18時、か。
和泉が腕時計を覗き込んだ時、その秒針は18時少し過ぎを差していた。特に用事もなくフラフラしていたが、今日はテレビに19時に蒼龍が映るという。彼の配下としては、見ないといけないだろう。
あまり、気は進まないが。
正直なところ、未だ蒼龍に子どもが出来たという事実に困惑している。困惑というより、疑っている。
第一、彼は病弱なのだ。確かに、子どもを生す為の行為は出来るくらいの体力はあるが、問題はその種の方。
今までどんな女と睦みあっても子が出来なかったのに、一体どうしてこの時期に――。
「おい、和泉」
南寮に近くなったところで呼び止められ、振り返ると見覚えのある生徒が二人、そこに立っていた。クラスメイトの明石と榎木だ。教室にいると自分の周りをうろちょろしている彼らが、こんな時間にこんなところで自分を待ち伏せしていたという珍しい状況に思わず眉を顰めていた。
「……何か、用か」
ここに来てすぐに、恐らく先輩だろう生徒に絡まれていた二人を気まぐれで助けてから、彼らは自分の後を追うようになっていた。だが、それを和泉は素っ気無く扱っていた。たまに、気に食わないやつがいるから殴りに行こうと誘われることもあるが、そんな趣向は全くない和泉はそれを無言で拒否している。友人とは決して呼べない関係である二人だ。
榎木が和泉の冷たい視線に一瞬たじろいだようだったが、強気に拳を握り詰め寄ってくる。
「何で、この間日向なんかに負けたんだ」
……何の話だ。
突然の言葉に和泉はぽかんとしてしまったが、彼らはこの間の翔との一戦の事を指しているらしい。どうやら、クラスでそれなりに横暴な態度を取るためには、強い和泉の存在が必要不可欠だったらしい。だが、和泉が翔に負けたことで、クラス内は微妙に自分たちを見下げつつあった。そんなことは和泉は気にも留めていなかったが、彼らにとっては死活問題だったらしい。
「それが、どうした」
冷たく吐き捨てると二人は怒りに眉間を寄せ、和泉の首元を明石が掴み上げた。
「何だよ、お前本当は弱かったのかよ!俺達をだましやがって、ボス顔で振舞いやがって!」
だますも何も、お前たちが勝手に俺の後をついてきただけじゃないか。
その事実を鼻で笑いそうだったが、和泉は表情も変えずに掴みあげられた手を振り払った。それだけで足元をふらつかせる彼らは、自分よりずっと下のレベルにいる。
「お前達よりは強いぞ」
ふん、と鼻であしらってやれば二人の顔が紅潮したのが薄暗い中でもわかった。
「そんな事ねぇ。俺達だって、お前に勝てるんだよ!」
「お、おい……明石」
大きく出た榎木の言葉を明石が慌てて窘める。だが、榎木はそんな彼を手で制し、恐怖に引き攣っていた顔を無理矢理笑みの形に変えた。彼がそんな強気に出るのは珍しい。それを訝しげに思いつつも、和泉はまだ余裕の表情だった。
当たり前だ。自分が、彼らに負けることなど有り得ない。術だって使うまでもない。
「だったら、四の五の言わずかかってくればいいだろう」
その余裕の表情に明石と榎木は怯んだ様子だったが、何か奮い立たせるように彼らはポケットから四角い箱を取り出した。暗くてよく見えなかったが、手におさまる程度の大きさの長方形だ。
「お、俺達知ってるんだからな……お前の、弱点ッ!」
弱点を突き止めたにしてはガクガクと声が震えているということは、あまり自信がないのだろう。それを心の中で嘲笑い、「弱点ねぇ?」と面白げに返した。それに彼らは更に怯んだようで、表情が固まる。
どうやらよほどその弱点とやらに自信がないようだ。榎木の顔はもう恐怖しかない。彼に近寄ろうとすると、それにびくついた彼はその手にあった箱を和泉に投げつけた。
「う、うわぁぁぁあ!」
悲鳴を上げながら投げつけてきたそれを和泉は容易く腕で払い落とした。これが弱点?笑わせてくれる。
「どうした、もう終わりか?」
攻撃とも呼べないそれを鼻で笑い、それを投げてきた榎木の顔を至近距離で覗き込む。それに表情を引き攣らせた榎木にニヤリと笑みを向け、足を払いその場に無様に転ばせた。
「榎木!」
それに声を上げた明石の背後に立ち、面積だけは広いそれを思い切り蹴り飛ばす。思わぬ攻撃に呻いた彼らには、和泉の残像も追えなかったに違いない。和泉は足一本で彼らを地に伏せた。
「……で、誰が誰に勝てるって?」
出来もしない事を簡単に口にする人間は嫌いだった。自ら発した言葉に責任を持てない人間も嫌いだった。宮がちょっとした言動にも厳しい場所だった所為もあるのだろう。
踏みつけた背中がわずかに動き、こちらを悔しげに振り返った明石の態度に、彼を踏みつけていた足に力を加える。
その圧倒的な力の差に、明石は思わず地面に爪を立てていた。
「お前……なんなんだよ……!」
「ん?」
「何なんだよ、何でそんなに強いんだよ……!甲賀も、お前も……!俺は、明石家の長男だぞ!その俺をこんな目に合わせてただで済むと思ってんのか!?」
今まで、和泉との大きすぎる力の差に恐怖を覚えつつも、そんな彼の隣りにいる自分にある種優越感も覚えていたのだろう。そんな和泉が先日、翔に敗退しその優越感にヒビが入り、それでも大きい力の差に再び絶望を感じた、という辺りだろうか。そんな彼の最後の砦は明石家という名前しかなかったのだ。
愚かで可哀想な彼のその涙交じりの一言に、和泉は小さく息を吐いた。
「……俺にそんな脅しが通用すると?」
彼らは裕福な家庭に育った。それ故の愚かさなのだろうが、彼の最後の砦も打ち砕き、和泉は彼の背を踏みつけていた足を離し、その場から去ろうとした。が、その引いた足にこつりと当たるものがある。さっき弱点と投げられた、黒い箱だ。
一体、どういう根拠で何を弱点と持ち出してきたのかという興味がわき、和泉はそれを注視する。箱は蓋が開き、中の物が地面に投げ出されていた。その箱の周辺を目で探ると、寮の明かりが照らしたそこに、小さな注射器が転がっていた。中にはなにやら透明な液体が揺らめいている。
それを見止めた瞬間、和泉は目を見開き、息を呑む。その変化に気付かない敵ではなかった。
「……え?アレ……?和泉?」
榎木はぽかんとした顔だったが、明石は素早く成功したことを察し、自分の箱の中からそれを取り出し、逆手に握った。
「和泉!」
怒気にまみれた声を上げながら飛び掛ってきた彼に、注射器に目を奪われていた和泉は対処する暇が無く、そのまま押し倒されてしまう。突然の事に背中が痛んだが、視界に入った針の切っ先に身が竦む。
「何だよ、マジでコレが怖いのかよ!こんなのが怖いのか、お前!」
高笑いを上げながら明石は抵抗する事も出来ない和泉を見下した。だが、和泉にはその声は殆ど聞こえていない。知覚できるのは、その針の切っ先だけだ。
目を見開き、言葉も発せない程緊張しているその表情に、明石は口元を吊り上げた。
「来いよ、榎木!こいつマジうごかねぇぞ!ざまぁみろ!」
ようやく相手が自分の手中にある事を察した明石は後ろでまだ怯えていた榎木に声をかける。
「うわ……マジで?すっげぇ……」
彼も恐る恐る寄ってきて、硬直した和泉の顔を覗きこんだ。そこでようやく和泉も我に返り、上に乗っかっていた明石を突き飛ばそうと手を伸ばした。
「どけ!」
だが、思った以上に弱々しい攻撃になっていたようで、それはあっさりと明石に拘束される。
「うるっせぇ!おい、榎木コイツの腕押さえてろ」
「え……どうするんだ?」
「勿論、注射すんだよ、この中身」
カフスボタンを外し、袖を捲り上げた腕を拘束されて和泉は息を呑む。
「や、めろ……!」
その弱々しい声に彼らは一瞬驚いたような顔になったが、ようやく己の勝利を察したのか、にやにやと笑い始めた。
「じゃあ、アレもマジなのか?和泉お前、男に抱かれてたっての」
その一言に、一瞬恐怖が離散した。
「……何、だって……?」
一瞬何を言われたか分からなかったが、すぐに否定しなかった彼に二人は「マジかよ」と息を呑みすぐに下卑た笑い声を上げた。
「あーあ。俺達すっげだまされてたわけだ?男に抱かれて悦ぶヤツを崇めてたなんて虫唾が走るな」
「誰、から聞いた」
何故彼らが自分の苦手とするものを知っているのか訳がわからず、和泉はただそう問うしかない。だが、彼らにそんな情報収集能力がない事は知っている。誰かが彼らにそれを教えた。そうとしか考えられない。
「言え!誰から聞いた!」
「うるっせぇよ!」
怒鳴る和泉の顔を叩き、ついでに注射器を顔面に突きつけてやると和泉は面白いくらいに黙り込んだ。
「……おい、こいつ震えてるぞ」
腕を押さえていた榎木がその腕が細かく震えている事に気付き、それを笑い、明石もそれを共に嘲笑った。
「教えてくれたヤツがいるんだよ!お前が注射が怖いことも、昔男に抱かれてたってことも!」
明石が楽しげに言い、その細い針を白い腕に突き刺した瞬間だった。獣の呻き声と共に榎木の体が吹っ飛んだのは。
「な、なんだ……!」
驚く明石が注射器を腕から抜く前に、彼の体も地に伏した。彼の背に乗っかっているその白い姿は。
「はな、つむぎ」
思いがけない助けに和泉は心の底から安堵し、すぐに自分の腕に突き刺さっていた注射器を抜いた。血がわずかに飛んだが、気に止めるほどではない。
暗い空から雨が降り始め、それに身を起こし、手の中の注射器を地面に投げつけ、思い切り踏みつけた。ぱきりと音を立ててプラスチックが割れる。
「……畜生」
情けなかった。こんな簡単に壊れるものを未だに恐れる自分が。幼い頃、どんなに懇願しても投薬を止めて貰えなかった、入れられた薬で地獄の苦しみを味わったあの日々は今でもこの体に恐怖を残している。
だが、今までそんなに人前で取り乱した事はなかった。だから、自分がこれに恐怖を抱いている事を知る人間は少ない。なのに、何故彼らがそれを知っている?
倒れて気絶している彼らを振り返った時、じんわりと刺された左腕が熱くなり始めた事に、背筋が硬直する。薬が体内に入っていたらしい。まさか、毒か?
「くそっ……!」
確実に自分をしとめようと思っていたのなら、間違いなく毒だ。下手に動き回ると毒の周りが早くなるだろうから、取り合えず全身に回らないように二の腕を持っていた布で縛った。丁度この間傷を負った場所だったが、気に留めることでは無かった。
「華紬、狼司を呼んできてくれ」
彼なら、自分の苦手とするものを知っているし、そこに転がっているもう一本の注射器に入っている液体の分析をしてくれる。華紬はすぐに木の上へと姿を消した。
そして、もう無駄かもしれないけれど、ナイフを取り出し、毒に侵された血液を抜こうとしたが、すでに手に力が入らない。体が燃えるように熱くなっていた。
やばい、か?
口元が自嘲に歪み、ナイフが地面に落ちる。
ここまで、なのだろうか。こんな間抜けな終わり方になってしまうのか。
「……う、さま」
小さく呟いたその時、いきなり両肩を物凄い力で掴まれ、体を反転させられた。はっと気付けば灰色の空が目の前にあり、顔面に雨の雫を受けていた。ぱしん、と眼鏡を取り払われ、開けた視界に写ったのは
「お前ら……ぁ!」
華紬が気絶させたと思っていた彼らが自分の上に乗っているのに、和泉は不快気に眉を寄せる。気絶なんて生ぬるかった、いっそ殺していれば良かった。そう思ったが、なにやら彼らの様子が少し奇妙だった。
よくよくみれば、二人の目に光はなく、まるでまだ気絶しているような、意識のない瞳だ。
何だ?
そして、明石の手が自分の頬に触れた瞬間、信じられない感覚が背筋を走り、自分の足が飛び跳ねたのが視界の端に入る。
「な……あ!」
それに驚く暇もなく、今度は腰を撫でられ、甘く擦れた声が上がり、ここで初めて焦燥に駆られた。
なんだ、これ。
この感覚を知らないとは言えないが、目の前にいる二人から与えられるべき感覚ではない事は明白だ。だが、体は意志に反し熱が高まり、口からは荒い息が吐き出されていた。
なんだ、これ。
こんなことならいっそ死んだ方がマシだと、地面に落としたナイフに目を動かしたが、遠いところへと追いやられていたそれに手を伸ばすのは不可能だった。地を叩いたところでそれは手に入らない。
術も、こんな意識を飛ばしている相手に通用するかは解からない。それに、今は雨が降っている。自分の術は雨の中では上手く使えない。
仕方ない。
こんな奴らの目の前に晒したくはなかったが、腰に隠していた守り刀に手を伸ばし、素早く相手に刃を突き立てようとしたが、薬にいち早く犯されていたその左腕の動きは緩慢で、あっさりと軍靴に踏み押さえられてしまう。
「ぐ……っ」
踏まれた場所は丁度先日負った傷のところで、思いがけない痛みに呻き、手から刀が零れ落ちる。あの鈴が小さく鳴いた。
恥辱と絶望に混乱しかけていた頭を一瞬冷やしたのは、がさりという葉音だった。誰かがここに来た。もしかしたら、狼司かもしれないと一瞬希望を持ち、目を上げた。が
そこに立っていたのは、黒いこうもり傘を持った一人の子どもだった。いや、子どもと呼ぶにしてもまだ幼い背丈だった。だが、幼児と呼ぶにしては成長している。大きな傘が一人で歩いているようなそんな光景に和泉は幻覚を見ているのかとさえ思う。顔は傘で隠されていて、よく見えなかったが、彼はゆっくりとこちらに近付いてくる。目の前の惨状になど怯む事もなく。そして
「ね、楽し?」
傘を上げ、幼い顔立ちが露わになる。その小さな口からゆっくりと発声された高音に、和泉は眉間に皺を寄せる。本当に子どもがそこにいるらしい。
彼は返事をしない和泉に大きな目をきょとんとさせ、小首を傾げた。いや、彼女かも知れない。どちらの性別か解からない顔を持つ彼の紫色の目は、和泉を見下している。
「き、さま……は」
「ふぅん……野良犬も良いところに拾われれば血統書付きと似た毛並みになるんだ?本物の人間みたい。あ、でも一応人間か」
くすくすと笑いながら少年が言った言葉に背筋に冷たいものが走る。彼の登場に和泉は全てを理解した。これは、あの男が仕組んだ事なのだ。注射器のことも全て。
目を見開き、相手を凝視するその和泉の態度に、少年は無邪気な笑みを向けた。
「一度、会ってみたかったんだ。裏切り者の顔、見てみたくて」
「うら、ぎり……だと?」
彼の言葉についていけず困惑した声を上げた和泉に、彼は瞬時に冷たく目を細め、地に伏せている相手を見下した。どこか殺意さえ感じるその目で。
「裏切り者だろ?たった一人で逃げ出して、僕らの共通の敵であるはずの蒼龍に寝返った、裏切り者」
そこで、和泉は嫌な予感の正体を知った。目の前にいるこの少年は、まさか。
「蒼龍を生かす為の実験は、まだ続いてる。これからも続くだろうね。彼が生きている限り」
「……お前は、まさか……」
呻くように言った口の中に湿った土の匂いが入り込んだが、それでも必死に喋ろうとした。しかし、薬に犯されつつある体は思うように身動きが取れない。
思うようにならない体にもがく和泉に、少年はにこりと笑った。
「これはちょっとした挨拶代わり。安心して、注射器の中は毒じゃない」
毒ではない。その事は多少なりとも和泉に安堵を与えた。しかし、何故そんな優しさを自分に見せたのだろうという疑念が過ぎる。
安心してすぐに警戒をあらわにした相手の反応を、彼は満足気に口元を歪める。
「ちょっと強めの媚薬だけどね」
気付いてはいたが、正体を明かされて和泉は唇を噛み締めた。
「……どうして、毒じゃ、ない」
自分を殺したいのならそうすればいいのに、この子どもの行動は不可解だ。だが、彼は笑みを深め
「だって、そんな簡単に殺すのは勿体ないじゃない。それに、こっちの方がプライドの高い君にとっては屈辱でしょ?」
コイツは。
ギリッと奥歯を噛み締め、強く睨み付けたが、そんな攻撃が通用する相手ではなかった。
「僕が犯してあげても良かったんだけど、この体じゃねー。それはまた今度。この子達は君のお友達だって聞いたし……仲の良いお友達を選んであげたんだ、そこは感謝して欲しいところだなぁ」
「ふざけ……るな!」
和泉の性格からして、腹を割って話せるような友人を作れているとは考えにくいだろうに、彼はわざとある程度面識がある相手を選んだのだ。感謝するどころか、嫌がらせにしても度が過ぎている。
「大丈夫、明日には君を抱いた事なんて忘れてるよ。今は催眠状態で……何なら、君にも良い夢を見せてあげよっか?」
「……な、に……」
「例えば、お前の大切な大切な蒼龍様に抱かれてる夢……とか?」
面白げに算段するその声に、奈落へと突き落とされたような錯覚に陥る。そんな和泉の色を無くした表情に子どもは目を細め、その冷たく小さな手を和泉の首元へと伸ばした。
「抱かれたんだろう?悦んだんだろう?お前は、同胞の苦しみも忘れて、のうのうと蒼龍に愛された。飾り物の皇子に出来るのは交尾くらいしかないものなぁ?」
乱された襟元から覗く鎖骨をなぞると、その先には蒼い龍が舞っていた。忌々しい蒼い龍が、そこに刻まれている。
「黙れ!蒼龍様を愚弄するな……!」
怒りの咆哮を上げた和泉の皮膚に突き刺さるくらいの殺気を、彼は一笑に伏す。その一挙一動が和泉はどれも許せなかった。自分と自分が最も尊敬する主の関係を軽んじ、嘲笑い、馬鹿にしたこの子どもが。
「でも、流石に同じ血が流れるお前を酷い目に合わせるのは忍び無い」
唐突に彼は笑みを消し、哀しげな声を出した。そして、ポケットから黒い箱を取り出す。
「中和剤を。これを使えば5分でそれは治まるよ」
ぽとりと自分の顔に落ちてきたそれに和泉は目を見開く。ここまで来て何故そんな奇妙な優しさを観せるのか解からない。
しかし、それにのろのろと手を伸ばした。そんな動きも億劫だったが、どうにかそれを手に取りほっと息を付く。が、それを開き、目の前が真っ赤に染まった。
「……注射、だけど」
和泉の様子を眺め、笑いを堪えるような子どもの一言に、激しい怒りと絶望を覚えた。
「貴様!」
「じゃあね、おにーちゃん。また、すぐに会えるからそう急かないで」
去ろうとするその背を追おうと手を伸ばしたが、体は二人分の体重の所為で動かない。
あいつをこのまま帰らせてはいけない。殺さなければ、ここで。殺さないといけないのに。
体が、動かな
「あ、せら!」
その時だ。子どもの高い声が、更に嬉しげに飛び上がったのは。
その音の並びに、先ほどまでうるさかった雨音が一瞬にして消えた気がする。
「……せ、ら?」
動かしにくいのを必死に首を横に倒し、子どもが飛び跳ねて行った方向へと目をやり、息を呑む。子どもに抱きつかれている黒髪の青年は、まさか。
彼もこちらの視線に気付いたのだろう、子どもの頭を撫でてから、顔を上げ、記憶より成長した顔を綻ばせた。瞬間、おぼろげだった記憶が鮮明になる。
自分の記憶の片隅で、笑っていた少年の顔。
「世良……っ!?」
思わず、今の自分の状況を忘れて起き上がりそうだったところを、上に乗っている男達の体重が阻んだ。それに呻いた和泉を、彼は小さく笑う。
「同胞の苦しみも忘れて蒼龍に下った裏切り者」
懐かしいと言ってもいい対面だというのに、彼の言葉は暗く冷たい。
「違う!」
首を振り必死に全身で否定する和泉の唇に厳しい声とは相反した柔らかいものが触れる。その感触にただ唖然としていると、彼の唇が僅かに離れ、囁くように動いた。
「お前も、有馬蒼一郎の息子ともども、殺してやる。勿論、蒼龍もな」
瞬間、肩に鋭い痛みが走り、蒼い龍がいるそこに爪を立てられたのだと察す。彼は本気だ。
「世良ぁぁぁ!!」
何も出来ないもどかしさと、どうにもならない最悪の状況に和泉は怒りの声を上げるしか出来なかった。
その声を背で聞き、男は一人忍び笑う。そんな彼を迎えたのは、黒髪に眼鏡をつけた青年だった。
「悪趣味だな」
「御巫センセ。見ていらしたんですか」
「子どもを苛めるのは感心しないね」
「苛めじゃない。制裁だ。それとも、お優しい騎士様は敵にもお優しいのか?」
「のかー?」
世良の語尾を真似した子どもがキャッキャと笑う声が妙に耳障りだった。それに御巫が眉を潜めると、世良は呆れたように肩を竦める。
「俺達はアイツに集められたんだ。一時だが一応仲間。それに、この国の王室を憎むという面でお前と俺は同志だ」
「……同志とは心外だ。君の場合は私怨だろう」
「恨みに公私などあるものか」
世良は小さく笑い、木の影に置いておいたモスグリーンのシャツとそれより深い色のネクタイを取った。
それを着込めば、見事にこの学校の1年生の姿になる。実年齢は20越えしているので、実際はかなりの若作りをしていることになるのだが、様々な薬を投与された関係なのか、世良の成長速度は普通のそれよりもゆっくりだった。
「柚、行くぞ」
「はぁい。じゃね、おじちゃん!」
「おじちゃん!?」
御巫が批難の声を上げたのにも構わず、世良は足を寮へと向けた。その横顔がどことなく楽しげなのに柚は少し不満げな顔になる。
「せら、アイツにはちゅーしたのに、僕にはしてくれないの」
さっきからの不満の理由を口にすると、世良は苦笑し、柚の額に口を寄せた。
「ほら。これでいいだろ」
「……アイツには口だったのにぃ」
頬を膨らませて怒る子どもに、世良は先ほど唇を寄せた額を指先で軽く弾いた。
「子どもにはまだ早い」
「柚、子どもじゃないもん!」
「うん?じゃ、子どもじゃないなら一人であの人のところに戻れるな?」
ここではどうしても目立ってしまう柚を寮の中に連れて行くわけにはいかない。だからいつも柚のことは自分達を集めた彼のところに預けていたのだが、そう言えば柚はハッとしたように目を大きくして、俯いた。
「……柚、子どもだもん」
「そうか」
柚の小さな手を握り雨の中を歩きつつ、世良はぼんやりと久々に昔の事を思い出していた。もしかしたら、彼も今頃自分と同じ事を考えているかも知れない。
彼、当時は名前などなくてお互いお互いを呼ぶことはなかったが、後に秀穂とあの宿敵に名をつけられたらしい彼は、実験体の中で目立つ存在だった。実験待ちの時に同じ牢に入れられた時はいつも話しかけた。その蒼い瞳を持つのは彼だけだったから、すぐに彼だと分かった。
幸い、自分は実験用に作られた人間ではなく、罪を犯した一族の子どもで人間であるときの名前があったから、それを教えた。
せら。
蒼い目を細めてそう呼んでくれた彼に思わず友達になろうと言ってしまった心理は自分でもよく分からなかった。明日をも知れぬ身だったのだ、あの頃は二人共。
柚を送り届け、帰りの道でなんとなく濡れた髪に触れれば申し訳程度に黒く染めた色が指にこびりついていた。元々はこの色なのだが、今は変装用に髪の毛の色を抜いている。どこかでこの黒を洗い流さないと、クラスメイトには不審な目で見られるだろう。
寮につき、早々に部屋に戻り、シャワーを浴びて色を落とし、前髪を上げた。そうすると大分印象が変わる。
「あれ?なに、シャワー浴びてたのか」
「ん?ああ。雨に降られちまって」
その時、ルームメイトがシャワールームに顔を出したので、世良はいつも通りにこやかな笑みを返した。それに相手は何も勘繰る事はなかった。そんな隙など自分が作るわけがない。
「そか。な、お前も来いよ。みんなでテレビ見てるんだ」
「テレビ?なんだ、AV祭り?そういうのは、悪いけど……」
「ちげぇよ。それもやりたいけど、ニュースニュース。蒼龍サマが出るんだってさ」
蒼龍様。
その名に世良が反応した事など相手はきっと気付いていないだろう。勿論、気付かせるわけがないのだが、世良は濡れた顔をタオルで拭きながら「ああ、なら行く」と軽く答えた。そのタオルの下の目が鋭くなっていることにも相手は気付かず、「談話室な!」と先に行ってしまった。
それを目の端で見送り、世良は正面にある洗面台の鏡を見据えた。
はっと気付けば洗面台の前に立っていた。
……あれ?
思わず首を傾げてしまったのは、何故自分がここに立っているのか思い出せなかったからだ。だが、濡れた髪、火照った体、この状況からするにどうやら自分はシャワーを浴びたらしい。
また、か。
一人洗面所でため息をつき、乾ききっていない髪を撫でた。
幼い頃から、こうしたことが何度かあった。自分は覚えていないのだが、夜中に自分が暮らしていた施設内を歩き回ったり、昼間でも気付けば知らない場所に立っていたこともある。心配した施設の保育士に連れて行かれた先で、強面の医師にこう言われた。
「君は、夢中遊行症というものを聞いたことがあるか」
いわゆる夢遊病という症状だったが、そういったことは小児、とくに施設に預けられているような子どもにはよくあることらしい。成長すれば自然となくなると言われ、その医師の言葉を信じ、実際最近はこうした騒動を起こす事はなかった。
しかし、もしかしたら自分が気付かなかっただけで、今でも意識をなくしたまま歩いている事があるのではないか……?
そう思う時もあるが、確固たる確信も無く、今までズルズルと来てしまった。医者にも、それ以降行っていない。医師も大したことはないと言っていたし、何より金がかかる。自分のような施設暮らしだった子どもがそうそう行けるようなところではなかった。それに、怪我や病気ならともかく、精神病にも当てはまるか解からない状況だ。そんなものに貴重な寄付金を使わせるわけにはいかなかった。周りの幼い子どもたちは、いつもお腹をすかせていたのだから。
親の顔を知らないという自分と同じ境遇の彼らに、あまり苦しい思いをさせたくはなかった。今月の給料も丸々自分を育ててくれた施設へと送った。大人数が暮らしているところに送るには微々たるものだが、足しにしてくれれば良いと思う。
タオルを首にかけ、自室を出た。部屋を出て左手にしばらく歩いていけば、談話室に着く。そこに足を向けたのは気まぐれだった。
騒がしい声が聞こえてくるのは、きっと大勢がそこに集まっているからだろう。談話室には入らず入り口付近に体を寄せ、テレビを見ている長身の姿に目を留める。
「甲賀?珍しいな」
そう声をかければ、彼は面倒臭そうに目をこちらに流してきたが、すぐに視線をテレビへと戻していた。そんな興味がないとも言いたげな行動に少し引っ掛かりを覚えるが、少しだ。これくらいの憤りは我慢出来る。それに、彼は……。
「日向は一緒じゃないのか」
そんな自分の問いを彼は無言で肯定する。それに苦笑して見せ、部屋の中に入った。甲賀と違い、友好的な関係を築いていた自分を中にいたクラスメイト達はにこやかに迎えてくれる。
「お前も来たのか」
「何か飲むか?あ、お前のおごりで」
そんな友人達のじゃれ合いをやりこなしつつ、光を放つテレビを視界の端に捉えていた。そこには、長く白い髪を持つ青年が穏やかな笑みを浮かべている。それが誰だかは知っているが、特に興味も無い相手だった。
「木戸、この間おごってもらったからな」
「お、さんきゅー」
投げられた缶コーヒーを受け取り、木戸孝一は人好きする笑みをクラスメイトに返した。ひんやりとした感触が熱くなった手の平に心地良い。
その時、不意に視線を落とした自分の指が黒ずんでいるのに、木戸は眉間を寄せる。一体どこでこんな汚れを拾ってきたのだろうか。何か、乾ききっていないインクにでも触れてしまったのか。
染髪用の着色剤で黒く汚れたとは知らず、その指先を擦ってから、木戸は結露で濡れたプルトップを爪で弾いた。
雨は降り続いていた。
大雨の中、獣のような人間が一人の少年の上に乗っかり、その体を貪り、少年はどうにか意識を保ち、弱々しい抵抗をしている。
「どけ!どけ!畜生……!」
上擦った声にはもう嘆く気力もなく、和泉は歯でシャツを破ろうとしている顔を殴っていたが、弱い力では抵抗にもなっていなかった。目の端にはあの中和剤があったが、どうしてもそれを手に取ることは出来なかった。注射器自体触ることの出来ない自分が、自分の腕にそれを突き刺すなど出来るわけがなかった。そんなことをしたら恐らくショック死してしまう。それに、彼の言葉も信用出来ない。本当に中和剤かもわからないのに、そんな危うい賭けの為に危険な橋渡りたくはない。
確実に生きられる方法を選ぶとすれば。
上に乗っている男を見て、歯を食いしばる。彼らに身を任せた方が、正解なのだろうか。
でも。
もがいた拍子に手に触れたあの鈴が、細く鳴りその音に一瞬動きを止めた。
お守りだ。
慈愛に満ちた声でそう言いながらそれを渡してくれたのは、蒼龍だった。もう随分と昔の話だが。
――お前は私を守ってくれるが、お前を護るものがないと私も不安で堪らない。
まだ幼く未熟だった和泉にそう言ってその守り鈴と刀をくれたあの日のことは、今でも忘れられない。
あんなに、他人に優しく出来る人を恨むなんて、自分には出来なかった。勿論、自分達が苦しむ運命を作り出した彼を恨んだ時期もあった。だが、それは蒼龍に直に触れ、段々と憎しみが消えてゆくのを感じた。
それに、彼ならもしかしたらこんな世界を変えることが出来るのではないかと、思った。自分達のような、マウスと呼ばれるような人間を作らない世界を。
死なずに絶対に私の元に帰って来い。
それが条件だと、最後の日に何度も念を押された。
そうだ、あの方の為ならどんな恥辱にも耐えてみせると、誓ったのだ。例え、裏切り者と呼ばれようとも。
ここで死ぬわけにはいかなかった。世良が出てきたのなら、尚更。
大体、最初から分かっていたことだった。蒼龍の元で生きると決意したときから、自分は彼らを裏切ってしまうことになると。覚悟していたはずだ。彼らに牙を向けられるかも知れない事も、予想していたはずだ。
彼のためなら、どんな恥辱も汚名も耐えられる。
必死に痛む腕を伸ばし、その鈴を手に強く握ると、くぐもった音が手の中に響いた。
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