程邪魔をしてくれた相手に声をかけられ、狼司は思わず彼を強く睨みつけていた。しまった、と思ったが相手はそれほど気にしていないらしい。
「あの、人違いだったら申し訳ないんですが、もしかして狼司様ですか?」
 しかし、突然ファーストネームで呼ばれ、単純に驚いた。宮でずっと育ってきた狼司を知る人間は軍内にはほぼいない。怪訝な顔を見せたその反応に、相手は正解だと察したらしい。瞬間、その1年生の表情が輝いた。
「お久し振りです!覚えていらっしゃらないと思いますが、俺は……」




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