唄が聴こえた。
 それに誘われるように翔は小さな足で薄暗く長い廊下を歩いた。夏だというのに、廊下は冷たい。狭い廊下を抜けるとバスルームがあり、その扉を開けば微かだった歌声がはっきりとし、そこに姉の背を見つけた。
 姉さん、髪切っちゃうの?
 白いバスルームで色素の薄い長い髪にハサミを当てている姉を見つけ、翔は眉を下げた。彼女の髪はとても綺麗で、今も窓から入る夕日に金色に光っている。
 彼女は唄を止め、紅い目を瞬かせ、淋しそうに問う幼い弟に痛々しい笑みを向ける。彼女は何も言わなかった。何も言わず、再び唄を歌い刃を長い髪に滑らせていた。
 しゃきん、しゃきん、と音がバスルームに響くたびに、はらり、はらり、と彼女の髪だったものが滑り落ちていく。
 それを目で追っていると、彼女の白いスカートに紅い血痕がこびりついているのを見つけ、翔は息を呑んだ。彼女は怪我をしている。きっと、あの男に殴られたのだとすぐに考えた。
「姉さん、怪我したの!?すぐ手当てしないと……!」
 そう叫んだ翔の口元も鈍く痛んだ。昨日の夜、あの男に顔を殴られたばかりで、そこは青黒く変色している。それを手当てしてくれたのは姉だった。今度は自分が彼女の傷を癒す番だと、翔は昨日片付けたばかりの救急箱を取りに駆け出そうとした。しかし、そこを彼女の細い手が止める。気付けばなだらかに流れていた唄も止まっていた。
「……姉さん?」
 そのまま彼女の胸の中に抱き込まれ、翔は上から降ってきた嗚咽に大人しくなるしかない。
「翔、翔……」
 泣きながら、何かに縋るように自分の名を呼ぶ彼女に、胸が痛む。
「お願い……たすけて」
 懇願されても、彼女よりずっと小さい自分が彼女を助けられるはずもなかった。泣きながら彼女はまた小さく歌い始める。何か言い聞かせるように歌っているが、その歌詞に何か意味でもあるのだろうか。聞き取ろうとしても、涙声のそれは聞き取りにくく、日本語の音でもなかった。
 目の端には、彼女が切った彼女の髪。ところどころ破けて乱れている彼女の上着。そして、初めて彼女から嗅ぎ取ったあの男の移り香。それと、正体が解からない奇妙な匂い。
 その意味を知るまで、そう時間はかからなかった。
 忌まわしいこの匂い。
 まるで、あの男に抱かれているようだとその時考えてしまった、瞬間。

「気持ち、悪い」

 唄が、止まった。

 激しい吐き気で覚醒した。
 あまりにも激しい吐き気は息苦しさを併発させ、息をしようとしたその時さらに胸の中がぐるりと揺れたような感覚を覚えた。
 薄暗い自室でベッドから飛び起き、襲い掛かってきた吐き気に洗面所へ駆け込んだ。石鹸の香りなのか、清涼感溢れた匂いに迎えられ、徐々にその不快感が薄れていくのが分かったが、それでもなかなか動悸と悪心は治まらなかった。
 あの匂いが、体中にまとわりついているようで、眉間に力が入る。
 気持ちが悪い、息が出来ない、全身が震える。
 これは、夢か、現実か?
 震える手を見れば、現実の自分の大きさだった。しかし、その大きさに反してとても弱々しい手だ。
 洗面所のオレンジ色の灯を見上げ、荒い息を吐き出した。強くつかんだシンクに爪を立てるとかちりと鳴る。
「……違う」
 くぐもった声が洗面所に小さく響いた。自分の声にしては低く、情けない声だった。
「そういうつもりじゃ、なかった」
 吐き気を堪えて出した声は今にも泣き出しそうだったが、実際目の奥が熱くなりかけているのを感じ、自分が泣いているのだと知る。けれど、同情の余地などどこにもなかった。
 あの時はそんな行為があることさえ知らなかったのだ。まだ小学校に入ったばかりの頃だったのだから。赤子はコウノトリに運ばれてくるという風説を信じていた時期だ。そんな子どもにそれだけの材料で全てを察せという方が無理だ。
「ただ、俺は、知らなくて、俺も、怖くて」
 無知は罪だ。
 いつか、誰かがそう呟いていたのを思い出す。知らなかったなどと言い訳にならない。例え言い訳になったとしても、彼女の心につけてしまった傷が塞がるほどの言い訳ではなかった。縋るような弁明は無力すぎて、今となっては意味が無さ過ぎていっそ笑える。
 ははは、という乾いた笑いが少し漏れたが、すぐに笑っていた唇を血の味を感じるほどに噛み締め、陶器で出来たシンクを殴りつけた。
 気持ちが悪い、だなんて。
 絶対言ってはいけなかった状況だったのに。
「違うんだよ、ねぇさん……」
 姉の悲しげな唄が耳から離れない。今まで忘れていた姉の唄。何故だろうと思い返し、すぐに思い出す。あれが、あの時が、彼女の唄を聴いた最後だったからだ。
 いつも、夢の中で聞いている姉の声はこうして現実に帰ってくるとその音がどんなものだったか、ぼんやりとしか思い出せない。いや、ぼんやりと思い出した音も彼女の声ではなかった。どんなに記憶を掻き集めてもあの声が思い出せない。
 思い出そうとしても、何故か鮮明に覚えているあの匂いが、自分の周りを取り囲んでいる気がし、強く目を閉じた。
「翔?起きたのか」
 不意に自分を捉えていた香りが離散し、違う香りが鼻に触れる。もう慣れて意識しなければ感じない匂いのはずなのに。
「……克己」
 驚いて彼を見上げると、相手も驚かれた事に驚いたようだ。
「どうした……ああ、コレお前に買ってきたけど飲むか」
 上げられた手にはいつも自分が飲んでいる青い缶のスポーツ飲料。その奥にはいつも彼が飲んでいるコーヒーの黒く小さな缶がちらりと見えた。双方とも結露が浮かび、水滴がゆっくりと垂れたのを見て、小さく頷いた。
「……飲む」
「なら、そんなところに突っ立ってないでこっちに来い」
 促されるままにふらりと足を踏み出し、出口の方へと来た翔に克己も部屋に戻ろうと彼に背を向けた時だ。何となくその黒い背に両手を伸ばし、ぶつかった振りをして腰に抱き付いていた。
「翔?」
 ぎょっとしている克己の声なんて聞くのは初めてかもしれない。いつも、先に何が起こるか予想しているような立ち振る舞いをしているから、少し面白いと思ってしまう。背中に顔を押し付け、硬い筋肉を感じつつも息を吸い込むといつもの匂いに心が落ち着いていくのが分かった。
「……しょうが焼きの匂いがする。今日の定食は肉か……」
 克己の動きが一瞬止まったから、恐らく自分の推測は当たりなのだろう。と、いうことは克己は先に夕食を食べに行ってしまったのか。それは今がそういう時間だということだ。夕食が終わった後だから、恐らく8時か9時近く。
「……お前、何かあったか」
 そう問われて、ようやく浮上しかけていた気分が凍りついた。思い出したから、というわけではない。彼に何かを悟られたかもしれないという可能性に震えが走った。
 何が悪かった。変な行動を取ってしまったのだろうか。確かに、抱きついたのは変な行動だったかもしれないが、その程度で気付けるか?普通。けれど、克己は察しがいいので、心音や呼吸回数等で何かに気付いたのかもしれない。一体なんの測定機械だ。
「何もないだろ。てか、今まで寝てたのに何かあるわけねぇっつの。それに、何で俺寝てたんだ?」
 動揺を悟られないように平静を装った翔に克己は眉を寄せる。
「……覚えていないのか?」
「何を……てか、俺、階段から落ちて、克己に助けてもらって……で?」
 それから何かあったのかと恐らくそれを知っている克己に問うが、彼も怪訝な顔で振り返るだけだ。
「で?と言われても……それだけ、だが」
「……そうなのか?」
 何で寝てしまったのだろう、自分は。突然眠りに入るなんて、まるで何かの精神疾患のような……医者に診せればその要因が次々と出てきそうな自分の過去には呻くしかない。
 けれど、こんな事は今まで無かった。
 だが、思い出そうとしても思い出せないこの奇妙な感覚は覚えが有る。
「翔?」
 抱きついてきた腕に僅かに力が入ったのに克己が気づき、声をかけてきたが、それに慌てて顔を上げた。
「あ、いや……克己お前相変わらず良い体していやがるな!一体一日に何回腹筋すればここまで割れるんだ」
 誤魔化さないと。そう思って反射的にそう明るい声で言っていた。どうにか誤魔化されて欲しい。
「何のボディチェックだこれは」
 望んだとおり、克己は呆れたような息を吐いてくれた。それにほっとして翔も満面の笑みを浮かべた。
「そんなんじゃなくて、克己が大好きだから思い余って抱きついたんです」
「……笑えない冗談だ」
「笑えよ、冗談なんだから。ま、ごめんな。胸も無いのに抱きついて」
 名残惜しいとは思わないけれど、離れがたく思ってしまうのは何故だろう。そんな奇妙な感情に困惑しつつ、手を離して笑えば、恨めしげな克己と目が合った。
「何だよ」
 ちょいちょいと手招きされ、怒鳴られるか、それともまた頬でも抓られるのかと思いながらも素直に彼に近寄る。それくらいはされても仕方ない。男なのに抱きつかれて喜ぶ男なんてそうそういない。それくらいで相手の気が済むならむしろ喜んで、と思っていたその時、片手で首元を軽く掴まれた。
 あれ?殴られる?
 思った以上に重い制裁を予感し、両目を強く瞑り、舌を噛まないよう歯を食いしばり衝撃に対処する。
 けれど閉じた目元に軽く何かが触れ、目尻を撫でられるような感触に小さな痛みが走る。目元に涙が溜まった後に感じる特有の痛みだ。
 その意味を指摘されてしまった気がして、思わず唇を噛もうとしたその時だ。それをやんわりと止めるように柔らかいものが触れたのは。
 ここ最近何度か覚えがあるそれに、まさかと目を開ければ予想はしていたが驚愕するしかない。友人の黒い目が、自分のすぐ目の前にあるのだから。
 あまりこの状況に言葉をつけたくなかったが、そんな意志に反し、頭のどこかでコソリとその言葉が浮かぶ。
 キス。
 いや、違う、きっと他に何かあるはずだ。キス以外の他の意味が。人工呼吸とか人工呼吸とか人工呼吸とか。
他に探そうとしたが、他に浮かばず、ついでに人工呼吸が必要な状況ではなかった事を考えれば、それもハズレか。
 困惑し、あまりにも近すぎた距離に一度閉じてしまった目蓋を恐る恐る開けていけば、またあの黒い瞳と目が合う。
 目ぐらい閉じろよ!
 心の中でそう叫びつつも、こんな状況で目を開けていられる相手にはいっそ感心してしまう。自分は今も目があった瞬間目蓋を閉じてしまった。
 あまりにも、翔が知るキスとは状況が違いすぎていたので、これはそれではないのではないかとまで思い始めていた。自分が知るキスシーンというのは、好き合っている男女が、目を閉じてするものだった。ついでに言えば効果音は“ちゅ”。これは少し漫画やドラマに毒されているか。
 今は、まず男女でないし、恋人同士でもないし、相手は目を閉じてもいない。
 何だコレ。
 そして、いい加減息が苦しい。
 いや、マジで苦しい。
 酸素不足に気付いたのはその時だ。自覚をしてしまうと苦しさが増してしまうというもので、慌てて相手の肩を押せばあっさりと離れてくれた。
「……くはっ!」
 ずっと閉じていた唇が痺れているのは気のせいか、いや気の所為ではない。けれど、そんな事を気にするよりも酸素を摂取するほうが大事だった。
「おっ前……殺す気か!!」
 息を吸うと突然の吸収に肺が驚いたらしく、咳き込んで落ち着いてから克己を睨み上げた。相手は平然としているのが悔しい。
「くっそー……克己の素潜り記録が海生徒並って噂はマジだったのか」
「いや、鼻で息をしろ」
「ふがっ」
 もう1つの呼吸器官を摘まれてまた息苦しくなり、ようやくその存在を思い出す。あ、成程……と納得したところで他の疑問と文句が次々と浮かぶ。鼻を摘まんだ手を振り払い、もう一度相手を睨み付けた。
「お前、目くらい閉じろ!怖い!女の子に怖がられても知らねぇからな!つか、何で、何でこんな……キス……なんて」
 それを口にしてしまってから恥ずかしさが込み上げてきて、思わず顔を背けていた。多分今、顔が紅くなっているだろうと自分でも分かるくらい顔が熱い。尻すぼみになった自分の台詞は動揺していますと告白しているようなものだ。
 おかしい。魚住相手の時も、沢村相手の時も、こんな風にならなかった。思わず手の甲でそこを隠してしまったのは気恥ずかしすぎるから。
 顔が上げられなくなるほど恥ずかしいなんて、今まで一度もなかったのに。
「あ、あ……じ、人工呼吸とか」
 とにかく何か納得出来る理由が欲しくて、自分でそれは無いとわかっていても思わずその可能性を上げたけれど、相手は小さく息を吐いた。
「……そんなんじゃなくて」
 否定の言葉に翔は思わず視線を克己に戻していた。それに彼は滅多に見せない微笑を浮かべながら、妙に恭しく翔の手を取った。そして
「翔が大好きだから思い余ってキスしたんです」
 満面の笑みで言われ、その瞬間思ったことは1つだけ。
 負けた。
「……あっはっはっはっは」
 それでも負けを認めるのは悔しくて、棒読みで笑って見せたが、更に笑みを深められてしまう。しかし、ここで負けてはいけない。
「ありがと。そうか、俺も克己大好きだからこれで両想いだなっ、ハニー」
「それは光栄だ。じゃあ、恋人同士らしくベッドで愛でも語り合うか、darling?」
 ああ、なんて綺麗な発音だろう。
 完敗だった。元々こういう事で彼に勝てるとは思ってはいなかったが。
 殺伐とした上辺だけの恋人同士の会話はそこまでで限界だった。
「……何なんだこの敗北感」
 思わずベッドに顔を埋めて、打ちひしがれてしまう。こんなはずではなかったのに。
 克己も先程までの甘ったるい笑みを消し、呆れたようにため息を吐き、ベッドの上で自分の行動を後悔している翔を見た。
「翔」
「なんだよぅ……」
「……誤魔化されてやるのは、これが最後だからな」
 その低い声にハッとして顔を上げれば、もう克己は自分に背を向け、パソコンの電源を入れていた。立ち上がるまでの時間潰し用か、近くにあった本を手に再びベッドに腰を下す。分厚く、深い紺色の装丁の本は題名は英語、中身も英語だった。翔も英語は習っているが、一冊の本を読みこなせるほどではない。英語は敵国語でもあるのにそれで書かれた本を持つということも、この国では珍しい。
 しかし、頁の端は茶色く色あせて、装丁もボロボロになりかけているそれを克己はよく読んでいた。誤魔化しの話題には丁度良い。
「その本は?」
 初めて自分が読む本に興味を示した翔に克己は少し驚いたように顔を上げたが、タイトルを見直しながらどう説明しようかしばし逡巡していたようだ。しかし、すぐに自分が読んでいた頁に指を挟んだまま、顔を上げた。
「ランスロット・エヴァーツの兵法書だ。この名前、聞いたことは?」
「……いや、無い」
 少し考えたものの覚えのない名前に翔は首を横に振った。相変わらず自分の無学振りに眉を下げるが、克己はそれを叱責する事無く口を開く。
「なら、ナザン高地は?」
 返答をするより先に翔は思わず眉を寄せていた。
 聞き覚えのあるそれにあまり良い印象は持っていない。思わず眉を寄せた翔のその表情はその名を知っていると答えていた。
 特に何も無い、ただ地図に名前が刻まれているだけのその場所は、多くの人々にとっては記憶にも刻まれていない場所だが。
「……そこで、穂高さんの目が見えなくなった」
 穂高から何度か聞いているその名は忌むべき地名だった。そんな翔の少し低い声に克己も本に視線を落とす。
「うちの軍が大敗した一戦だからな。敵側の指揮を取っていたのが、このエヴァーツ。……名将だ」
「敵の軍師を褒めるのか?」
 思わず責めるような声色になってしまったのはしょうがない。翔にとっては大事な義父を、殺しまではしなかったものの永遠の光を奪った相手でもあるし、何より自国に辛酸を舐めさせた相手だ。それは克己も理解しているだろうに、名将と讃えた。軍関係の人間に聞かれたらそれこそ撃たれるかもしれない。
 けれど克己は肩を竦めるだけだ。
「敵ながら天晴れ、という言葉もうちの国にはあるから別に構わないはずだ。それに彼はうちの国で名将と言われる碓井和臣を何度も打ち破っているんだ、我が国にとってもエヴァーツは名将で無ければ困る」
「そりゃ、そうかも知れないけどな……」
 克己が誰かを手放しで褒めたところを見たのは初めてのような気がする。それにも多少なりとも戸惑いを感じた。心なしか、彼の語り口調には熱が込められているような気もする。
「大丈夫、なのか」
 思わずそう聞いてしまったのは、彼が敵国の人物を讃え、その本を持っている事に対しての遠回しな忠告のつもりだった。自分などに忠告されずとも彼なら分かっているとは思うが、聞かずにはいられない。
「……エヴァーツの名は、彼の国では全国民が知る名だ」
「そうなのか」
「ああ、だがうちの国では知られていない。お前が知らないのも、無理はないんだ。ナザン高地の名を知っている人間も少ない。軍は敗走した戦争を公表しないからな。日向穂高が軍を引退した理由も、あまり知られていないだろう」
「あ、うん……」
 そういえば、過去に何人か自分が日向穂高の世話になっていると言えば、彼が何故軍を辞めたか聞いてくる人間がいた。中には逃げ出したのかと怒鳴りながら問う者もいた。何度か罵倒される穂高を見たことのある翔は肩を落とす。そんな彼を慰めるように克己はその肩を軽く叩いた。
「公表されない戦で死んだ人間は沢山いる。彼らを知るには、敵の報告を読むしかない。日向穂高の最後の一戦の勇姿もな」
「書いてるのか?この人の本に、穂高さんのこと」
 自分の知らない義父の姿が描かれていると知り、翔は目を大きくした。そこに期待の色が混じっているのを見て、克己はその本の背表紙を見直し、首を横に振った。
「いや、これじゃない。四字熟語の辞書があるはずだ」
 すい、と克己の目が自分の本棚の方へと流れたのを見て、翔は腰を浮かせた。
「辞書?え、っと……これか?」
 克己の本棚の中から『四字熟語辞書』と書かれた本を取り出し、ケースから取り出して中を開いて驚いた。四字熟語どころか、漢字が1つも見当たらない。頁にびっしりと英語が刻まれている。
 もしかして、とちらりと彼の本棚を改めてみれば、辞書が数冊に他に差しさわりの無いタイトルがいくつも並んでいる。もしや、これらの本の中身は全て違うものなのだろうか。
 とりあえず、それを克己に手渡すと、彼は数ページ読み直し「ああ、これだ」と翔に渡してきた。貸してくれるということなのだろうが……。
「……俺でも読めるか?」
 英語は不得意というほどではないが、得意でもない。恐る恐る克己に問うと、彼はしばし逡巡し、口を開いた。
「辞書さえあれば読めるが……訳してやろうか?」
「あ、それはいい。自分でどうにかする!」
 本まで借りておいてそこまでしてもらうのは流石に悪いとついつい首を横に振ったが、辞書1つで読みこなせるかと改めて考えると怪しい。先ほどちらりと見た内容は当然だが、どこまでも英語だった。
「……でも分かんないところあったら聞いてもいいか?」
 ああ言っておいて図々しいかとも思ったが、恐る恐る首をかしげると、彼はこころよく頷いてくれた。
「構わないが、部屋の外に持ち出すなよ。お前がばらしたら生徒会に問いただされるからな」
 苦笑交じりに言われたことに翔は思わず動きを止めていた。今、自分の手の中にあるものは克己の秘密の一つなのだ。誰かに知られては困る秘密。それを彼はあっさりと自分に教えてくれた。
「……克己」
 前から、克己と色々何でも話したいとは思っていた。聞けば答えてもらえる間柄になりつつあるとも、思っていた。確かに、克己は聞けば答えてくれる。今が良い例だ。自分はただ、気まずい話題を変えるために聞いただけなのに。
 自分は、彼にどれくらい答えられていたのだろう。
「……におい」
 思わずぽつりとそう言葉を落とせば、本を持った手が僅かに震えた。止めておけという無意識の警告なのかもしれない。
 それでも、言葉を選びながら口を動かした。
「あのさ、人が一番記憶しやすく忘れにくいのって、匂いなんだって話……知ってるか?俺は遠也から聞いたんだけど」
 詳しい話は医者の息子でそれに関する知識が豊富な遠也に聞けば分かるが、恐らく克己もその程度の話は耳にしているだろう。
 また、不意にあの匂いが鼻先を掠めたような気がし、思わずその鼻を借りた本で覆っていた。古い紙とわずかな煙草の香りがそれを払拭してくれる。
「凄い、嫌いな匂いがあるんだ。嗅ぐだけで気持ち悪くなる匂い。忘れたくても、忘れられない匂いで」
 何と説明すれば良いのだろうか。恐らく、一般の人が嗅げばただの香りとしか思えない匂いだ。それそのものは悪臭ではないのだが、自分にとってはわずかに感じただけで震えの元となる匂い。
「それが、さっき……明石からその匂いがして、色々……思い出して」
 あの夢も恐らくはあの匂いを久々に嗅いだ所為で蘇った記憶の一部だろう。あの匂いを自分にとっての悪臭とした決定的な一件だった。まさかあの匂い一つであそこまで自分が我を失うとは思わなかった。自らの失態への怒りと戸惑いに翔は視線を揺らし、唇を噛んだ。
「多分、整髪剤か、香水か、それとも吸ってる煙草の種類か……それが一緒だっただけだと思うんだけどな。だから、別に突き落とされたとかじゃないんだ。俺が動揺して、足滑らしただけで。階段も、昔落ちたことあって、そん時のことも思い出したりしたんだけど」
 ちらりと目を上げれば、克己がこっちを見ていた。それに、笑ってみせれば怪訝な顔をされたが
「でも、今度は克己が助けてくれた」
 救われたといっても言い過ぎではなかった。本当にとても嬉しかったのだ。
 でも。
 その後見た夢はまるで救われてはいけないというように自分を追い詰めた。思わず表情に陰を落としてしまったが、これ以上はまだ話せそうにない。
「それがすげぇ嬉しかったの」
 それでもあの時、自分をいつも追い詰めていた過去の暗闇が、一瞬薄らいだような気がした。ずっと付きまとっていたそれが薄らぐなど、絶対に無い事だと思い込んでいたのに。
 誰かに助けてもらう事もないのだとずっと思っていたのだ。いつだって助けを求めて手を伸ばしても誰も助けてはくれなかった。だから、いつの間にか自分も誰かに手を伸ばす事を止めていた。手を伸ばしても誰も助けてくれないのだから、そんな無駄な事をするより、この手で敵に立ちはだかり彼女を守ろうと決意した方がずっと有益だった。そう決意した当時よりは大きくなっている自分の手は、未だ彼女を助けられずにいる。
「……ほんと、克己は凄いよな」
 あっさりと、自分には出来なかった事をやりこなす友人は本当に凄いと思う。こんな英語の本もさらりと読みこなせるのも凄い。自分と同い年なのに、自分も努力をしていたはずなのに、どうして自分は彼のように強くなれなかったのだろう。
 本で顔を隠して口元を僅かに上げた。泣きそうになっている顔だけは見られたくないという最後の抵抗だったが、それに克己は何も言わない。
本当に、彼のような友人に会えた偶然に感謝だ。
 ……偶然?
「あれ?そういえば何で克己あんな時間に学校にいたんだ?」
 あの時は放課後で、何か用がない限り生徒はさっさと下校している時間のはずだ。その疑問に本を顔から外し、首を傾げて見せると、克己の視線がわざとらしくそらされる。
「……克己?」
「深いことは気にするな」
「何で女装してること知ってた?つぅか、いつから気付いてた?」
 助けてもらった事は素直に感謝しよう。けれど、不可解な友人の行動の理由は知りたいところだ。克己ににじり寄り、問い詰めようとした時、少し強めに顎を掴まれる。
「それ以上聞くなら、その口塞ぐぞ」
「な……」
 横暴とも取れるその一言で、彼が何かを隠していることは明白だった。それも誤魔化せないくらいに相手が焦っている事も分かる。それにその誤魔化し方も少し妙だ。男同士で、そんな事をしたところでお互い何のメリットもデメリットもないだろうに。
「勝手にしろ。男同士のキスなんて回数にはいらねぇんだぞ。それにもう魚住先輩ともしたし沢村にもされたし俺には怖いものなんてないね!ははは!」
 乾いた笑いを漏らした翔に克己の方もあげられた名前の顔を思い浮かべたらしい。視線が宙を泳ぎ、そして
「……魚住に沢村……それは悲惨だな。下手そうだ」
「そういう問題じゃなくても悲惨だけどな」
 どうも克己は観点がずれている気がしなくも無い。
 ふぅ、と思わず息を吐き、翔は目を伏せた。
「別に、嘘吐いても良かったんだ」
「は?」
 驚いたような声に目を上げると、やはり驚いたような表情の克己がいた。それに勝ち誇ったように笑ってみせる。
「だって俺、お前が言うことなら何でも信じるし」
 前も何度かそう言ったはず。
 なのにそれを忘れて、変に誤魔化そうとした克己の負けだ、今回は。
「ま、助けてくれたのは本当に感謝してるし、俺も誤魔化されてやるか。じゃ、俺そろそろ飯喰いに行ってくる……」
「おい」
 立ち上がり、部屋を出ようとした時に肩を引かれ、あっさりと体は後ろに倒れたところを克己の体が受け止めたらしい。彼が座っていたベッドが軋む音が聞こえる。
「うぉわ!何……」
 例え人の体が待っていたとしても、硬い骨が下に隠されている肉体に落ちればそれなりの痛みはある。克己の鎖骨部分あたりに当たった自分の肩は少し痛かった。
 それに批難の声を上げたが、耳元で聞こえた低い声にそれを飲み込んだ。
「本当のところ、偶然とも、少し違う」
「……へ?」
「……お前が変な格好をしてるのは多分初日から気付いていた」
「え。嘘、マジで」
「親しい人間は一目見れば分かる。佐木だって気付いていただろうが」
「……でも、篠田は気付いてなかったぞ」
「あいつはただ単に馬鹿なんだ」
 彼をあっさりと馬鹿と言い切るのは少し可哀想だ。あれでも結構頭が切れる面はあるのだから。そんな正紀を馬鹿だと言えるのは有る程度のレベルの人間でないと無理だろう。
「お前が橘のために奔走しているのは知っていたが、流石にあの格好は別な問題も引き起しそうだったからな。お前は相変わらず思慮が足りない」
 どうやらお叱りの時間に入ったようで、逃げないようにか腰に腕を回されがっちりと固定された。そんな事しなくても逃げないという諦めの意思表示に、翔は克己の肩に自分の後頭部を投げ出した。
「うん、遠也にも怒られた」
「今日は偶然あの近辺にいて、お前がふらふら校舎内に入っていくのを見かけた。それが少し奇妙に映ったから後を追った」
「そう、だったのか」
 気付かなかった、と小さく呟けばため息が聞こえてきた。
「追って正解だったようだな。あのまま見事な階段落ちをこなしていたら骨折程度じゃ済まなかったかもしれない」
「嫌な事言うなよな」
 思わず自分の頭を撫でていたのは、あの時落ちていたら骨折していたかも知れない部位だからだ。ここを骨折すれば命に関わる。確かに一歩間違っていたら自分はここにいなかったかもしれない。それに背筋に悪寒が走ったが、それはすぐに背を包む体温に消された。
「……助けてやれて良かった」
 頭を撫でる別の手は克己のものだ。
「さっきのお前の話を聞いて、尚更」
「……克己」
 はぁ、と克己は心底安堵したように息を吐いた。
「助けてやれて、良かった……」
 あたたかい。
 確かに、今は不本意ながらも克己の膝に乗っかっている状態なのだから、相手の体温を背中に感じる体勢ではあるのだが、それとはまた違うあたたかさに目蓋が落ちそうになる。
 誰かの言葉を初めてあたたかいと思った。兄でもいたら、こんな感じなのだろうか。
「……翔」
「ん?」
「ついで、というわけではないんだが……」
 どことなく困惑したような克己の口調に目を上げると、彼の口元がまず視界に入る。克己はあまり口を大きく開けて話すことは少ない。そう思いながらぼんやりとそれを眺めながら話に耳を傾けていたが、じっと見つめられたのが居心地が悪かったのか、克己は目を逸らした。
「もしかしたら……いや、確実だとは思うが、俺は多分にお前のこと」
「……何しているんですか」
 克己の声がピタリと止まったのは、冷たい引き攣った声が部屋に響いたからだ。
「あ。遠也!」
 翔は笑顔でその友人を迎えるが、克己の方は小さく舌打ちをして翔から手を離す。その離し方が正紀と同じく僕痴漢していませんのポーズだったのは遠也に小さな嘲りをもたらしたが、その姿はあまりにも白々しく反省の色が見えない。
「で、何をしていたんですか?」
 遠也の追い詰めるような問い方に翔も改めて自分達の姿を見直し、確かに奇妙な体勢だと気付いたのだろう。少し慌て、自分の手に持っている本を見つけて、掲げた。
「本!本読んでた!」
「四文字熟語辞典を?」
 遠也に冷たく一瞥されたそれは確かに表面上は四文字熟語辞典だった。まさか中身を言うわけにもいかず、翔は黙り込むしかない。
 そんな翔を責めるつもりは毛頭無かった遠也は彼を未だに膝に乗せている男の方を睨み付けた。絶対に翔からそんな状態を望むはずがないから、克己がそうさせているのだと遠也は決め付けていた。それが正解だが。
 遠也の軽蔑混じりの視線に克己は目を細めた後、口元にうっすらと笑みを浮かべた。何やら面白げなことを思いついたような笑みだ。翔の背後で浮かべられた笑みに、勿論翔が気付けるはずも無く、遠也一人がその笑みに眉を上げたその時
「見れば分かるだろう。いちゃついてた」
「うわっ」
 翔は未だに四字熟語辞典で言い訳を考えていた為、突然背後から抱き締められ、妙な声を上げてしまう。しかし、克己は気にせず抱き締めてくるし、それに遠也の怒りのパロメーターが一気に上昇していく。
「ちょ、おい、克己?」
 流石の翔も遠也の怒りに気付き、それに怯えつつ奇妙な行動に出た親友に問うが、彼は何も答えてくれなかった。恐らく、自分が今手に持つ四文字熟語辞典の中身を隠す為の行為なのだろうが。
「な、翔。お前俺の事好きだろう?」
「あ、ああ……好き、だけど」
「日向!」
 克己の意図が良く解からないままに答えると、それを制止するように遠也が強い口調で呼んだ。
 翔がそれに驚いて身を揺らしたのを見て、遠也はため息を吐かずにはいられなかった。彼は確かに無防備すぎるのだが、そこにつけ込む克己の方がどう考えても悪い。
「……川辺の事はどうするんですか。浮気ですか?」
 勿論遠也も克己のことも川辺の事も翔が恋愛対象として見ていないことくらい了承済みだが、責めるようにそう言えば翔の目が思い出したように大きくなり、慌てた。
「う、浮気!?あ、いやそんなんじゃ」
「俺は別に浮気でも構わないが?」
「あほかっ!お前はちゃんと彼女つくれ!」
 べしっと思わず辞典で克己の顔を叩いてしまったのは、単なる彼の軽薄な一言への突っ込みだけではなかった。
「……日向?」
 眉を顰め、何とも言えない顔をしているのを遠也は見たが、その顔はすぐいつもの強気な表情に戻る。
「ったく、俺、飯喰ってくるからな!変なからかい方すんじゃねぇ、ばか!」
 それだけ言って出て行ってしまった彼を遠也と克己は無言で見送った。しばし訪れた沈黙を破ったのは、遠也の嘲笑だった。
「変なからかい方、だそうですが?」
「……何が言いたい」


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